あなたの傍に


 いつものようにパソコンをつけ、ボーカロイドのオリジナル曲をチェックしていたら、誰かの腕が後ろから首に回された。優しく締め付けられる。耳元で優しい声音が鳴った。


「マスター」


 リンよりは幾らか低い、男の子の声。レンだ。振り向いたらきっと彼の顔とぶつかるから、後ろを向くわけには行かないだろう。は前を見ながら作業を続行する。首に回された手に、少しだけ力が込められた。


「マスター」


 又名前を呼ばれる。返事をすると、微かな吐息が耳を濡らした。彼が笑ったのだと、瞬時にして悟る。レンは含み笑いを零すと、首に回した手を離す。それからの横へとやってきて、椅子を近くから引っ張り座る。嬉しそうに笑い声をもらす。が見ているものへと視線を向けて、やはり嬉しそうに微笑む。イヤフォンで聞いているから彼には聞こえないだろうに、彼はずっと笑みを浮かべて画面を見ていた。
 片方の耳のイヤフォンを外す。レン、と名前を呼ぶとそれだけで彼は得心が行った様子でヘッドセットを外した。の手からイヤフォンを受け取り、耳に装着した。しばらくして、曲が止まる。ブラウザバックした瞬間、レンが口を開いた。


「今日、何処かへ行きませんか」
「何処か、って……」
「おれと、一緒に。……駄目ですか」


 首を傾げて問い掛けられる。別に良いけれど。暇だし。頷くと、レンは花が咲くような微笑を浮かべると嬉しそうに笑った。


「何処に行くの?」
「マスターが行きたい場所なら、何処でも」
「そっか。じゃあ、行きたいところがあったんだよねー」


 かなり前にテレビで放映されていた、喫茶店。行くぞ、絶対に行く! そう思っていたのに、機会を延ばしてずるずると今まで行かずじまいになってしまった。
 良い機会だし、楽しみだ。テレビで放映されていた様子を思い返し何を頼もうかなー、なんて思う。それから振り向いてリン、と名前を呼んだ。とたん、レンが身体を震わせ、唖然としたような声を出す。の後方でソファーに座りテレビを見ていたリンが嬉しそうに返事をして、へと近寄ってきた。肩が揺れるたびに彼女の頭上のリボンが揺れる。
 リンはの前に立つと、嬉しそうに笑みを浮かべながら首を傾げる。


「なんですか、マスター!」
「うん、リン、遊びに行くから準備しなよー」
「え! 本当ですか、じゃ、じゃあ、、マスターに貰った服に着替えてきます! 待っていて下さいね!」


 リンが頬を赤くして微笑み、そのまま衣服が閉まってある部屋へと走っていった。その様子をひらひらと手を振って見送る。可愛らしい。それにしても貰った服に着替えてくれる、のかあ。楽しみだ。彼女に似合う可愛らしい服にしたから、きっと可愛さが存分に引き立てられるのだろうと思う。想像してしまりの無い笑みを浮かべていると、横から険を含んだ声が聞こえてきた。


「マスター」


 視線を向ける。レンは若干悲し気な色で染めた表情を浮かべると、小さく呟いた。


「おれはマスターと二人で出かけたかったです……」
「……え」
「せっかく、リンがテレビに夢中になっている隙に誘ったのに……」


 彼はそこまで続けると、の服の裾をぎゅっと握った。首を傾げ、頬を軽く染めて続ける。「知っていますか」


「おれ、デートに誘ったんですよ」
「そう、なんですか……」


 呆然として答えると、彼はやはり恥ずかしそうに頬を染めて頷いた。それから眉尻を微かに下げて小さな声でマスターは、と続ける。


「おれと二人のデートは、嫌だったんですか」
「そんなことはないよ」
「だったら」


 どうして、と声に出さずとも彼の瞳が物語ってくる。それに対して小さく息を零し、頭の上へ手を乗せた。──まさか、二人で出かけるなんて、そんな思いを込めて誘われたとは思っても居なかった。いつものように三人で出かけるのだと思っていたのだ。
 それに、例えレンと二人で出かけようとも、そうなったらリンを留守番させなくてはいけなくなる。最近、彼女を一人にすることが多いし、そういったことはできれば避けたい。
 小さくため息をついて、彼の頭の上に乗せた手を優しく動かす。きっと理由を言ってもレンは納得しないだろうし、こうやってごまかすのが一番だ。
 彼は嬉しそうにしながらも、僅かに怒った様子を見せた。


「子ども扱いは、無しです」
「……子ども扱い、しているわけじゃないけれどね」


 苦笑を浮かべてそう言うと、レンは困ったような表情を浮かべて、の手を取った。頭からゆるゆると下ろしてきて、胸の前でぎゅっと握る。彼の手の暖かさがじんわりと伝わってきた。
 レンは小さく息を吐くと、を深い海のような色の瞳で見つめてきた。視線が捕らわれる。彼はに顔を近づけて、囁くように言葉を紡いだ。


「──子ども、扱い、です」


 レンに捕まれた両手が少しだけ強く締め付けられて、開放される。彼はの手へと視線を向けた後、小さく息を吐いた。それから、弱弱しい声で「おれも着替えてきます……」とだけ言い、服を取りに向かった。
 子ども扱い、している、わけではないんだけれどなあ。
 そっと息を零し、はパソコンの電源を消した。

 リンとレンが着替え終わったのはそれから何分かした後だった。二人にみつくろって買った服はやはり似合っていて、何だか微妙に嬉しかった。どうしてかはわからないけれど。
 は財布の入ったカバンを持ち、二人と共に玄関を出る。鍵を閉め、歩き出すと同時に服に張力を感じた。歩を止め、引っ張ってきたであろう人物、レンを見る。彼は頬を僅かに染めたままと視線を交わした。そうして服から手を離し、の指先に軽く触れてきた。が何をすることもなくその様子を眺めていると、彼は戸惑いの色で染めた表情を浮かべた。微かな声が耳朶を打つ。


「いい、ですか」
「手? 良いよ、繋ごうか」


 レンの手のひらを握る。とたん、彼は嬉しそうな表情を浮かべ、笑った。リンが「あー、良いなあ、わたしもつなぎたい!」と言ってのもう片方の手を握る。両手に繋がる温かさに、少しだけ幸せを感じる。そっと気付かれないように笑いを零し、は喫茶店へと歩を進めた。


 喫茶店には直ぐついた。手動で開けるタイプの扉を開き、中へと入る。人はまあまあ多く、人気があることを伺うことができる。扉を開くとき、上部に備え付けられていた鈴が軽やかな音色を出した。
 直ぐに店員さんがやってきて、何名様ですか、お煙草はお吸いになられますか、と問い掛けてきた。それに返答をし、案内されるままに席へと座る。店員さんはにメニューを渡すと、決り文句──ご注文がお決まりになりましたら備え付けのベルをお鳴らしください──と言い、一礼して何処かへと行ってしまった。机一杯にメニューを広げる。
 四人掛けの机に座っていて、の前へリンとレンが居るようになっている。は自分の横に持ち物を置き、安堵の息を吐きながらメニューへと目を通した。

 リンが「美味しそうですね、マスターの食べたいものはなんですか!?」と元気良く問い掛けてきた。確か、ここの喫茶店、テレビではケーキが美味しいとか言っていたような。だったらやっぱり、ケーキを食べなければいけないよね。
 思ったとおりの言葉を口に出すと、リンが嬉しそうに顔を輝かせ、「わたし、それが──マスターと一緒のもの、食べたいです」とはにかんだ。一緒のもの、なんだか仲の良い姉妹みたいだ。そっか、と思わず頬を緩ませながら言葉を発する。次いで、レンへと視線を向けた。彼は何を頼むのだろうか。

 レン、と声を掛ける。彼はメニューへ向けていた視線を上げ、小首を傾げた。


「なんですか」
「決まった?」
「……ええと、その……、……」
「まだ、決まってない?」
「……はい」


 すみません、そう彼は続けて頭を垂れた。や、別に謝られるようなことじゃ……、苦笑を浮かべる。それからできる限り優しい声を出した。


「レンの好きなもの頼んでいいからね」
「……おれ、の、好きなもの?」


 レンは小首を傾げて、疑問を表情にあらわにする。それから瞳を伏せ、小さな声でもう一度「おれの、好きなもの……」と呟く。……そこまで悩むようなことだろうか。
 両腕を組んで机の上に乗せる。レンは少しだけ逡巡するような様子を見せた後、一つの飲み物を指差した。瞳を上げ、揺らす。


「いいですか、これ」
「良いよ。じゃあ注文するね」


 快く返事をすると、彼は安堵の溜息を吐いて微笑んだ。それを見て、もつられるように笑みを零す。
 そうして、手を伸ばし、呼び鈴を鳴らした。直ぐに店員さんがやってきた。リンとレンとの食べたいものを注文をする。店員さんは愛想の良い笑みを浮かべ注文を繰り返し「かしこまりました、少々お待ちください」なんてもう一度一礼をして去っていった。

 店員さんが去ると同時に、レンが「マスター」と囁くような声音で呟いた。ん、と首を傾げて返す。
 彼はそっと吐息を零すと、と視線を合わせては逸らし合わせては逸らしを繰り返した。……少しだけ、挙動不審に見えますよレンさん、なんて心の中で呟く。

 彼はそんな様子を繰り返し、もう一度大きく息を吐くと──困ったような表情を浮かべてを見つめる。その瞳が何かを訴えかけてきているような気がしたものの、それを読み止めることは出来なかった。首をかしげて何、と問いかけようとしたところでリンの鈴を転がすような声が耳へ響いてきた。


「楽しいです、マスター! すっごく、すごく、すごく」
「そう?」
「はい!」


 レンへ向けていた視線をリンへと向ける。彼女は柔らかく笑みを浮かべ、机の上に置いたの手を取る。少しだけ力強く握りしめられた。涼やかな声音が言葉を続ける。


「思い出、記憶するの、大好きです」
「そっか」
「マスターとの思い出なら、特に!」


 彼女はの手から自身のそれを離し、胸の前へと持って行った。自身の胸をこつこつと叩きながら続ける。


「ちゃんと、重要な回路にしまいこんでバックアップも取ってあるから、わたし、絶対に忘れませんよ!」
「そっか。もリンとの思い出、絶対に忘れないよ」


 そう言うとリンは軽く頬を染めて、嬉しそうに手で顔を覆った。くぐもった笑い声がかすかに耳朶を打つのが、なんだか心地良い。彼女の様子を見て、頬を弛緩させる。とたん、誰かに腕を引っ張られた。誰か、というかレンに、だけれど。
 視線を向けると、彼は悲しそうな色で表情を染めて、「おれ、だって──」と震えた声音で言葉を紡ぐ。
 そのあと、ゆるゆると首を振ると、「……すみません」とだけ謝り、手を離す。それきり口を閉ざしてしまった。……何が言いたかったのだろう。問いかけようとはしたものの、丁度、注文したものがやってきたのでタイミングを逃してしまった。

 目の前に置かれるのはケーキ、の注文したものだ。リンが嬉しそうに小さく歓声をあげ、「ま、まままマスター!」との手を指先で突き、幸せそうな笑みを浮かべた。


「す、凄く美味しそうです!」
「うん、おいしそうだね」
「わ、た、食べちゃっても良いんです、か……!」


 上目づかいに問いかけられ、思わず笑みをこぼしてしまった。かわいいなあ。肯定の意を示して頷くと、リンは瞬間、顔を輝かる。それからフォークを手に持ち、彼女はケーキへ切り込みを入れた。も彼女にならってフォークを手に持ち、スポンジへと刺す。柔らかな弾力が伝わってきた。手頃な大きさに切って、口へと運ぶ。口内にほのかな甘さが広がった。美味しい。
 リンを見ると、彼女は女の子らしく頬へ手を持って行き、目を力強く閉じていた。嬉しそうな表情だ。んー、とはずんだ声音が彼女から漏れてくる。

 レンへ視線を向けると、彼はストローを使って飲み物を飲んでいた。と視線が合うと恥ずかしそうに頬を染め、口からストローを離す。それから、彼はほんの少し瞼を伏せ、


「──おいしい、ですか」


 問いかけてきた。美味しい、つまりはケーキのことだろう。頷いて、食べる、と語尾を上げ調子に言葉を発すると、彼は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた後、かすかに微笑んだ。


「……良いんですか」
「良いよー」


 はい、と皿ごとレンにケーキを渡す。彼はほんの少しだけ寂しそうな表情を浮かべて、を伺うように見た。……何かしたかな。首をかしげて返す。彼はゆるゆると視線を下げ、ケーキへと向かわせるとフォークをおずおずと手に持ち、差し込む。それからスポンジを口の中へと含み、もごもごと口を動かす。喉がうごいて、彼は口を開いた。


「美味しかったです、ありがとうございました」


 それは良かった。微笑むと、彼はへとケーキの乗った皿を返してきた。ずず、と指先で押されて皿がの元へと戻ってくる。
 それから、レンは思いついたように自身の頼んだ飲み物をへと差し出してきた。これは、飲めってことなのだろうか。受け取らずに居ると、彼は困ったように首をかしげ、やわらかな声音で語尾を上げてを呼んだ。


「マスター」
「ん、あ、飲んで良いの?」
「はい」


 簡潔に返された言葉に、少しのためらいを捨ててコップを受け取った。彼と同様にストローに口をつけ、飲み物を口に含む。飲み込んで、彼へとコップを返す。


「おいしいね」
「そう、ですね」


 感想を述べると、彼は優しく微笑んだ。水があふれるような、そんな風な笑い声が微かに彼の唇から零れてくる。
 その様子を少しだけ眺め、再度は食べ物を食べることへ意識を戻した。フォークを手に持ち、スポンジへ差し込む。口に含むと、やはり甘さが広がった。


 喫茶店で色々と喋っていたからか、出た時間は昼を過ぎたころだった。別段お腹も空いていないので、そのまま色々な所を散策することに決める。
 二人とともに言葉少なながらも、散歩をするのはとても楽しかった。

 と言っても、明日もは用事があるのでそこまで遊ぶわけにもいかない。色々な場所を時間をかけて散策して、日が暮れる前に家へと戻った。


 明日が休日ならば、もっといろいろな所へ遊びにいくことも出来たのだけれど、なんて心の中で思う。風呂を沸かし、リンを一番風呂に入れながら、はソファーに身を沈め流れる映像を見つつ意識を飛ばしていた。次に遊びに行くときは、事前に何かしら計画を立ててからにしよう、なんて考える。遊園地とか、連れて行ったらきっと面白いことになりそうだなあ。リン、きっと絶叫系に乗りたがりそう。レンはなんだろう。想像して微かに笑う。それを聞きとめたのか、レンが不思議そうな表情を浮かべて寄ってきた。


「マスター、どうしたんですか」


 彼はの横へすわり、少しだけ身を寄せてきた。彼の温かさがじんわりと伝わってくる。……ごまかすように笑い、小さく声を発して頭をゆるゆると振る。彼と視線を合わせて、笑った。


「今日、楽しかったね」
「……そうですね、楽しかったです」
「レンとのお出かけはまた何時か、かなー」
「はい」


 会話が途切れる。けれど別にそれで良いと思う。レンとの無言は重々しくなくて、むしろどこか安らぎを感じさせるようなものだ。沈黙、それもきっと思いを伝える術の一つなのだろうと思う。テレビの電源をリモコンで消して、小さく伸びをする。もうそろそろリンが上がってくるころだろう。次はが入る番だ。小さく掛け声を口にし、立ち上がろうとした瞬間腕を捕まれた。再度、腰をソファーへと沈めることになる。
 腕を掴んできた人物と視線を合わせる。彼、レンは居心地悪そうに瞳を逸らした後、頬を染めた。弱弱しい声音で言葉を紡ぐ。


「──調べたんです」


 何を、と問い掛ける間もなく、彼は続ける。


「恋人同士の、在り方について。キスをしたり、手を繋いだり、抱き合ったり、笑いあったり──そのようなことが書かれていました」
「なんでそんなこと調べたの?」


 純粋な疑問でそう問うと、彼は白磁のように白い肌を淡く染めた。震えた唇が言葉を紡ぎだす。


「おれとマスターは両思い──恋人、だから……。どうすればマスターが喜んでくれるのかな、なんて思って調べました。考えても、おれにはよくわからなかったから」


 ほんのすこしだけ苦味が混じった表情を浮かべ、彼はため息を零した。


「それで、恋人同士だけがする──デート、それが二人の相互関係維持のためにとても大事なものだと知りました」


 レンはゆるゆると首を振り、困ったように笑みを浮かべた。それから、続ける。


「おれとマスター、一回もそんなことをしていない。普通だったら、デートをしないということはイコールで恋の冷めにつながるそうです」


 だからどうしようかと思って。レンはそっとそのような言葉を吐息に乗せ続けると、苦笑に近い笑みを浮かべる。の手を取って、強く握りしめた。視線が下がる。どこを見ているのだろう、と思いながら視線を辿るものの、彼の見ているものを見つけることは出来なかった。
 レンの吐息に近い溜息が漏れた。彼は小さく微笑んで見せると、へと顔を近づけた。手で頬を包み、親指で唇を辿る。
 何を。心の中でそんなことを思う。口に出そうとした瞬間、彼に遮られた。


「それに、キスも──。女の人はムード、雰囲気を大切にするって聞きました」


 それなのにおれ。彼は自嘲気味に続けて笑う。


「最初にマスターとしたキス、あれ──全く雰囲気がなかった、ですよね……」


 彼の親指がの唇を撫でるのを止めた。手がそっと離される。……最初のキス、というと、あれか。歌詞が出来たとき、だろうか。思い出すと顔から火が出そうになる。思わずうつむいてしまった。彼はに構わず、続ける。「だから」


「今日、デートに誘って、それでキスをしようと思ったんです。雰囲気があるような、そんなものを。……でも、無理でした」
「や、別に……その、雰囲気とか、あんまり気にしないよ」
「……」


 レンの言葉が止まる。あれ、失言だったかな。苦笑を零して、顔を上げる。彼の頬に手を添えると、やわらかな熱が沁みるように伝わってきた。


「第一、好きな人に触れようとしていちいち雰囲気とか考えてたらキリがないからね」
「……」
「そ、あの、キスだって、うん……別に、雰囲気はその……あんまり……」


 ドモってしまう。レンのじっと見据えてくるような視線が辛い。言葉を途中で止め、思わず顔を俯かせると同時に柔らかな声音でマスター、と呼ばれた。首に腕が回され、優しく抱きしめられる。


「……マスターのこと、好きです、大好きです──本当に、おれの一番大切な人です」
「そ、そう? ありがとう」


 顔を上げる。レンはの肩に埋めていた顔を離し、視線を合わせると微笑んだ。彼はとおでこをくっつけ、掠れた声音を出す。


「あなたにずっと触れていたい」
「え、あ、……え、ええと……」
「ずっと抱きしめていたいし、できれば何度だってキスもしたい」


 翡翠が揺れる。レンは淡い色合いの唇を開き、絞り出すように声を出す。


「──本当に雰囲気、良いんですか」
「う、うん」


 なら、と彼は言葉を発し、からおでこを離した。真摯な瞳でを見つめ、首を傾げる。頬が淡い色で彩られていた。


「キス、しても、良いですか」
「えっ」
「ダメ、ですか」


 少しだけ残念そうな声音で紡がれる言葉に、思わず言葉を失ってしまう。いや、え、いや、あの……え、そういうこと訊かれると困るんだけれど。
 彼は眉をひそめ、わずかに寂しそうな色を表情へにじませる。


「──実力行使、してもいいですか」
「へ」


 唖然とした声を出すと同時に、耳元で甘い声がなった。


「目を閉じてください、マスター」
「ちょ、えっ」
「目を。お願いです、マスター。あなたに触れたい。あなたと、キスをしたい──」


 余韻をたっぷりと残すような言い方で囁かれ、思わず頬が熱くなる。レンは耳元で熱い吐息を零すと、もう一度だけ呟いた。


「目を、閉じて」


 有無を言わせない声音だった。どうしようもなく恥ずかしい、けれどここは目を閉じるほかないのだろうか。ゆるゆると頭を垂れて瞼をきつく閉じる。レンが嬉しそうに笑うのが聞こえた。彼の指先がの顎へと伝い、顔を持ち上げられる。少しして、唇に柔らかな弾力が伝わってきた。


「マスター、大好きです」


 囁くように告げられた言葉に、も、と言葉を返す。レンが笑って、を強く抱きしめてきた。


「ずっとずっと、大好きです──」


(終わり)

2008/06/05
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