<想いを込めて>


 目を開けると、至近距離にレンが居た。起き抜けだからか、上手く回転しない頭で現在の事態を考えながら、は目の前の翡翠と見つめあった。零れ落ちそうな瞳が数回瞬きを繰り返す。瞳にうつるのは困惑と、それと、焦り、だろうか。
 視線を逸らす。周りを見渡すように瞳を動かすと、肩に細く小さな、けれどしっかりと骨ばった手のひらが置かれている光景が視界に入った。まちがいようもなく、レンの手のひらだろう。
 視線を戻し、目の前の彼の顔を見つめる。彼は本当に近い場所に居た。吐息がまじりあいそうなほどに、近い。はひきつりそうになる頬をどうにかして押し留め、レン、とだけ名前を口にした。瞬間、目の前の顔が真っ赤に染まる。レンはから素早く距離をとると、自身の手のひらの甲を頬に押し当てるような格好をして、焦ったように言葉を紡いだ。


「ち、ちが、ちが……! こ、これ、そのっ、寝ている間に何かしようとしていたんじゃなくて、その……!」
「は、あの、レン」


 何度もどもり、レンは言葉を続ける。寝ている間に何かしようとしていたんじゃなくて、って……、いや、そんなこと、全く考えていなかったし、正直、そんなことをする度胸なんてレンには無いと思っているので、今の状況は非常に眉唾ものだ。
 レンは何度も、弁解めいた言葉を続け、が何もいえずに居ると、どうしてか、急に怒ったように言葉を紡いだ。


「っていうか、こんなところで寝るとか、、馬鹿じゃん! ば、馬鹿、変態っ、馬鹿!」
「こんなところって……」


 果たして最後の罵詈雑言は必要だったのか、なんて思いながらは周りを見た。視界に収まるのは、ソファー、テレビ、それに小さな机。遠くの方にパソコンがあるのも見える。
 は、先ほどまで寝ていた。ソファーの、上で。最近は用事が忙しくて疲労がたまっていたのだと思う。それに、窓からさしこむ光も暖かかったから、いけないのだろう。全てがに寝ろと言っていた。
 眠りについたのは、昼過ぎだったと思う。時計へと視線を向けると、それほど時間は経っていなかった。たしか、がふねをこいでいたとき、レンはパソコンで色々と調べていたと思うのだけれど、どうしてか起きたときにの肩に手をかけて顔を近づけていた。
 状況を頭の中で思い浮かべてみると、なんとなく、レンが行おうとしていた行動が予測できる。レンはにキスをしようとしていたのではないだろうか。

 ……これは、アレか、嬉しいと思っても良いこと、なのかな。よくわからない。取りあえず、はふと笑みを浮かべると、レンへと視線を向ける。
 レンは、どもりながら言葉を続けていたけれど、の視線に気付くと、唇を波打たせて不明瞭な言葉を発し、しまいには何も言わなくなってしまった。彼の手のひらが自身の服の裾を握りしめる。


「オレ……その……」
「ふふん、レンきゅん、に何をしようとしていたのかなー」


 ちょっと、からかってみようかな、なんて思った。ソファーから立ち上がり、から離れたところで棒立ちになっているレンへと近づく。
 レンは、の行動に焦ったような表情を浮かべ、後ずさろうとしたのか、一歩後ろへと足を踏み出して、けれどそのまま退がろうとせず、視線を周りへとめぐらせる。どうやら、困っているみたいだ。いいね! かわいいね!
 レンの焦った表情なんて、久しぶりに見た。思わず浮かぶ笑みをそのままに、は大股にレンに近づき、彼の手を取る。


「レーンきゅん、何をしようとしていたのかな」
「な、なにも、しようとして、なんか……無い……」


 明らかに嘘だとわかる言葉を吐き出し、レンはの掴んだほうの手のひらを振った。の手を離そうとしているのだろう。ふふん、そんなことで離れるほどはやわではない。口唇の端を持ち上げる。


「あれだよ、嘘吐くならスク水を着てもらうよ」
「やめっ、や、やだ! やだっ、スク水なんて、そんな……へ、へへへ変態いぃいい!」


 レンは絶叫するかの如き声を出し、盛大に首を横に振った。そこまで嫌がることだろうか。スク水良いじゃん、ロマンじゃん。レンといったらスク水みたいな、そんなイメージが色々な人の中で定着しているのを彼は知らないのだろうか。


「なら、何をしようとしていたのか、言ってくれないかな」
「……何もしようとなんて、してない」


 だったら何であんな至近距離までに近づいていたのだろう。そこのところを問い詰めたくなるものの、これ以上そのことについて訊いたら、確実にレンは怒り出しそうな雰囲気があったので、止める。
 まあ、キスは無いだろう。どうせ、の頭とかにホコリか何かがついていて、それを取ろうとしたときにが起きてしまった、というような感じだと思う。
 レンから手を離す。微かな声が、彼の唇から漏れた。困惑を宿した瞳が、を一心に見つめる。


「うん、そっか。ごめんね」


 軽く笑って言葉を続ける。レンが、一瞬だけ、寂しそうな表情を浮かべた。直ぐに彼は俯くと、何を考えているのか、首を緩慢な動作で振り、顔を上げた。頬が赤い。彼は桜色の唇を開くと、わずかに震えた言葉を紡ぎだした。


「……あの、あの、、あのさあ……」
「うん?」
「怒らないで、くれる」


 語尾を上げ調子に問い掛けられる。怒らないでくれるって。怒られるようなことをレンはが寝ている間にしたのか。思わずひきつった笑みが浮かんでしまう。内容によるね、と言葉を紡ぎだそうとして、それを言ったら彼は言わなくなるだろう、という考えが過ぎったので、咄嗟に言葉を言い換える。


「怒らないよ。あんまり変なことだったら怒るけど」
「じゃあ、いい」


 レンの視線がからふいと外れる。彼はそのまま拗ねたような表情を浮かべたまま、の横を通りぬけてソファーへと座り込んだ。膝を抱えるようにして座り込み、顔を伏せる。
 言葉を誤ったみたいだ。自分の先ほど言った言葉を胸中で再度、紡ぐ。正直、内容によるね、という言葉を遠まわしに言ったようなものだと、今思った。
 っていうか、何、変なことをしたのか。一体何をしたって言うのだろう。変なこと──。……もしかして、顔にラクガキとかされてたり、して……。いや、いやいや、そんなことないよね。え、レン、そんなことしないよね。

 思わず手のひらを頬にあてる。擦るものの、別段変なところは無いように思える。いや、でも、もしかしたらってこともあるし。はいつのまにか床へと向かっていた視線を上げ、レンを見た。
 え、レン、ラクガキなんて、してないよね。──そんな思いを込めて彼を見つめたのだけれど、伝わったのか、伝わっていないのか、翡翠の瞳は視線が交わりあうやいなや、即行でそらされてしまった。

 え。え、え、……え? 変な声が漏れそうになる。いやいやラクガキってどれだけのこと嫌いなのってお話だし、まさかそんな恨みを買うようなことをした覚えはないんだけれど。
 嫌な考えが頭の中で膨らむ。はレンから視線を離すと、そのまま洗面所へと向かった。
 ……これ、ラクガキされていたら、立ち直れない。

 洗面所にある、大きめの鏡に自身の顔をうつす。ラクガキは、されていなかった。されていたら、と考えると想像に難いものがある。うう、とうめくような声を漏らし、それから何となく自己嫌悪に陥った。
 は、なんてことを考えていたのだろう。レンがそんなことをするはずはないというのに。自分の浅はかさに切なくなってしまう。

 だとしたら、レンは何をしようとしていたのだろう。疑問が胸中で首をもたげる。訊くことは、もう今や叶わないだろうし、想像をめぐらせるしかないだろう。
 レンとはもうずっと一緒に暮らしているから、わかりそうな気がするんだけれどなあ……。本気で全くわからない。は小さく息を吐くと、先ほど考えたことを頭の中で繰り返し、微かに笑った。

 一緒に暮らしている、というのは誤りがあるのかもしれない。言い換えれば、ずっと、一緒に話していた、だろうか。
 数ヶ月前まで、レンはパソコンの内部にしか存在しなかった。十五センチくらいの大きさで、モニタ内を忙しく動きまわっていたのだ。彼は表情豊かに笑い、泣いて、怒って、拗ねる。小さく、触れる術なんて見つからなかったけれど、寂しくは無かった。それは多分、レンと話していると楽しいことばかりで、寂しいなんてことを考えずに居られたからだろうと思う。

 は、レンのことが好きだ。レンも、のことが好きだ。会いたかったし、触れたかったけれど、会うこともできなかったし、触れることもできなかった。それがずっと続くのだと思っていたのに、彼は今や、技術の発達のおかげで体を持ち、の家で暮らしている。

 モニタ越しではなく、レンは笑う。無く。怒る。拗ねる。スピーカー越しではない声が鼓膜を優しく揺らす。触れることも、出来るようになった。
 レンは至極幸せそうな笑みを浮かべて、の手を取って、抱きしめて、キスをしてくる。それは本当に嬉しい。幸せだ。……そういえば、最近はあんまりそういうことをしていなかったように思う。が忙しいので、帰る時間が遅くなり、彼と話をする時間が減ってしまっていた。

 小さく吐息をこぼす。今日も、折角の休日だったのに、は眠って、せっかくレンと話せる時間を潰してしまった。ちょっとこれは駄目なんじゃないだろうか。っていうか、レンが駄目じゃなくても、が駄目だ。レンと一緒に話せないと死んでしまう。……いや、冗談だけどね。

 ぼんやりとしてしまっていた。は頭を振り、洗面所を出る。どうやって今までの埋め合わせをしようか、なんて、頭の中はそのことで一杯だった。

 リビングに戻ると、レンがソファーの上で先ほどと同じ格好──つまりは膝を抱えて居た。近寄って、彼の横に座り込む。ソファーのスプリングが微かに音を立てた。レンはへ視線を向かわせると、小さく息を吐く。額にしわが寄っているのが見えて、は微かな苦笑を浮かべた。
 手のひらを伸ばして、レンの頭を撫でる。少しそうしていると、レンは膝を抱えるのをやめ、によりかかってきた。肩に彼の頭がぽすりと預けられる。


、どうかしたわけ」
「いや、ちょっと最近の行動を反省してきました。今さっき」


 微かに苦笑を零しながら言葉を口にすると、レンが上目遣いにを見つめてきた。健康的な色合いの頬が桜色に染まっているのが、見える。彼は唇を拗ねたように尖らせ、本当だよ、とやはり拗ねたような色を声に滲ませて、言葉を紡いだ。


「……さっき、ごめんなさい」
「何が?」


 殊勝に紡がれた言葉に、疑問を乗せた言葉を返す。レンは困ったように唇を波打たせ、それから、態勢を変えてに抱きついてきた。腰に手が回され、横から抱きしめられる。一瞬だけ、体を竦ませてしまった。それを敏感に感じ取ったのだろう、レンが困ったように笑って、もう一度、ごめん、と謝罪の言葉を口にし、の体を抱きしめる腕の力を強めてきた。
 うん、レン、言葉と行動があっていないように感じるのはだけなのかな。正直、苦しい。


「レン?」
「ここ最近、ずっと、忙しそうだったよね。どうして」


 どうして、と問われても、用事があったから、としか言いようがない。あいまいな笑みを浮かべると、レンの表情が歪んだ。彼はにずいと顔を近づけてくると、至近距離で言葉を紡ぐ。


「どうして、って訊いているんだけど」
「あの、用事が……あって……」


 目の前の顔がしかめられる。彼は怒ったような色で表情を彩ると、やはり怒気をかすかに含んだ声音で言葉を発した。


「それって、オレより優先しなきゃいけない事なのかよ」
「え、あの、……えっと」


 確実に、優先しなければいけないことだと思う。なんて、そんなことを言ったらレンの機嫌を確実に損ねることはわかっていたので、口にはしない。どうしようもなく視線を彷徨わせ、それから、取り繕うように笑みを浮かべる。愛想笑いだと彼は直ぐに気付いたのだろう。の腰に回していた手のひらを放すと、そのまま頬を強くつねってきた。痛い。痛いです、レンさん。

 痛い、と言う言葉を口にする。頬を引っ張られているからか、気の抜けたような声しか出なかった。
 不意に、レンの表情がかげる。彼はの頬から手を離すと、そのままつねっていた箇所を撫でるように指先を動かしてきた。彼の瞳が伏せられる。目蓋を縁取る睫毛が震えていて、なんとなく、泣きそうだと思った。


「ごめんなさい。知ってるよ、そういうの、優先しなきゃいけないって。でも、……納得いかないんだもん……」
「レ──」


 彼の名前を呼ぶべく、口を開く。とたん、遮るような声が響いた。


「でも、でもさあ、オレ、の……こ、恋人なんだよっ! それなのに、それなのにさ、、いっつもいっつも遅くに帰ってきて、休日だって、ほとんど寝てばっかで……、こんなの、モニタの中に居たほうがいっぱい話せてたのにって思って、そうしたらすごく、すごく嫌になって」


 せきが切れたかのように、レンの唇から言葉が溢れ出る。彼自身も止められないのだろう、何度も何度もつまりながら、彼は言葉を続けた。


「でも、モニタ内に戻ったらに触れられないし、抱きしめられないし、キスとか、出来ないし、今、すっごく幸せなのに、すごく、すごくすごくすごく、すごくっ」


 レンの伏せられていた視線が上がる。彼の瞳は水の膜をはったかのように、潤んでいた。色々な感情がないまぜになったかのように、定まらない感情を凝縮したかのような声が、レンの唇から漏れる。


「苦しいよ……っ、寂しいんだ!」


 叫ぶように紡がれた言葉に、驚いてしまった。変な表情を浮かべてしまったのだろうと思う。レンは、体を微かに震わせると、泣き出しそうな表情を浮かべた。ごめんなさい、という声がゆるく鼓膜を打つ。
 なんでごめんなさいなんて言うのか、よくわからなかった。唖然とした声が口から漏れかけ、それを必死で喉の奥へと押し込む。

 寂しく思わせていたのだろう。かなり。は自由な手のひらで彼を抱きしめると、あやすように背中を撫でた。ひきつった声が、レンから漏れる。それを彼は恥ずかしいと思ったのかもしれない、必死で押し殺しているのがわかった。彼の体が何度か震え、それから、言葉を再度紡ぎだす。


「今日も……今日、、寝ていたから……っ、オレ、よくわかんないけど、なんか、とすごくキスしたくなって、顔を近づけたら、が目開いて」
「そっか」
「オレ、すごく嫌なヤツになってる。寝込み襲おうとするし、最悪、最低っ、変態だよ、オレ」


 そこまで言わなくても良いのに、と思う。なんというか、レンは情緒不安定なのかもしれない。なんとなく浮かぶ笑みをそのままに、は言葉を発した。


「そんなことない。それに、レンが最悪最低の変態だったら、も最悪、最低、変態だね」


 返事は無い。それでも良いと思う。は彼の背中に回していた手を放し、それから、レンの頬を掴むようにして持った。怪訝な色で彩られた瞳が、を一心に見つめる。
 なんとなく、これからすることは正直に言ってレンに嫌われそうなことかもしれない。でも、彼の機嫌が浮上するためには、これしかないと思った。

 顔を近づける。唇をつけて、直ぐに離した。
 自分でやっておいて、恥ずかしくなる。彼の頬から手を離し、軽く笑う。どうしようもなく気恥ずかしくて、は意味も無く頬を指先で掻いた。


「レンの許可もなくキスをしてしまったので、は最悪最低の変態だね」
「……っ、そ、え…………っ」


 目の前のレンの顔が、一瞬にして赤く染まる。彼は困ったように視線を巡らせると、恥ずかしそうに視線を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。紅を刷いたかのように頬を赤くして、彼は言葉を囁くように紡ぐ。


「こういうの、卑怯だと思うんだけど」
「寝込みを襲おうとしていた人に言われる筋合いはないと思いました」
「……、の」


 の体を抱きしめるかのように回っていた手のひらが、放れる。直後、首元に手のひらが回された。強く力をかけられる。何、と口にしようとした。けれど、出来なかった。
 唇に柔らかい弾力が触れて、直ぐに離れる。レンはを潤んだ瞳で見つめると、もう一度、唇を押し付けてきた。
 呆然としてしまう。レンの体がに密着した。彼はの肩口に顔を埋めると、そのまま、馬鹿、と誰に言うでもなく呟いた。


「レン」
に慰められるなんて、思ってもみなかった。オレ、なんか、すっごく頼りないじゃん」


 そうだねー、と軽く笑って言葉を口にすると、首がしまった。あの、すみません、ギブです。ギブギブ。誰かタオルを投げて! このままだと死んでしまう! が!
 レンが、微かに吐息を漏らす。熱い吐息が、首を掠めて、少しだけくすぐったかった。とりあえず、機嫌を浮上させることには成功したみたいなので、本当に良かった。からも彼の背中に手を回して、言葉を小さく口にする。


「忙しいのは今だけだからさ。もうすぐ、もっと早くに帰ってこられるようになると思う」
「……本当?」


 本当だよ、と肯定の言葉を口にすると、首に回された手のひらの力が緩んだ。
 多分、もうすぐ忙しさが無くなるだろうと思う。そうしたら、休日の昼間から眠ることもしなくなるだろう。レンと話せる時間も増える。


「星座、見に行こうね、今度」


 言葉を口にすると、密着した体が震えた。忙しさにかまけて、はレンとの約束を果たせずに居た。ちゃんと、全部果たさなくてはいけない。じゃないと、彼に怒られてしまうだろう。
 少しだけ、笑って、はレンの名前をもう一度だけ呼んだ。好きだよ、という、意味を込めて。


(終わり)

2008/12/27
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