僕はいつも、マスターの背中ばかりを見ている気がする。


<あなたの夢中を奪うもの>


 僕は鏡音レン。キャラクター・ボーカロイドシリーズの2番目に発売された。素体タイプはβ、素体αはリンだ。マスターは女の人。僕よりも年齢が高い。まあ、僕と同じ年の人間が、僕を買うなんてことは正直、無理に近いのだろうけれど。僕は高いから。
 ……僕のマスターは、いつだって、色んなことに夢中になっている。ゲームとか、漫画、それに芸能人、他にも色々。マスターは全てのことに対して、浅く広くを貫いているのだろうと思う。
 ただ、僕に関しては違うのだろうけれど。

 ──不意に、名前を呼ばれた。色々と考えていたことを胸の奥底へと素早くしまいこみ、僕は人好きのする笑みを浮かべる。目の前にはマスターが居て、そのマスターの近くにはパソコンがある。デスクトップ型のパソコンで、重いんだよねー、とマスターが口にしているのをよく聞く。

 調整してもらっているときに、意識を飛ばすなんて、ボーカロイド失格だ。僕は小さく肩を落とすと、マスターに何かを言われる前に、ごめん、とだけ言葉を紡ぐ。マスターは、ん、と小さく返事をすると、パソコンへと視線を向けてしまった。
 何か言ったら良いのに、と思う。ボーカロイドなのに調整中に意識を飛ばさないでよね、なんて、笑って言えば良いのに、と思う。僕がマスターだったら、きっと言っていただろう。けれど、マスターは僕じゃないから、僕の思ったことを口にはしない。

 なんとなく、悔しくなった。マスターは平然とタブレットを動かして調整をし、次いで僕に視線を向けた。歌って、──マスターの声が僕に命令を下す。僕は小さく息を吐くと、おなかの横につけたケーブルから、調整されたデータが転送されたのを確認して、口を開いた。

 僕は、マスターが好きだと思う。マスターにいつだって触れたいし、マスターが望むことなら、喜んで叶えたい。
 けれど、マスターは僕のことが好きではないらしい。マスターは僕に触れたいと思うこともせず、僕にボーカロイド以上のことを望みもしない。
 それが、マスターとして普通なのかもしれない。ボーカロイドに対して、僕らに歌うという行為以上のことを求めないのは。けれど、僕としては不満ばっかりがあった。色んなことに夢中になるくせに、僕だけには夢中になってくれない。いつも、どことなく線を引いたかのような態度で僕にあたってくる。どうしてなのかは、わからない。

 歌い終わり、口を閉ざす。マスターは嬉しそうに笑みを浮かべると、うん、と一度大きく頷いた。


「良い感じだよね。どう思う、レン」
「良いと思うよ。僕、マスターの調整好きだな」


 マスターが薄く笑みを浮かべる。ありがとう、感謝を述べる声が耳朶をゆるくついた。
 マスターの顔は正直、十人並みだと思う。けれど、マスターが笑うと、僕はいつだって胸をわしづかみにされたような感触を感じた。辛い感情だ。けれど、どうしようもないほどの幸せを感じることもある。マスターは僕の笑顔を見ても、胸をわしづかみにされたようには感じないだろうから、なんとなく理不尽だと思う。

 マスターは調整を終えたのか、エディターを閉じた。それを見計らって、僕はマスターに近づく。


「マスター、僕さ、もっと歌いたいな。マスターの手で、僕のこと、調整してよ。もっと」
「ごめん、疲れたから」


 意識して声を甘くして、囁くように口にした言葉が難なく交わされる。いつものことだから、僕は苦にも思わない。小さく肩をすくめ、口唇の端に乗せるような笑みを浮かべて、僕は微笑む。


「そっか、残念」
「うん。ごめんね、本当に」


 マスターは笑って、僕の頭を撫でた。まるっきり、子ども扱いだ。なんとなく、凹んでしまう。僕は子どもじゃないのに。マスターは対等な存在として、僕を見てくれないのだろうか。頭を撫でる手のひらをそっと掴んで、頭から下ろす。僕の胸の前で、マスターの手のひらを両手で包むように持った。ほんの少しだけ逡巡して、言葉を紡ぐ。


「マスターの手のひら、綺麗だよね。僕、マスターの手、好きだよ。僕にずっと触れていて欲しいくらい」
「手だけ?」


 からかうような言葉に、一瞬だけ唖然とした。その間に、マスターの手が僕の手のひらの中から、緩慢な速度で離れていく。僕はそれに、何の反応も出来なかった。
 マスターが微かに笑って、冗談、とだけ言葉を口にする。その言葉に、僕は苦いものが表情に浮かぶのを感じた。手だけじゃない、と今言っても、きっとマスターは笑うだけで何も返してこないだろう。
 それでも、言わないよりは良いだろうと思って、僕はマスターとしっかり視線を合わせて、悪戯めいた笑みを浮かべた。


「全て好きだよ。マスターの全て、僕にちょうだい」
「ごめん、のものだから」


 マスターが困ったように笑って、そのまま何処かへと歩を進めはじめる。マスターの背中を見ながら、僕は顔をしかめてしまうのを抑えきれなかった。

 マスターは、大人だ。それこそ、いやになるくらい、僕よりも社会経験を積んでいて、僕の言葉をひらひらと空中に漂う紙のように、優雅に交わしていく。頑張って捕まえようと、頑張って答えてもらおうと力めば力むほど、マスターは僕の手からすっとすり抜けてどこかへと飛んで行ってしまうのだ。
 言葉をかわされるとき、僕は本当に辛くなる。僕は他のレン達よりは大人に似た性格をしているはずなのに、それでもマスターに追いつけない。僕は、マスターの背中ばかりを見ている気がする。
 いつか隣に並んで歩ける日は来るのだろうか、なんて、いつも考えていることを頭に思い浮かべて、僕は嘆息を漏らした。

 マスターは何事も自分でする。家事はもちろん全部、自分で行う。僕にもそういった、家事を行う昨日は最初から付属しているけれど、マスターは僕に全く家事をさせてくれない。
 そんな風に全てを自分で頑張るからか、マスターの手のひらは少しだけ、がさついていたりする。けれど、僕にとって、その手のひらは何にも換えがたい、美しい手のひらだった。マスターはその手を、ほんのすこしだけ気にしているみたいだけれど。

 その点、僕の手のひらは全く、滑らかなままだ。マスターの手の触りごこちと、自分の手の触りごこちを比べると、嫌な気持ちが僕を満たす。
 僕は、マスターに出来ることは全部してあげたいのに、マスターは僕が色々なことをしようとすると、決まって柔らかく笑って、制止してくるのだ。好きな人に止められて、僕が無理やり行動を続けることなんて、出来ない。

 色々な考えが頭を巡って、僕は微かに肩を落とした。マスターがどこかへと行ってしまった方向を眺めて、僕には何も出来ないのだと実感して、僕は大きく吐息を零した。

 何をすることもできず、マスターが持っている本を勝手に拝借して読みふけっていると、不意に台所方面から美味しそうな匂いが漂ってきた。夕飯を作っているのだろう。手伝おうとすると、いつだって断られるけれど、僕は立ち上がってマスターの居るであろう場所へと読んでいた本を手に、向かった。

 案の定、マスターは台所に居た。鍋、おそらくは味噌汁の入っているそれをお玉でかき回している。時折、お玉を鍋から掬い上げて、縁に口をつけているのが見えた。きっと味の確認をしているんだろうと思う。
 マスターの動作の一つ一つが、僕は好きだ。何時間でも見ていられる。僕はマスター、と呼びかけて、マスターの元へと歩を進めた。お玉を口から離して、マスターは笑う。


「レン、どうかしたの」
「なんとなく、呼んだだけ。ごめんね、邪魔だったかな」


 そんなことないけど、と、マスターは言葉を続けて、不意に視線を落とした。どこへ向かっているのか、と瞳の向かう先を辿ると、僕の手のひらがあることに気付く。手のひらは本を持っていた。恐らく、マスターはこれを見ているのだろうと推測をつけて、本を持ち上げる。軽く笑って、僕は口を開いた。


「勝手に借りちゃって……、ごめんね」
「ううん、良いよ。でも、そっか、レンも本を読むんだね」


 暇だからね、という言葉を返しかけ、慌てて喉の奥へと仕舞いこむ。何を言おうとしているのだろう、僕は。こんなの、いやみだ。確実に言ってはいけないことばだろう。マスターに申し訳ない思いをさせてしまうのは、どう考えても明らかだった。
 急に無言になってしまったというのに、マスターはさして気にもしない様子で、僕から視線を逸らした。なんとなく、話は終わった、と言外に言われたようで、辛くなる。

 何を言おうか、なんて考える。今、マスターは料理をしているけれど、どうしても僕はマスターの気を僕にひきたかった。僕を見て欲しい。僕と色々な話をしてほしい。ボーカロイドが、こんなことを考えるなんて、おかしいのかもしれない。
 マスターの気をひくような言葉をメモリ内から探し出すべく思案していると、唐突に、耳朶をゆるく言葉が突いた。


「それ、面白いでしょ」


 一瞬、誰の声かと思った。マスターと僕しか居ないのだから、言ったのはマスターに決まっているというのに。マスターは鍋をかきまわしながら言葉を続ける。


、それ、すっごく夢中になっちゃってさ。レンもきっと、夢中になると思うよ」
「え……あ……」


 気の利いた言葉が口を突いて出てこない。それどころか、変な声を出してしまった。頬が赤くなる。僕は調子を整えるように呼吸を繰り返し、それから、肯定するような返事をする。


「そうだね。マスターが夢中になったのなら、僕もきっと夢中になると思う」


 マスターが好きになったものは、全部、僕も好きになりたいな。そう続けて、僕は口を閉ざした。マスターが微かに笑って、コンロの火を止める。視線が真直ぐ、僕に向かってきた。
 マスターの瞳に強く見据えられ、一瞬、息が止まるかと思った。


が好きなもの、レンが好きになってくれたら、本当に嬉しいな」
「──っ」


 息が詰まった。動揺してしまった。どうにかして懸命にその動揺を悟られないように、悟られないように、と頭の中で言葉を紡ぎながら、僕はいつもの通り、呼応するように笑みを浮かべた。上手く笑えている自信はあった。


「じゃあ、僕、本を読んでくるよ。マスターの好きなもの、一刻も早く、僕も好きになりたいから」


 マスターの唇から声が漏れる。淡く、甘い感情で染められたそれは、僕をせかすのに充分だった。いつもだったら、断れるのをわかっていても手伝うよ、というのに、今はそんなことを言う余裕が無かった。
 余裕が無いことを悟られないように、僕は極力ゆっくりと歩いて、与えられた自室へと入った。扉を閉めて、それから息を吐く。
 いつのまにか、胸に抱くようにして持っていた本へと視線を下ろして、僕は笑い声を零した。

 ──が好きなもの、レンが好きになってくれたら、嬉しいな。
 こんなこと、初めて言われた。マスターの好きなものを、僕が好きになったら、嬉しい。それは、どうしてなのだろう。どうして。問い掛けたい。けれど、問い掛けてもきっとあいまいに笑みを浮かべて交わされるだけだろう。マスターは僕の問いかけを、ひらひらと避けていくから。

 胸の内で色々な感情が混ざる。これは、ひょっとして、少しだけ、振り向いてきてくれているのではないだろうか。僕のことを、好きになってきてくれているのかもしれない。
 そう考えると、どうしようもなくニヤけてしまう。おかしいな、なんて言葉を零しながら、僕はいそいそと本を開いた。読むのを中断したページをたどり、文字列を指先で辿る。

 マスターを夢中にした本を読み終えたら、感想を伝えよう。どこそこが面白かった、なんて言って、話題を膨らませたりしたら、マスターはきっと嬉しそうに──僕の好きな笑顔を浮かべてくれるはずだ。
 読み終わったら、マスターに聞いて、マスターの夢中になった本を貸してもらおう。マスターの好きなものを辿っていくんだ。

 興奮したせいか、紅潮する頬をそのままに、僕は文字をたどっていく。
 マスターの夢中になった本を全て読み終えたころには、マスターが僕に少しでも振り向いてくれたら、良いのに、なんて、僕は笑った。

(終わり)

2008/12/27
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