03



 ふわりと、甘い匂いが漂ってきて、レンはモニタから視線を逸らした。どこから漂ってきているのか、においをたどるように視線を巡らせる。
 次の瞬間、彼の視線は台所に定まった。ミク、それにリンメイコが何かを作って、いる。レンは首をかしげ、三人に問いを投げかける。


「何やってんの」
「えへ、レンもやる? お菓子、作ってるんだよ!」


 気付かなかった、と小さく言葉を漏らしてレンは鼻を鳴らした。視線をパソコンに戻し、見つめる。モニタにはマスターが投稿した動画が流れている。むろん、レンの曲だ。彼は流れるコメントを眺めながら、リンに言葉を返した。


「いいや、オレ」
「えー。面白いよ、楽しいよ、レンもやろうよ」
「あー、俺はやりたいなー」


 レンの後方で、ソファーに腰掛け本を読んでいたカイトが顔を上げ、立ち上がる。適度なチラシを折りたたみ、本にしおりのように挟み込むと、台所へとゆるやかに歩を進めた。
 カイトは柔らかい笑みを浮かべて、優しい声を紡ぐ。


「良いかな」
「良いよー!」


 カイトの語尾を上げ調子の言葉に、リンが元気よく答えた。その様子を見て、カイトは笑みを深くしながら、「それにしても」と続ける。


「どうして、急にお菓子なんて……」
「あのねっ、それはねっ、マスターがねっ、この前っ」


 リンが異様に頬を赤くし、カイトの言葉に反応を示す。レンがマスターという言葉に反応したのか、耳につけていたイヤフォンを外し、リンたちへと視線を向けた。


「お菓子食べたいなって言ってたの! だから、わたし達でつくろっか、って話になったんだよ」
「そうなんだ。きっと喜ぶと思うよ、マスター。リンの頭を撫でてくれるかもね」
「えっ」


 リンの頬が紅葉を散らす。彼女は火照りを抑えるように頬を手で押さえ、恥ずかしそうに身をくねらせた。
 そんな様子を見て、ミクが「ねえねえ、ワタシも手伝うんだよ! さん、頭撫でてくれるかなっ」と手を伸ばし、カイトに問いかける。カイトはそっと微笑みをこぼすと、小さくうなずき、続ける。


「きっとね」
「やったー! リンちゃん、頑張ろうねっ」
「うん! ミクお姉ちゃん、一緒にガンバロー!」


 そんな二人の様子を見て、メイコが小さくため息を吐いた。いかにも何を言っているの、とでも言いたげな表情。カイトはメイコと視線を合わせ、にっこりと笑みを浮かべる。


「めーちゃんも、マスター、頭撫でてくれると思うよ」
「なっ、何言って、ちょっともう……馬鹿」


 メイコの頬が一瞬にして桃色に染まる。彼女は手で頬に風を送りながら、微かに口をすぼめた。そのあと、無言でエプロンを取り出したかと思うと、カイトへぶしつけに手渡す。
 ──わかりやすいなあ。
 カイトは気付かれぬように苦笑を零すと、マフラーを外してエプロンを着た。オーブンを見ると、中ではシフォンケーキが膨らんでいる。
 ケーキを作ったのに、まだお菓子を作るつもりなのか。そんなことを考えながら、彼はミクに視線を向ける。蒼と翠が交わった瞬間、彼女は明るく笑みを零した。


「ケーキは作ったから、次はクッキー作るんだよ」
「へえ。楽しそうだね」
「うん! あのね、カイトお兄ちゃん」


 ミクは笑いを零し、リンとメイコに視線を送る。リンはそれに強くうなずき返し、メイコは呆れたような表情を浮かべた。
 いったい、どうしたのだろう。カイトは首を捻り、問いかける。


「ミク、いったい、なんだい」
「あのね、日頃のお礼を兼ねてね、クッキーで文字を作るんだ!」
「……へえ、それは」


 すごいなあ、と小さく呟き、カイトは手を顎に当てた。何という文字を作るつもりなのだろう。何にしても、彼女たちの思いがこもったような文章を作るのだろう。
 カイトはメイコに視線を向ける。メイコは嘆息のようなものを漏らすと、苦笑を浮かべる。


「──マスターだいすき」
「……へ?」
「その文字列を作るのよ。クッキーで」


 難しいでしょ、と言うものの、彼女の頬はわずかに紅潮していて、楽しそうな様子が見てとれる。リンが手を上げ「だいはね、漢字の大なんだよ!」と言葉を弾ませて続けた。そっか、と言葉を漏らし、カイトはリンの頭をなでる。彼女は嬉しそうな声を漏らし、「マスター喜んでくれるよね! いっぱい、頭撫でてくれるかなっ」と瞳を輝かせた。
 ミクがリンの手を取り、「そりゃあ、さんだもん! いっぱい、いーっぱい撫でてくれるよ! きっと、ありがとう、なんてお礼も言ってくれるよ!」と微笑む。二人は同時に歓声を上げ、嬉しそうな色で表情を染めた。

 その様子を見ながら、カイトはレンへと視線を送る。レンはカイトと視線が交わった瞬間、驚いたように体を大げさに震わせ、パソコン画面へと視線を戻した。
 ──これはまた……わかりやすいなあ。
 カイトはちょっとした意地悪を思いつき、微かに笑ってそれを実行する。


「レンは、本当に手伝わなくて良いのかい」
「……べ、別に、オレ……、いろいろやることあるし」
「マスター、きっとレンのことも頭撫でてくれると思うよ」


 レンの頬が、ぽっと染まる。彼はそっと心を落ち着けるためにか息を吐くと、カイトを見つめた。瞳が“やりたい”という意思を告げている。


「もしかしたら、抱きしめてくれるかもね」
「な、何言って、マスターそんなヤツじゃねーし」
「レンありがとう、大好きだよ、なんて言っちゃったりして」


 彼の頬がリンゴのように赤く染まる。メイコがカイトの傍らでそっと溜息を落とした。意地悪しなければいいのに、そう彼女の表情が言葉を物語っている。
 カイトの服の裾を、リンとミクが引っ張る。カイトはレンから視線をそらし、二人へと交互に視線を配った。
 視線に問いかけの色をにじませる。二人は同時に頷くと、


「わたしもマスター、抱きしめてくれるかなっ」
「ワタシもさん、大好きだよ、って言ってくれるかな」


 凄い剣幕だったからか、カイトはかすかに身を引いてしまった。二人はカイトに顔を近づけ、「ねえ、どうなの!」「リンとワタシよりもさんと長く一緒に居るんだからわかるでしょー!」と続けた。二人してカイトの首根っこを持ち、がくがくと揺さぶる。


「だ、大丈夫だと思、マスターはきっと言ってくれるよ」


 舌を噛みながらカイトは必死に言葉を繰り出す。とたん、二人はカイトを揺さぶるのを止め、自身の頬に手を当てた。瞳がほのかに揺れ、口唇がほほ笑む。

 カイトは気付かれぬように肩を落とし、再度レンに視線を向けた。レンは彼と視線が交わると、真摯にそれを受け止め、緊張しているのか震えた声で、つぶやく。


「やっぱ、……オレも、やる」


 そう、とカイトは呟いて、次いで微笑みを浮かべた。


*


 クッキーの生地をつくるところまではうまく行った。あとは、これを文字にして、焼くだけだ。
 カイトは喜んでいるミクとリン、それにメイコを見てそっと息を零す。次いで、焼きたてのシフォンケーキに視線を向けた。

 クッキーを作っている最中、ミクはネギを入れようとするしメイコはお酒を入れようとする。リンはみかんを入れようとする。全部、カイトとレンが止めたから良いものの、彼女たちはカイト達が手伝う前、つまりはシフォンケーキにそれらをすべて入れてしまったのかもしれない。
 だとしたら、マスターのお腹が危ない。一か八かの時の為、俺はマスターに正露丸を渡す役目に回っておこう──。カイトはそんなことを心の中で決意しつつ、四人を見まわした。


「じゃあ、文字、どうしようか」
「はいはい! わたし、すがいい! す!」
「じゃあ、ワタシはきかな。き」
「じゃあオレは大がいい」


 カイトが疑問を口にすると同時に、三つの手が挙がった。彼は気付かれぬように苦笑を零し、メイコへと視線を送る。メイコはかすかに笑みを零し、頷いた。カイトも頷き返し、三人に「じゃあ、よろしくね」と言葉をかける。三人は同時に深く頷くと、各自、クッキーの生地──七等分されている──に手を伸ばし、形づくりを始めた。カイトはメイコに近づき、「じゃあ、めーちゃんは何が良い?」と首をかしげた。
 メイコは「あたしは……別になんでもいいけれど、そうね、じゃあマスで。カイトはターよ」とカイトの肩を叩き、自身も形を作るため、クッキーの生地を手に取る。最初はいやいやだったのに、今ではすっかりのりのりなメイコにカイトはそっと笑みを零しながら、彼も生地を手に取った。
 マスターが喜ぶよう、綺麗につくろう──。そんな決意を秘めながら。


 作業は何十分にも及んだ。おもに、メイコのせいだ。
 彼女は凝り性なのか、リンやレン、ミク、カイトが作った文字にダメ出しをして、何度も作りなおさせる。カイトは三回、リンレンは五回、ミクに至っては十回も文字を作り直している。
 音を上げることはない。

 カイトはちらりと作り直しを進める三人を見ながら、そっと息を零した。
 きっと、三人も自分と同じような感情を持って、やっているのだろう、なんて考えると俄然、彼にはやる気が湧いてくる。
 ──妥協はしない。マスターのためにつくるものなのだから、自分の全力を出し切る。

 それは、マスターにもらった曲を歌うときだって、そうだ。カイトはカイトの、メイコはメイコの──それぞれは、それぞれの本気を出しきって、マスターの曲を歌い上げる。
 それがマスターへの一番の恩返しだと、彼らは信じている。ミクにとっては、それが如実だ。リンもレンも。彼らは、マスターへとまっすぐに思いを向けていて、カイトにとっては見ていてまぶしい存在だった。

 ──俺も、マスターにまっすぐ思いを向けることができたらいいのに。
 カイトはそっと肩へ息を落とした。


 何度目かのやり直しを経て、四人の文字は完成した。個性があふれている文字で、マスターへの思いが綴られている。マスターは喜んでくれる──その思いが、五人の胸を満たしていた。
 さっそく余熱をしておいたオーブンへとクッキーを放り込む。あとは焼きあがるのと、マスターの帰りを待つだけだ。

 レンは早速蛇口で手を洗うと、エプロンを脱ぎ、パソコンの前へと急いだ。リンがレンの後ろを追うようについていく。
 ミクはオーブンの前で焼きあがるのを楽しそうに見ている。やわらかな声で鼻歌を歌いながら。
 メイコはミクの肩を軽く叩いて、その場を離れた。向かう先は、彼女の自室だ。それを追うように、ミクが台所から言葉を投げかける。


「お姉ちゃん! 早く焼きあがって、それで、さん、早く帰ってくると良いね!」
「……そうね。楽しみだわ。きっと、マスター、驚くわよ」


 メイコは振り返ると彼女の言葉に軽くウィンクを返し、そのまま自室へと歩を進めた。
 きっと、マスターにもらった新曲の歌詞の解釈を深めるために部屋へと戻ったのだろうなあ、なんて考えながらカイトはソファーへその身を沈めた。先ほどまで読んでいた本を取り、チラシをはさんだ場所を開く。

 ──マスター、驚くわよ。かあ。
 驚くといいなあ。それで、みんなの頭を撫でて回ると良い。──マスターのことだから、きっと俺のことも、撫でてくれるだろう。
 カイト、と、そのやわらかな声音で呼ばれるのだろうか。ありがとう、と感謝を述べて、マスターは俺に手を伸ばして──。
 そんな想像を頭の内で繰り返し、カイトは笑みをこぼした。

 時計が時を刻む音が、部屋に優しく響く。


(終わり)


2008/05/07

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