02


「……こう、なのかな……」


 廊下を歩きながら、少年は小さくハミングを口から零す。柔らかな色の髪の毛が、彼が歩を進めるごとに揺れた。真っすぐに向いた視線は、彼の手にある紙へと吸い寄せられている。あどけなさの残る表情をゆがめ、彼、レンは呟いた。


「……違うよなあ……」


 そっと呟かれた言葉とともに吐き出された溜息。彼は紙の上に躍る文字を目で辿り、かすかに肩を落とした。彼の持っている紙には、マスターが作ってくれた新曲の歌詞が書いてある。
 歩を止めて、レンは眉をひそめた。


「……歌えるわけないだろ、こんなの──」
「何が、歌えないんだい、レン」


 頬をふくらませ、拗ねたような表情を見せるレンの肩に、ごつごつと筋張った手が乗る。レンは体を大袈裟に震わせると、勢いよく振りむいた。肩に手を置いた人物はその行動に驚いたような表情を見せ、次いで笑いを零した。


「マスターの、新曲?」
「か、カイト……、兄貴には関係ないだろっ」
「そうかな。レンが上手く歌えないって悩むようだったら、俺に回ってくる可能性だってあるかもしれないじゃないか」


 にっこりと微笑み、男、カイトはレンに歩み寄った。レンはカイトの言葉が癇に障ったのか、怒りをむき出して叫ぶように言葉を発する。


「そんなわけないだろ! これはマスターがオレの為に作った曲なんだから、兄貴が歌うなんて、そんなこと、絶対に、ない!」
「……怒ることはないと思うんだけどなあ」


 かみつくような勢いで告げられた言葉に、カイトは微かに苦笑を浮かべた。レンの持っている紙へと視線を向け、「……歌詞を読みたいなあ、俺」と呟くように言う。そのあと、レンへと視線を戻し、首をかしげた。
 断る理由もない。レンは恐る恐る紙をカイトに手渡した。


「ありがとう」
「……汚すなよな」
「汚すって、どうやって」


 肩をすくめて見せ、カイトは文字に目を通す。次いで、笑い声を零した。それに過敏にレンが反応し、カイトから紙を奪い取る。肩を怒らせ、「なんで笑うんだよっ」と睨みつけた。彼は、猫のような目でカイトをねめつけ、自身の視線を紙へと戻す。
 ──そこまで怒ることはないんじゃ、と思いながら、カイトはわずかに笑みを浮かべる。彼の行動は、カイト、それにメイコやリン、ミクの前では本当に子供っぽくて、直情的だ。ただ、マスターの前ではいきがってクールに見せようとしている。好きな人の前ではかっこつけたい、と思っているのかもしれない。そう思うと、なんだか、微笑ましい。


「……いや、ちょっとね。それにしても、恋の歌、かあ。良いんじゃないかな、レン、今までこういうの、あんまり歌ったことないだろう?」
「……うん」


 彼の声はリンの声と同様、弾むような温かさと子供らしさを備えている。だからか、マスターは元気な曲、つまりは今回のような──恋の曲を歌わせようとは、あまりしていなかった。どちらかといえば、しっとりとした声質のミク、メイコ、それに俺に歌わせることが多いのに、今回はどうして。カイトの心の内に疑問が過るが、それを口には出さなかった。
 レンがうなだれるような様子を見せて、「恋……恋だよ……オレ、無理だってば……」と呟く。それにふっと笑みを浮かべ、カイトはレンの頭を乱暴に撫でた。
 レンが慌ててカイトの手を振り払う。カイトを見つめる瞳には、怒りの色が宿っていた。


「なに、なんだよ、兄貴っ。オレがすごく、すごく悩んでるっていうのに!」
「ううん、ただ、そうだなあ。マスターはレンに悩んでもらおうと、その曲を作ったわけじゃないと思うよ。いつもみたいに、レンの声を響かせて歌えば良いじゃないか」
「それは、そうだけどさ……」


 レンは小さくため息を零した。彼なりに、何か譲れないことがあるのだろうか、とカイトは首を傾げる。そのあと、良いことを思いついたかのようにレンの手を取り、ある場所へと向かった。
 カイトの背中に、レンの焦ったような声が響いてくる。


「ちょ、な、なんだよ、兄貴」
「恋なら、めーちゃんとか、リンとか、ミクにお任せ、だよ。さあ、訊きに行こう!」
「……なっ」


 レンの顔がかすかに赤くなる。カイトはそんなレンを尻目に、三人の元へと急いだ。

 三人は、マスターに与えられたミクの部屋に集まっていた。カイトが扉を開けると、ベッドに腰を下ろしていたリンが、二人の姿を見止め、驚いたような表情を浮かべる。メイコとともに歌の練習をしていたミクも、突然の来訪者に思わず声を上げた。
 カイトは人好きのする笑みを浮かべ「ちょっとお邪魔するね」と言って、部屋の中へと歩を進める。レンは気が進まない様子で、始終俯いていた。姉とはいえ、年ごろの異性の部屋に入るのが、恥ずかしいのだろう。
 メイコがミクの傍から離れ、二人に近寄る。肩をすくめて見せた。


「なによ、どうしたの、急に」
「ちょっとね、レンの次の歌が恋の歌なんだけれど、レン、どうやって歌えばいいか、よくわからないらしくて。教えてもらえないかなー、って来たんだ」
「……誰かが着替えしてたら、とか思わなかったわけ?」


 メイコの眉が怒りにぴくりと震える。カイトはそっと苦笑を零すと、三人の前にレンを出した。レンが俯いていた顔を上げ、歌詞が書いてある紙を抱きすくめるように持つ。ミクが笑みを零し、「どういうの? どういう曲をもらったの?」と言葉を弾ませ、レンへと近づく。ベッドに座っていたリンも、片手を空高く上げ、「わたしも見たい!」と主張した。
 レンはそっと溜息を零すと、ミクに紙を押しつけるように渡し、カイトの横に並んだ。かすかに伏せられた瞳。それとわずかに赤みを増した頬。カイトは気づかれぬように笑みをこぼすと、彼の背中を軽くたたいた。

 歌詞を読み終わったのか、ミクが歓声をあげて「すごい良い歌詞だねーっ」と笑う。リンも同様に、「うんうん、良い感じ!」と続ける。メイコはそんな二人に視線を向けてから、カイト達へと瞳を巡らせる。僅かに赤みがかった、茶色の瞳が、カイトとレンを射るように見つめた。


「で、どうしてほしいの」
「だから、教えてあげてほしいんだって。恋のコト。レンに」
「えっ、な、なに、言って、兄貴っ」


 レンがにわかにあわてた様子を見せる。メイコはそんなカイトとレンを順々に見てから、小さく息を吐いた。ミクがレンに歌詞を返して、「あのねっ」と、透明な声を響かせた。


「恋っていうのは、すっごく良いんだよ! その人を見てるだけで幸せで、どうしようもなくて、もっと見ていたいなーって思うんだよー!」
「あ、それはわたしもわかるっ。マスター見てると、幸せになるの! えへ、マスターがわたしのマスターで良かったなーって」
「いつ、マスターの話になったんだよ!」


 レンの、怒りを含めた声が響く。リンとミクは頬をふくらませ、「なによー」、「マスターのこと好きじゃいけないのー?」という言葉を口々にレンに浴びせた。彼は唇を尖らせると、「そんなこと、知ってるから……」と頬をかすかに染めた。
 カイトがそれを見止め、にんまりと笑みを彩った。


「ああ、レンもマスターのこと、好きだもんね」
「なっ、ば、バババカじゃねーの! お、オレ、マスターのことなんてっ、……マスターのことなんて、き、きら……」
「うん? 声が小さくなってるけれど。というか、レンは俺たちの前と、マスターの前じゃ、全然態度が違うじゃないか。アレでわからなかったら、鈍感──」
「……カイト……」


 メイコの呆れたような声がカイトの耳朶をつく。カイトは言葉を止め、レンを見た。彼はレンより背が高いため、自然と見下ろす形になる。
 レンは、頬を真っ赤に染めて、瞳を濡らし、カイトを睨みつけていた。
 ──あ、やばかったかな。心の中でカイトがそう思うと同時に、レンの拳がカイトの胸を叩く。


「ば、ばかっ、兄貴のバカ! 嫌いだ、兄貴──カイトなんて、嫌い、だっ。マスター、マスターだって、マスターなんかっ」


 レンの拳は絶え間なくカイトの胸を殴りつづける。カイト、ボーカル・アンドロイドは皮膚の下は金属で覆われている。殴っても俺は痛くない、むしろレンの方が痛いのに、ということをカイトは呆然と考えながら、レンの手を掴む。レンはカイトの手を振り払おうと体を動かした。
 こういうとき、どうすればいいのかがカイトにはわからない。というより、何故レンが怒ったのかも、彼には良くわからないのだ。助けを求める視線をメイコへと向け、カイトは焦ったような声を出した。


「あ、え、ええっと、どうしよ……め、めーちゃん、た、助けて……」


 メイコは嘆息を肩に落とし、自分たち──メイコ、リン、ミクの存在も無視して、カイトから抜け出そうと四苦八苦しているレンに近付く。彼の背中を優しく、きめのこまかい手の平で撫でると、レンの癇癪が微かに納まった。メイコは優しく、子供に言い聞かせるような口調で言葉を発する。


「レン。怪我をしちゃうでしょう。マスターが心配するわよ」


 レンの肩が一度大きく震えた。彼の頭の中を占めているのは、今、マスターのことなのだろうなあ、と思いながらもメイコはたたみかけるように言葉を続ける。


「大丈夫。レンなら歌えるわよ。レンにも──好きな人は居るんでしょう?」


 レンは頬を真っ赤にしたまま、こっくりと頷いた。その様子に、微笑ましさを感じながら、メイコはレンの背中を撫でていた手を離し、頭へと乗せた。なだめるように優しく叩き、口を開く。「なら」


「大丈夫よ。その気持ちを歌にのせたら良いの。そしたら、マスターはきっと、感じ取ってくれるわ」
「……うん」


 レンの手から力が抜ける。カイトがそっと手を離すと、彼の手は重力に従って下へ向く。微かに涙がにじんだ瞳をこすり、レンはメイコに視線を向けた。碧玉のような瞳が、メイコの瞳と交わる。


「ごめん。……メイコ姉、ありがとう」
「いーえ。カイトの言うことなんて、気にしない方がいいわよ」
「ええっ、酷いよ、めーちゃん!」
「あんた、デリカシーが無いのよ、デリカシーが!」
「メイコ姉は」


 口論になりかけていた会話を遮り、レンの怜とした声が響く。


「好きな人、居るの?」
「……」


 メイコは吐き出しかけていた息をのみ込んだ。眉をひそめ、悲しげな表情を浮かべてレンを見る。が、直ぐにその表情を柔らかなものに変えると、呟いた。


「あたし、は……そうね、居るわよ。皆と同じじゃないかしら。マスターが、好きよ」
「えへへー、ワタシとメイコお姉ちゃん、それにリンはみーんな、さんが大好きなんだよ」
「うんうん! マスターの傍にずーっと居たいの!」


 幸せそうな表情を浮かべ、二人は頷いた。それに小さくふうん、と声を漏らすとレンは部屋を出ていく。後を追うようにカイトも部屋を出ようとして、メイコに視線を投げかけた。


「めーちゃん、ありがと。そして、ごめんね」
「……いーえ、良いのよ、別に。……次に何かあるときは、ノックくらい、しなさいよ?」
「はは。善処するよ」


 善処じゃなくて、確実にするのよ! というメイコのどなり声を聞きながら、カイトは部屋から出た。そっと視線を這わせ、レンの後ろ姿へと向かわせる。彼は歌詞の書いてある紙に視線を落とし、ぶつぶつと呟いていた。

 ──きっと、マスターが驚くくらいに、上手に歌うんだろうなあ。
 恋をするということは、たぶん、つまりそういうことなのだろう。カイトはそっと笑みを零し、レンの背中を見送る様に視線を投げかける。レンの部屋、一歩手前まで来たところで、レンはカイトへと振り向いた。


「兄貴も、いちおー、ありがと」
「……レンの役に立てたなら、良かったんだけど」


 恥ずかしそうに紡がれた言葉。カイトが笑い声の混じった返事をすると、レンは鼻を鳴らし、自分の部屋へと戻ってしまった。ばたん、と扉の閉まる音が響く。
 彼はまだまだ発展途上で、きっと今まで伸びてきたように、これからもずっと伸びていく。自分の歌声を駆使して、マスターを喜ばせようとするのだろう。

 彼の歌声を聴いたら、マスターはビックリするかも。もしかしたら座っている椅子から転げ落ちちゃうかもしれない。
 想像し、くすくすと笑みをこぼしながら、カイトは自分の部屋へと戻った。


(終わり)


2008/04/29
inserted by FC2 system