幸運の星から離れて 8


 今日は、おれの傍にカイトもミクも居ない。居るのはアカイトと、それと、前に知り合ったばかりのリンだけだった。ミクとカイトは二人で、どこかへと行ってしまった。多分、そこらへんを散策しているのではないだろうか。カイトは、おれと違っていろいろな場所を散策するのが好きなようで、ミクは好奇心が旺盛だ。だからか、二人が一緒に散策するのは多かった。そこにメイコが入ることはあったが、おれやアカイトが入っていくことはない。おれはマスターが来るのを待たなければならない。いつ来るのかわからない分、おれはずっとマスターが来る場所を眺めている必要がある。アカイトは良くわからないが、レンが残るなら俺も残る、みたいなことを言っていた。アカイトの性格は、未だに良くわからない。

 ミクはどこかへ出かける際、いつも「マスターが来たら絶対に呼んでくださいね! 大声で、ですよ!」とおれに言う。そんなに心配なら出かけなければ良いのにと思う。ミクのことも、よくわからない。
 ミクが出かけたからか、リンは他に知り合いが居ないのだろう、おれとアカイトのところにやってきて、控えめに一緒にいても良いかな、と訊いて来た。おれは良いし、アカイトも了承したので、三人で円を組むように座っている。

 アカイトは話題が尽きないのか、おれやリンが口を挟むとき以外、ずっと喋っている。昨日はなになにがあって、それにしても今日の空模様は、話代わるけどさ二人は。ミクのようだ。ただ、その明るさをうっとうしくは思わない。ミクもアカイトも、おれと違う性格だからか、見ていると楽しい。
 リンはアカイトの言葉に頷いたり、他にも控えめに笑ったり、挙動の一つ一つが静かだった。おおよそ、他のリンたちとは全く違うように思う。他のリンは、周りを見る限り、しきりに笑い、驚き、喋り、活発に行動する。

 ──ボーカロイドは、最初から多少性格が設定されている。そこからマスターとの交流を通じて、本筋の性格を形成していくわけだから、リンのマスターは大人しい、静かな性格の人間だったのかもしれない。
 

「なあ、レン」


 不意に、アカイトの声が耳朶を打った。おれは無意識のうちに下がっていた視線を上げる。炎のような赤が、まっすぐにおれの視線と交わった。精悍な顔立ちに、わずかな険の色が見られる。怒っているようだ。どうしてなのか、おれには良くわからない。
 あいまいに笑みを浮かべる。どうかしたのかよ、なんて、吐息と一緒に言葉を溢すと、目の前の表情が拗ねたそれに変わった。大人の男が唇を尖らせたら気色悪いということをアカイトは知らないのだろうか。


「アカイト、その表情止めろよ。気色悪い」
「別に良いだろ、俺の勝手だ。マスターみたいなことを言うなよ」


 ぞんざいな言葉に対して、アカイトは全く苦にも思った様子も見せず、唇を真一文字に結んだ。おれを見つめる視線から怒気が感じられる。そこまで怒ることなのだろうか。首を傾げそうになって、寸でのところで止める。
 それにしても、アカイトはおれのことを良くマスターみたい、と評する。正直、その度に嫌な気分になる。おれはアカイトのマスターではないというのに、マスターみたいマスターみたい、変なことを言う。


「おれはアカイトのマスターじゃ無い」
「知ってるよ。俺のマスターはレンみたいに小さくないからな」
「……おれが小さいって言いたいのかよ」


 表情が険しくなるのを抑えきることが出来ない。なんだこいつ。なんだこの言動。もうちょっと考えてから物を言って欲しい。第一、おれは小さくなんて無い。


「おれのマスターはおれより小さかったから、おれは今のままで良いんだ」
「ふうん。いつの話だよ」


 息が一瞬、詰まった。端から聞いたら口論に思えるのだろうか、アカイトとは正反対の方向に座るリンが、困ったように視線をうろうろとさせているのが見えた。
 いつの話って、アカイトは何を言っているのだろう。手に力が入る。なんだか頭に電力が回らない。正直、アカイトに対する怒りがどうしようもなく俺の身体を満たしていた。
 こいつ、こいつ。──こいつ!


「なにが言いたいんだよ!」
「へ。なんで怒ってるんだよ、意味わかんねーって。俺、ただマスターと何年前に別れたのか訊いているだけだろ」
「──」


 何を言うことも出来ずに、おれは何度か口の開閉を忙しく繰り返した。言葉が喉から出てこない。目の前のアカイトは怪訝そうな色を表情に浮かべていた。心底、不思議そうな表情だ。
 ──おれが何で怒っているのか、本気でアカイトはわからないのだろう。

 口を閉ざす。
 ……こんなことで怒るなんて、おれは何をやっているのだろう、という気持ちが胸中を過ぎった。どうしてだろう、こんなにも簡単に怒ることなんて出来ないように出来ているのに、と顔に苦い色が浮かぶのを感じた。
 良くわからない。おれはどうして怒ったのだろう。いつの話だよ、という言葉に怒ったのはわかる。マスターから離れた日のことを詮索されるなんて思ってもみなかった。


「……ごめん」


 頭を垂れる。確実に非はおれに有るだろう。急に怒り出して急に冷めて、一体おれの感情の回路は異常をきたしてしまっているのかもしれない。
 アカイトが困ったような声で、いいけど、と言うのが聞こえた。その時、不意にかすかに笑う声が耳朶を打った。アカイトの笑い声ではない。確実に、リンの笑い声だろう。
 何が彼女の笑いに触れたのだろうか。垂れていた顔を上げ、リンを見る。リンは小さく、控えめに控えめに笑った後、肩をすぼめた。


「ごめんなさい、笑っちゃって。なんだか、駄目だなあ、あたし」
「別に良いけどさ。リン、笑えるんだな」


 アカイトが不思議そうに呟く。非常に失礼な言葉を言っているという自覚は、アカイトにはあるのだろうか。肘で軽く彼のわき腹を突付くと、不思議そうな視線がおれに向かってきた。なんだよ、視線でそう問い掛けられ、なんとなくおれが間違っているかのような気分に陥る。
 いや、失礼だろ。笑えるんだなって、失礼に決まっている。胸中で何度も頷き、アカイトへと視線を向ける。険を込めて彼を見つめると同時、鈴が鳴るような涼やかな声が、耳朶を打った。


「笑えますよ。あたし、マスターのところに居たときも、ずっと笑ってましたもん」
「ふうん……。そういえば、リンのマスターってどんなヤツなんだ? 教えてくれよ、聞きたい」


 アカイトがそう言うと、リンはほのかな喜色を表情に浮かべると、ぽつりぽつり、水滴が落ちるように、密かに、けれどしっかりとマスターのことを語りはじめた。

 ──あたしのマスター、結婚していました。夫婦だったんです。でも、子どもが全然出来なくて、だから、あたしを買ったって言ってました。当時、ボーカロイドは科学技術の最先端を駆使して作られたものだったから、笑ったり驚いたりするロボットなんて、全く居なかったんですよね。だから、子どもの代わりにって。
 二人は優しかったですよ。二人はどんどん年を重ねて行って、でもあたし大きくなれなくて、本当に嫌でした。ロボットは成長できませんもんね。で、ある日、あたしのマスター──、……お母さんが、妊娠していることが発覚して、子どもが生まれて、男の子だったんですけれど、すっごくすっごくお父さんもお母さんも喜んで、あたしも喜んで、幸せでした。

 リンはそのようなことを言って、嬉しそうに笑った。マスターとの思い出を一つ一つ、大切な何か──壊れ物に触るようにして、少しずつ少しずつ語る彼女は、本当に幸せそうだと思った。
 誰かのマスターの話を聞いていると聞いていると、おれもマスターのことを思い出して、なんとなく笑みを溢してしまう。おれの、おれだけのマスター。共に居た時の姿を想像すると、幸福感で胸が満たされた。

 リンはにこにこと笑って、それ以降の続きを話そうとしない。アカイトが怪訝そうに首を傾げた。何か不思議に思うことがあったのだろう、アカイトはリンの名前を呼ぶと、困ったように笑う。


「それじゃあ、どうしてここに来たんだよ。ここって棄てられ──」
「棄てられたからに決まっています」


 線を引かれた、と思った。アカイトが驚いたような表情を浮かべ、リンを凝視する。
 リンの声は、硬かった。それ以上、言葉を言うのを拒絶しているかのようだった。現に、リンの顔には何の感情の色にも染まっていない。無表情。全ての色を取り去ったような表情、おおよそ人間には浮かべられない表情を、リンは浮かべていた。
 アカイトが困ったように笑い、頬を指先で掻く。そうだよな、囁くように言う声が聞こえた。その声が、どことなくぎこちなくて、おれは小さく嘆息を吐く。


「馬鹿」
「……わかってるよ、そんくらい」


 返ってきた言葉に全く覇気が無く、一瞬だけ驚いた。視線を向けると、うなだれたように座るアカイトが見える。俯いた表情からは、何も読み取れない。アカイトは小さく唇を動かした。声に出されることすら無かったけれど、その口は確かに、「馬鹿」という二文字を描いているように思えた。

 ……おれの馬鹿という言葉が、そこまでアカイトを追い詰めてしまったのだろうか。焦ってしまう。どうしようもなく視線を彷徨わせ、それから、何を思ったのかおれは地面へと視線を向け、一本のしろつめ草を引き抜いて、教わったとおりに指輪を作って、アカイトに投げつけた。
 アカイトの赤い髪の毛にぶつかった指輪は一瞬だけ動きを止め、それからさらりと髪の毛から落ちると、組んだ足の上に落ちた。アカイトの長い指先がそれを拾う。

 おれは何をやっているのだろう、とその一連の行動を見て、唐突に思った。……泣き出しそうだと思ったのだ。アカイトは大人、そんなことは無いだろうと思ったけれど、何故か慰めなければ、という思いが浮かんだ。
 おれは慰めるのが下手だ。自分でも断言できるくらいには、下手だ。マスターが泣いているとき、おれはマスターを抱きしめることしか出来なかった。それが一番の慰め方法ではないくらい、おれにもわかる。現に、おれがマスターを抱きしめると、マスターはいつだって泣き声を強くした。肩が震えて、その震えがおれにも伝わってきたとき、おれはどうしようもない気持ちになる。マスターの悲しみをいつだって取り去りたかった。出来れば、マスターが抱える重荷を全ておれが取り去ってあげたかった。

 思考に沈んでしまった。とりあえず、おれはそういう性格で、誰かを慰めることに長けていない。
 アカイトの指先が指輪をいじくるのを見て、おれは肩を落としそうになった。きっと、アカイトも、機嫌を浮上させようとなんて、しないだろう。

 無力さ加減を身にしみて感じ、辛くなってくる。嘆息が喉元を競りあがってくるのを感じ、おれは口を開いた、瞬間、笑う声が耳朶をついた。
 低い声だった。無意識のうちに俯いていた顔を上げ、声の主、アカイトを見る。アカイトは笑っていた。


「なんだよこれ、前に要らないって言ったのにさ」
「……別に良いだろ、要らないなら返せよ」
「いや、……いや、嬉しいよ、ありがとな!」


 赤が細まる。アカイトはおれに手を伸ばして、おれの手を掴むと、嬉しそうに上下に何度も振った。止めろよ、なんて言ったのに、アカイトは行動を止めようとはしなかった。
 ありがと、さんきゅ、嬉しいよ。何度も告げられる感謝の言葉に、どうしようもなくなり、おれは視線を逸らす。その時、不意にリンと目が合った。
 リンは笑って居た。──口だけで。瞳は笑っていない。おれは動作を停止してしまう。


「……お父さん、酷いよ」
「──へ」


 アカイトの口から間抜けな声が出る。赤がリンに向かい、行動を停止した。リンは尚も笑って続ける。


「あたしも、子どもなのにさあ」
「……リン、どうしたんだよ」


 声が微妙に掠れていた。アカイトは少なからず、リンの今の状況に恐れを抱いているのだろう。おれだって正直、何で急にリンがお父さん、と言い出したのかさえ見当がつかない。第一、今さっきまで普通に笑って居たのに、急に口だけで笑って意味不明な言葉を言われたら、誰だって恐怖を覚えるだろう。
 リンは指先を伸ばして、アカイトの手のひらに触れた。細い指先がアカイトの手中の指輪に向かう。


「かわいそうだよ」
「何が」
「ねえ、かわいそうだよ」


 アカイトの手首をリンが掴む。アカイトは困ったような表情を浮かべて、リンを見ていた。が、不意に何を思い立ったのか、人好きのする笑みを浮かべ、リンの名前を優しく呼んだ。


「かわいそうって、何がだよ、リン」
「かわいそうだよ。かわいそうじゃないけど。かわいそうだよ」


 意味のわからない言葉を言うと思った。リン、と強く呼びつける。不意に感じた恐怖感には、既視感があった。あの、──おかしなレンと出合ったとき同様の、恐怖が、おれの胸中にあった。
 もしかして、リンはどこかおかしなやつなのかもしれない。あのレンのように、暴力を受けていたのだろうか。でも、だとしても、かわいそうだよって、どういう意味なのだろう。

 稀に、強く焼きついた思い出を不意に視界に映し出してしまうボーカロイドが居る。強くやきついた思い出、それは大体、嬉しいことであるけれど、やはり怖いこともあるのかもしれない。リンは、その、強い恐怖を覚えた思い出を思い出しているのだろうか。
 ──強く焼きついた思い出を不意に視界に映し出し、思い出を二度、三度と体験するボーカロイドは、不良品だ。販売会社に送ってちゃんとした品を送り返してもらわないといけない。ただ、やってくるボーカロイドは初期化され、性格形成を一からやりなおさなければならないので、送る人間は少ないと聞いたことがある。

 リンが笑った。アカイトの手首を掴む手に力が強まるのが、おれにもわかる。


「ねえ、かわいそうだよ。あたし、かわいそうなんだよ。心配してよ」
「──、ああ、お前はかわいそうなヤツだな。心配してやるよ」
「本当? えへへ、本当? 本当なの? 絶対なの? 約束してくれるの? ずっと心配してくれるの? あたしのこと、誰より心配してくれるの? ねえ、心配してくれる? ずっとずっと、死ぬまで心配してくれる? ねえねえ、心配してよ、あたしかわいそうなんだよ、ねえ、ねえ、お父さん、お母さん、心配してよ」


 アカイトに口を挟む間も与えずリンは言い切り、嬉しそうに笑みを浮かべた。
 ──こういう思い出に視界を占領されている間、ボーカロイドは何を考えることも出来ない。ただ体験した出来事を繰り返す。相手が思い出と違う意義の言葉を口にした場合、何度でもやりなおされる。最初から、ずっと、何度でも。終わりがいつ来るかなんて、誰にもわからない。ただ、突如として糸が切れたかのように、正気に戻るのだ。
 その間、あったことなんて、覚えていない。

 だったら終わるのを待つしかない、というわけではない。ただ一つ、いつまでも続くであろう思い出をとめる方法がある。ボーカロイドが思い出している思い出と同じ言葉を、一字一句たがえずに口に出すのが条件だけど、そんなことは体験していないと出来ない。

 アカイトはそれを知らないのだろうか。知っているのだろうか。リンの思い出に準拠するようにか慎重に言葉を選んで声をつむぐ。


「ああ、心配するからさ」
「……お父さん、酷いよ」


 アカイトの言葉が間違ったのだろう。リンはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
 アカイトが何度も心配するよ、と言っても、リンは何度も何度も最初に戻って言葉を繰り返す。アカイトが言葉を間違えていることは明白だった。
 昼だったというのに、夕方になっても、リンの言葉は続く。アカイトは飽きもせず、言葉を繰り返していた。

 夜になる。カイトとミクが戻ってきた。二人は真っ先におれたちに近寄ってくる。カイトが手に抱えているのはなんだろうか、花かもしれない、ただ、何かを持っているのはわかった。
 二人は近寄ってくると、リンの異常に気付いた。薄闇の中、追求の手を止めないリンに、手を掴まれたままのアカイト。手首を閉めるように掴まれていて、人間だったらとっくに手の感覚が無くなっているころだ。

 リンが言葉を繰り返す。


「ねえ、かわいそうだよ。あたし、かわいそうなんだよ。心配してよ」
「──、ああ、お前はかわいそうなヤツだな。心配してる」
「本当? えへへ、本当? 本当なの? 絶対なの? 約束してくれるの? ずっと心配してくれるの? あたしのこと、誰より心配してくれるの? ねえ、心配してくれる? ずっとずっと、死ぬまで心配してくれる? ねえねえ、心配してよ、あたしかわいそうなんだよ、ねえ、ねえ、お父さん、お母さん、心配してよ」


 アカイトが心配するよ、と言う。リンの言葉が戻る。カイトが小さく、これはいったい、と囁いたのが耳朶を突いた。表情を慮ることは出来ない。山の夜は暗く、深い闇の中、表情までをも見ることは出来なかった。
 ミクが小さく嘆息をこぼす。彼女はそのままリンの前に跪くと、アカイトの唇を抑え、代わりに言葉を口にしはじめた。


「ねえ、かわいそうだよ。あたし、かわいそうなんだよ。心配してよ」
「うん、心配してるよ」
「本当? えへへ、本当? 本当なの? 絶対なの? 約束してくれるの? ずっと心配してくれるの? あたしのこと、誰より心配してくれるの? ねえ、心配してくれる? ずっとずっと、死ぬまで心配してくれる? ねえねえ、心配してよ、あたしかわいそうなんだよ、ねえ、ねえ、お父さん、お母さん、心配してよ」
「リンちゃん」


 ミクの声はすっと空気に溶けるかのように、響く。アカイトに向いていた視線がミクへ向き、そのままリンはすっとアカイトから手を離した。ミクの手に、リンの小さな手のひらがすがるように向かっていく。


「おかあさん」


 泣き出しそうな声がリンから漏れた。リンは笑う。泣き出しそうな顔で、笑う。


「あたしのこと心配してよお……あたしだけにかまってよお。ずっと一緒って言ったじゃない。リンだけが私たちの子どもって言ったじゃない。あたしが、成長しないから、ダメなの?」


 異様なくらい震えていた。異様なくらい、かすれていた。リンは眉尻を下げて、けれど懸命に微笑もうとしているのか唇の端をゆっくりと持ち上げて──、不意に感情の色を表情から無くした。
 どうしたのだろうか。思い出は止まったのだろうか。名前を呼ぶと、リンは不意に唖然とした声を出して、それから周りを見渡すように視線を動かした。ミクを強くつかんでいた手のひらから力が抜けたのか、リンの手のひらがぼすりと新緑に落ちる。どこを向いているのだろう、彼女は困ったように笑う。


「……あれ、ミクちゃん、帰って来てたんだね」
「はい! ちゃんと帰ってきました! リンちゃんにお土産があるんです、きれいなお花ですよ」
「わあ、嬉しいなあ……。ありがとう、ミクちゃん」
「じゃあ、あっちに行きましょう。ね」


 リンが勢い良く頷くのが見えた。ミクはリンの手を引くと、嬉しそうに声を弾ませながら、おれたちから離れていってしまった。
 おれとアカイト、それにカイトは残されたまま、ぽつんとその場に居ることしか出来ない。何をすれば良いのか、何を言えば良いのか、おれにはよくわからなかった。

 叫ぶようだった。感情をありったけ込めて、声帯が壊れそうになるほど声を大きくしたら、あんな風な声が出るのかもしれない。悲痛だった。悲愴だった。辛苦が混じっていた。
 リンの強く焼きついた思い出は、悲壮なものだというのが、わかった。
 アカイトが嘆息を漏らす。カイトが困ったようにおれの服の裾をちょいちょいと引っ張ってきた。状況の理解に頭が追いついていないのだろうと思う。

 答えを求めるかのように名前を呼ばれ、おれは視線を落とす。
 強く焼きついた思い出。おれなら、一体なにだろう。きっと、マスターとの思い出だろうと思うけれど、実際のところ、おれのメモリに強く焼きついた思い出は違うのかもしれない。

 ──どこに行くんですか。
 問い掛ける。目の前の顔が二つ、困ったように笑った。
 ──マスターはどこですか。
 問い掛ける。目の前の顔は答えようとしない。
 ──マスターのお父さん、お母さん、マスターはどこですか。
 問い掛ける。
 ──マスターはおれが居ないと駄目なのに。
 嘘だ。おれは、マスターが居ないと、駄目だった。
 ──マスターは泣いていました。慰めないといけない。どこへ行くんですか。
 問い掛ける。問い掛ける。問い掛ける。問い掛ける問い掛ける問い掛ける問い掛ける問い掛ける──。

 返事のかわりに、おれはここに連れてこられた。

 マスターとの幸せな思い出よりも、そっちのほうが強烈に焼きついているように思う。マスターとの日々はいつまでも続くと思っていた。マスターは弱かったから、おれに頼らないと生きていけないと思っていた。違った。
 そんな思い出が不意に、おれの視界を奪ったら、どうなるのだろう。考えられない。ただ、当の本人は何があったのか覚えていないらしいから、おれはきっと、何を言う事もせず、目の前の表情が固まっていることにも気付かず、直前までの話題を再開するのだろう。

 永遠に続く、強く焼きついた思い出。それを羨ましく思うことなんて、出来ない。

 おれは、カイトの呼びかけに答えられなかった。

→続く

2009/01/04
2009/04/07UP
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