<かじかんだ手のひら>

「マスター遅いねえ、帰ってくるの」


 ソファーに腰を下ろしたまま、白いリボンを微かにいじくり、リンは吐息を零すように言葉を続けた。その言葉に、リンの傍に腰をおろしていたレンが落としていた視線を上げる。彼はそのまま翡翠の如き瞳を時計へと這わせると、かすかな溜息を吐いた。
 確かに遅い。今日はせっかくのクリスマスなのに、マスターはどこで何をしているのだろう。わずかに責めるような色を感情に乗せ、けれどレンは緩慢に首を振った。どこで何をしているか。答えなんて簡単だ。マスターは外で、用事を終わらせるべく奔走しているのだ。

 レンには、マスターの用事が一体何なのかわからない。ただ、マスターはいつだって朝早くに出かけて行って、夜遅くに帰ってくる。学校へ行っているのか、それとも仕事をしているのか、彼には想像も尽かなかった。

 リンが身体から力を抜き、ソファーに身体を沈める。ずるずると、ソファーに飲み込まれていくかのように体が弛緩していく彼女を見ながら、レンは軽く苦笑を浮かべた。


「しょうがないよ、マスターだって用事があるんだから」


 レンは自分の思っていることとは正反対の言葉を口にする。が、中途でリンに睨まれるように見据えられ、彼の言葉は最終的に不明瞭なものへと変わっていった。
 リンの視線がレンから外れる。彼女は大きなため息を落とすと、視線をまっすぐ、玄関の方へと向けた。

 無言の膜が室内をゆっくりと満たしていく。レンは小さく吐息を零すと、そのまま視線を落とした。二人でいても、何もすることがない。いつもなら、二人でトランプやゲームをすることも可能だったのだが、リンの雰囲気がそんなことをしないと物語っていた。
 リンは、完璧に怒っていた。それこそ、誰かの気持ちをくみ取るのが苦手なレンでもわかるくらいに。

 居心地悪く、レンは自身のネクタイをいじり始めた。早く帰ってきてよ、マスター。胸中でそのような言葉を零し、彼は顔を伏せる。その時、静寂を切り裂くように鈴のような高い声が彼の耳朶を突いた。


「そんなこと、思ってもないくせにさあ」


 リンの声だった。彼女の声は高く通り、レンの胸の内へと痛みを伴って降り注ぐ。何について言っているか、レンにはすぐにわかった。とたんに頬が赤くなる。
 そんなこと、思ってもないくせにさあ──、その言葉が向かう先は、確実にさっき言った僕の言葉にだろう。マスターだって用事があるんだからしょうがない、なんて思ってもないくせに、とリンは言っているのだ。

 自身の心を見透かされたようで、レンは拳を固く握った。そんなこと言わなくて良いじゃないか。どうして僕にあたるんだよ。理不尽な思いが彼の胸に降り積もる。


「──はやくマスター、帰ってこないかなあ」


 本当にね、と同意をしそうになり、レンは首を振った。そんなことを言っては、リンに「さっきと言っていること矛盾してるじゃん」と言われるだろう、ということが安易に想像がついたからだ。
 いつものリンとは違うことは明白だった。リンはマスターのこととなると直情的になるのだから、しょうがないのかもしれない、とレンは思った。
 彼は何をいうこともせず、もう一度時計へと視線を向かわせる。短針がさす数字を読み取り、彼はため息をついた。

 早く帰ってきたら良いのに。何をしているんだろう、マスターは。
 秒針の進む速度が、遅いように思われる。マスターが返ってこない時間が永遠に続きそうで、レンは表情に苦いものを浮かべた。遅い。どうして。疑問が彼の頭をめぐる。

 せっかくのクリスマスなのに──。レンは胸に、小さい鋭利なもので皮膚を軽く刺されたような、痛みを感じた。
 リンも同じことを考えていたのだろう。彼女の口からため息が漏れ、弱弱しい言葉が紡ぎだされる。


「クリスマスなのに……」


 レンとリンがクリスマスの存在を知ったのは、十一月の終盤辺りのことだった。街がイルミネーションでかたどられはじめ、それについてレンとリンが疑問をマスターにぶつけたことによって、二人はクリスマスという行事について知ることとなった。
 いい子にしていたら、サンタクロースというおじいさんがやってきて、望むものを与えてくれるということ。二人はそれを聞いて、瞳を輝かせた。

 二人の願いごとは決まっていた。

 不意に、リンがソファーから勢いをつけて立ち上がる。彼女はそのまま仁王立ちすると、拳を固く握り、天上へと突き上げた。


「帰ってこないなら、行くまでだもん! レン、行くよっ」
「え……え?」


 拳を下ろし、リンはレンへと視線を向かわせる。美しい湖面の色が重なった。彼女は瞳に強い感情を浮かべ、言葉をあらあらしく続ける。


「何処に行っているかは、あたし、知ってるし!」
「……リン、マスターの邪魔になるよ。それに、行き違いになったら、どうするつもり」


 リンの発案はとても良いと思うけどさ、とレンは続け、苦笑を浮かべた。リンが顔をしかめる。苛立たしげに唇を尖らせ、彼女は、でも、と渋るように言葉を発した。
 リンとしては、マスターにどうしても会いに行きたいと思っているのだろう。それは、レンだって同じだった。
 今日は、雪こそ降っていないけれど、とてつもなく寒い。マスターは厚着をしていたけれど、それでも、心配だった。寒さに凍えていないだろうか。マスターがかじかんだ手のひらを擦り合わせ、暖を取る様子を、レンは簡単に想像が出来た。

 会いに行く。会いに、行きたい。けれど、行き違いになったら、マスターと過ごす今日という時間がもっと減ってしまう。
 ──そんなの、やだ。せっかくのクリスマスなのに、マスターと一緒に過ごせないなんて、やだ。レンは首を振り、それからなだめるような笑みを浮かべ、リンを見た。


「だから、待とう。家で」
「うう……やだなあ……。マスターに早く会いたいのに。どうにかして早く会う方法って、無いかなあ」


 レンの言葉に、リンは悲哀な色を顔に浮かべ、ソファーにもう一度腰を下ろした。そうして、肘を自身の太ももあたりにつく。彼女の唇から、会いたいよ、という言葉が囁くように漏れる。それきり、彼女は口を閉ざしてしまった。
 マスターに早く会う方法を、リンなりに考えているのかな。リンの顔を盗み見て、レンはそっと肩を落とした。会いたい。リンはしきりにそう言っていた。僕だって会いたい。早く帰ってくれば良いのに。レンは視線を、時計へと向ける。何度目かわからない行動を繰り返し、彼は表情を歪めた。

 リンはいつだって、真直ぐにマスターへの愛情を伝えている。けれど、僕は、愛情をあんまり上手に伝えることが出来ない。いつも、いつもいつも、言葉を言おうとするたびにためらってしまう。この言葉を言ったら、この行動をしたら、マスターはどう思うだろう。僕のことを嫌いになっちゃうかな。
 そう思うと、いつだってレンは何をすることも出来なくなった。マスターに抱きつくことも、マスターへ願いを伝えることも、マスターに言葉を伝えることさえ、ためらってしまう。嫌われたら。マスターが自身に抱えるであろう思いだけを考え、彼は上手く行動できずに居た。

 好かれるように、好かれるように、マスターに自分のことを好きになってもらうために──、レンは自分の願望を口にしたことは無かった。

 その点、リンは自分が相手からどう見られるか、どういう行動がどういう心象を与えるのか、熟知していた。どんな風に甘えればマスターが自分のことを好きになってくれるか、どんな風にすればマスターに好印象を持たれるか。リンは意識的にせよ、無意識的にせよ、マスターに好かれる行動をすんなりとやってのけていた。

 レンは視線を伏せる。僕はどうしてリンじゃないんだろう。二人で一つの存在なのに、どうして、こんなに違いが出るんだろう。視界がにじみかけ、彼は唇を食いしばった。瞬間、部屋にリンの嬉しそうな声が響き渡る。


「そうだ! あたしっ、良い事思いついちゃったよ、レン!」


 リンは再度、ソファーから跳ねるように立ち上がり、レンへと向き直った。彼は一瞬、自身の泣きそうな顔を見られるのでは、と危惧したが、リンはレンの表情など意にも関した様子も見せず、親指を立てて拳を作った。それをそのまま、レンへと突き出して笑う。


「外で待ってれば良いんだよ! どうどう、良い案だと思わない? ね、レン!」
「……え」


 外で待ってれば? どういう意味、とレンの唇から唖然とした声が漏れる。リンは突き出した拳を解くと、そのままメトロノームのように人差し指を突き立て、左右に振りながら、得意げに言葉を続ける。


「家の外っ。つまり、玄関前で待つの。そうしたら、行き違いにならないし、マスターに早く会えるよ!」


 良い考えでしょ。リンはそう続け、反応を見るようにレンと視線を合わせた。
 玄関前で。レンは小さく吐息を零す。それは、良いかもしれない。行き違いにもならないし、何より、マスターに早く会える。マスターが帰ってくる姿を、見とめることが出来る。
 レンは笑みを浮かべ、頷いた。


「良いと思う」
「じゃあ、支度しなきゃね。コート着なきゃ、コート」
「そうだね」


 レンの返答を聞くや否や、リンは駆け出した。向かう先はコートのある場所だろう。少し待っていると、リンは両手にコートを持って帰ってきた。レンに持っているコートを渡し、自身も素早くコートを羽織った。レンもリンに倣い、袖に素早く腕を通し、コートを羽織る。
 リンとレンのコートは、マスターが買ってきたものだった。リンとレンは人間と同様に体温があり、長時間寒いところに出ていると、風邪をひいてしまう。だから、と二人におそろいのコートをマスターは買ってきたのだ。
 首についてあるタグの部分に、二人のイニシャルが油性ペンでかかれている。RとL、間違わないように、と二人が書いたものだ。
 同じコートなのに、とマスターが苦笑を零したときがある。その時、二人は顔を見合わせて強く言葉を発した。「同じコートだからです!」
 二人にとって、マスターからの贈り物は自分自身一人のものであり、間違えるなんてことは考えられなかった。

 リンがレンの手を取り、そのまま足早に玄関へと向かう。扉を開き、リンとレンは外へと出た。吐く息が白く二人の視界を濁らせる。リンは鍵を閉め、扉がしっかりと施錠されているか確認してから、歩を進めて、道へと出た。表札がつけられた塀へと近寄り、体を預ける。
 レンも同様に、彼女の横で塀に体を預けた。夜だからか、辺りは静かだった。空気がしんとしており、吸い込むとレンとリンの肺へと深く沈んでいく。マスターが帰ってくる方向を二人は知っていたので、道の果てを見るように遠く視線を這わせながら、彼らはマスターを待った。

 夜の帳が落ちた空には、わずかながらも星明りが見て取れた。その明り、そうしてぽつりぽつりと設置された街灯が住宅街の道を優しく照らしていた。
 レンはコートのポケットに繋がっていないほうの手のひらを潜らせる。手の先が冷たくなっていた。リンと繋がった手のひらは、二人のぬくもりがあるからか、温かかった。
 不意に、リンが口を開く。


「……マスターが見えたら、あたし、走るから」


 リンとレンの視線が向かい合う。彼女は困ったように笑うと、だから、と言って手のひらをやんわりと離した。先ほどまでの温かさを失った手のひらをレンは平然としてもう片方のポケットへともぐりこませた。
 マスターが見えたら、あたし、走るから。続きに来る言葉を、レンはわかっていた。レンを引っ張っちゃうから、ころんじゃうかもしれないし、離すね、と言うようなことをリンは続けようとしたのだろう。
 なんとなく、それに寂しくなった。リンは、僕がマスターを見つけても走りださないと思っているから、そう言うのだろう。



「……僕も走り出そうかな」
「レンが?」


 素っ頓狂な声がリンから漏れる。それは予想外に静かな住宅街に響いた。レンは手のひらをポケットから抜き出し、人差し指を自身の唇にあてる。リンはそれを見て、自身の口を大慌てで塞いだ後、困ったように視線をうろうろとさせた。


「レンが、そっか、そうだよね、レンもあたしと同じでマスター好きだもんね」
「うん。でも、困らせちゃうよね。止めとこうかな」


 微苦笑を零し、レンは首を振った。リンがなんで驚いたのか、自分でもよくわかっていた。自分らしくないから、リンは驚いたのだろう。そんな風に行動するなんて、レンらしくない、──リンの行動が、彼女の思っている言葉を如実に表していた。
 片割れであるリンでさえ驚くのだから、マスターだったらもっと驚くだろう。僕がリンと一緒に走って近づいていったら、きっと驚いて、それから、困るに違いない。
 確信めいた思いを抱え、レンは視線を落とした。呼吸するたびに彼の肺に凍りつくような酸素が入りこんでくる。吐き出すと、白色が視界をにじませる。どうしてか辛く思いながら、レンはその場で地面を軽く蹴った。靴の爪先が擦れ、音を発する。


「マスター、困らないと思うけどなあ。レンってば考えすぎだよ。いっつも思ってたけどさ、レンってもうちょっとマスターにくっつけば良いのに」
「でも、きっと、困らせちゃうよ。僕、マスターを困らせたくないからさ」


 レンが頷きながら、軽く笑いを零す。その際漏れた白色を眺め、リンは表情を歪めた。彼女はポケットにもぐりこませていた手のひらを出し、そのままレンへと振り下ろす。手のひらはレンの頭にあたり、鈍い音を立てた。
 レンが驚いたような声をかすかに出し、リンを目を白黒させて見つめる。リンはそんな視線など気にしない様子で、マスターの帰ってくるであろう方向を見ていた。

 レンの頭に痛みがじんわりと滲む。どうしてこのようなことをされたのかわからず、レンは何故か泣きそうになった。どうして僕がこんなに目に会わなくちゃいけないんだよ、吐き捨てるように胸中で呟く。
 リンの怒りに触るようなことを言った覚えは無い。だったら、どうして。唇を波打たせ、レンはそのまま眉を寄せた。瞬間、リンの体がかすかに跳ねる。何事、とレンはリンへと視線を向ける。リンは、寒さのせいで少しずつ血色を失っていた頬を、今や桜色に染め上げ、そのまま走り出した。


「マスター!」


 近所の迷惑なんて全く考えていない声量でマスターを呼び、リンは走っていく。リンの向かった方向へと視線を向け、レンも一瞬、走りかけた。が、寸でのところでそれを止める。
 僕が行ったら駄目だ。迷惑になっちゃう。マスターが、困っちゃうよ。頭のどこかでそんな言葉が鳴り響き、彼の行動をためらわせる。レンは何をすることも出来ず、そのままリンの向かった方向を凝視していた。
 遠く遠くに、マスターの小さな姿が見える。それに追いついたリンの姿も。リンはマスターに抱きつくと、嬉しそうにもう一度、マスター、と言葉を口にした。

 その声が耳朶をつき、レンは静止を解いた。瞬きを忘れたかのように二人を見ていた瞳を伏せ、そのまま頭を横に振ると、マスターのいる方へと早足に歩いていく。彼は走り出そうとしなかった。
 マスターとリンが居るところへとつく。リンはマスターに寄り添うように、マスターの腕を組んでいた。困ったように、けれど嬉しそうなマスターの表情が目に入り、レンはがくぜんとする。
 ……迷惑じゃなかった、のだろうか。だったら、僕もやればよかった。どうして、僕はやらなかったんだろう。後悔の念が彼の胸を苛む。が、それを表に出さず、レンはマスターを呼んだ。マスターがレンを見て、嬉しそうに笑う。


「レンも、居たんだ。うわー、嬉しいなあ」
「マスター……」


 マスターの右手には、リンの腕が絡まっていた。左手には、大きな白い箱の入った、透明なビニール袋を吊り下げていた。
 二つの手のひらが満たされているのを見て、レンは表情をゆがめる。手を繋ぎたかった。


「マスター」
「ん、どうしたの。レン」


 手を繋いでも良いですか。そう問いかけ、レンは口を閉ざした。迷惑だ、マスターの両手は塞がっているのに、どうやって繋ぐというのだろう。何を言う事も出来ず、けれど、マスターが不思議そうに見てくるので、彼は思いついた言葉を口にした。


「そ、その、左手の……、なんですか」
「これ? これね、ケーキなんだよ、ケーキ! 奇跡的に売れ残ってたから、買ってきたよ。三人で食べようね」


 マスターが弾んだ声で言葉を紡ぎだす。それに対し、リンは感嘆したような声を漏らすと、ますますマスターと組んだ腕を密着させるように、力を込めた。


「ケーキ! やったあ、早く食べようよ、マスター!」


 リンが大股に足を進ませる。それにつられ、マスターも歩き出した。マスターの顔には微かな笑みが浮かんでおり、それを見るとレンは胸が締め付けられるような感触がした。二人に置いていかれるといやなので、レンも歩を進ませる。
 ──家は、歩いたら、すぐついてしまう。どうすれば、どうすれば僕もマスターにくっつけるんだろう。

 レンはリンとマスターの絡まった腕を見て、僅かに顔をしかめる。僕も繋ぎたいのに。マスターの、左手と。レンは視線をマスターの左手へと這わせる。手袋をしていないせいか、冬の寒さに指先がかじかんでいるのが見て取れた。
 無意識に、レンはポケットの中で拳をゆるく握った。ポケットにずっと入れているせいか、手のひらはうっすらと汗ばんでいた。拳を解き、ポケットの内側に汗をなすりつけるように手を動かし、彼は意を決してマスターを呼んだ。マスターの歩が止まる。


「どうかしたの、レン」
「手、を……っ」


 手を繋いでも良いですか。そう問い掛けると嫌われてしまうだろうか。両手が塞がっているのが見えないの、なんて言われてしまうかもしれない。違う、マスターのことだからきっとそんなこと、言わないのはわかってる。けど。
 レンの頭の中でぐるぐると言葉が回る。マスターは彼の二の句を待つべく、視線を逸らさずにレンを見ていた。彼の唇が開き、大きく息を吐き出す。風景がそこだけ白く濁った。


「……手の、ケーキ、重いですよね。僕、持ちます」


 だから手を繋ぎましょう。そう言うことはせず、レンはマスターに近寄ると、やんわりと左手から吊り下げられている、ケーキの入ったビニール袋を取った。マスターが驚いたような表情を顔に浮かべ、それから軽く笑う。左手をひらひらと胸の前で振り、マスターは言葉を口にした。


「ありがとう」
「マスターのお役に立てたなら、僕、嬉しいです」


 感謝の言葉に、レンは頬が赤くなるのを感じながら笑った。袋を左手に持ち、彼は視線を落とす。
 言えなかった。言えば良かったのに。少しくらい、わがままを言ったって、良かったのに。彼の胸中に色々な言葉がめぐる。ただ、それを言うことも出来ず、彼はそのままもう一度大きく息を吐いた。瞬間、彼のポケットに手のひらが滑り込んできた。
 体が固まる。誰の手のひらか、なんて、考えるはずもなかった。冷たい、冬の寒さに凍えていたであろう手のひらが、ポケットの中、強く拳を握り締めていたレンの手のひらをそっと包む。


「ます……っ」
「いやあ、寒いからねー。レンの手はあったかいね」
「え、あの、あのあの、あの、あのっ」


 状況の理解が出来ず、レンの唇からは不明瞭な言葉が漏れる。マスターがそれに対して、困ったように笑う。嫌だったかな、そう言って、ポケットから冷たい手のひらが出て行こうとする。
 嫌じゃない。嫌なんかじゃないのに。レンは咄嗟にマスターの手のひらに自身のそれを絡めた。マスターがレン、と微かに驚いたような声を出し、それからはにかむように微笑む。

 その表情を見て、レンはどうしようもない気持ちに襲われた。胸の内が温かい何かに侵食されていく。回路を循環する電気が、どうしてか酷く早くなる。頬に熱が集まり、彼は自身の体、全身が火照っていくのを感じた。


「僕、その、嫌なんかじゃなくて……っ、その、えっと、……あう」


 言いたい言葉があるはずなのに、頭がよく回らず、レンは口を閉ざした。これ以上、言葉を発したら自身が変なことばかり言ってしまうかもしれない、むしろ、もう変に思われているかもしれない。いつのまにか下がっていた視線を上げ、マスターとあわせる。
 マスターは、笑っていた。

 瞬間、レンは泣きそうになった。
 僕が手を繋ぎたいって思っていたこと、マスターはわかっていてくれたのかな。手を繋ぐのって、迷惑じゃないのかな。
 彼の視界が滲む。それを強引に取り払うように、彼は顔を振った。マスターともう一度視線を合わせ、笑う。リンが、レンずるい、と愚痴るように言うのが、静かに響く。


「マスター、帰りましょう」
「うん、帰って、ケーキ食べよう。遅くなって、ホントにごめんね」
「そうだよお! あたし、すっごくすっごく待ってたんだからね! マスター、家帰ったら覚悟してよ!」


 頬に空気を含み、リンは言葉を続ける。それに困ったようにマスターが笑う。レンも、笑みを浮かべた。
 遅くなっていたことに対して怒っていたはずの気持ちはどこかへ行き、彼はただ、ずっと手を繋げていたら良いのに、と、絡んだ手のひらに力を込めた。


(終わり)

2008/12/25
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