苦手なもの 閃光が、雲の隙間からほとばしる。とたん、横に座っていたレンがの服の裾をおそるおそる握ってきた。少しして、大地を揺るがすばかりの轟音が鳴り響いた。レンが声を上げて、に抱きついてくる。座っているソファーが、小さく軋んだ。 それから、レンはやはり小刻みにぷるぷると身体を震わせながら、を仰ぐように見てきた。瞳の色が揺れている。端正な顔立ちを、わずかに歪め、彼は淡い色合いの唇を開いた。 「ま、マスター……」 「んー、大丈夫だって。大丈夫大丈夫」 レンの弱弱しい声音に、笑って言葉を返す。けれど、レンは泣きそうな表情を浮かべて、の服を何度か引っ張った。 「だ、大丈夫じゃないっ」 力強く言葉を口にし、レンは首を傾げた。小さく唇を震わせて、どことなく不安げな表情を浮かべる。小さく溜息を吐きながら、それを見つめ、次いでは時計へと視線を向けた。そろそろ寝る時間だ。目の前で忙しく明滅を繰り返すテレビを消す。レンの身体が震えた。 立ち上がろうとすると、レンは今までよりも一層、を強く抱きしめてきた。動けなくなる。名前を呼ぶと、肩をかすかに震わせ、彼は小さく、やだ、と声を搾り出すように紡いだ。 「やだ、って……。レン離れなさいー」 「や、やだあっ」 やだ、じゃないでしょ、と宥めるように言葉を紡いだ。とたん、外が白く染まる。レンが声を上げ、身を竦ませた。次いで、少しの間を置いて轟音が響く。 「ち、近くなったあ……っ」 雷の後、しんとした部屋にレンの情けない声が響く。彼は小柄な身体を微動させて、の腰に回した手を、動かした。首に手が回され、抱きしめられる。吐息が首筋に当たって、なんだかくすぐったい。ほのかに笑みを零しかけて、押しとどめる。レンの肩に手を置いた。 ぐ、と力を込めた。レンが驚いたような声を出して、手に込める力を強くしてきた。レンー、と間延びした名前を呼ぶ。緩急をつけて力を込め、レンをから離す。そのまま、ソファーに突き倒すように力を入れると、いとも簡単に彼は倒れた。 空気の抜けるような音を発し、レンの腰がソファーに落ち着く。彼は、一瞬、呆然としたような表情を浮かべ、を見てきた。次いで、眉尻を下げて、瞳に悲哀の色を浮かべる。震えた唇が、やはり震えた声を紡ぎだす。 「や、やだ……こ、怖いよう、マスター」 「怖くないって。落ちないからさ。大丈夫大丈夫」 あやすように優しい声で言葉を吐き出し、立ち上がる。レンに背を向け、手をひらひらと振り、「おやすみー」と言う。レンの悲愴な声が背中を追いかけるように響いてきた。 振り向くと、ソファーの上で正座をしたレンが目に入ってくる。 「ま、マスター、一緒に寝てよお……」 「レン、男の子でしょー」 「男の子でも怖いものはあるよっ」 そんな風に言い切られても。小さく嘆息を漏らし、肩を竦める。何も言わないで居ると、レンが悔しげに眉をひそめ、苦々しく言葉を発するのが聞こえた。 「ど、どうしようもなく怖くなったら、マスターの部屋に行っても良い、かな……」 レンはそこまで続け、小首を傾げた。 「ちゃん、ちゃんと、どうしようもなく怖くなるまで、自室で寝るから」 必死な感情を伴って紡がれる言葉に、苦笑を漏らしてしまう。 ──の家の鏡音レンは、何故か雷を異常に怖がる。外出しているときに雷が鳴ったりすると、彼は傘を持ったを押しのけるように自宅へと走り出してしまう。目的地に向かっているときだとしても、逆走して行く。 追いかけるものの、レンの足は速い。追いつけないのではないか、と思うときもある。けれど、今までどうにかやってこれたのは、彼が、異常なくらいにころぶからだろうと思う。 それこそ、何も無いところでころぶ。バランスを取ることができないのか、というぐらいにころぶ。 彼は、逆走した後、絶対と言っていいほど、ころび、その場にへたり込んだままで居る。大抵はが近づくまで、そのままで居るけれど、自分で立ち上がっての元へと戻ってくることがある。当然、雷が鳴るときは大体雨が降っているので、ころんだ彼は雨水でべちょべちょに濡れている。 それから、マスター、と小さな声音で行って、抱きついてくるのだ。べちょべちょのまま。彼の服に染み込んだ雨水はの服にも染み込んでくる。大体、そう言う時は一度家に帰り、彼を風呂に入らせ、一日が終わってしまう。最近では、雨の日は外出しないことにしている。 ただ、家に居るときも雷は怖いのだろう。レンは雷が鳴る都度、に抱きついてくるようになった。が自室で寝ている時も、あまつさえは料理をしている時も。風呂に入っている時は、流石に入ってこなかったけれど、風呂場の前ですんすんと泣かれた。 少しずつ慣らそうとはするものの、レンの雷嫌いは克服の一歩を辿っていない。寧ろ全速力で逆走しているように思う。彼の雷嫌いは日を追うごとに強くなっていく気がする。 ──別に、雷が嫌いなのは良い。人の……、ボーカロイドの勝手だし、それに口出すつもりはない。けれど、度が行き過ぎているのではないだろうか。 かわいそうだけれど、もう、正直、めんどくさい。は小さく溜息を吐くと、彼の名前を呼んだ。 「死ぬほど怖くなったら、ね」 「……い、今、起動停止するほど怖いんだけれど、これで良い? 一緒に寝ても良い?」 再度、溜息が昇ってきた。それを何とか押し殺し、駄目、とだけ答え、自室へと戻る。少しして、「うう」と言う泣きそうなレンの声と、重々しい足音が聞こえたから、彼も自室へと戻ったのだろう。 ベッドの上の布団に入り込み、大きく息を吐く。とたん、雷が鳴った。自室の窓から、白い光がほとばしるように室内を照らす。次いで、間髪入れずに耳を塞ぎたくなるような音が鳴り響いた。 大きいし、近いみたいだ。布団を被り、目蓋を閉じた、瞬間、扉が強い音を立てて開くのが聞こえた。荒々しく走る音が聞こえ、の部屋の扉が軋むような音を立て、開く。 間を空けずに、何かが布団の中に滑り込んできた。これは、どう考えても。 「……レン……」 「こ、こわ、今さっきの凄く近かったんだもん、やだああああ!」 レンの居る方へと身体を向ける。薄闇の中で分かるくらいに、彼は泣きそうな表情を浮かべていた。もしかしたら、若干、泣いていたのかもしれない。手が伸ばされ、の身体にレンの身体が密着する。レンはの腰に回した手に力を入れ、頭を横に振った。 「き、起動、停止しちゃうよおっ」 「……レンー、大丈夫だって、もう」 「マスターも言ったもん! 死ぬほど怖くなったら一緒に寝るよ、って」 言ったけれど……、と、呆れたように言葉を口にしそうになって、飲み込む。急に無言になったに驚いたのか、レンは小さく泣きそうな、むしろ泣いているのか、嗚咽のようなものを漏らすと、顔をの首元に埋めた。 「ご、ごめんなさいぃ……っ、怒っちゃやだあっ」 「……怒っては無いよ。レン、泣いているの」 語尾を上げて問い掛ける。レンの返事は無かった。手持ち無沙汰に、彼の背中を優しく撫でる。布団を引っ張って、彼の身体を覆うようにした。 背中を、背骨に沿って撫でると、レンの熱い吐息が首筋を掠める。 「怒って、無いの?」 そのまま、優しく撫でるのを繰り返していると、唐突にためらうような声音が発せられた。レンの顔が離れ、真正面に映る。彼は僅かに眉を潜め、困ったような表情を浮かべていた。 「うん、まあ。怒って無いけどさあ……」 言葉を言い切るより先に、雷が鳴った。レンの身体が震える。彼は腰に回した手のひらで、の服を強く掴んだ。引っ張られるような感覚がする。 レンは、息をひきつったような声音を乗せて吐き出し、マスター、と舌足らずに呟いて身体をくっつけてきた。それを何ともなしに享受しながら、小さく疑問を口に乗せる。 「……あのさあ、前から疑問に思っていたんだけれど、どうして雷が嫌いなの?」 「言ったら、きっと、マスター呆れちゃうから、言わない」 「いやいやいや。言ってくれないと布団から追い出すよ」 おどすような言葉に、レンの身体が震えた。としてはからかったつもりだったんだけれど、レンは泣きそうな声でマスター、と言葉を口にして、眉をひそめた。少しして、言葉が紡がれる。 「雷に当たってショートしちゃったら……、僕、壊れちゃうんだよ……?」 「まあ、だろうね」 「……それだけ」 へ、と聞き返してしまった。レンは震えた声音でもう一度、それだけだもん、と呟くと、の首元に顎を乗せる。それだけで、此処まで怖がるものなのだろうか。だって雷に当たったら死ぬだろうけれど、レンほどに怖がったりはしない。 まあ、誰にでも怖いものがあるのだろう。なんだか釈然としない思いが胸の内を回るものの、それを口にはしない。何を言うことも出来ず、無言で居ると、レンの焦ったような声音が耳朶を打った。 「そ、それに、僕、壊れなかったとしても絶対にメモリはショートしちゃうんだよ」 「そうなんだ」 「そうだよっ。そ、そうしたら……マスターとの思い出、消えちゃうんだよ」 逡巡するような間を持って紡がれた言葉に、一瞬だけ唖然とした。直ぐに意識を取り戻して、そっか、と言葉を紡ぐ。とたん、レンの身体が離れた。彼は怒ったような表情を浮かべ、険を含んだ声音を発する。 「そっか、じゃ無いじゃん! マスターは、思い出が消えちゃっても良いって言うの? 僕はやだもんっ」 「あ、や、そういうつもりじゃないんだけれど……」 「マスターのばかぁ!」 レンはそう言うと布団を剥ぎ取り、それを自身に巻きつけた。見てくれは芋虫のようだ。けれど、彼はそんなこと全く気にしていないのだろう。器用に身体を動かし、と視線を合わせると、もう一度、 「マスターの、ばーかっ!」 憎らしい節回しをつけて、言葉を言い放った。唖然として何も言えないで居ると、レンはそのまま立ち上がり、やはり器用にジャンプしながら何処かへと行ってしまった。 ……え? 何? なんなの? 疑問が頭を埋め尽くす。考えがまとまらない。何であんなに怒っていたのか、それはまあ考えたらわかる。雷を怖がっていた理由を言ったにも関わらず、が薄い反応しか示さなかったから、なのだろう。 記憶が無くなる、壊れてしまう。それらはきっと、彼にとって泣くほど怖いことだったのだろう。もう少しちゃんと反応してあげるべきだった、と今になって後悔をする。しばらく座り込んだまま考えをまとめる。 結果。とりあえず、 「布団を返してもらわなきゃなあ……」 掛け布団が無くても別に眠れるけれど。心の中でそんなことを呟いて、自室から出る。瞬間、轟音が鳴り響いた。連続して、音が響く。廊下の床を揺らすような、そんな大きな音だった。耳を抑え、レンの部屋の扉を開く。 レンは芋虫状態ではなくなっていた。耳を抑えて、うずくまるようにベッドの上に膝を抱えて座っていた。顔を埋めているので、どんな表情をしているのか、わからない。近づいて、手を伸ばした。頭を撫でると、小さな声で彼は憎まれ口を呟く。 「ば、ばかぁっ!」 「ごめんごめん」 「許さないもんっ、出て行ってよっ!」 どうしたら許してもらえるのだろう。頭を撫でながら小さく溜息を吐く。その時、轟音が鳴り響いた。瞬間、思いついたことを実行する。 レンの小柄な身体を抱きしめる。案の定、彼は身体をよじってから逃げ出そうとした。 「も、もう、良いもん、一人で寝れるもん! 止めてよおおっ」 「それは困るなあ」 軽く笑いを零して、言葉を口にする。レンがから離れようと悪戦苦闘しているうちに、と、早口に言葉を続けた。 「、雷が怖いみたい」 「ふぇ、う、うそつきぃっ、さっきまでは全然怖がってなかったじゃんっ」 「……ちょっと前から怖くなったんだよ。ねえ、レン」 言葉を止める。レンの抵抗は次第に弱くなっていった。場を切り裂くような音が響き、レンの身体が震える。彼の身体に回した腕の力を強くし、は言葉を続けた。 「一緒に寝て欲しいな」 「や、やだっ」 「お願い」 レンはの肩に手をおき、からなんとか離れようとする。それに苦笑を零しながら、は彼の頭を撫でた。そのまま、口を開く。 「、雷にあたったら絶対死んじゃうし。怖いから、一緒に寝よう。ね」 「や、やだよお……」 「どうしてそこまで嫌がるかなあ……」 そんな言葉を口にして、のせいか、と思い当たった。無言になる。沈黙の場を裂くように時折強く高い音、強く低い音が鳴り響く。レンはその度に身体を震わせた。 「レン、ごめん」 「……何が」 「レンが記憶無くすとかそういうこと考えているなんて知らなかったから……。ごめんね、って」 軽く笑って言葉を発する。レンが小さく吐息を零し、本当だよ、と呟くのが聞こえた。本当だよ、って……なんか軽く酷いなあ。苦笑が浮かぶのをそのままに、彼から身体を離そうとする。どうやらレンはと寝たくないようだし、これ以上強情を張っても意味が無いだろう。手を離す。それと同時に、背中に腕が回された。 震えた声が響く。 「マスター、一緒に、寝てあげる」 「……ありがとう」 何故か不遜に言い切られた言葉に、苦笑を禁じえない。レンはそれに気付いたのか、かすかな険を含ませて、マスター、と言葉を発した。腕を解き、から離れる。それから、逡巡するように視線をめぐらせて、身体をベッドの隅へと寄らせた。と視線を合わせて、隣を叩く。手が布団に打ち付けられるたび、空気の抜ける間抜けな音が響いた。 「マスターはこっちだからねっ」 「……うん」 ベッドの上、彼が叩いた場所へと腰を下ろし、横たわった。レンから少し離れた場所に体を伏せたからなのか、彼は小さく、もう、と吐息を零すように言葉を紡ぐと近づいてきた。の手のひらに自身の手のひらを絡め、掛け布団を羽織る。 天井を見るようにして瞳を閉じると同時に、マスター、と甘えるように名前を呼ばれた。 「んー?」 「こっち向いてよ。マスター、怖いんでしょ。僕、マスターのことを抱きしめてあげるっ」 「や、別にそこまでは……」 「怖いって言ったもん! マスター!」 怒ったような声で言葉を紡がれ、渋々身体を横にする。レンと視線が合った。彼は嬉しそうに笑うと、擦り寄るように身を近めてきた。胸が触れ合う程度まで身体を密着させて、笑う。繋いでいないほうの手の平で、の腰を引き寄せてきた。 「これで、怖くないよねっ」 「……まあね、怖くはないね」 肯定するように言葉を紡ぐと、レンの唇から嬉しそうな笑い声が漏れてきた。堪えきれない、といったような声を零し、目を細めた。 「今度からは、雷の時、一緒に寝てあげるっ」 「……それは、どうもありがとう」 何だか、ちょっと、良いような方向に進められている気がする。乾いた笑いを零すと、レンが嬉しそうに笑うのが見えた。彼はひとしきり笑い声を零した後、「じゃあ、お休みっ」と目を瞑った。 唐突な展開に、なんとなく驚いてしまったものの、それをおくびにも出さずに、彼の頭を撫でる。くすぐったそうな笑い声が彼の唇から漏れ、目が薄く開かれた。 「お休みって言ったのに……」 「ごめん、ごめん。じゃあ、お休み、レン」 「うん、お休み、マスター」 目蓋を閉じると、暗闇しか瞳には映ってこない。 時折、轟音が鳴り響く。その都度、繋がった手のひらが汗ばみ、わずかに密着した部分が震えるのを感じながら、は意識を沈めた。 (終わり) 2008/08/10 |