01


「わかってると思うけれど──」


 アルトの、耳に心地のいい声が静寂を切り裂いて響く。彼女の眼前にはこうこうと明かりのともった建物がある。そっと風が吹き、彼女の茶色の髪を揺らす。羽織ったコートに、大人の色気がにじみ出る、端整な顔をうずめ、彼女は振り向いて言った。


「マスターから借りてきたお金を全部使っていいというわけではないのよ」


 わかってるよ、とでも言う風に男の嘆息が響く。彼女──メイコはため息を発した相手に視線を向け、きっと睨みつけた。


「わかってるの? カイト、あんたが一番、我慢するべき存在なんだから!」
「ええー。別に、マスターは俺の趣向に口を出すつもりはない、って言ってたし……めーちゃんだって、お酒、我慢するべきじゃないかな」


 これまた丹精な顔をゆがめ、彼……カイトは情けなく呟く。メイコへと視線を向けると、肩をすくめた。──彼女が、誰よりもマスターに忠実なのを、彼は知っている。マスターの決めたことは彼女にとって絶対だ。だから、マスターは彼女のことを一番信用している。
 メイコは鼻を鳴らし、怒ったような表情を浮かべると、次に少女を指さした。指さされた少女は、長いツインテールの髪を揺らし、「な、なにかな、メイコお姉ちゃん……」と若干、どもり気味に視線をそらす。


「ネギはいらないでしょ」
「ひ、必要だよ! さんに頼んだもん! 行く前に、ネギ買ってもいいですかー、って。そしたら良いって言ってくれたんだから!」
「あんた……、マスターが優しいからって調子のっちゃダメなんだからね!」
「うう、で、でも、ネギ……。今、使ってるの、一週間前のなんだよ? 黒ずんできたもん! さんも許してくれたもん」


 少しずつ俯いていく顔。彼女──ミクは、眉をしかめ、鼻をすするようなしぐさを見せた。
 後ろから幼い少女と少年がはやしたてるようにメイコを責める。


「わー、メイコ姉、いっけないんだー! ミク姉泣かしたー! ねえ、レン!」
「ホントだよ。別にネギくらいなら、マスターだし、許してくれるんじゃねえの?」


 一人は、楽しそうに。もう一人は、冷静に。二人はあどけなさの残る表情を笑みに彩り、声を弾ませる。心底楽しそうだ。メイコは二人へとつかつかと歩み寄ると、おでこを叩いた。二人は大袈裟な声を出し、おでこを抑える。少女と少年、──リンとレンは涙目になりながら、抗議の声を出す。


「なんだよ、何するんだよっ、別にオレ、何もしてないじゃん!」
「そうだよ! メイコ姉の馬鹿!」
「……もう一回、殴られたいの?」


 メイコがぐっと拳を固めるのを見て、二人は悲鳴を上げてカイトの後ろに隠れる。ミクがそんな二人を見て、嬉しそうに笑った。
 カイトは突然、二人が自分の後ろに隠れたことがよくわからず、首をかしげて小さく「え? え? え?」と何度も呟く。


「カイト兄ー! 助けてー!」
「兄貴ー、メイコ姉に殺されるっ」
「へ? め、めーちゃん、二人は殺しちゃだめだよ!」


 何を勘違いしたのか、カイトは二人をかばうように胸を張った。リンとレンがカイトの後ろからメイコに対して、舌を出して見せた。

 
「あ、ん、た、た、ち、は……ッ」


 怒りが頂点に達しているのを感じ取ったのか、ミクが慌ててメイコをなだめにかかる。ツインテールの髪が風にのって揺れ、柔らかな曲線を描きだした。


「だ、だめだよ、メイコお姉ちゃん……、こんなことしてるよりも、早く家に帰るほうが、さん、喜ぶと思うよっ」
「マスターが?」
「そうだよ! さん、待ちくたびれてネギ生えちゃうかもよっ?」


 そこまで言って、ミクは場を和ますために笑みを浮かべた。柔らかな色がにじむ顔、それに声──メイコの怒りはゆるゆると静まり、彼女は固めた拳を解いた。頭を掻き、小さく息を零す。


「そうね、そうよね。……じゃあ、はやくちゃっちゃと買い物をすませちゃいましょ。マスターも待ってる、だろうし……」
「めーちゃんはマスターのこと、大好きだねえ」
「……当然でしょっ」


 カイトの穏やかな声に、メイコは頬を染めてそっぽを向いた。そのまま、ミクの手を掴み取り、引張る様に建物──スーパーへと歩を進めた。


*

 ボーカル・アンドロイド、ひいてはボーカル・バイオロイドが発売されたのは記憶に新しい。研究者たちが手塩を尽くして作り上げた歌姫達は、今や本物の歌手に負けず劣らずの美声を発している。
 ボーカロイドが発売された当初、ここまで人気になるとは思われなかった。火つけ役となったのは、初音ミクだ。彼女の天使のような歌声は人々を魅了し、美しい姿は人々の目を惹きつける。彼女はボーカル・アンドロイド。次に発売された鏡音リン、レンはボーカル・バイオロイド。これと言った違いはないものの、ボーカル・バイオロイドは人間のように疑似骨格、疑似筋肉、それよりもなによりも──人間同様の肉体を保持しているため、扱いが難しい。人間のように怪我をつくり、骨折もする。アンドロイドにはそれが無いため、初心者はボーカル・アンドロイドを買う方が多かった。
 ボーカル・アンドロイドには二種類。カイトと初音ミクが居る。ボーカル・バイオロイドも二種類。メイコと鏡音リン、レンが居る。彼らは、人と同様の姿で、自分を買ってくれた──いわゆる、マスターと暮らしている者が多い。マスターのためだけに歌う彼らは、愛おしく、可愛らしい。ただ、彼らは非人間なため、人権を持たない。──暴力や、性行為を強要するためだけに、買うマスターも居る。

*


「マスターのお買い物メモ、っと」


 メイコはぺらっと紙をコートのポケットから取り出し、文字に目を走らせる。そうして、先ほど買ったばかりの商品にも目を通し、柔らかに頬を緩ませる。


「全部、あるわね。これで、よし!」
「袋、詰めるんでしょ? 手伝うね、メイコお姉ちゃん」
「わたしも手伝うっ」
「オレも手伝うよ」
「俺もー」
「……そんなに、手伝わなくてもいいのよ……」


 袋に詰めた商品を持つのは、もっぱらカイトの役目だ。彼はよいしょ、という掛け声とともに両手に買い物袋を持ち、歩を進め始めた。彼の隣をレンが歩いている。しきりに「オレももつ!」と言う声が聞こえてきた。それに、微笑んで返すカイトの声も。

 メイコはマスターから貸してもらったコートに顔を口まで埋めながら、微かに息を吐いた。──レンへと視線を向け、微かに苦笑を浮かべる。
 ──口論に、なりかけてるじゃない。
 カイトは何でも持てる力、そして身体を持っている。それに対して、レンは年相応のひよわな所がある。カイトがレンに重いものを持たせようとしないのも、頷けるだろう。
 リンがそっとメイコに体を寄せてきた。セーラー服からのぞく肩が、赤い。彼女は洟をすすると、メイコ姉、と小さく呟く。


「なに」
「……さっきのはジョーダン、だからね」


 先ほどのこと、とメイコは思案して見せ、軽く笑みを零した。別に、そんなに気にしてはいないというのに。メイコはコートの前を開くと、リンの後ろに回り、抱きすくめた。リンが驚いたような声を出す。


「な、め、メイコ姉?」
「寒いんでしょ。あんたはあたしと同じ、バイオロイドなんだから、風邪引いちゃうじゃない。風邪をひいたら、マスターが心配するわよ」


 マスターが心配する、という言葉にリンは過敏に反応を示すと、メイコへと体を自身からくっつけてきた。若干の冷たさを、メイコの肌が感じ取る。そっと包むようにコートで彼女の体を包む。ミクが近寄ってきて、歓声を上げた。


「良いなー、ワタシも入りたいなあ」
「あんたはダーメ」
「えええ! メイコお姉ちゃん酷いっ」
「……っていうかもう、入れるスペースが無いのよ、スペースが。あんたは我慢出来るでしょ?」


 メイコが肩をすくめて見せると、ミクはあからさまに肩を落とし、ふらふらとおぼつかない足取りでカイトへと歩み寄る。カイトはレンとの喧嘩一歩手前の言葉の押収に、ミクの存在に気付かない。ミクは好機とばかりにカイトからマフラーを取り上げた。カイトが小さく驚いたような声を上げ、ミクへと振り向く。彼女は自分の首にマフラーを巻くと、笑い声を零した。柔らかな、聞こえのいい声が、暗い住宅街に響く。彼女たち以外に人気は無い。
カイトは声を荒げて「俺のマフラー!」とミクからマフラーを取り返そうとする、が、自身の腕が塞がっていることに気づき、悲しげな表情を浮かべる。


「えへ。あったかーい!」
「ミク! そ、それ、マスターの手作りだから! 大事に扱ってくれなきゃ困るから!」


 泣きそうな声で紡ぐカイトの言葉に、レンの肩が揺れる。ゆらゆらと闘志を宿した瞳をあげ、「マスターの?」と呟いた。


「ミク姉!」
「なーに、レン」
「オレ、寒いんだ。いれてよ。そのマフラーに。長いから、良いだろ」
「だーめ! さんが作ったマフラーなんて聞いたら、返したくなくなっちゃった。良いなあ、カイトお兄ちゃんは。ワタシにもさん、何か作ってくれないかなー」
「入れろよっ」


 ミクの弾むような声を遮るように、レンの声が響く。ミクはそんなことを気にも留めない様子でその場でステップを踏み、嬉しそうにくるくると回る。長い、翡翠のような髪の毛が彼女が回るにつれ、円を描くように踊る。
 リンはその様子を見つめ、ほうと息を漏らすと「良いなあ、髪の毛長くて……伸ばしたらマスター、わたしのこと、もっともっと好きになってくれるかな」と呟いた。それを聞いたメイコはふっと笑みを浮かべる。──心底、悔しそうで、それでいて羨望の混じった声音だった。メイコは苦笑を洩らすと、リンの頭を軽くたたいた。リンがいぶかしげな視線をメイコへと送る。


「マスターは、きっと、今のリンでもずっとずっと、好きよ」
「そうかなあ。だったら良いなあ……」


 そっと笑みを零すリンに、つられてメイコは笑みを零した。ふふ、と二人で笑い合っていると、耳朶を打つレンの声。彼はかなりイライラしているようで、マフラーを首に巻いて嬉しそうにしているミクとは対照的に、怒り肩になりながら、言葉を発していた。怒りのせいか、声がだんだんと大きくなっている。


「ミク姉! いいだろ、別に! オレ、オレだって、マスターの作ったマフラー、巻きたい!」
「だーめ。さんの作ったマフラーは、ワタシのものだもん」
「いや、俺のなんだけど、ミク……」


 言葉の押収が激しくなってきた。メイコは小さく嘆息を漏らす。もうすぐマスターの家だというのに、この二人──特にレン──が騒いでいたら、ご近所迷惑、ひいてはマスターに迷惑をかけてしまう。
 どうやって止めてやろうかと、メイコが考えているうちに彼女たちはマスターの家の前についた。レンは最後までミクにマフラーを貸してもらえなかったようだ。俯いた頬が膨らんでいるのが見える。メイコはその様子に苦笑を零すと、マスターの家の扉を開けた。


「マスター、ただいま」
「ただいまっ」
「ただいまー」
「……」
「れ、レン、ほら、マスターに頼めばいいじゃないか、作ってくれるよ、マスターは優しいから」


 マスターがひょこっと姿を現す。そうして、五人の姿を目に留め、柔らかく笑った。


「おかえり、みんな」


(終わり)


2008/04/28
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