「レン」──そう呼ぶ声が、何よりもいとおしかった。嬉しそうに、悲しそうに、辛そうに、幸せそうに。レン。二文字。けれど、素晴らしい言葉に思えた。おれだけを見てくれている、おれだけを呼ぶ声。おれに触れる手のひら、おれを映す瞳。
 マスターが、とても、とてつもなく、好きだった。


 貴方のことを忘れない ver.l


 この世界から居なくなりたかった。それこそ、人間の言う、死を迎えたかった。何日も部屋に篭って、なにもしなかった。なにも出来なかった。ずっとそうしていれば、いつかは死を迎えるのだと思っていた。けれど、おれは死を迎えることが出来なかった。他のボーカロイドに部屋から引っ張り出された。

 マスターが戻ってくると信じていた。──信じている。マスターは、性質の悪い冗談を実行中なんだって、今だって思っている。もしかしたら、あと、何日かしたら、マスター、ひょっこり出てくるに違いないんだろ? 笑って、それで、レンに意地悪したかったの、なんて言うんだろ? それで、怒ってる、なんて語尾を上げて問い掛けてくるに違いないよな。

 ねえ、マスター、おれ、怒ってないよ。おれが怒ってると思って、どこかに隠れているのなら、早く出てきてよ。おれ、怒らないから。
 はやく、戻ってきてよ。


 ──不意に視界が開ける。おれは身体を起こし、プログラムチェックをした。どこにも異常は見つからない。おれは今日も、健康だった。その後、周りを見渡すように視線をめぐらせる。部屋の端の方にある窓から、朝の柔らかな光が降り注いでいた。

 ぼんやりと、窓を見つめる。カーテンが僅かに開いたところから、抜けるような青が見えた。近寄り、カーテンを一挙に開ける。窓の外には青空が広がっていた。
 それを見るともなく見ながら、おれはカーテンを閉めた。一分の隙間もないように、しっかりと。

 空を見るのは、前までは好きだった。今は、嫌いだ。

 部屋から出て行かないと、メイコ姉やカイト兄に心配されるので、渋々、廊下へと歩を進める。リビングへ進むと、他のボーカロイドが好きな場所に座ったりしてくつろいでいる姿が見えた。
 カイト兄はいつものようにソファーの上でアイスを食べている。メイコ姉はその横でリモコンへ忙しく指を這わせていた。音が途切れ途切れに聞こえてくる。チャンネルを変えているのだろう、と思う。
 廊下からリビングへ出ると、カイト兄とメイコ姉がおれに気付いて、笑った。おはよう、異口同音に言葉を紡がれる。

 それに、小さな声で言葉を返して、それから周りを見渡した。窓辺に、リンとミクが立っているのが見えた。二人はなにやら嬉しそうに話しながら、空を眺めている。その姿を見ながら、おれは表情に苦いものが刺すのを感じた。

 空を、リンと共に見たことがある。マスターがどこかへ行ってしまってから、数週間経ってから、だ。窓越しに見る空は青くて、おれはどうしようもない苛立ちを抱えることになった。
 好きだった。空も、誰かの話し声も、歌う声も、笑う声も。でも今は、それら全てが、嫌いだ。

 リンとミクから視線を外して、おれはなんとなくメイコ姉の名前を呼んだ。メイコ姉がリモコンをいじるのを止めて、おれと視線を合わせてくる。


「どうかしたの、レン」
「……、ごめん、何でも無い」


 口篭もり、言葉を声として出すのを止める。俺は小さく息を零すと、そのまま、踵を返した。部屋に戻るつもりだ。
 廊下へと歩を進め、そのまま自室へと歩いていく。自室の扉を開く際、ちょっとだけ気になって、マスターの部屋を見た。マスターの部屋の扉は、固く閉ざされている。誰かが入った形跡なんてものは、無い。

 ──早く帰ってきてよ、呟くように言う。予想外に声が震えた。振り払うように音を立てて自室へと入り、それからやはり大げさに扉を閉めた。空気を圧縮して切り裂くような、変な音と、扉が悲鳴を上げるのが聞こえた。

 マスターが居たなら、こんな風に苛立ちを紛らわせるかのように扉を閉めたおれは、しかられていただろう。なにをやっているのレン、そう言われていたかもしれない。でも、マスターは居ない。だから、おれが怒られることも無い。

 足早に歩を進め、ベッドへと倒れこむ。ぼふ、と僅かな弾力が肌を通して伝わってきた。
 そのままもぞもぞと掛け布団を被り、俺は目を閉じた。大きく息を吐く。震えたそれに、僅かながらも、もう一度苛立ちが襲ってきたが、それを胸の奥底へとどうにかして沈めつつ、メモリを再生した。

 マスターの声と、おれの声、それにリンとメイコ姉、ミク、カイト兄の声がじりじりとよみがえってきた。目蓋の裏に、おれの記憶していた思い出が蘇ってくる。
 マスターが笑っている。嬉しそうな声が聞こえる。リンだ。

「マスター、これっ、歌っ、あたしっ」
「大丈夫? リン、なんかおかしくなってるよ」
「や、やー、えっ、えええ! この歌……わ、わああ!」

 リンが歌を貰ったときの思い出だ。リンはおれと同じ顔──けれど僅かな柔らかさを持っているように思える──を、嬉しそうに綻ばせると、マスターに抱きついた。手のひらには、歌詞の書かれたメモ用紙。マスターは、歌詞は手書きで書く人だった。
 それを、おれはどこか遠くから見るように見つめていた。羨望のようなものが胸の内にじわじわと滲んでいく。
 マスター、険のこもった声がおれの口から出る。マスターはおれに気付くと、やっぱり嬉しそうに笑って、リンを引き連れて近づいてきた。

「おれの曲は? 早く歌わせて欲しいんだけど」
「うん、作ってるよ。リンの次はレンだよ」
「……そっ、それなら、良いんだけどさあ」

 最悪だ。もっと素直に言えば良いのに。『おれの曲は? 早く歌わせて欲しいんだけど』じゃなくて、『おれ、マスターの曲、歌いたいな』と言えば良いのに。『……そっ、それなら、良いんだけどさあ』じゃなく、『ありがとう』と言えば良いのに。

 場面が変わる。ミクが、おれの横で真険に声を出している。音を取っているそれに、おれも懸命に音を重ねていく。少し離れたところに、マスターが椅子に座って居た。
 マスターが、おれとミクのデュエット曲を作ったことがあった。初めてのデュエット曲だから、変かもしれない。そう言って渡された歌詞、そして教えてもらった音程。それらは全部素晴らしくて、おれとミクは二人で密かに練習をしていた。マスターに気付かれないように、深夜、どちらかの部屋に赴いて小さな声で練習をしていたのだ。
 ミクが音を止める。おれも音を止めた。マスターが嬉しそうに笑う。

「上手だね、二人とも」
「わあ! そ、そうですか? 嬉しいな……えへへ、これも、レンちゃんと一杯練習したおかげですね」
「練習?」
「そうなんです! 私、一杯練習したんですよ。マスター、褒めて下さい」

 にこにこ笑いながらマスターに、一目散によっていくミク。おれも、近寄りたかった。褒めてほしかった。一杯練習をしたんだね、って、笑って頭を撫でて欲しかった。
 けれど、それは無理だった。どうしても恥ずかしくて、おれは呆然と二人を眺めるだけで終わった。
 行けば良かったんだ。『おれも頑張ったんだ、褒めて』って、言って、行けば良かったのに。

 場面が変わる。メイコ姉と、マスターがお酒を飲んでいた。夜、数週間に一度くらい、一緒にお酒を飲んでいたことがあったのだ。
 案の定、マスターは酩酊状態になっていた。にやにや笑いながらメイコ姉に絡み付いている。メイコ姉は満更でもないみたいで、やっぱり嬉しそうに笑っていた。

「マスター、今回もあたしの勝ちね」
「もう、なんでメイコはそんなにお酒強いの……」

 ろれつ、舌が回らない状態で、マスターは言葉を吐き出す。メイコ姉が笑って、ボーカロイドだもの、という言葉を発するのを聞きながら、おれは二人に近づいた。メイコ姉に抱きついているマスターの肩を引っ張って、名前を呼ぶ。

「マスター、飲みすぎ。酒臭い。寝なよ」
「レン」

 お酒を飲んだ後のマスターは、お酒のせいか頬とか、顔全体を僅かに赤らめながら、おれの手の上に、マスターのそれを重ねる。温かくて、どうしようもなくて、おれはそれから逃れるように直ぐに手を離してしまった。

「ね、寝なよ。マスター。二日酔いで苦しむはめになっちゃうかもじゃん、馬鹿じゃないの」
「酷いーレンがいじめるー」

 メイコ姉に抱きつくマスター。違う、いじめたいんじゃなかった。すごく心配だった。マスターが、次の日、頭痛に悩まされる姿を見るのが、とてもいやだった。その痛みを変わってあげられるなら、おれが変わってあげたかったけれど、そんなことは出来ないから、時折見かける飲み合いにストップをかけたりしていた。
 今思えば、邪魔だったかもしれない。おれに、そんなグチグチ言われて、マスターだって良い気持ちではなかっただろう。言えばよかったのだ。『心配だよ。マスター、程ほどにしなきゃ』と。

 場面が、じんわりと滲んで変わる。目の前にはマスター。おれの横にはカイト、その手にはアイス。おれの手のひらにも、バナナが握られていた。
 それを口に運ぶのを、マスターは嬉しそうに見ていた。そうして、言ったのだ。

「二人とも、幸せそうに食べるね」

 カイトは嬉しそうに笑った。何かを含むような笑い方だった。

「そりゃあ、そうですよ。俺の大好きなアイスですからね!」
「そっか、そうだよね。カイトはアイス好きだし、レンはバナナ好きだからね」
「そうです。あ、あの、マスターのことも好きですよ!」
「とってつけたような言い方だなあ」

 マスターは笑って、それからおれを見た。レンは、とでも言いたそうな表情に、おれはどうしてか口篭もり、心にも無い言葉を口にしてしまった。

「ま、まあ、バナナには及ばないけれど、好きだよ」
「ありがとう」

 嘘に決まっている。バナナなんて及ばない。他の何も及ばないくらい、マスターが好きだった。ちゃんと気持ちを伝えれば良かった。好きです、大好きです。傍にずっと居たいです、と。

 ゆっくりと瞳を開く。体内時計で時刻を確認して、俺は息を吐いた。全く時刻が過ぎていない。まだ、一日は何十時間もある。明日も、明後日も、明々後日も──、何十、何百、何千と時間が続いていく。

 怖くなった。マスターと居るときは矢のように過ぎていった日々が、こんなにも質量を持って襲い掛かってくるなんて、思っても見なかった。


「帰ってきてよ……」


 ぽつりと言葉を零す。帰ってきて欲しい、切実に。──ねえ、あんな壷なんかに収まっちゃってさ、あんな石に名前刻まれて、全然、笑えないよ。あんなの、全部嘘なんだろ? 嘘に決まっている。嘘だって、誰か言ってよ。

 マスター、帰ってきてよ。もう何ヶ月も経っているんだ、居なくなってから。おかしいよ、家出にしては居なくなりすぎじゃないかな。
 おれも、他のボーカロイドも、皆、怒ってないよ。マスターが笑って帰ってきたら、それだけで良いんだ──。

 不意に視界が歪んだ。なにを泣いているのだろう。最悪だ。掛け布団をたくし上げ、顔を隠すようにする。布団へと、じんわりと水が染み込んでいくのを感じながら、俺は吐息を零す。震えていた。

 空は、嫌いだ。おれさ、聞いたこと、あるよ。マスター、空には居なくなった人とか、どこかへ行っちゃった人が、住んでいるんだろ。
 最悪だよ。全然笑えない。なんで、空で暮らす必要があるわけ? 此処にずっと居れば良いじゃん。ずっと、おれの傍に、おれやリン、それにミクとカイト兄、メイコ姉の傍に居れば良いじゃんか。

 人の喧騒、特に笑い声は嫌いだ。聞くとイライラする。どうしてそんな風に笑えるんだよ。どうしてそんな風に楽しそうに過ごせるんだよ。マスターが居なくなったのに、マスターがどこかへ行っちゃったのに、どうして笑ってるんだよ。

 この世界は、嫌いだ。マスターが居ないのに平然として周り続ける世界が嫌いだ。止まれば良い。マスターが居なくなると同時に、壊れてしまえば良かったんだ。そうしたら、良かったのに。

 空になんて行かないでほしい。誰も笑わないでほしい。世界に止まってほしい。全てに壊れてほしい。

 布団を握り締める。でも、何よりも嫌いな──許せないものがあった。

 おれは、おれ自身を一生許さないだろうと思う。
 生意気な言葉ばっか吐いて、マスターをどれだけ傷つけたのだろう。どれほど、マスターに辛い思いをさせたのだろう。
 マスター、何よりもあなたが好き、本当だよ──なんて、今呟いたとして、全くの価値も無い。言えばよかったのだ。言えば、言って、ずっと、言いつづければ良かったのに。

 マスター。マスター、おれ、知ってるんだ。人って二回死ぬんだろ?
 一回目は、この世から居なくなっちゃう、死。二回目は、人の心から消え去ってしまう、死。
 おれ、何度だって思い返すよ。メモリのずっと奥、そこにマスターのこと、ずっと覚えているよ。マスターの手の感触も、声も、虹彩も、全部全部、覚えてるよ。

 誰が忘れたって、おれだけは、マスターのことを、忘れない。
 ──だから、帰ってきてよ。声が聞きたいよ。ちゃんと言うから。おれの気持ち、全部伝えるから。
 ねえ、嘘なんだろ? 嘘って言ってよ。信じられないに決まってるじゃん。だって、おかしいよ。なんで、こんな理不尽なことが起きなきゃいけないんだよ。なんで、マスターが居なくならなくちゃ行けなかったんだよ。なんにもしてないじゃん、生きていただけじゃないか。


「マスター……」


 誰が忘れても、おれだけはマスターのことを忘れない。ねえ、これで、死んだことにはならないよね。居なくなって、ないよね。おれの心の中で、おれのメモリの中で、ずっと生きているんだから。だからさあ、マスター、いつ戻ってきても良いんだよ──。


「帰ってきてよ」


 ずっと、いつまでも、おれだけは、マスターのことを、貴方のことを忘れないから。
 
「ずっと、待っているから」


2008/11/02
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