野生のねんどろいど、というのがあるらしい。
 野生のねんどろいどは、もしかしたらパソコンの傍に住んでいるのかもしれないし、自室のどこかに隠れているかもしれない。はたまた、奥深くのジャングルに住んでいるかもしれないし、品物として包装され、誰かの手元に渡っているのかもしれない。
 野生のねんどろいどは敏捷で、見つけても直ぐに逃げ出してしまう。捕まえるのは困難で、捕まえても必死に抵抗して逃げ出そうとする。

 ──なんて、馬鹿みたいなことをつらつら述べてみたりして。人に話したら確実に頭おかしいと思われてしまうだろう、と思う。ネットを徘徊していて、このような文章を見つけたときは、だって、面白いことを書くなあ、なんて思っていただけだったのだ。
 常識的に考えて、そんなことはありえない。そんなことを、今までの人生で知っていたし、分かってもいたからだ。まだ、が幼かったら信じられたかもしれないけれど。
 だから、常識が崩されるなんてことは、考えてもみなかった。


<夢だったなら>


 目の前にはデスクトップ・パソコンが鎮座していた。微かな起動音を立てながら、それは動きつづけている。画面上には、いつもの如く、ボーカロイドのオリジナル曲の動画が流れていた。明るい感情を歌い上げる、日常を切り取ったかのような歌だった。曲調もアップテンポで、耳に優しい音作りがされている。調整も丁寧にされているのか、ボーカロイドの声がとても聞き取りやすかった。
 うん、良い。すごく、良い。好みの曲だ。はマウスを動かして、そのままその曲をマイリストへと直行させた。

 その時、不意に聞きなれた声が耳朶を打った。


「これ、気に入ったんだ」


 微かな疑問符を語尾につけたかのような言葉だった。声が聞こえてきた方向へと視線を落とす。そこには、先日購入した、ねんどろいど鏡音レンが、あった。
 軽く笑い、気に入ったよ、と同意を示す言葉を紡ぐ。とたん、ねんどろいどの表情が変わった。桜色に色づいた唇の端が、嬉しそうに持ち上がる。
 ねんどろいどは、小さな足をぽてぽてと動かし、そのままキーボードの上によじ登ると、座り込んだ。嬉しそうな色をにじませた瞳が瞬きを繰り返しながら、を見る。


「オレもこういう曲、好きだな。歌ってみたい」
「そっか」


 軽く肩をすぼめて笑うと、目の前のねんどろいど、──レンも笑みを浮かべた。嬉しそうに、けれどどことなく恥ずかしそうな表情を浮かべ、彼は自身の頬を指先で掻く。

 ねんどろいど。の目の前で動き回るレンは、まさしく、が購入したねんどろいどだった。予約開始と同時に予約し、そうして、発売日当日に手に入れることの出来た、フィギュア。
 は、レンが好きだった。多分、ボーカロイドの中で、一番。もちろん、リンも好きだった。だから、予約をしに行った際、リンも予約をしようと思ったのだけれど、どうやら一足早くリンの予約は満杯になってしまい、手に入れることが出来なかったのだ。
 よって、レンだけを発売日当日に手に入れたわけなんだけれど、レンはおかしかった。ねんどろいどには手の交換パーツ、それに顔の交換パーツがついてきていると言うのに、彼は手を取ることも出来ず、顔も取ることが出来なかった。

 触れると僅かな温かさが指の腹を濡らし、髪の毛も、普通のそれと同様の柔らかさを持っていて、開封した当初はフィギュアってこんなに凄いのか、なんて思ったりもした。

 レンがおかしいということに気付いたのは早かった。パソコン机上に飾ってあったレンが、床に落ちていることが多かったからだ。
 何度直しても、何度直しても、レンは用事を終えてが家から帰ってくると、デスクから落ちている。余りに頻繁にそのようなことが起きるから、正直、は恐怖を感じた。もしかしてこのねんどろいど呪われているんじゃ、なんて、今考えると赤面ものの発想をし、慌ててねんどろいどレンを片手に持ちながら、パソコンで人形供養の寺を探していた時、レンを掴む手のひらに衝撃が走った。

 衝撃というより、くすぐったかったのかもしれない。何かでこちょこちょとされるような、そんな感触がしていたのだ。もしやなんか虫が手についたのでは、なんて考えて恐る恐る視線を落とした時。

「苦しいんだけど」

 聞きなれた声が耳朶を突き、次いで、の手のひらの中でもがくようにして動いているレンと目があった。
 その時の衝撃はすさまじかった。夢でも見ているのかと思った。むしろ夢であったらいいのにとさえ思った。その際、人間、想像のつかない事態に陥ると変な行動をしてしまいそうになることも学習した。

 それから、レンはと一緒に暮らしている。なんて言葉でまとめてみるものの、実際、レンはが手を離すと床へと落ち、そのまま素早い勢いで逃げ去ろうとしたり、隙あらば逃げ出そうとしたり、が寝ているときに悪戯めいたことをしてきたり、いろいろなことがあって、今現在に至っている。彼の定位置はパソコンの上で、最近は逃げ出そうとすることをしなくなった。

 まあ、そんな感じでなあなあにやってきて、取りあえず逃げ出そうとしないあたりに仲良くなったのかなあ、なんて思いを感じている。数ヶ月前は凄かった。敏捷で、一旦逃げられると扉にレンがぶちあたったりしない限り、捕まえることなんて出来なかった。

 ……思考が沈んでしまった。とりあえず、は生きたねんどろいどの鏡音レンと生活をしている。馬鹿みたいだし、信じられない話だし、だって今でも目の前のレンが動いていることを夢のように思っているから、誰にも言ったことはない。言ったら確実、異常者扱いされてしまうだろう。


「ねえ、マスター」
「ん?」


 レンは、のことをマスターと呼ぶ。どうしてかはわからないけれど、別段気になることでもないし、むしろマスターと呼ばれるのはとても嬉しいので、そのままにさせている。
 今日も、マスターと呼ばれてほころびそうになる頬を何とか抑え込みながら、首を傾げて、レンを見た。レンの湖面のような彩りの瞳が利発そうに動き、柔らかい色を映し出す。


「オレ、歌いたいな」
「うん、もレンの歌うところを聞きたいな」


 マウスから手を離し、彼の頭を撫でるべく指先を伸ばした。星のような、煌びやかな金色で染められた髪の毛に触れると、ふわりとした感触が指の腹に伝わってくる。柔らかい、絹糸のような感触を楽しみながら彼の頭を撫でていると、不意にレンの手のひらがの指先に伸びてきた。彼の小さな手のひらがの指先を掴む。レンは手のひらを動かして、の指先を頭から離させると、そのまま、軽く笑みを零した。嬉しそうに頬にの指の腹を押し当て、すりよせてくる。


「オレも、聞いてもらいたい」
「じゃあ、歌ってよ」


 笑うと、レンの挙動が止まった。
 レンは、歌える。調整をしなくても、そのまま先ほど聞いた音を頭の中に記憶しているのか、歌声を放つことが出来る。全く持って、万能なねんどろいどだと思う。惜しむべくは、それを聞く相手がしか居ないということだろうか。は録音機器なんて持っていないから、何をすることもできない。作曲ソフトだって、わからない。五線譜に音符や休符が書かれていても、読めない。

 レンは、もっと、作曲が出来るプロデューサーの所に行くべきだったのではないかな、なんて考えが過ぎることがある。そうしたら、きっと良かっただろうに。

 指の腹に触れていたレンの頬が離れる。彼は胸にそっと拳に固めた手のひらを置くと、軽く首をかしげた。良いの、なんて、言葉に出さずとも彼が問い掛けてきているのがわかる。軽く笑みを浮かべると、レンは喜色を表情に浮かべた。彼はキーボード上に立ち、すっと息を吸い込み、次の瞬間、先ほど聞いた曲を寸分の狂いも見せずに紡ぎはじめた。

 オケは無い。だから、レンの独唱となるのだけれど、レンの声はオケを必要としないくらいに、伸びやかに響くので、は気にならなかった。
 レンはサビを歌い上げると、唇を閉ざした。困ったような笑みを浮かべて、を一心に見つめてくる。感想を聞きたいのかな、なんて思って、やっぱり上手だね、と言うと、彼は困惑の色を表情から消し去り、一転して頬を赤らめた。


「作曲者の方も凄いよね。こんなに綺麗な曲を書くなんてさ」
「そうだね」


 何度聞いても飽きない曲を書くっていうのは本当に難しいものだと思う。単調にならずに、曲の展開に変化を持たせたりして。フレーズが既存の曲と被ると意図していなくても罵詈雑言を言われるはめになるし、曲を書くというのは本当に難しいことだと思う。には到底出来ない。フレーズが被って冷たい言葉を言われるはめになったら、多分、意思が弱く、根性も無いのことだから、直ぐに曲を削除して逃げることになるだろう。簡単に想像できる。
 ……まあ、始める前から最悪の事態を考えるべきではないと思っているのだけれど。思わず浮かんだ苦笑をそのままに、はレンから視線を外した。瞬間、彼のどこか焦ったような声が鼓膜を揺らす。


「あ、あのさあ! マスターは曲を書いたり、しないの」
「……えー、あはは」


 先ほどまで考えていたことを口にされて、思わず乾いた笑いが漏れる。返事はもちろん、無理の一言に決まっている。けれど、そんなうかつな言葉は口にはしない。言ったら確実にレンを傷つけるであろうことはわかっている。レンは、歌うことがどうやらとてつもなく好きなようだし、どうやらにオリジナル曲を書いてもらいたいという考えをもっていることも、わかっている。

 何を言う事もせずに、どうしようもなく笑みだけを浮かべつづけていると、レンは不意に強く言葉を紡いだ。


「オレ、マスターのオリジナル曲、歌ってみたい!」
「……ごめん」


 謝ると、困ったような表情を浮かべられた。レンは軽く肩を竦めると、手のひらを伸ばして自身の首を軽く掻くような姿となった。──変なことを言ってごめん。困ったような表情から、そんな言葉がかいま見られるような気がして、はどうしようもなくなってしまった。
 本当に、レンはではなく他の人の所へと行ったほうが良かったのかもしれない。歌って躍って喋れるねんどろいどの鏡音レンなんて、欲しがる人は一杯居るだろう。


「なんか、楽器とかしてたら良かったのにねー、
「今からすれば良いじゃん。何事にも遅すぎる事は無いよ、多分」


 無理なことを言うなあ、と思った。例えば、今からするとなったら何をすれば良いと言うのか。
 そのようなことをそのまま口にして問いかけると、彼は困ったように眉をひそめた後、両手を打ち合わせて嬉しそうに笑った。


「鍵盤器とかさ、管楽器とか、弦楽器とか、色々あるよ。マスターの好きなものをすれば良いんじゃないかな」
「……今から?」


 問い掛けると、レンは素早く頷いた。彼の金色の髪の毛が挙動にそって揺れ、光を反射しての目にうつる。健康的な色合いの肌が火照っているのが見えた。レンは続ける。


「どうかな、楽器、高いけどさ、すごく面白いよ、マスター絶対ハマるって!」
「んー」


 煮え切らない返事ばかりをしてしまう。けれど、レンはさして気にした様子も見せずに、嬉しそうに言葉を弾ませて行く。──その様子を見ていて、ふと、思ったことを口にしてしまったのは、しょうがないだろう。


「じゃあ、レン、の友達の家に行く?」
「え」


 レンの言葉が止まった。彼は何を言っているのかわからない、といったような様子でを呆然と見てくる。
 の友達の中に、確か、ピアノを何年もやっている子が居たはずだ。作曲理論も学んでいると言っていたし、オリジナル曲を一つくらいは書いてくれるのではないだろうか。ボーカロイドにも興味がある、みたいなことを言っていたから、きっと大丈夫だろう。

 そう思って口にした言葉だったのだけれど、レンは呆然とした表情を一転、柳眉を逆立ててを指差すと、語気を荒くして言葉を紡ぐ。


「オレはマスターの曲が歌いたいんだよ! マスターの友達、じゃなくて、マスターの!」
「……って言われてもね。ごめん、無理。確実に無理」


 レンはもっと作曲に興味のある人の家に行けば良かったかもね。なんて、冗談めかして口にすると、怒気が彼の表情に浮かんだ。抑えきれない怒りを内に秘めているかのように、レンの肩がぷるぷると震える。


「お、オレ、マスターの傍に居られて良かったって思っているのに、どうしてそんなことを言うんだよ」
「は?」


 変な声が出てしまった。レンは瞳を伏せ、構わずに続ける。


「オレが居ないと、なんにも出来ないくせに、そんな風に投げやりな言葉を口にするなんて、信じられないんだけど!」


 なんだかおかしな言葉を言われた気がする。はレンが居なくたってなんにも出来ないことは無いよ。そう反論しようとして、けれどレンの様子が普段とは違っていたから、何も言わずに口を閉ざした。
 そこまで怒られるようなことを言ったのだろうか。他の人のところに行けば良かったね、という言葉に過敏に反応を示しているようなのだけれど、としてはこの言葉の何処に彼の怒りの沸点を越えさせるようなものがあったのか、全くわからない。投げやりな言葉ではなく、なんとなく口にした言葉だったのだけれど、──レンの機嫌を損ねてしまったようだ。

 レンは頬を膨らませると、そのまま、から顔を背けた。何にも出来ないくせに、──吐き捨てるように言葉がもう一度紡がれる。
 何にも出来ないことは無い。朝だってちゃんと自分で起きているし、用事も忘れずに毎日かかさず行っている。ただ、この数ヶ月間、傍にいた存在が居ないということを考えると一抹の寂しさが胸に巣食ってくるけれど。


、ちゃんと自分で出来るよ。レンが居なくても」
「……そんなこと、無いよ。マスターの愚痴を聞いたりして、オレが居なかったらマスター全然友達居ないくせに、どうするつもりなんだよっ」


 酷い言葉を言われた。の心が粉々に砕けちった気がする。いや……あの……友達居ないって酷……。居るからね! 居るから! 家に連れてきたことは無いけれど、居るから。
 ──でも、と思う。レンに愚痴を聞いてもらっていたりすることは確かだし、彼の存在によって救われたことも多々ある。そのことを考えると、多少ならずとも、はレンが居なくなったら支障をきたしてしまうのかもしれない。

 無言になってしまった。それに何を感じ取ったのかは知らないけれど、レンは腕を組み、不遜な態度を見せると、マスター、と言葉を強く口にした。


「オレが居ないと、マスターなんにも出来ないくせに、他の人の家に行ったほうがとか、友達の家に行ったら、とか言うなよなっ」


 なんとなく釈然としない部分は多々あるものの、ここは同意をしておかないとますますレンに酷い言葉を言われそうなので、頷いておいた。
 それにしても、オレが居ないと、オレが居ないと、なんて、特別な扱いを受けているみたいだ。思わず笑いそうになってしまう。けれど、今ここで笑ったら確実にレンの怒りに触れそうな気がしたので、は軽く苦笑のようなものを浮かべると、指を伸ばして彼の頬を突付いた。頬はわずかな弾力で、の指を押し返してくる。


「じゃあ、レンに逃げられたら、困っちゃうね。一人だと何にも出来ないんだからさ」
「逃げないよ、もう」


 茶化すように口にした言葉に、レンもわずかな笑みを含んだ言葉を返してきた。彼はそのまま肩を竦めると、含んだ笑みを浮かべ、二の句を続ける。


「逃げたら、マスター大変なことになっちゃうしね。まあでも、頼られるのは悪い気しないから、マスターはせいぜいオレに頼りまくれば良いよ」


 ──こんな小さいのに? なんて、意地悪な言葉は口にしない。代わりに、頬を軽く抓んでやった。直ぐに離したけれど、レンはそのことに対して僅かな怒りを抱いたようで、柳眉を逆立てて怒気を露にしていた。だけど、少しして、表情を一転、僅かな笑みをそのまま浮かべると、の指を自身の手のひらで包み込むようにして持ち、ぎゅっと抱きしめてきた。


「頼って欲しいよ、オレ。マスターに、さ」
「ん、じゃあ頼ろうかな。ひとまず、今日の愚痴を聞いてくれない?」
「また?」


 また、といわれるほどに頻繁に愚痴は言っていない気がするのだけれどなあ、なんて思いながら頷く。レンはなんとなく苦いものを表情に浮かべていたけれど、すぐにその色を打ち消し、不敵な笑みを浮かべた。の指先から手を離し、その場に座り込む。
 早く言いなよ。レンはそう言うと、眦を柔らかくした。

 夢みたいだと今も思う。ねんどろいどが動くなんて、非現実的過ぎるし、だって信じられない。
 でも、夢だとしたら、この夢がもう少し続けばいいのにな、なんて、は思った。


(終わり)

2008/12/21
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