触れる

「朝だよ」


 耳朶を軽やかな声音がつくと同時に、意識がゆるゆると覚醒した。
 朝。窓から差し込んできているであろう日差しの量でそれを推し量ることは出来るものの、まだ眠って居たい。せっかくの休みなのだから。
 小さくうめき声を漏らし、布団を被る。微かな笑い声が、滴るように落ちてきた。優しいボーイ・ソプラノの声が、言葉を続ける。


「朝だよ、起きなきゃ。マスター」


 僅かに鼻にかかったような、そんな甘い声で言葉を紡がれる。んー、と言葉を伸ばして返事をする。すると、もう一度、喉を鳴らして軽く笑う声音が響いた。笑い声が断続的に、けれど途切れることなく続く。優しい声だ。
 そっと、被った布団の上に微かな重みが乗せられた。手のひらか何かを乗せられたのだろう。軽く、リズムを取るように叩かれる。


「起きろって」


 囁くような音色を無視して、もう一度だけ言葉を漏らし、は布団を強く握り締めた。困ったように笑う声が耳にくぐもって響いてくる。それから、布団の上に先ほどよりも重みがあるものが乗った。


「……マスターが起きないなら、最終手段に出るまでなんだけれど。何をして欲しい?」
「眠らせて……」


 小さく言葉を呟く。かなり小さかったので、聞こえていないと思っていたけれど──布団の上に体重を乗せている人物には届いたようだ。小さな息が落とされ、の被った布団を何かの重みがさっと移動する。多分、撫でられたのだろう、なんて思う。
 少しの空白。軽く溜息を吐くような音が聞こえて、布団を引っ張られた。


「起きろって。マスター、起きてよ」


 布団が引っ張られるので、起きたばかりであまり動かない、というよりは力が入らない手の平で必死に掴む。呆れたような声音で言葉が紡がれ、一瞬にして布団を引っ張っていた力が無くなる。自分の入れていた力で思わず布団と共に丸まって転がりそうになるのを抑えつつ、もそもそと布団を被りなおした。──とたん。


「──起きないなら、おれと、イイコト、する?」
「……な」


 一瞬にして意識が覚醒する。は布団から顔を出した。目が合う。
 ──レンは薄く笑みを零すと、布団の上に四つんばいになるようにして乗った。と視線を合わせて、淫猥に笑う。


「布団の上だし。マスター、気持ちよくしてあげるよ」
「……起きる、起きます」


 ろれつの回らない舌を何とかして動かし、それだけ言う。レンは口唇のはたに笑みを乗せると、優しげな声音で「それで良いんだよ」と言い、布団の上から退いた。それを確認してから、上半身を起こす。
 かみ殺せずに居る欠伸を、手で塞いで零す。レンがの横に立って嬉しそうに笑いながら「今日は」と言葉を弾ませた。


「何をするの。おれ、それが聞きたくて起こしたんだけれど」
「──何をする、って……。朝起きたばっかでそんなの決まってないよ」


 レンの問いに頭を軽く掻きながら答える。彼が少しだけ苦笑を零すのが見えた。それから、それもそうだよね、と吐息を零すように続ける。
 それを横目に見つつ、は布団から立ち上がった。歩き出すと、後ろから足音が聞こえてくる。レンの足音だ。彼はの行く先々に着いてくる。何故かと言うと、まあ、がマスターで彼がボーカロイドだから、という理由に他ならないだろう。

 ボーカロイド。彼はその中でも最新型で、自律思考型だと言われている。自分で考え、自分で動くことが出来るボーカル・アンドロイド。彼の前の型、つまりはミクは感情が無く、カイトやメイコは最初から設定された動きしかする事が出来ない。その中でも彼──つまりリンとレンは急激な科学の発達により、今までとは全く違う、人間らしいロボットとしてこの世に誕生してきた。
 自分で考える。行動する。一度起動したら大体百年程度動くらしい。保障期間は十年。壊れたら交換をしてくれるらしい。まあ、壊れることなんてめったに無いらしい、けれど。

 ……朝っぱらから何を考えているのだろう。洗面所へと赴き、顔を洗って歯を磨く。レンはその間の横に立ち、嬉しそうにしていた。
 それから着替えを行う、のだけれど。レンを部屋の外へと追いやってから、寝間着を脱ぎ、下着を着けていつものような普段着を着る。着替えている最中、今日は何をしようか、なんて考えて、そういえば、と思い出すことがあった。

 そろそろ冷蔵庫の中身が心もとないくらいに少なくなっていたはずだ。食料品を買いにいかなければ。
 そうと決まれば直ぐに決行、はすぐさま身支度を終わらせて、バッグへと財布を突っ込み、自分の部屋の扉を開いた。レンが近くの壁に寄りかかるように立っていた。を見ると笑みを浮かべ、近づいてくる。


「レン」


 名前を呼ぶ。彼はと一定の距離を取った場所で立ち止まり、首を傾げた。微笑みはそのままに、どうかした、と瞳に色をにじませて問い掛けてくる。


、買い物に行ってくるね。帰りはたぶん早いから」
「……買い物? 買い込むの」


 語尾を上げ気味に問い掛けられた。買い込む、うん、買い込むだろう。頷くと、レンはなら、と唇に笑みを乗せ、息と共に吐き出したような、そんな声量で言葉を紡いだ。


「おれも行くよ。荷物もち、必要だろ」
「ん、ああ、助かるかも。ありがとう」
「どういたしまして」


 レンは軽く笑って見せると、玄関へと向かった。彼を追うようにも歩を進める。
 靴を履き、玄関の扉を閉めてから、ふと思った。
 休日。きっと道路などの人通りは激しいだろう。だとすれば離れる危険性があるかもしれない。鍵をカバンの中へと仕舞い込んでから、レンへと手を差し出す。彼は驚いたような表情を浮かべた後、困ったような笑みを浮かべた。肩をすくめ、何、とでも言いたげに瞳を揺らす。
 は中に浮いた手を軽く振る。何って、訊かないでもわかるだろうに。心の中で疑問を抱えつつ、それをそのままにして、は言葉を発する。


「手を繋ごう。危ないから」
「……危ない、って」


 レンの視線が泳ぎ、空中を彷徨う。その後、彼は視線を落とした。目蓋を伏せ、小さな溜息を吐く。頬に斜線上に影が落ちた。


「──大丈夫だよ、早く行こう」
「大丈夫じゃないって。最近、ボーカロイドが盗まれる事件とか多発しているし。ほら」


 彼の瞳がを見つめる。少しだけ、ほんの少しだけ、物悲しそうな色がにじんでいたのは何故なのだろう。ボーカロイドが盗まれる事件、という言葉に反応をしたのだろうか。……最近、本当にそういったことが多いらしい。特に、最新型──つまりはレンやリン、ミクたちが狙われて盗まれるらしい。高価な彼らは、盗まれた後、色々と……、まあ人で考えれば精神に病を患うほどになぶられ、そのまま捨てられるらしい。痣や傷、皮膚が捲れていたり中身の回路が飛び出していたり、がんかに埋め込まれた瞳の役割を果たすガラス球のようなものが粉々に砕かれていたり、そんなことをされたボーカロイドが最近多く発見される。
 彼らには人権というものがないから、何をしても犯罪にはならないのだ。壊されたりすれば、ボーカロイドはマスターの持ち物なので、何かしら訴えることは出来るものの、犯人は捕まっていない。多数居ると考えられてはいるものの。

 まあ、そんなことが多くあるので、としてはしっかりと手を結び、レンと離れるようなことはしたくない。
 瞳に強い意志を乗せてレンと見詰め合う。彼は苦いものが混じったもので表情を染めた後、の上着の裾をついと掴んだ。軽く握り締めて、彼はをすがるように見つめる。これで良いだろ、唇がその言葉を模って動いた。

 まあ別に良いけれど。手を下ろす。レンの指先に触れそうになると、彼は自然に場所を変えて、と触れることを避けた。
 それに若干ながらも寂しさを感じつつ、歩き出す。後ろから、規則正しい足音が響いてきた。

 ──レンは、最近、に触れてくれない。
 布団の上からは触れてくる。けれど、自身に触れようとしない。極端に避けてくる。それはまあ別に良いものの、嫌われているのかなあ、なんて思うと多少ながらも悲しくなってくる。
 別に触れられたいとは思わないものの、彼は最近、と一定の距離をおいて話し掛けてくる。それはなんというか、少しだけ寂しい、気がする。

 町を歩き、食料品店へと向かう。道々には同様、ボーカロイドを連れた人がちらほらと居た。深く息を吐く音が後方から聞こえてきて、同時に服を掴む力が強くなるのを感じる。何でだろう、なんてことを考えつつは足早に歩を進めた。

 食料品店についたのはそれから暫くしてからだ。直ぐに食料を買い込み、袋へと詰め込む。大きなビニール袋二つ分にちょうど収まった食料をレンは軽々と両手で持ち、と肩を並べる。さあ帰ろう、向けられた瞳がそう物語っているようで、なんとなく苦笑を零してしまった。
 食料品店から外に出る。歩き出そうとして、ふいに思い出しレンへと手を伸ばした。彼は一瞬だけ焦った様子を見せ、けれどすぐにそれを打ち消すと自然に手から逃れるように身体を動かし、小首を傾げた。


「何かあった、マスター」
「や、帰りも危ないからね。手を繋ごうと……」
「……大丈夫だよ」


 返事をする声が、微かに上擦っていた。大丈夫、なわけがない。近寄って手を取ろうとする。避けられた。


「危ないから、ほら、手!」
「……おれ、両手塞がっているし。大丈夫だって、マスター。ちゃんとマスターの後ろをついていくから」
も一つ持つから」


 彼の手へと自身のそれを伸ばし、袋を掴もうとして、空を裂いた。レンが困ったように肩をすくめて見せる。それから、彼はそっと吐息に乗せるように言葉を漏らす。


「それじゃあ荷物もちの意味が無いだろ」
「……」


 笑って返される言葉に、多少ながらも苛つきを覚えてしまうは駄目なのかもしれない。睨むように見つめると、レンが困惑を表情に浮かべ、と視線を合わせてきた。
 手を伸ばす。交わされる。伸ばす。交わされる。
 ……堂々巡りだ。はそっと吐息を零すと、レンの瞳をしっかりと見つめ、言葉を発した。


「マスター命令です。一つ貸しなさい」
「……命令、……」


 マスター命令にはボーカロイドは逆らうことが出来ない。レンは右手をに伸ばすと、そのまま静止した。右手に掲げられた袋は左手のものよりも、軽いもので詰まっている。きっとのことを考慮した上でそれを渡してきてくれたのだろう。受け取ると、ゆるゆると手を下ろされた。レンが悲しみを瞳に揺らし、桜色の唇を開いて言葉を紡ぐ。


「マスター、本当におれ、持てるよ。それにマスターのことはどれだけ遠くに居たって、見つけ出すことも──」
「だから、危ないんだってば。ボーカロイド、盗まれてること、多いんだって。本当に」
「──」


 レンの言葉が止まる。彼は逡巡するような様子を見せた後、小さな声音で言葉を紡いだ。


「マスターは、おれのことが心配、なの」
「そりゃあ」


 心配だ。素直に頷くと、彼の表情が歪んだ。悲しみで染まった瞳に、ほんの少しの笑みを乗せた口唇。
 なんとなく不安定に感じる。どうかしたの、と声を発する。レンはゆるゆると首を振り、次の瞬間には笑みを浮かべて見せた。


「……じゃあ、早く帰ろうか。おれのことを調律してよ、マスター。マスターのためだけに、唄うからさ」


 彼はそこまで弾んだような調子で続けると、次の瞬間には妖しげな笑みを浮かべ、続ける。


「マスターが望むなら、朝言っていた、イイコト、しても良いと思うよ」


 囁くように紡がれた言葉に、なんとなく頬に熱が集まる。レンは公衆の面前で何を言うのだろうか。幸い、聞きとめた人は居なかったものの。火照りを収めるように小さく息を吐き、手を差し出す。レンの表情が一瞬にして凍りつく。彼は錆びの入ったような、ぎこちない動きでと視線を合わせ、首を傾げる。どういう意味、きっとわかっているはずなのに瞳がそう問い掛けてきた。
 そっと肩へ息を落とし、手をぶらぶらと上下に振る。


「手。繋いで帰ろう。やっぱり、服の裾引っ張られているだけじゃ、恐いし」
「……おれ……、その、服の裾、きちんと持っているし、大丈夫だよ。はぐれたりは、しない」
「でも万が一っていうこともあるでしょ」


 彼の瞳がすがるようにを見つめる。そこまで嫌なのか、なんて思う。なんとなく悲しくなって、それがそのまま言葉になって口から出てしまった。


「そこまで、嫌かな」
「──」


 レンは顔を振り、否定を示すものの手を握ってこない時点でそれは全く説得力が無い。重い息を吐き、は手を下げた。レンと視線を合わせる。それから笑みを浮かべ、言葉を発した。


「じゃあ、服の裾、しっかり掴んでいてね。絶対だよ」


 何かを言いたそうにレンは口を開いたけれど、何も言葉にならなかったのだろう。少しして、彼の口が真一文字に閉じられた。こっくりと頷き、彼はの上着の裾をしっかりと握る。それを見てから、は歩を進めだした。家へついたのは、それから少ししてからだった。


 家へ着くと直ぐに、レンはの服の裾から手を離し、台所へと駆けていった。それを追うように歩いていく。台所に着いて、すぐに生ものなどを冷蔵庫へと入れ込んでから、は一人で小さく息を吐いた。詰め込みを終え、リビングへと向かう。ソファーがあるのでそこに身を沈めると、レンが同様にの横へと腰を下ろした。
 何かを言いたそうに唇を動かす。少しして、大きく息を吐き、彼は歯切れの悪い言葉を続けた。


「マスターのこと、嫌ではないよ」


 何を話すのかと思ったら、そんなこと、なのだろうか。小さく苦笑を零し、彼から顔を背ける。知ってるよ、と吐息を漏らすように続けると、小さく息を呑み込む音が聞こえた。


「──嘘だろ。ふてくされてるじゃん。どうしたら信じてくれる?」
「信じてるよー」


 ひらひらと手を振って返す。レンの声に、ほんの少しだけ不機嫌があらわに浮かんできた。


「信じてないって。どうしたら、信じて、くれる? ──好きって、そういったら信じる?」


 彼の言葉が止まる。言葉を返せずに居ると、それを肯定と感じ取ったのか、レンが震えた声音で言葉を続けた。


「好き。好きだよ、マスターのこと。すごく、好き」
「……好きなんて、軽軽しく言っちゃ駄目だよ」
「そこらへんの人より、ずっと好きだ。──愛して、るよ」


 ほんの少し、甘さが混じった声音で紡がれた言葉に、無意識のうちに苦笑を零してしまう。それを感じ取ったのだろう、レンが愕然とした色を滲ませ、言葉を続ける。


「どうして? 信じてくれないの? こんなに好きなのに」
「信じてるって」
「信じてるなら、おれの瞳を見て言ってよ」
「……眠いです、残念」


 眠くは無い。やはりボーカロイドだからか、声に秘められた感情に気付いたのだろう。レンは軽く震えた吐息を零すと、押し黙った。
 なんというか、あんなにも避けられて信じろ、なんて言われても、としか思えない。確かボーカロイドには最初からマスターを好きになるというプログラムはされていないそうだ。大体はマスターのことを好きになるらしいけれど、ごくまれにマスターのことを本気で嫌悪するボーカロイドも居るらしい。まあ、例えマスターを嫌いだとしてもそんなことをおくびにも出さないだろうけれど。
 小さく息を吐く。レンがどうして、と小さな声で呟くのが聞こえた。逸らした顔を戻し、彼と視線を絡める。
 手を差し出した。レンが身体を大きく震わせる。


「繋いでくれたら、信じるよ」
「……」


 笑ってそう言う。きっと無理だとは分かっている。レンはと手を繋いだりすることも嫌だということが、今日の行動でよく分かったし。
 やはりというかなんというか、彼はの手のひらを唖然と見つめるだけで、何の行動を起こそうともしなかった。小さく笑みを零す。ほんの少し、寂しさが混じっていたのかもしれない。良くは分からないけれど。
 冗談、そう言って手を下ろす。レンがほっと安堵の溜息を零すのが耳朶を打った。胸の奥が痛くなる。なんというか、悲しい。彼から身体ごと視線を逸らし、はもそもそと丸くなった。膝を抱え、胸と足の隙間に顔を埋める。


「……冗談」


 もう一度呟いて瞳を閉じる。
 嫌われるのがこんなにも辛いとは。しかもを嫌う相手──つまりはレンのことを嫌悪できればいいのに、それはどうしても出来なかった。多分、レンのことを大切に思っているからだろう。
 そっと溜息を零す。少しして、ためらいがちに首にすべやかなものが回された。ぎゅっと力を込められる。抱きしめられている、そうわかったのは何分か経ってからだった。


「──冗談じゃ、無い、よな」


 耳元で幾らか高い声が鳴る。熱い吐息が耳朶を掠めた。


「ごめん。マスターのこと、嫌じゃないよ。好き、本当に好きだって。──何て言ったら、わかってくれる?」


 好き、だけじゃ、駄目? そう呟くのが聞こえて、次の瞬間にははっきりとした声音が響いた。


「愛してる。誰より」


 耳たぶが甘噛みされる。一瞬驚いて、次の瞬間には彼の腕の中から抜け出そうと必死に動いた。耳元で笑い声が響く。ちょ、な、なんで急にこんな。焦る。


「な、なにして……、レン、止めてよ」
「なんで。マスターが望んだことだろ?」


 背中に体重が乗せられる。ちょっと待て。望んではいない。はただ、レンがのことを嫌っているのか確認したかっただけだというのに。言葉を発せずに居ると、耳朶を甘い声音が掠めた。


「──嫌いなんかじゃない。だから、」


 触れられなかった。震えた──掠れた声音で続け、彼は笑う。吐息が耳を濡らし、なんとなく気恥ずかしい。止めて欲しい。触れて欲しいとは言ったものの、此処まで……抱きしめて欲しい、なんて言ってはいないのに。
 第一、今さっきまで触れることさえためらっていた癖して、急に抱きしめて耳たぶ噛むとかどれだけマセてるんですか。

 レンの腕に力が込められる。彼との密着の度合いが増した。


「壊しそうだと思った。月並みな言葉だけれど、本当、本当に壊しそうだと思った。最初は違ったよ。マスターなんておれの手篭めにしてやる、なんて思ってたんだ。けれど、駄目だった」
「マスターに触れるの、恐かった。おれ、一体どうしたのかと思った。触れたらきっと止まらなくなるなんて思ってさ。まあ」


 その通りだったんだけれど。レンの腕から力が抜けて、身体ごと反転させられる。彼はの手首を掴むと頭の上で重ね、身動きが取れないようにする。片方の手が伸び、折りたたまれていた膝を優しく伸ばされる。
 ちょ、え、な、何。かなり危ない気がする。危ない。本気で危ない気がする。何度だって言う。危ない。
 冷や汗が背筋を伝うのを感じた。彼はの上で四つんばいになると、嬉しそうに、淫猥に笑う。


「止まらないや。マスター、おれと、イイコトしよう。気持ちよくさせてあげるよ」
「な、なに、言って……、その前に調律とか、その、ねえ?」


 ドモるし、焦ってしまう。イイコトって。イイコトってなんだ。なんとなく考えそうになって、すぐにその思考を頭から追い払う。
 話題を逸らすのに必死になる。レンはくすりと含みを込めた笑みを浮かべると、顔を下ろし、の耳元に埋める。なんとかしてそれを止めさせたいものの、手を捕まれているせいで何をすることも出来ない。


「ちょ、ほん、本気で止め、止め!」
「……どうして?」


 耳元で甘い声が鳴る。


「ど、どうしてって、分かってるでしょ? ほ、本気で、その、止め……、あー、その、調律をしたいなあー!」


 自分でもおかしいほどに声がうわずった。その途端、微かに笑う声が聞こえ、何か柔らかいものが耳に触れた。え、ちょ、やわらかい物って、もしかしなくても、く、くち、唇……!
 焦る。焦りの余り涙目だ。耳元で笑い声が響く。レンの発したであろう熱い吐息が耳を濡らす。


「マスターから誘ってきたんだから。良いだろ?」
「さ、誘ってなんか無いんですけれどおっ!」
「触れて」


 レンの片方の手の指先がの頬を這う。それは顎、首筋、鎖骨へと落ちていき、心臓のある位置で停止した。軽く叩かれる。彼は顔を上げると、と視線を合わせ嬉しそうに微笑んだ。


「── そう言ったのは、マスターだろ」


 そこで言葉を切り、彼は続ける。


「触れたいと思っていたんだ。壊すと思って出来なかったけれど。止まらないとも思ったし。でも、もう触れちゃった。壊すことも無いってわかって安心した。だから、」


 吐息を吐くように言葉を続け、彼はにだけ聞こえるような声量で続ける。


「──止まらない。マスター、おれだけの愛情、あなたに全部注いであげる」


 そう言って彼は顔を下ろし、の唇へと自身のそれを重ね合わせ、嬉しそうに微笑んだ。


(終わり)

起承転結が……すみません。

2008/06/14



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