04


 すっかりと帳を落とし、黒が空を塗りたくる、夜。ソファーに体を沈めたリンは外を眺めて、そっと溜息をついた。彼女の表情は、空を覆う灰色の雲のように、重い。
 彼女の手の先が、口元へのびる。唇を撫でるように、指先を動かして、もう一度ため息をついた。横に座っているメイコが、リンへといぶかしげな視線を向ける。リンはその視線に気づき、メイコへと向き直ると、苦笑をもらした。ぽつり、零すように彼女は言葉を発する。


「……マスター、遅いね……」
「そうね」


 ほのかに震えた声に、メイコはかすかな笑みを浮かべると、リンの頭を撫でた。安心させるような声音と表情で、続ける。


「大丈夫よ、もうすぐ帰ってくるから」
「うん……」


 優しい声音と言葉に、安心したような笑みを見せると、リンは視線を外へと再度向ける。メイコは、そんな彼女の様子に苦笑をもらしながらも、リン同様、窓の外へと視線を投げかけた。空を覆う紺は、黒に近い。闇を縫うように、合い間合い間、星のきらめきが彼女の瞳へ光を届ける。

 メイコはそっと息を零すと、周りを見渡した。レンはいつものようにパソコン前に座って、何かをしている。ヘッドセットを取り、耳にイヤフォンをつけていることから、彼は自身の曲を聴いているのだろうな、なんて、メイコはぼんやり思った。

 レンは、マスターが居ないときは大抵パソコンの前に居る。彼は他のボカロと関わり合おうとはあまり思っていないのか、メイコやカイト達が自身から絡みに行かないと、何をすることもない。
 内にこもった性格とまでは言わないけれど……、とメイコはそっと嘆息をもらした。

 次に、ミクへと視線を向ける。彼女は、食事をする足がついたテーブルの椅子に座り、一枚の紙を手に持ちながら、鼻歌を歌っていた。
 鮮やかな緑を彩った爪の先が、紙の上を行ったり来たりする。歌詞、だろうか。

(そういえば、マスター、昨日渡していたわね……)

 次の新曲はこれ、と言って、ミクに歌詞を。それの練習をしているのだろう、と大方予想をつけて、メイコはカイトへと視線を向ける。
 カイトは彼女とリン、二人の前に座り、楽しそうにテレビ画面を見ている。うつっているのは傷害事件のことについて述べているものだというのに、どこが楽しいのだろう、とメイコは思った。

 そのあと、時間を確かめるために、彼女は時計へ視線を移す。ずいぶんと遅い。マスターはまだなの、と彼女は内心眉をひそめた。
 テレビ画面がコマーシャルへと移る。とたん、カイトが何かを思い出したように笑った。


「──マスター、今日は帰ってこないって」
「……え」


 リンの唖然とした声が漏れる。カイトはそれに笑みを零して、ごめん、とでも言うように顔の前で手を振った。


「朝、言われていたんだけれど忘れてたよ……ごめん」
「……あ、あんたねえ……」


 わずかに語調が荒くなった声をそのままに、メイコは拳をかたちづくる。カイトが驚いたように瞳を見開き、頭を抱えた。


「ごめん、本当に忘れていたんだよ……、俺が忘れっぽいの、みんな、知っているだろう」
「……忘れていてもいいことと悪いことがあるのよ!」


 振り上げたままの拳を、メイコはソファーに下ろした。ぼすん、と鈍い音がする。隣のリンが、愕然とした表情でカイトを見つめていた。唇が微かに震え、喉から絞るような声を、彼女は漏らす。


「ま、マスター、どうして帰ってこないの?」
「用事があるって、早朝から出て行ったんだよ」


 カイトは周りに視線を巡らせて、言葉を続ける。


「その時、起きていたのが俺だけだったから、マスターにことづけを頼まれたんだけれど……本当にごめん」
「……まあ、あんたはしょうがないわね、忘れっぽいんだし」


 忘れっぽい、というのが免罪符にはならないけれど。そう続け、メイコはカイトへ視線を向かわせた。カイトは、困ったように笑みを浮かべている。

(……カイトは、しょうがない、か)

 小さく口内で呟くように言葉を紡ぎ、メイコは息を落とした。視線を再度、時計へと向かわせる。それから、周りを巡るように視線を動かし、立ち上がった。手を打ち合わせる。高い音はそう広くもない部屋に響いた。

 ミクとレンが何事、とでもいう風にメイコへ視線を向ける。リンは視線を落としたままだった。それを見て、カイトが困ったような表情を浮かべる。

 メイコはリンを一瞥し、それからよく響く声で言葉を紡いだ。


「もう、寝なさい! とくに、リンとレン!」


 レンが顔をしかめるのが、メイコの視界に入る。メイコは小さくため息をつくと、肩をすくめながら口を開いた。


「なにか言いたいことでもあるの、レン」
「……別に」


 不満な感情が見え隠れする声音に、メイコは眉をひそめる。が、それも一瞬のことで、次の瞬間には柔らかい表情を浮かべていた。なだめるように、優しい声でレンの名前を呼ぶ。


「あんたはバイオロイドなんだから。寝なくちゃいけないでしょ」
「……そんなこと言ったら、メイコ姉だってそうだろ」
「あたしも寝るわよ、もちろん」


 手を肩まで持ち上げて、メイコは笑った。レンはそれを、不機嫌をあらわにして見ていたものの、パソコンの電源を消し、無言で立ち上がった。自室へと戻るのだろう、と勝手に推測をつけ、メイコは大きく頷いた。次いで、横に座っているリンの背中を軽く叩く。リンは衝撃の為か、体を盛大に震わせた後、メイコを見上げる。

 瞳が濡れ、揺れていた。それを若干ながらも不思議に思いながら、メイコはリンの名前を呼ぶ。続いて、ミクの名前を呼んだ。


「あんた達も」
「はーい」
「……うん……」


 心地良い返事を聞きながら、メイコは深く頷いた。ミクは嬉しそうな笑みを浮かべると、そのままリズムよく、ステップを踏むように自室へと戻っていく。リンは動こうとしない。


「……リン?」
「やだよう……」


 小さな声音で、囁くように紡がれた言葉に、メイコは首を傾げてしまう。その声は、場に残ってテレビの電源を消すカイトの耳にも響いたのだろう。彼は、電源が消えたのを確認すると、メイコたちへと近寄り、リン、と語尾を上げて言葉を口にした。


「どうかしたのかい」
「そうよ、リン、どうかしたの?」


 二人の問いかけに、リンは首を振ると、メイコの手を引っ張った。


「い、一緒に寝ようよ、メイコ姉!」
「……」


 無理に元気を装ったような声音に、メイコは一瞬、困惑を顔に出す。が、すぐにそれを打ち消して笑うと、リンの頭を撫でた。


「良いわね。じゃあ、一緒に寝ましょうか」
「う、うん!」
「良かったなあ、リン」


 柔らかく、優しく響く声でカイトが笑う。それに、リンは笑みを浮かべて返した。メイコの手を引っ張り、歩いて行く。リンは、自室、メイコの部屋を素通りし、マスターの部屋まで行きつくと、扉を開けた。メイコが小さく、唖然とした声を出す。

 リンは部屋の中に歩を進めると、メイコへと振りかえった。


「一緒に、寝よっ」
「え、ええ……けど、ここ、マスターの部屋……」


 嬉しそうに笑みを浮かべるリンとは裏腹に、メイコは視線を逡巡するように動かし、苦笑を浮かべた。


「寝るのだったら、どちらかの──」
「だ、だって、マスター、今日帰ってこないんでしょ?」
「そうだけれど……」


 だったら、良いじゃん。そうつづけ、リンはメイコの手を引っ張って布団へと体を躍らせる。引っ張られ、メイコの体も布団の上へと倒れた。
 リンの笑う声がメイコの耳朶を打つ。


「ねえねえ、マスター、明日帰ってきたら、絶対に驚くよっ! なんでリンとメイコがここに、って」
「そ、そりゃあそうでしょ……」


 布団にうずまった顔を上げ、メイコはリンと視線を合わせる。
 ──リン、何を言っているの。第一、マスターがへろへろで帰ってきた場合、布団をあたしたちが占領していたら、マスターに迷惑がかかるでしょ。
 そんな言葉が、彼女の脳内を巡る。リンを傷つけないように、彼女は言葉を選び、それから口を開いた。が、リンも同時に口を開き、彼女より早く言葉を紡いだ。


「カイト兄が悪いのはわかるけれど、でも、マスターだって、昨日の夜に言ってくれれば良かったのに……」
「……まあ、そうね。言ってくれたら、こんな時間まで起きているわけがなかったんだし」


 リンは小さく、だよね、と言葉を続け、メイコから手を離し、掛け布団をもそもそとかぶった。


「ちょっとだけ、驚かせるだけだもん」


 くぐもった声音が、微かに震えているのにメイコは気付いた。リンの声が、弁解するように素早く紡がれる。


「ちょっとだけだもん。今日帰ってこないとか、大事なことを教えてくれなかったマスターが悪いんだもん」
「……」


 知らず、メイコはため息のようなものを零していた。それに過敏に反応したリンが、布団を持ち上げ、わずかな隙間から顔を出す。


「やっぱ、駄目なのかな……」


 今更ながら、不安げに発せられた言葉に、メイコは苦笑を零した。横たわっていた体を、上半身だけ起こし、手をリンへと伸ばす。体を震わせ、驚いたような表情を浮かべるリンに、ますます苦笑を深くしながら、メイコは彼女の体を沿うように優しく撫でた。


「良いんじゃないかしら。マスターが、リンに教えなかったのが悪いんだし」
「……そ、そうだよねえっ! マスターが悪いんだもん、少しくらい驚かしても、マスターなら許してくれるはずだしっ」


 誰かが聞いていたなら、自分勝手、と評されたかもしれない。リンは何度も顔をうなずかせると、布団を勢いよく蹴飛ばした。掛け布団が、彼女の足元にずれていく。
 それを唖然とした表情で見ているメイコの手を取り、リンは恥ずかしそうに笑った。


「一緒に、寝よっ」
「……そうね、一緒に寝ましょう」


 リンの笑顔に、つられるようにメイコも笑みを零す。リンが、ますます嬉しそうな表情を見せて、喉の奥からこぼれ出したような笑い声を零した。メイコも笑い声を小さく漏らす。
 とたん、マスターの部屋の扉が開いた。二人は瞬時に笑い声を収め、扉へと視線を向ける。二人の視線の先、そこには枕を持ったミクが立っていた。

 どうしてミクが、と唖然とする二人を他所に、ミクはそのまま部屋へと身を躍らせると後ろ手に扉を閉め、ベッドへと腰を下ろした。それから、二人を鋭く──睨みつけるように見据えた。


「酷いなあ、楽しそうなことを二人でしてっ。ワタシだってさんのところで眠りたいよっ」


 ぷりぷりと怒りながら発せられた言葉に、メイコとリンは顔を見合わせ、微笑みあった。リンが僅かに身を詰め、メイコもそれに従う。リンが軽く笑いを零して、ごめんミク姉、と言葉を漏らす。ミクは華奢な肩を怒らせながらも、リンに続いてメイコが謝ると、いつものような穏やかな笑みを浮かべた。


「……ううん、ごめんなさい。ワタシも、急にやってきて──」


 二人へと身体を向け、ミクは寝転んだ。リン、メイコ、ミクが川の字のようになって、身体を横たえる。ミクは足元に蹴られた布団引っ張り上げ、端をリンのほうへと掛け、自身ももぞもぞと布団を羽織った。
 それから、天井を見上げるようにして息を大きく吐く。その後、彼女は居心地悪そうに、掛け布団を手のひらで握り、メイコとリンの寝ている方向へとちらちらと視線を向けると、もう一度息を空中へと零す。


「でも、楽しそうな声が聞こえて。ベッドの上でごろごろしていたんだけど、それを聞いたら気になってしょうがなくて」


 メイコはミクの言葉を聞きながら、目蓋をすっと閉じた。彼女の薄茶色の長い睫毛が僅かに微動する。
(声、大きかったかしら)
 わずかな不安がメイコの胸を襲う。が、直ぐにミクの部屋がマスターの隣だということを思い出し、薄い部屋の壁、きっとミクだけにしか聞こえていなかっただろう、と考えを落ち着かせた。

 ──廊下を挟んで、マスターの部屋の前にレンの部屋、その横にカイトの部屋、メイコの部屋がある。マスターの部屋の横にはミクの部屋、リンの部屋が連なっている。
 大きな家だ。マスター一人で暮らすには、少し、寂しいくらいには。

 ボーカロイドに自室は必要ない。寝ろといわれれば、何処ででも寝ることが出来る。──ただ、バイオロイドの場合、座ったまま寝ると翌日に支障が出る。バイオロイドは、ほとんど人間と同じ身体をもっているので、ご飯や睡眠等を必要とする。それを与えなければ、栄養を得ることが出来ないため、バイオロイドの皮膚の細胞が少しずつ壊れていき、最終的には餓死してしまう。

 アンドロイドには、それらが必要ない。眠らず、ご飯も取らず、それでも何百年と動けるように作られている。ただ、彼らの身体は全てが機械で出来ているため、ウイルス等に弱い。
 死ぬことは無い。ウイルスに苛まれているとしても、彼らの中のウイルス駆除ソフトが勝手に起動し、すぐにウイルスを壊してくれる為、そこまで実害も無い。

 ──メイコはそっと吐息を吐く。ミクが怒られるのかと勘違いし、掛け布団を引っ張り上げた。端に居るリンが布団ー! と、焦ったような声音を出し、片方から布団を引っ張る。


「リンちゃん?」
「布団っ、わたし、身体隠れてないよお。寒いー!」


 ミクが困ったように笑う。リンが引っ張ったせいか、布団は彼女の身体を半分しか隠さない。ミクには布団のような暖を取るものなんて必要ないが、彼女はメイコにますます身を寄せ、布団に身体を隠すよう努めた。


「メイコお姉ちゃん、抱きついてもいい?」


 少しの間をおき、ミクの口から申し訳無さそうな声音が漏れる。メイコが目蓋を開き、訝しげに視線を向けると、ミクは困ったように微笑んだ。布団、と桜色の唇から、やはり申し訳無さそうな声音が漏れる。
 ミクは上を向いていた身体を横に向け、メイコの腕へと自身の腕を絡ませた。メイコの腕に、わずかにひんやりとした感触が伝わってくる。

 すべらかな皮膚が重なり合う。リンがミクの行動に気付き、わたしもっ、と声を弾ませてメイコに腕を回した。メイコの、リンと触れ合う腕の皮膚に、優しい温かさが伝わってくる。


「もう、しょうがないわね」


 僅かに、笑い声が混じった言葉を零し、メイコは微笑んだ。


「今日だけよ」
「うんっ」
「ごめんなさい……ありがとう、メイコお姉ちゃん」


 メイコは、片方に冷たさ、片方に温かさを感じながら、小さく気付かれないように苦笑を零す。
(明日、風邪を引いちゃうかしら)
 それも良い、とメイコは思う。マスターに言うのだ。マスターが大事なことを言わなかったせいで夜更かしして、風邪をひいてしまったじゃない! と。

 そうしたら、マスターはどんな顔をするのだろうか。想像するのは容易い。きっと、困ったように笑うのだろう。謝罪の言葉が口をついて出てくるかもしれない。
 マスターの笑顔は好きだ。けれど、それと同じくらい、マスターの浮かべる色々な表情を、メイコは好きだった。

 ふふ、と思わず零れた笑い声に、リンとミクが過敏に反応を示す。二人はメイコ姉、メイコ姉さん、とメイコの名前を恐る恐る口にする。


「なんでも無いわ、ごめんなさい」
「ううん、良いよー! わたし、メイコ姉の笑う声、好きだもん」
「ワタシも、好きだなあ……」


 二人の言葉に、再度メイコは笑いを零した。ちょっとだけ、意地悪をしてみようか。彼女の胸の内に僅かに、いたずらめいた言葉を浮かんでくる。メイコは笑い声を止め、言葉を口にする。


「ありがとう、あたしもミクとリンの笑い声、好きよ」


 そこまで口にして、メイコは付け足すように、もちろん、マスターの声もね、と言葉を続けた。
 ミクとリンが、驚いたように身を震わせ、ついで、漏れるような笑い声を零し始めた。喉を軽く震わせて紡がれる、嬉しそうな声は耳に心地が良い。


「ワタシも、メイコお姉ちゃんの声、好きだよ。カイト兄さんの声も、リンちゃんレンちゃんの声も好き。もちろん、さんの声も」
「わたしも! メイコ姉の声も、カイト兄の声も、レンの声もミクお姉ちゃんの声も、好きだよっ」


 そこでリンは息を吐き、次いで、喜色で彩った声で、言葉を続ける。


「マスターの声も、大好きっ」


 ──なんとなく、二人の言葉を聞いていると、メイコはどこかくすぐったくなる心地を感じた。それを表に出すことはせず、彼女は早々に話題を打ち切り、目蓋を閉じた。

(マスターはいつ帰ってくるのかしら。あたしとミクとリンを見たら、驚くわね、きっと)
 マスターの驚いた顔を、メイコは想像してみる。思わずもう一度零しそうになった笑い声を抑え、彼女はかすかに吐息を落とした。

(早く帰ってきなさいよ──)
 わずかに怒ったような言葉を心の中で漏らし、メイコは意識を、じょじょに落としていった。


(終わり)


2008/08/26
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