<一日目>

 その本を手に取ったのは半ば、衝動的だったのかもしれない。
 
 家へ辿り着くと同時に、その雑誌からディスクを取り出した。パソコンに入れる。かりかりと、読みこむ音がした。次いで、体験版を起動しますかという文字が出てくる。もちろん、YES、に決まっている。カーソルを持って行ってポチリとクリックする。とたん、メモリがせわしなく動き、パソコンの目の前に淡い光を帯びた何かが作り出されていく。
 それは徐々に人の形を模っていく。少ししてから、微かに目をさす柔らかな光が収まった。
 ──目の前に突如として現れたのは一人の少年。彼は、閉じていた瞼を開き、きょろきょろと周りを見渡した後、と視線をあわせて、笑みを浮かべた。

「初めまして、マスター! 期間限定体験版キャラクターボーカロイドシリーズ02のタイプΒ、鏡音レンです、よろしく!」

 ──買ってきたのは、前々から切実に欲しかったボーカロイドの体験版が付いている本。ボーカロイドは今やパソコン内のみならず、パソコン外まで飛び出してきた。にはよくわからないのだけれど、粒子でかたどられた姿を駆使して歌う、らしい。ただ、入力方法はパソコンに向かって打ちこむ、昔同様のものだけれど。ちなみに、値段は、正直、驚くほどに高い。眼玉が飛び出るかと思うほどに。
 昔はいろんな人が遊ぶことが出来たのに、今ではある意味でセレブな遊び、って感じだ。みたいな平凡人間には手が出せない。けれど、その体験版がつくというDTM雑誌、それだけはみたいな普通家庭の人間にも買うことができる良心的な値段だったのだ。

 カイト、メイコ、それにミク、リンとレン。だれか一人がランダムに体験版に入っているらしい。は、前々からリンとレンが欲しかったので、正直、レンの体験版にあたることが出来てほっとしている。リンは居ない。体験版ではリンかレン、どちらかとしか会えないらしい。二人に同時に会いたかったら製品版を買えってことなのだ。

 レンは元気よく手を差し出してきた。それを取ろうとして、はふと苦笑を浮かべた。彼らには触れることが出来ない。彼らは光子の集合体で出来ている。直接的に触れることは、地球がひっくり返っても無理なのだ。
 レンはそのことを忘れていたのか、少ししてから苦笑を浮かべた後、手をすっと下ろし、「今日から、歌わせてくれよな、マスター!」と笑みを浮かべた。
 ──月曜日の、夜のこと。その日から、とレンの十日間だけの生活が始まったのだ。


<二日目>

 ボーカロイドの体験版が来る前に、は手持ちのDTMソフトで少しだけ打ち込みをしていた。オリジナル曲を歌ってもらう、十日間の間に、一個でも良いから。それがの願いであり、望みだった。
 この機会を逃したら、ボーカロイドなんて買えないし会えないし、喋ることも出来ない。理由は簡単、高いからだ。いや、買えないってことはないんだけれど、買うには……生活をきりつめなきゃいけないっていうか……。
 まあ、うん、とにかく、オリジナル曲は完成している。……素人にしては、上手に出来たと思う。たぶん、不協和音になっているところは無い、はず。

「レン、ちょっとこっちに来てくれないかな」
「なに、マスター」

 ──レンのような、粒子で形づくられているボーカロイドは、パソコンがついていようとついていまいと色々なところを動き回れるらしく、昨日は素晴らしいまでの質問攻めにあった。
 あれはなんですか、とか、これってどうやって使うんですか、とか。逐一答えていたら時間が無くなってしまうし、夜も遅かったから途中でその質問は中断させたけれど。
 呼ぶと、レンは足早にの近くまで寄ってきた。さっきまでは物珍しそうにテレビを眺めていたのだ。
 彼はの傍に立つと、首を傾げた。

「ちょっとさ、この曲、聴いて見て……その、変なところとか、無いか教えてくれないかな」
「変なところ……たとえば、どういうの」
「音が外れてたり、そういうの。教えてくれるとすごく助かる」

 曲を流し出す。レンは静かに聞いていたが、曲が終わると同時に小さく口を開き──

「なんだか、全体的に変な感じがする。音が揺れているというか……、ここの音って何?」

 いきなりプロ根性を発揮させた。いや、ボーカロイド根性って言ったら良いのかもしれない。言われたとおりに音階を口にする。するとレンは思案するようにして「ここは、半音高い方が良いと思う」とテキパキと指示をし、パソコンに手を突っ込んだ。

 ちょ、な、何をしているのだろうか、この人は! 慌てて、「ちょ、レン」と彼の名前を呼ぶと同時に、モニタにDTMのソフトが画面に開かれた。先ほどの曲の譜面がばっと画面を埋める。彼は小さく頷きながら、「──ここは、そうだなあ」と色々と考えて音を修正していく。

「マスター、こんな感じはどう?」
「へ……」

 修正された曲が流される。確かに、今先ほどの曲より耳にすんなり入ってくるというか、なんというか。綺麗な曲調だと思う。

「良いと思う……というか、なんか、ボーカロイドってそういうの、自分で出来るんだ? 曲つくったりとかさ」
「一応……。初心者のマスターが買いやすくなるように、俺たちにはそういう機能が追加されたんだ」

 だったらもう、一人で歌えるんじゃないか、と冗談まがいに言うとレンは「……歌えないよ」と苦笑を浮かべて続けた。

「歌えないよって、なんで?」
「俺たち、──ボーカロイドシリーズね。まあ、その、こういう曲を手直すことは出来るんだけれどさ、マスターに言葉を入力してもらわないと、歌えないんだよね、っていうか歌えるけれど……、こんなのになるから」

 曲が流れだす。レンはすっと息を吸うと、大きな声で歌い始めた。曲を。
 歌詞はまだ作っていない。彼はただ、声をラー、と音程に乗せて伸ばすだけ。ただそれだけなのに、レンの音程はバラバラで、その上意味もなくビブラートがかかったり、スラーがかかったり。シャープ、フラットがついたり、まあ、はっきり言って、音痴だった。
 彼は一フレーズだけ歌うと恥ずかしそうに頬を染め、頭に手をやる。

「ほら、下手だろ」
「……や、うん、まあ。その、酷い、ね」
「うっわ、ひでー。そういうの思ってても言ったらダメなのに。マスター空気読めよなー」
「えええ! 感想を求められたから正直に答えただけじゃない!」

 そう言うと、彼は小さく笑い声を零し、「嘘だよ、うん、おれも下手だと思うし」と手をひらひらと胸の前で揺らす。このやろう、と僅かに思ったのは内緒だ。

「も、もう、からかわないでよね」

 彼は小さく笑い声を零し、「うん、ごめんごめん」と言う。そのあと、肩をすくめると、「まあ、だからさ」と続けた。

「俺たちはマスターが居ないと、ダメなんだってば。俺たちを上手に歌わせるのはぜーんぶ、マスターの役目。ちなみに此処どうすれば良いの、とか聞かないでくれよな。俺、自分の調律に関してはからっきしわかんないから」
「ええ、……しょ、初心者なんですけれど」
「曲作りは手伝ったじゃん。というか編曲してて思ったんだけれど、この曲、サビが平坦だよ。こんな曲なの?」

 彼は意地悪そうな笑みを浮かべると、の眉間に指先をつんつんと刺した。──そういう実感、っていうか触られた感じはしないから、ただ、なんとなく、されたかな、って思うだけだけれど。

「サビ平坦、って……ま、まあ、最初なんだからさ、そこらへんは見逃してよ……」
「やーだよ。俺、歌うなら完璧に歌いたいもん」
「……そうですか」

 そう返すと、彼はにっこりと笑みを浮かべ、「じゃあ、今日は修正しよう、修正! 曲の、さ。調律はまだまだ後からでも大丈夫だし」と言い、曲いじりを始めた。──に色々と聞きながら。
 なんていうか、前途多難。そう感じた二日目だった。


<三日目>

 今日も昨日と同じく曲いじりだ。レンと一緒に試行錯誤しながら曲を作っていく。
 彼はとても快活な性格で、話していて、とても楽しい。指摘を遠慮せずに言うところも、初心者にとってはありがたい。

「んー、ここはどうするー、っていうかマスター、もっと楽器増やそうよ」
「えええ、これ以上増やしたら訳分かんなくなるよ……、が」
「そういうときのために俺が居るんだろ、っていうかさ、歌詞は決まってるわけ?」

 決まっていない。頭を振る。するとレンはそっか、と吐く息に音を乗せたように呟き、「それじゃあさ」と続けた。

「どういう歌詞にしたいわけ?」
「それも、まだ決まってないなあ」
「ふうん、って、ダメじゃん! 曲作って、歌詞作って、さあ歌わせようってところで十日過ぎたら俺、消えちゃうんだってば!」

 レンがパソコンから手を引っこ抜き、慌てた様子を見せる。
 そこまで焦ることなのだろうか。まあ、彼らは歌うためのソフトなのだから、歌えなかったら……と思うと、焦るのもしょうがないのかもしれない。
 レンはあからさまに肩を落とし、をじっと見つめる。

「マスター、ほんと、勘弁してくれよな……、俺、歌いたいんだからさ」
「もし駄目だったら、ほら、製品版買うって。その子に歌わせたら駄目なの?」
「……だって、そいつは俺じゃねーもん」

 俺じゃねーもん、というレンの声は微かに不機嫌に濡れていた。
 ……どういうことだなのだろう。レンはレン──つまりはキャラクターボーカロイドシリーズ02-Β、鏡音レンじゃないのだろうか。同じじゃないの? と問いかけると、彼は途端にいじけた様子を見せる。

「マスター、あのさー、俺たちにもいろいろな性格のやつが居るわけ。マスターのような人間達と同じ。わかる?」
「え、そうなの?」
「そうだよ。俺っていう個体は俺だけ。他のレンは俺じゃないんだ」
「他のレン?」
「そ。たとえば……、ほら、ですます口調とか、生意気っぽいのとか、終始無言なのとか。一杯居るわけ」

 彼は指を折りながらそう続け、だからさ、と続けた。

「俺は俺だけなの。俺、ボーカロイドだから歌いたいんだ」

 別に、こういう作業も嫌いじゃないけれど、さ。と続け、レンは苦笑を浮かべる。はと言うと、唖然としていた。レンは全部同じだと思っていた。そっか、色々なレンが居るんだ。はじめて知った。……だってそんなこと、どこにも書いてなかったし。
 大体、ボーカロイドについて書いてあるサイトを見ても、金持ちとか機材が最初からたくさんある人が買うからか、専門的な用語ばっかりで埋め尽くされていて、よくわからなかった。
 小さく息を吐く。もうちょっと事前に調べておけばよかったなあ、と思いながらは言葉を発した。

「そっか」
「うん。だから、……歌詞は後でも良いけどさ、っていうか、そうなったら、早くこの曲作ろうよ」

 そう言うと彼は又もやパソコンに手を突っ込み、DTMをいじくりだした。目の前で色々な画面がうつっては消え、うつっては消えを繰り返す。
 ……なんかもう、これ、のオリジナル曲と言っていいのか、という気がするものの、彼はの曲の旋律を重きに置いて作ってくれているからなのか、どこかしらにちゃんと旋律が残っている。
 の曲が色々と彩を付け加えられているのは楽しい。いやな所があれば「これはちょっと」と言えば、彼は改良を施してくれる。新しく旋律が浮かんだりしたら、それを言うと付け加えてくれる。
 聞いていて気持ち悪くなることのない、素晴らしい曲。大体はレンがやっているものの、それを嬉しいと思う自分が居るのだから、よしということにしておこう、と思う。


<四日目>

「これでどうかな」
「ん……」

 曲が流れだす。柔らかな旋律だ。あれほど楽器を増やしたにも関わらず、音の氾濫が無い。気持ち悪くもならない、というより耳に心地良い。
 いいと思う、と続けると彼は嬉しそうに微笑み、「良かった」と続けた。

「俺とマスターのオリ曲……」

 そう呟くと同時に、レンは嬉しそうに笑いを零す。そのあと、「なあ、歌詞、歌詞早く作ろう!」とメモ帳機能を動く。目の前のカーソルが勝手に動き、文字を作り出していく。
 俺とマスターのオリ曲(仮)──、と言う文字がメモ帳に躍る。……俺とマスターのオリ曲(仮)って。オリジナル曲(仮)じゃダメだったのか、なんて思うものの、なんだか微笑ましくて笑いをこぼしてしまった。レンがなんだよ、とでも言う風に頬を膨らませて、を見た。けれど、すぐにその不機嫌な表情はうせ、彼の顔は幸せに彩られる。

「じゃあ、早く歌詞書こうって、どうする、どんな感じにする?」
「んー……」
「やっぱ恋愛系統?」
「……や、それは歌詞書いてると恥ずかしいしなあ」
「恥ずかしいとか、大丈夫だって! とにかく、マスター、歌詞を打って行ってくれよ」

 そうは言われても……。キーボードに手を置き、ぽちぽちと打ち始め──られない。歌詞ってどういうのを書けばいいんだ。自分の伝えたいことを書けば良いのだろうか。よく分からない。レンへ視線を向ける。彼はパソコンから手を引っこ抜き、の横に立ってにこにこと画面に視線を向けていた。
 本当によく、笑う。嬉しそうに、楽しそうに。ここ数日一緒に生活をしてきたものの、彼の心からの悲しそうな顔は見たことがない。そういう感情のプログラムが無いだけなのかもしれないけれど。

 レンをじっと見つめると、彼はいぶかしげに首を傾げた。

「……レンも考えてよ」
「ええ、無理だって、俺、こういうのは、無理無理、絶対、無理!」
「無理じゃないって!」
「無理です。無理です。無理です! 大事なことなので三回言いました」

 レンがから凄い勢いで離れる。そのあと、顔をぶんぶんと振ったかと思うと、「ていうかさ!」と続けた。

「マスターのオリ曲なんだからマスターが考えないとダメだって」
「俺とマスターのオリ曲かっこ仮かっことじなんだから、一緒に考えないといけないって!」

 言いあいで一日がつぶれてしまった。


<五日目>

「……昨日みたいなことにはなりたくないし、っていうか俺、あと五日しか居られないから、早く作ろう、歌詞。暫定版とか、そういうので良いから」
「……そうだね」

 メモ帳を開き、ぽつりぽつりと打ち始める。考えた結果、恋愛系統にしようと思った。恥ずかしい、なんて考えていてはいけない、とレンは言うし。ならばの気持ちを存分に込めて作ろうではないか! と思ったわけだ。曲のリズムを考えて、歌詞を打っていく。レンがの横から、それを眺めつつ、小さく歌詞を読みあげて、って……。

「歌詞を読みあげるの止めようよ!」
「きみとまた会えるときまで、って……」
「……」

 恥ずかしさに頬が赤くなる。そうです。ベタです。ベタの何が悪い! さあ笑うがいい! あああもう、恥ずかしいなんて考えちゃいけないっていったのは誰だ! レンでしょおお!?
 レンに実体があったならば、口を手で塞いで止めることもできただろうけれど、残念ながら出来ないので止めることは無理だ。彼は淡々とした口調で書いてあるところまで読みあげた。
 こ、こいつ……! 火照った頬に手を当てつつ、「……レン」と怒ったような声を口にする。彼は微かに首を傾げると、言葉を発した。

「んー。きみとまた会えるときまで、ってさあ、失恋? 悲しい曲なわけ?」
「や、二番目では会わせるけどさ」
「へー、ストーリー性のある歌詞にするんだ」

 推敲もしなきゃいけないし、たぶん、明日までには出来ると思う、と言うと彼はデスクトップに向けていた視線をに向け、軽く苦笑を零した。

「ぜったい、俺に歌わせてくれよな」
「うん、もちろん」

 彼の切実な願いを叶えないわけがない。──キーボードを打つ音が、部屋に響いた。


<六日目>

「出来たー!」
「やったー! どんな感じ、どんな感じ、マスター!」

 両手を上げて万歳をしていると、レンが勝手にメモ帳を開き、見る。素早く目を通すと手をパソコンに突っ込み、「ダウンロード、開始!」と言った。パソコン本体がかちかちと音を立て、何を素早く読み込むと、画面がパッと開いた。それは、オフィシャルサイトで何度も見たレンの調律画面だった。
 それに、言葉が入力される。の打った歌詞だ。レンは嬉しそうに頬を緩ませると、を呼ぶ。

「早く、マスター!」
「うん」

 音を少しずつ入力し始める。
 ──調律。もしくは、調教。それがここまで難しいものだと思わなかった。少しずつ全ての項目を入力していく。ビブラート、子音、声の強弱、息の量。項目は多くて、しかも何に使うの、というような物も多くて、良く分からない。レンが横からそれぞれの意味を教えてくれていなかったら、たぶん、何もできないままに終わって行っただろう。
 彼はに物を教えるとき以外は、まっすぐに視線をデスクトップへと向かわせている。僅かに頬を紅潮させながら。本当にうれしいんだなあ、なんてぼんやりと思う。

 少し打ってから、レンへと視線を向かわせた。彼はの視線に気づくと、パソコンに向けていた視線をに向ける。

「……こんなの?」
「うん、そんな感じ。……ちょっと一回、歌ってみるからさ」

 まだ半分も入力していないと言うのに、彼は待ちきれないと言った様子で手を引いた。そうして、部屋の真ん中で小さく息を吐くと「じゃあ、行くね」と言い、歌声を披露しはじめる。
 やっぱりというか、なんというか。ロボロボした声って言えば良いのか。ギクシャクした感じがする。それに音程もなんだか変だ。レンは調律した部分まで歌いあげると、嬉しそうに笑った。

「──こんな感じかな」
「そっかー。なんだか、微妙、だね……もうちょっと綺麗にしたいな」
「そうかな。俺には良くわかんないけれど……、マスターが言うなら、やり直せば良いと思うよ。これに関しては何にも言えないし」

 でもさ、と彼は息を吐くように続ける。

「十日間には間に合うようにしてくれよな」
「わかってるよ。……ねえ」

 ふと疑問が浮かんだ。彼らは十日を過ぎたらどうなるのだろうか。まさか、消えるということはないだろうな、なんて思う。

「十日過ぎたら、どうなるの?」
「……どうだろ、俺にもよく分かんないけれど……、十日過ぎたら起動できなくなるからさ、居なくなるって考えたら良いんじゃないかな」
「……そっか」
「そう。俺を調律していて楽しいと思ったら、是非、製品版を買ってくれよな」

 彼は片方の手で頬を掻きながら続ける。

「そうしたら、十日とか、そういう制限は無いし……、いつまでも鏡音レンは歌っていられるし。あーあ、俺も製品版だったら良かったのに、不公平だよなー」

 大袈裟に溜息を吐いて、彼は続けた。おちゃらけた様に言っているが、彼らが歌えなくなること。起動できなくなること。それは人間に置き換えたら死んでしまう、ということと同じなのではないだろうか。
 そう考えると、なぜか胸が苦しくなる。だからなのかもしれない。

「どうにかして、残す方法って無いの?」

 変なことを口走っていた。するとレンは驚いたような表情を浮かべて、でも、次の瞬間には頬を緩ませて、言葉を続けた。

「……無いよ、俺は十日だけの存在だし。でもさ」

 レンの片手がの胸に伸びる。彼はそっと触れないように胸に手を置くと、続けた。

「マスターが覚えていてくれたら、俺はいつまでもマスターの心の中に残っているから」

 彼の微笑みは、微かに寂しさをはらんでいた。


<七日目>

 少しずつ調律を行うのは、辛いものがある。自分の頭の中では理想の音が鳴り響いているというのに、現実ではそれが一向に現れない。滑舌についてもそうだ。後はブレスの音。難しい。
 なんて言うか、自分の力量不足に悔しくなる。もっと綺麗に歌わせたいのに。
 レンはたびたび、の歌を歌ってくれる。が調律を少しでもすると、こんな感じになるよ、と言って。
 おかしい所があっても、変な所があっても、彼は嬉しそうにほのかな笑みを浮かべつつ、歌う。歌い終えると、かすかに笑みをこぼして、「良いと思う」と告げる。

 でも、それじゃあ駄目なんだって。と何回も思った。──自分の中の理想の音を追い続けるのはつらい。妥協をしなければならないのかもしれない。
 たとえ、妥協をしたとしても……彼はきっと許してくれるだろう。今でさえ、が何度も調律をやり直すのを見て、苦笑を零すくらいなのだから。

 思ったんだ。彼と一週間ともに暮らして。十日間だけの存在だと言われて。──人間のように歌わせたい、なんて。
 レンには言ったことはない。ただ、きっと彼は聞いたら苦笑を浮かべるんだろうなあ、とは思う。

 今日も、今日とて、夜遅くまで打ち込みを行った。レンが歌う。おかしい場所があるように感じると、そこばかりが気になってしまう。
 レンはの表情──きっと険しい、だろう──を見て、そっと苦笑を零しながら、「俺は良いと思うのに。マスターは何が嫌なの」と問いかけてきた。
 その問いかけに対して、ずっと思っていたことをぶちまけたのは、たぶん、寝不足で頭がもうろうとしていたからだと思う。

「レンに、人間みたいに歌って欲しいの」
「……だからブレス、入れたりするんだ。マスター、俺はボーカロイドだよ。人間じゃない」

 レンは手を伸ばして、の肩を掴んだ。──掴んだ、というより通り抜けた、という言い方の方があってるかもしれない。彼の手は、の肩に微かに埋まっていた。それを見てか、レンは眉をひそめると、「ほら」と悲しげな声を出す。

「触れられない。人間だったら、触れられるだろ。俺は人間じゃないんだ。だから、別に、マスターが睡眠時間を削ってまで、俺の調教をすることなんてない。人間みたいにしたい、なんて……難しいんだよ」

 レンの手が離れる。彼はのことを心配して、そう言っているのだろうか。でも、それでも。

「……レンに、きれいに歌って欲しいんだよ。レンに気持ち良く歌って欲しい。レンの存在がずっと残るような、そんな調律したいんだよ」

 気持よく、っていうのは何て言うか、の偏見、なのかもしれない。人間のように歌えばレンが気持ちよくなるなんて保障はないというのに。
 レンは微かに肩を震わせると、から顔をそむけた。
 彼の淡い色の唇が微かに震えて、言葉を紡ぐ。

「……そ。マスター、ばかだなあ。慣れた人でも難しいっていうのに、十日間しか動かせない俺の為に睡眠時間削ったりしてさ、ほんと、ばかだよ。……ばか」

 彼の声は、かすれていた。


<八日目>

 レンが歌を歌う。なんだか変な所があったように感じる。──これで、良いのだろうか。一番の歌詞はもうすべて、調律を澄ませてある。後は二番だけ、なのだけれど。
 心の中で悲鳴をあげる。後二日しかないと言うのに、ちゃんと全て調律することが出来るのだろうか。
 一番だけでも調律に何日もかかったと言うのに。第一、昨日言ったように、レンの存在を残すためには全部歌わせなくちゃいけないのに。
 もう後は適当で良いじゃん、と言う考えが浮かぶ。すぐにその考えは振り払うけれど。……彼の歌うたびに浮かべる──あの、幸せそうな表情を見ていたら、そういうわけにもいかないし、も昨日言ったことを実践したいのだ。どうにかして、どうにか。彼の調律を間に合わせなくてはいけない。

「……今日は徹夜だー」
「徹夜? マスター、体、大丈夫なわけ?」

 調律をしながら小さく呟いた言葉にレンは過敏に反応する。驚いたような表情を浮かべられ、心配するような言葉を紡がれる。は苦笑を零した。

「大丈夫だよ、それより、あと二日しかないんだから、頑張らないと」
「……そっか、そうだよな、うん、マスター頑張れ。俺を、人間みたいに歌わせるって言ってた、もんな」

 いたずらっぽく笑みを浮かべられ、なんだか恥ずかしくなる。ごまかすように笑みを浮かべ、次いで小さく謝罪の言葉を漏らした。

「ごめんね、なんだか……こう、凝り症でさ」

 そう言うと、レンは軽く頭を振り、瞳を伏せるようにして笑みを浮かべた。

「良いよ。俺は歌うの大好きだし、それに、俺のために頑張ってくれるの見てると、すごく嬉しい」
「そっか」

 レンは微かに笑みを零すと、「マスター」と声を弾ませる。柔らかな、声変わり前の少年独特の声だ。やさしげな印象を与えるそれは、彼の外見と合っている。

「俺が歌ったファイルはさ、どうする?」
「どうするって、前にも言ったけれど、ずっと残すためにCDに入れるかな」

 WAVEファイルのまま。変換してMP3にすることは可能らしい。はじめて作って、初めて調律した曲を残したいと思うのは、普通のことだ。それに、彼と過ごした日々を忘れないためにも、ずっと残しておきたい。……何かしら、良い保存方法があればいいのに。
 レンは気恥ずかしそうに笑みを浮かべると、「そっか」と、嬉しそうな声を発した。


<九日目>

「これで良いかな」

 調律が終わった。徹夜したせいか、凄く眠たい。眉間を軽く押さえていると、柔らかな歌声が聞こえてきた。レンが歌っている。視線を向ける。彼は軽く笑みをこぼしながら、柔らかな音色を紡いでいた。
 さて、これにオケを合わせなければいけない。上手に合うと良いのだけれど。合わなかったら、その調整を行わなければならない。けれど、その元気は今、には無い。

 彼の声音が止まると同時に、は小さく欠伸を零した。

「マスター、うん、これ良いと思う! 歌いやすいよ、すごく」

 レンは瞳をキラキラと輝かせて頬をほころばせる。良かった。本当に。
 としても、つっかかりを感じる部分は少なかったし、満足だ。

「じゃ、オケを合わせて見ようか」
「うん」

 良く回らない頭を叱咤しつつ、ソフトを使ってオケとレンの声を合わせる。そのまま聴いてみると、やっぱり空白部分が合わない箇所があったり、後はオケの音が大きすぎたりした。音量の調節、空白箇所の調整を行ったところで、の意識は闇に落ちた。


<十日目>


 ……寝てしまったようだ。起きると、周りは夕方。寝すぎです、自分。心の中でそんなことを思う。
 俯いていた頭を上げ、左右に振る。小さく欠伸が零れた。

「マスター、やっと起きた」

 小さなため息とともに、レンの声が聞こえた。横を見ると、彼は居た。苦笑を浮かべて立っている。最後の日だというのに、申し訳ない気分でいっぱいになる。

「ごめん」
「良いよ。それにしてもさ、歌っても良い?」
「うん、どうぞー」

 オケが鳴り始める。彼の声が歌に乗り始めた。
 彼の声を消さないように、少しだけ小さくしたオケは、柔らかな世界観を作り出していた。

 頑張って調律したからか、レンの声は人間のようだった。のびやかに歌い上げるそれ、伸ばすビブラートの揺れ、途中に入るブレス。自分の満足行く作品になって、嬉しい。
 彼は何度も何度も歌を歌い、──夜になるまで、歌い続けた。本当に、歌が好きなのだろう。嬉しそうに、ずっと笑みを浮かべながら、彼は同じ旋律を歌いあげていた。

 ふと、歌が止まる。彼の体が柔らかな光を浴びていくのを見て、ああ、時間が来たのだと思った。
 レンはそれに小さく笑いを零し、言葉を続けた。

「──期間限定体験版、キャラクターボーカロイドシリーズ02-Β、鏡音レンをお使い下さり、ありがとうございました!」
「……そっか、うん、終わりなんだね」

 頭の中を回るのは、どうにかして彼を繋ぎとめておきたい、という考えだけだった。たった十日間、けれども彼はの傍にずっと居て、色々なことを教えてくれた。情が湧いた、というよりは、ただたんに寂しいのだ。レンが居なくなると。
 レンはに近付いてきて、苦笑を浮かべる。

「そう、終わり。楽しかったよ、十日間。体験版の俺は、今日で居なくなるけれどさ。良かったら製品版も買ってくれよな。高いけれど……、きっと」

 レンは光に包まれた手をの胸に当て、微笑んだ。

「きっと、マスターを楽しませてくれるから」

 彼の微笑みは儚さを含めていて、なぜか胸がいたくなった。彼はそっと手を離すと、僅かに瞳を伏せる。

「──なあ、俺、きっと覚えているよ」
「……何を?」

 彼は少しずつ消えていく。怖くないのだろうか、なんて思うけれど、直ぐにその考えを打ち消す。怖いに決まっている。現に彼の声は微かに掠れていた。

「消されちゃっても、動かなくなっても、俺のことを調律してくれた、マスターのこと」

 彼の体験版のファイルがデスクトップ上にある。体験版にしては重すぎる容量だ。彼はそのことを言っている、のだろうか。そんなことを言われると、胸が苦しくなる。消さない。消さないよ、と震える声で続けた。
 ああ、だめだ。こんなにも涙もろかった、のかな。視界が揺れた。レンはそっと微笑むと、に近付いてきて──そっと、頬に唇をつけた。
 すぐに離れ、微笑む。

「マスター、だから、忘れないでくれよな」
「……な、にを……」
「期間限定体験版キャラクターボーカロイドシリーズ02-Β、鏡音レン──俺のこと」

 そう言い残すと、レンは消えてしまった。目の前に残るのは彼の声とオケが混じったファイルだけだ。乾いた笑いが零れる。本当に、わかりきっていたことだけれど──消えてしまった。目の前で。

「……忘れないよ」

 忘れることなんて出来ない。忘れるわけがない。
 十日間だけ。たった十日間。けれど、彼の存在は確かにあったのだ。彼という存在の、鏡音レンは居たのだから。楽しかったよ、と小さく呟いてはパソコンの電源を消した。




<何十日後>


 それから、何十日も経った後、は製品版のボーカロイドを買った。少々、高い買い物だったけれど、どうしても欲しかったのだ。今月はきっと、きりきりの生活になるだろう、なんて考えて苦笑を零す。

 家へ帰るとすぐに、パソコンにディスクを入れ、読みこませた。かちかちと音が鳴る。画面に、「キャラクターボーカロイドシリーズ02 鏡音リン・レンをダウンロードしますか」という文字が出る。少しだけためらって、はYES、をマウスでクリックした。
 かりかり、と言う音とともに二人分の暖かな光が部屋を満たす。それは人の形を模って、消えて行った。
 二人はキョロキョロと部屋を見回すと、に視線を合わせ、笑った。

「初めまして、キャラクターボーカロイドシリーズ02-Α、鏡音リンです」
「……、は、じめまし、て……?」

 レンが僅かに疑問をはらんだ声を出す。横に立ったリンが彼の脇をつついた。


「何やってんのよ、レン! ちゃんと挨拶しなさいよ」
「……わかってるけれどさ。ええと、キャラクターボーカロイドシリーズ02-Β、鏡音レンです。よろしくお願いします、マスター!」

 彼らは同時に手を差し出す。それに僅かに苦笑を零しながら、は二人の手を貫通しないように気をつけながら、握手をした。
 は笑みを浮かべ、言葉を発する。

「よろしくね」
「はい、ええと、ところで質問です、マスター!」

 レンがおずおずと手をあげる。何かあっただろうか。なに、と言うと彼はわずかに首をかしげて、言葉を続けた。

「……僕達の前に、ボーカロイド、持っていましたか」
「なに言ってるのよ、レン」

 リンが僅かに疑問をはらんだ声を出す。彼はそれを気にせず、言葉を続けた。

「たとえば、……鏡音レンとか」

 持っていたよ、と告げるとやっぱり、と彼は微笑んだ。そのあと、「だったら」と言葉を続ける。

「お久しぶりですね、マスター」

 ひゅ、と吐きかけた息が胸の内に舞い戻ってくる。胸を刺されたような痛みが襲ってきた。答えるように出した声は、震えていた。

「……うん、そうだね……」

 控えめに笑うその姿は、前に居たレンとは似てもにつかない。けれど、どうしてかその姿が頭の中でダブる。
 何故か目頭が熱くなるのを感じながら、は言葉を続けた。

「……お久しぶり、レン」


(終わり)
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