<最後の歌を、あなたに>


 目が覚めたのは、なぜか、よくわからない。ただ、ズウンという何かが倒れる音、その振動のせいで、おれのスイッチがオンになったのかもしれない。
 やっと、やっと、おれは直ったんですね、マスター。何故か微妙な肌寒さを感じながら、目蓋を開く。きっと目の前は柔らかな色で包まれたマスターの家で、それでマスターは微笑んでいて、おはよう、って言って──。 
 淡い期待はすぐに潰えた。目の前に広がるのは、無機質な灰色の壁だったからだ。

「ます、た……?」

 小さく呟く声と、同時に漏れた息が、おれの視界を濁らせた。

*

 気づいていた、ただ、信じたくなかった、というだけなのかもしれない。彼は──少しずつ、少しずつ、壊れはじめていた。
 音の調子を外したり、入力した言葉を間違えたり。最初のころは、そういう些細なことで、気にもとめなかった。ボーカロイドも、そういう人間のような間違いをするのか、と思っただけだ。
 でも、ある日のこと。レンが充電をすると言って、とリンをパソコンのある部屋から追い出した。彼は充電の様子を、絶対に見られたくないらしい。別にそれを見たからといって、が今さらレンのことを嫌いになるはずがないのに。

 どうしようもないので、部屋──というより、家から追い出されたとリンは、色々なところをぶらぶらとあてもなく歩いていた。カフェに行ってお茶をしたり。ちなみに、唐突に話題が切り出されたのは、リンがクリームソーダを飲み干した後だ。彼女はあどけない表情にかげをさし、小さく呟いた。

「マスター」

 どうしたの、と問いかける。彼女は眉をひそめ、「驚かないでくださいね」と呟き、続ける。

「実は、レンが壊れているようなんです。エネルギーの消費量も早い。なんだかしらないけれど、レンの体には確実に荷重があるようです。このままだと、あと数年のうちに、レンは」

 動かなくなります、と続けリンは口を閉ざす。……うすうす、気づいていた。レンの充電の回数が極端に増えたことは。ただ、それが壊れていることを示すとはわからなかった。
 無意識に、顔をしかめる。リンはをちらりと見ると、「だから」と言いにくそうに視線を下げた。

「わたし達を作った会社に送ってもらって、直してもらったら良いと思います……、ううん、絶対に良いんです、そのほうが」

 そっか、と言いは微かに俯いた。瞼を閉じると、浮かぶのはレンの姿だ。確か、二十年、だっけか。寿命。とても短い。直さないと、それすらもっと減ってしまう。結論としては、一つだけだ。

 家へ帰るとさっそく、はレンにその話をした。レンは話を聞き終えると泣きそうな表情を浮かべて、「いや、です」と呟いた。まさか拒否されるとは思っていなかったので、驚く。
 彼は頭を垂れ、ふるふると横に振ると、かすれた声で呟いた。

「マスターと離れるのは、嫌です……」
「……レン」

 溜息に音を乗せ、名前を呼ぶと、彼は体を大袈裟に震わせた。僅かに濡れた瞳がを見据える。それに苦笑を零し、はレンの頭に手を乗せた。やさしく撫でる。

「──マスターは、嫌じゃないんですか」
「……離れることが?」

 レンの顔が歪む。まあ、嫌と言ったら、嫌だ。けれど、

「レンが壊れちゃう方が、嫌だな。……だから、お願い」
「……」

 彼の頭から手を離し、首を傾げる。すると彼は、その淡い色合いの唇を開き、「……マスターが言うなら」と呟いた。良かった。思わず笑みを浮かべると、レンは「でも」と続け、を見る。

「おれのこと、絶対に……絶対に、待っていて下さいね」
「……うん、待ってるよ」
「おれが居ない間に、他に好きな人なんて作っちゃ、嫌ですからね」
「わかってるよ。言ったでしょ」

 の好きな人はレンだよ。そう続けると、彼は指先をに向かって出してきた。ん、と首をひねるも、すぐに理解する。彼の小指にの小指を絡ませる。
 ゆびきり、だ。彼は微笑むと、「約束です」と声を出した。レンを開発会社に送ったのは、その次の日だった。

*

「……嘘だ、ろ」

 座っていた体を起こし、立ちあがり、周りを見渡す。灰色の壁、壁、どこかへと延びる廊下、壁。周りをもう一度注意深く観察するように見渡し、おれは廊下へと足を運んだ。靴の音が無機質な壁へと反響して場に響く。歩を進めながら、エネルギーの残量を調べてみる。大体、半分程度──つまり、三、四日程度動けるほどの電力が残っていた。次に、此処は何処かを自身の中に組み込まれているプログラムから探し出す。が、見つからない。検索結果はNOT FOUNDだった。
 壁に手をつきながら、足を進める。廊下には沢山の扉が組み込まれていたが、どれも開かなかった。鍵がかかっているのだと、すぐにわかった。壊すことも可能だったけれど、止めて置いた。
 それにしても、部屋の気温が低い。氷点下だ。壁には微かに霜がたっていて、触れると冷たさを感じ取った。床も微かに凍っているのか、時折滑りそうになった。

 ──慎重に歩みつづけて、何分か経った頃。大きな部屋に出た。灰色の壁、それを一面覆い尽くすように画面が張り付いている。近くに画面か何かを操作するのだろうか、パネルがあり、触れると光が灯った。電気が通っているのだと、微かに安心する。惜しむべくは充電コードが無いことだろうか。
 適当に操作をしていくと、目の前の画面に地図が浮かんだ。どうやら、おれの今居るところは建物の一階らしい。この建物から出るには、このまままっすぐ進んでいけばいいことを知った。

 そっと機械を操作するパネル状のものから手を離し、今見たことを忘れないよう、メモリに焼き付けてから──おれはその場を離れた。

 又、薄暗い廊下をひたすらに歩む。出口に近づくたびに、気温が下がっていくため、エネルギーが生態機能保持に回されることが多くなった。このままだと、消費量が思ったよりも激しくて、三、四日も動けなくなるだろう。

 小さく息を吐くと、目の前が濁った。──おれは何をしているんだろう、と言う気持ちが頭の片隅で揺らぐ。
 マスターは、何処に居るのだろう。彼女……は、何処に。
 、と小さく呟く。そう、おれは確か販売会社に送られたはずだ。確信的に、マスターは此処にはいない、と、出口まで歩いているものの、もし、マスターが此処に居たら。外に出たら、駄目なのでは、という思いが脳裏を掠める。
 ぴたりと歩を止める。──中を捜そうか、と逡巡をする。マスターが居るかもしれない。今まで来た道をたどるように振り向き、眉をひそめた。
 でも、もし居たら、きっとおれの傍に居てくれたはずだ。は、目覚めるまで、おれの傍に居てくれたはず。何とも言えない自信が身を満たす。そう、居てくれたはずだ。でも、居なかった。だから、此処にマスターは居ない。


「居ない」


 声に出すと、その言葉はすっぽりと心の内に収まった。視線を前へとうつし、再度歩き始める。
 それに、大丈夫だ。なんだか様子がおかしいものの、きっと外には人が居る。訊けばいい。此処は何処ですか、と。きっと答えてくれるだろう。

 廊下の突き当たり。扉があった。ここから外に出るのだろう、とノブに触れる。予想外に、冷たかった。ぐっ、と力を込めノブを回し、扉を開くよう努めた。扉が微かに動く。頭上から、ぱらぱらと何かが降ってきた。もう一度力を込める。扉に隙間が開く。その間から、風が舞い込んできた。──寒い。
 気温を感知する温度計が、ありえない数字を指し示す。人間でなくて良かった、と安堵した。もう一度、力を入れると、扉は甲高い音を立て、やすやすと開いた。
 ふっと息を吐き、視線をめぐらせ、呆然とした。──何も、ない。目の前には、ちらちらと降り積もる雪、それと大雪原しか広がっていなかった。

 まさか、まさか。咄嗟に生体反応を捜す。見つからない。一歩を踏み出し、視線を回す。見つからない。
 此処は、何処だ。もう一歩踏み出す。雪がぎゅ、と言う音を立てて足跡を残す。


「なんで、なんで、なん、で……」


 地図を呼び起こす。NOT FOUND。見つからない。半ば呆然としながら、足を進めた。マスターは何処に居る。マスターは? 何処に。
 空を見上げる。分厚い雲が、視界を覆っていた。太陽が、雲海に阻まれているせいか、どことなく薄暗い。
 気分を沈めるために、一度、盛大に息を吐いた。──マスター、は、きっと何処かに居る。だって、約束したじゃないか。マスターもおれを捜してくれているはず。だって、──約束した。

 気分が浮上する。微かに頬が緩んだ。
 だったら、きっと見つかる。絶対に見つかる。会ったら、なんていおう。マスターの名前を呼びたい。、と言いたい。
 マスターの名前。知ったのは最近だ。……あまり呼んだことが無かった。理由は簡単で、何故か呼ぼうとすると、おれがおかしくなってしまうからだ。
 マスターの名前は凄く綺麗で、美しくて、どうしようもなく愛しかった。名前の一文字一文字が、とても流麗な響きを持っているように感じて、呼ぼうと思っても何故かどもってしまったり、声が裏返ったり、と、おれは散々な失敗をしてしまう。
 好きな人の前で、そんな失態を見せたくない。そう思うのは、おかしいのかもしれない。現に、リンはマスターから名前を教えてもらった時、何度も何度も読んでいた。さん、ちゃん──。呼ばれるたびに、マスターは柔らかく笑みを浮かべて、リン、と名前を呼び返していた。
 そんな二人が酷く羨ましかった。おれは、マスターのことが好きなのに、名前を呼ぶと変になっちゃうから、どうしても呼べなかった。

 マスターの声が、好きだった。マスターの瞳が、おれを撫でる手のひらが、全てが好きだった。マスターに名前を呼ばれると、何故か胸の基盤がおかしくなって、耐えがたい痛みが胸を襲った。名前を呼ばれるたびに、壊れた、のかと思った。

 レン。二文字。たった、二文字なのに、マスターがおれの名前を呼ぶと、それさえも美しい響きに聞こえた。おかしくなるほどに、頬に熱が昇ってきて、どうしようもない悲しみに胸が満たされた。ただ、それを表面に出したことは無かったけれど。

 次に出会ったら、ちゃんと呼ぼうと思う。マスターに知られないように何度も練習して、何度も呟いた名前。今度は、きっと、大丈夫だ。
 マスターの好きなおれの声で、おれの好きなマスターの名前を呼べる。

 そう考えるだけで、自然と足は軽くなった。マスター、会いたい──。
 空を見上げ、微かに笑みを零した。


*


 雲が覆い被さっていようと、夜は静かに幕を開いてやってくる。おれは周りを見渡し、休めそうなところを発見すると中に入り込んだ。休めそうなところ。──埋没した建物のようなところ、だ。入り口の穴が、大雪原に穿つように開いていて、中に入ってみると五人くらいは収納できそうなスペースがあった。
 雪は入ってこない。ただ、風は時折まぎれこんでくるけれど。
 奥のほうで、身を固めてそっと息を吐く。白い息が、暗闇の中、存在を主張する。

 微かに苛立ちを感じながら、おれはそれを見つめた。──マスターは、見つからなかった。
 エネルギーの残量を確認する。大丈夫だ、まだ二日は歩ける。膝を抱えるようにして座りこみ、顎を膝小僧の上に乗せながら、おれは目蓋を閉じた。
 
 ──見つからなかったら、どうする。頭の中で、微かな疑問が反響する。
 見つからないわけがない。見つかるに決まっている。というよりも、見つけなければ、いけない。マスターだって、待っているはずだ。おれのことを、きっと、ずっと。マスターなら待っていてくれる、そう確信めいた考えが、胸の内に落ちていく。
 そっと目蓋を開く。


「マスター」


 頭を振る。恐る恐る、彼女の名前を口にした。


……」


 僅かに甘さを持ったその呟きが、おれ以外誰も居ない場所にはね返る。ぎゅっと力を込めて、おれは膝の間に顔を埋めた。
 ──暗闇が怖いと思ったのは初めて、だった。


 スリープモードが解除され、起きたのは大体、朝の九時頃、だろうか。体内に時計は設置されているもの、壊れているのか正確な日付を指し示さない。年月日が、おかしいのだ。この時計は。
 微かに体を動かし、おれはもぞもぞと穴から顔を出す。雪が降っていた。嘆息を漏らし、おれは穴から這い出る。

 立ち上がり、わずかなほこりを払い、また歩き出す。雲は昨日同様、空を覆うようにしてあり、僅かに苛立ちがつのった。

 昨日と同様、周りを注意深く見渡しながら歩く。誰も見つからない。
 本当に、此処は何処なのだろうか。見当もつかない。空を仰ぐようにして見て、小さく言葉を零した。


、さん」


 声が震えた。早くも挫けそうなのは、どうしてなのだろうか。視界が歪む。涙が出たのだろうか、と思っていたが、砂嵐のようなものが視界に混じった途端、さっと血の気が引いた。
 壊れかけている。視界の回路が。


「なっ、んで」


 空を見上げていた瞳に触れる。そんなに酷使した覚えは無い。それなのに、どうして。恐怖で体が震える。目が、目が見えなくなったら、マスターを捜せない。自己修復プログラムを起動、──出来ない。壊れている。そうこうしている内に視界がブレ、──おれの世界は乳白色になった。

 壊れ、た。愕然とする。体から力が抜け、その場に力なく座りこんだ。何を見ても、何をしても、視界に何も映らない。
 どうして、どうして、どうして。何もしていないのに。壊れるなんて、まさか、そんな、なんで。
 悲嘆に暮れる。そんなことをしている内にも、時間は容赦なく過ぎていった。口から力なく言葉が漏れる。


「……もう、いやだ……誰か、助けて……、マスター」


 上半身を雪の中に埋める。起き上がる気力がない。直らない視界に、見つからないマスター。おれに何が出来る。
 脳裏に浮かぶのは、あの日の思い出だ。メモリが勝手に再生を始める。泣きそうになった。というより、泣いてしまった。頬を伝うものに、気付くのは遅かった。

 思い浮かぶのは、在りし日の記憶ばかりだ。柔らかで、温かな思い出。知らず、頬が緩んだ。


「ます、たー」


 マスターが笑っている。怒っている。泣いている。悔しがっている。マスターが。マスターの。マスターは。
 ──ぐっと拳を作る。起きなければならない。起き上がって、マスターを捜しに行かなければならない。約束。ヤクソク、やくそく──破っては、いけない。

 拳に力を入れ、上半身を起こした。次いで腰に力を入れる。立ち上がり、雪を払うように手で体をはたいた。視界は一向に戻らない。まずは、この視界を何とかしないといけないだろう。
 直すこと、これは賭けになるが、回路に加える電圧を高くしたら、どうなるだろうか。ショートするかもしれない。でも、もしかしたら。一縷の望みにかけて、やる価値はあるだろう。
 小さく息を吐き、エネルギーの循環を変え、回路の部分にかける電力、電圧を変更した。目の奥が熱くなり、視界に砂嵐が含まれるようになった。根気良く続ける。ぱ、と視界が直った。あっけないけれど、どうせ直ぐに見えなくなるだろうと微かに肩を落とし、おれは歩き始めた。回路へ送るエネルギーが増えたせいか、消費が微かに早くなった。


 二度目の夜の帳が下りてきた。今日は休まる場所も見つからなかったので、そのまま歩くことに決めた。夜には雪が微かにやみ、雲の隙間から微かに月光が差していた。見上げると、瞬く星を見とめることが出来る。足を止める。

 双子座はないか、捜す。唯一、星座の中で並びをしっているものだった。
 ──双子。マスターがおれとリンをさして、微笑んでそう言ったのを覚えている。おれとリンは分身なのだけれど、マスターには双子に見えるらしい。まあ、分身──鏡にうつった異性の自分、というのがおれとリンのコンセプトなのだから、そう見えても仕方無いのかもしれない。

 そんなことがあったあくる日、マスターは星座盤を持って、外へと出ていた。夜だから危ないですよ、と声を掛けようとした途端、彼女は歓声を上げて笑ったのだ。おれとリンに向けていた背中が嬉しそうに震え、次いで彼女の顔が覗く。
 おいでおいで、と言われておれとリンは彼女の元へとかけていった。空を指差す指先をたどる。夜の闇を切り裂くような、明るい二つの星が見える。あれがどうしたんですか、と問い掛けるとマスターは笑みを浮かべて、「──双子座」と声を弾ませた。
 リンがえ、と驚いたような声を上げ、「そっか、三月ですもんね」と納得したように続け、空を仰ぐ。

 二つの星。それを囲むようにいろいろな星がちりばめられた夜空。それはしっかりとおれのメモリに刻み込まれている。

 指先で星を辿るように探す。見つからない。双子座が見えるのは三月初旬と聞いたから、見えないということは三月初旬ではないということ、なのだろう。
 肩に息を落とし、おれは視線を前へと向ける。

 ──マスターを見つけたら、一緒に星座を辿ろう。きっと、楽しい。
 そっと息を零すと、おれは足を進めた。



 夕闇が途切れ、地平線から太陽が昇ってくる。二度目の朝だ。いつもどおりにエネルギーを確認し、おれは気を引き締めた。今日見つけることが出来なかったら、もう、見つからない。残量が無くなる。
 小さく息を吐き、おれはその場に立ち止まった。視界の回路は良好で、つぶれる気配を見せない。
 空からは昨日や一昨日とは打って変わって、雪がとめどなく降り続いてくる。視界が、遮られるほどに、だ。それに風も吹いているため、おれの体に雪がびしびしと引っ付いてくる。固い、雪だった。
 雪というより雹といったほうがいいのかもしれない。当たるたびにかんかん、とおれの中の金属が音を立てる。何故か、泣きたくなった。人間だったら、こんな音は出ないのに。……痛みで悶えることになるだろうけれど。
 嫌な思考を振り払い、おれは構わず歩き始める。そのまま何分、何十分と歩いた、途端、体にすさまじい衝撃が走った。視界がブレて、おれはその場に倒れこむ。

 雹。それも手のひら大のものが、頭を直撃したらしい。傷が出来たのだろうか、頭から何かが垂れてくる。考えるまでもない。オイルだ。体を循環していたオイルが頬を伝い、雪の上にあとを残す。
 何で。声に出さずそう呟いて、手を動かし頭を擦る。凹んでいた。なきそうになる。まさか、まさか、まさか。
 プログラムが一斉に起動する。重大なエラーが発生。直ちに行動を止め、メンテナンスを行ってください──出来るわけがない。どうせエラーといっても大したものではないだろう、とたかを括り立ち上がろうとして、腰に力が入らないのに気付いた。視界に砂嵐が混じる。

 壊れて、しまった。手は動くので、体を引きずるようにしてその場を去る。ほふく前進といえば聞こえはいいものの、足が全く動かないため、全然進まない。ずるずると服の下の雪が体温を奪うため、エネルギーの消費が激しくなる。

 倒壊したものの壁についたときには、エネルギーはもう全く残っていなかった。
 背中を預けるように座り込み、ふっと息を吐く。動かない。だとしたら、マスターを見つけることは出来ない。頭の中ではエラー音が鳴り響き、何を考えることも出来なかった。

 このまま、動かなくなるのだろうか。嫌な想像が頭を過ぎる。出来れば、そう、出来れば。もう一度だけでよかった。会いたかった。約束を果たしたかった。

 目蓋を閉じる。思い浮かぶものは何も無い。終わる。おれの時間は止まってしまう。途端、目蓋から溢れ出すように何かが零れ落ちた。見なくてもわかる。涙だ。
 マスターはおれが泣くたびに、「泣き虫だなあ。泣いちゃだめだよ」と言って、笑っておれの頬を拭ってくれた。泣き虫。そうだ、おれは泣き虫なのかもしれない。変なことで涙が出てくる。厳密に言えば、水、だけれど。
 嗚咽が漏れる。次第に声が大きくなっていく。

 会いたい。会いたい、どうしても会いたい。会いたい──!


「……レン」


 ふと、近くに何かの存在を感知した。目蓋を開くと、目の前に誰かが立っているのが見て取れる。聞き知った、おれの大好きな声で、名前を再度呼ばれる。誰か、はおれの前に座り込み、ふっと苦笑を零した。


「泣き虫だね。泣いちゃだめ、って言ったじゃん」
「マス、ター」


 無意識に言葉が溢れ出る。涙がぼろぼろと頬を伝い、嗚咽が止まらない。マスターはそんなおれと視線を合わせて、柔らかく微笑んだ。


「悲しいの?」
「ます、たあ……、あ、あえないと、思って……っ」


 瞳を擦る。マスターの体が、かすかに歪んだ。回路が、おかしい。


「泣いちゃだめだってば」
「う、うえ、っ、だ、だって……ますたー、ます、たああ」


 恥も外聞も何もない。マスターは苦笑を漏らすと、立ち上がった。


「レン、歌ってよ」
「……え、あ、……え」
「歌って」


 おれの喉を指差して、マスターは優しく笑う。うた、って? なんで、どうして、こんな急に。そんな思いが胸の内に燻る。 マスターは続けた。


「立って、歌って」
「……た、てないんです、おれ……、もう、立てない……」


 頭を振る。本当に、もう下半身を司る機関は完璧に壊れてしまったようで、ビクともしない。


「立って」


 マスターの声が静寂に響く。立てない、立てないんです。何度も何度も頭を横に振り、無理という意を示す。


「……じゃあ、座ったままで良いよ。歌ってくれない?」
「……マスター」


 エネルギーを確認する。後一回、歌えるくらいは残っている。でも、おれは歌うよりもマスターと話をしていたかった。ボーカロイド、歌うことが一番大切で楽しいはずなのに、どうしても歌いたくなかった。マスターと、残された時間をずっと話していたい、そう思った。
 おれは、もうこのエネルギーを使い果たしたら、きっと起動できなくなる。そう言った思いが胸にあったからだ。


「でも、おれは……歌うより、マスターと、さんと話していたいです」
「歌って」


 有無を言わさない声。おれはゆるゆると俯くと、小さく呟いた。
 命令、なのだろう。だとしたら、おれは従わないといけない。


「……何を、歌えば良いですか……」
のオリジナル曲」
「……どの、ですか」
「一番最初に作ったやつ」


 一番、最初、というと、あの曲しか思い浮かばない。おれは微かに息をすうと、旋律を音に乗せ始めた。

 動かなくなるだろう。永久に。おれはもう。だとしたら、最後の。
 最期の歌を、あなたに、送る。

 歌い終えると同時に、マスターが拍手する音を遠くで聞いた。仰ぐように彼女を見る。彼女は、笑っていた。おれもつられるように笑い、小さく言葉を発する。


「マスター……約束は、守りました……、おれ、のこ、と、わすれ、ない……で……」


 マスターが微笑むのを見て、おれは意識を飛ばした。後に残るのは、暗闇と、そして静寂だけ、だった。


*


「マスターの姿は、すぐに見つかりました」


 そう言うと、マスターは微かに首を傾げた。それを横目に、おれは言葉を続ける。


「マスターの姿が──」


 何故か、マスターの姿だけがぼんやりとしたおれの世界の中で、くっきりと映っていた。そう言うと、きっと笑われるだろうか。マスターと同じ歩幅で歩きながら、おれは僅かに間を置いて、言葉を紡いだ。


「──よく、わかりません。ですが、マスターの姿は、すぐに見つかりました」


 そこまで言って、おれは多分、と言葉を続ける。


「おれ、マスターだけは、どんな人ごみの中でも、どんなに遠くに居ても──見つけられます。……見つけます」


 そう、絶対に見つける。見つけられない、なんてことはない。どれだけ離れていたとしても、きっと貴方はおれの中で輝いている。マスターだけは、絶対に、見つけられる。


「──約束、です」


 マスター、おれはちゃんと、貴方を見つけることが出来ましたか。


(終わり)

2008/04/26


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