本日はクリスマスイブだということを、今さっきまで忘れていた。


<サンタクロースにお願い>


 思い出したのは他でもない、朝のニュースのせいだろうと思う。女性のニュースキャスターさんが、朗らかに今日はクリスマスイブです、みたいなことを言ったからだ。正直、本気で忘れていた。プレゼントを貰う貰わないとか、そういうの本気で忘れていた。
 そういえば、一ヶ月くらい前にレンが嬉しそうに来月はクリスマスだよ、的なことを言っていたなあ、としみじみと思い出しながら、は小さく息を落とした。あわよくばレンも忘れていたら良いんだけれど、と思いながら、彼の自室の方へと視線を這わせる。
レンはいつも、が朝食を終えて食器洗いをしたころにいつも起きてくる。なんとなく、きっと彼は覚えているんだろうなあ、と思うと、気が重くなるのを感じた。

 寝間着から普段着へと着替え、朝食を食べ終え、いつものように食器洗いをしていると、不意に廊下を走るような音が聞こえ、次いで、腰に強い衝撃がきた。毎日のことだから、そこまで驚きはしないものの腰の衝撃には、なれない。
 腰を抱きしめているのは言うまでもない、レンだ。彼は嬉しそうな表情を浮かべるとを何度も何度も呼び、弾んだ言葉を続ける。


「今日、クリスマスイブだよ、マスター!」
「……知っているよー」


 案の定、レンはクリスマスの存在を覚えていた。視線を合わせると、いつもより輝いている彼の瞳が視界に入ってくる。湖面のような、どこか神秘的な色合いの瞳が瞬きを繰り返し、それから細まった。


「ねえ、今日ってプレゼント貰えるんだよね、無条件で」
「無条件なのは違うけれど、まあ、うん」


 視線を逸らし、食器洗いを続行する。もう後は水で食器についた泡を流すだけなので、直ぐに終わるのだけれど。
 横からの腰を抱くようにして立っていたレンが、不意に手のひらを離して、の視界から消える。直後、後ろからのしかかるような重さがの背中にかかってきた。
 首に手が回される。レンは嬉しそうな笑い声を漏らすと、ケーキとかも、と言葉を続ける。


「食べられるんだよね、今日」
「まあ、うん」


 食器洗いが終わった。水の吹き出る蛇口を止め、は濡れた手のひらを拭く。歩き出そうとすると、するりとレンの体が離れた。彼はの横に立って共に台所を出ると、マスター、と囁くように言葉を口にした。


「おれ、願い事、決めたよ。マスター、聞いてもらえるかな」
「サンタさんに叶えてもらうんじゃないの?」
「ううん」


 レンの言葉と共に、彼の金髪が横に振れた。サンタさんじゃ無理だよ、歌うように囁く声が聞こえる。彼は口唇の端に乗せるような、ほのかな笑みを表情に浮かべ、の手を掴んだ。小さな声で冷たい、というのが耳朶をつく。当然だ、さっきまで食器洗いをしていたのだから。
 レンはもう一度、冷たい、と言うと、どこか拗ねたような表情を浮かべた。手のひらが、レンの手のひらによって包まれるように、握られる。彼は存在を確認するかのように、力を入れたり抜いたりを繰り返しながら、をじっと見る。
 何をしているのだろう。首を傾げると、彼の表情に含んだような笑みが浮かんだ。


「あっためてあげる」
「……ありがとう、レン。嬉しいな」


 どういたしまして、と、レンの唇から弾むような声が漏れる。彼はそのまま、の手のひらを両手で包んだ。温度の低い手のひらに、じんわりと彼のそれのぬくもりが伝わってくる。それがなんとなく気恥ずかしくて、は意味も無く笑みを浮かべた。

 それにしても、とは小さく肩を落とした。レンはどうやら、ケーキを食べたりするのを楽しみにしているらしい。……正直、ケーキなんて予約するのを忘れていた。は小さく息を吐くと、レンの手のひらからやんわりと自身のそれを離した。あ、という微かな声がレンの唇から漏れる。彼はそのまま、を見て唇を尖らせると、どうして、と言葉を続けた。

 何が言いたいのか、わかる。レンは、が急に手のひらを離したことに対して、どうして、と言っているのだろう。軽く笑って、は手を伸ばし、レンの頭を撫でた。手のひらを優しく動かすと、くすぐったそうなレンの笑い声が、優しく耳朶を突く。彼はそのままに擦り寄ってきた。腕を伸ばし、強く抱きしめられる。


「おれ、マスターに頭を撫でられるの好きだな。もっと撫でてよ、マスター」
「ん」


 短く返事をして、は壊れ物を扱うような手つきで、レンの頭を撫でた。肩口に埋まったレンが、吐息を漏らして笑うのがわかる。いつまでもこうして居ても良いけれど、実際のところ、いつまでもこうしていてはいけないので、は小さく息を吐くと、手の動きを止めた。レンがマスター、と疑問を乗せた声でを呼ぶ。彼の体がほんの少し離れ、は真正面からレンと視線を合わせた。


「ごめん」
「……何が?」
「ケーキ、買ってないから、行かなくちゃ」


 買ってないから、と言う言葉に、レンは敏感に反応を示した。そうなんだ、と呟くように言う声が聞こえる。あからさまな悲しみの色が浮かんだ声に、思わず苦笑を零してしまう。彼は意気消沈した色を隠そうともせず、表情に浮かべた。……こういう、悲しそうな表情を浮かべさせたくは無いのだけれどなあ、なんて考えながら、は彼から離れた。歩を進めて、衣服の閉まってある場所へと赴く。少し遅れて、レンがついてくるのがわかった。
 コートを取り出して、袖に腕を通す。それから、財布を手にとった。直後、不意に腕を引っ張られる。見ると、怪訝そうな色を表情に滲ませたレンが視界に入った。

 彼は、柳眉を垂れさげ、微かに首を傾げる。どうかしたの、なんて、口に出さずとも彼の表情が言葉を物語っていた。笑って、レンの頭を撫でる。


「レン、留守番頼むね」
「ちょ、ちょっと待ってよ、意味わかんないんだけど、マスター!」


 強く手のひらを引かれた。レンの瞳にうつるのは困惑と、悲哀だろうか。彼は表情を歪めると、もう一度、意味わかんないんだけど、と囁くように言葉を口にする。意味わかんない意味わかんないって、二回も言われると正直、なんとなく傷ついてしまう。まあ、確かに、意味のわからない行動をしてしまったのかもしれないけれどさ……。

 微かに息を吐き、は人差し指を立てて、説明を開始することにした。


「ケーキがありません!」


 中指を立て、手をチョキの形にしながら、は言葉を続ける。


「よってケーキを買いに行かなくちゃいけません」


 手を下ろす。これでわかっただろう。一応、レンと視線を合わせる。「だから、買いに行ってくるね」、言葉を口にすると同時に、目の前のレンの表情に拗ねた色が広がった。彼は怒ったように、マスター、と若干いつもより低い声を出した。こんな声が出せたのか、と一瞬だけ驚いてしまう。


「今日はクリスマスイブなんだけど」
「うん」
「……クリスマスイブ、なんだよ」


 語感を荒くして、レンは言葉を続ける。何が言いたいのだろうか。わからないまま、返事をすることもできず、レンを見つめる。彼は怒っているせいか、それともどうしてか、頬を淡紅色に染めると、を指差す。


「好きな人と一緒に居る日なんだよ!」


 なんとなく、レンの解釈は間違っているような気がした。好きな人と一緒に居る日、では、無いような気がする。まあ、今日好きな人と一緒にいる人は多いかもしれないけれどね……。苦笑を漏らすと、それを敏感に感じ取ったレンは小さく鼻を鳴らし、けれどの手のひらをしっかりと握ると、一言、おれも行く、と呟いた。

 おれも行くって、急にどうしたのだろう。ケーキなんて、直ぐに買って帰ってこられると思うのだけれど。……クリスマスイブだし、もしかしたら混雑に巻き込まれて何時間もかかるかもしれないけれど。
 そのようなことを頭の中で考えつつ、は軽く首をかしげた。手のひらに強い力が加わる。痛くは無いあたり、レンは加減しているのだろうと思った。


「おれも、行くから!」


 拒否を決して許さない口調で彼は言い切り、そうして手を離すとすぐさま何処かへとかけていった。恐らく自室だろう。
 レンはすぐに戻ってきた。手のひらに、この前買ったコートを持っている。彼はの目の前でそれを素早く羽織ると、の手を取ってきた。指の間に指を絡め、彼は強くの手のひらを握り締めてくる。

 振り払うことなんて出来ない。それに断る理由も無い。は微かに笑うと、じゃあ行こうか、と言葉を口にした。レンはかすかに頬を赤くして、頷いた。

 外に出ると、雪が降っているのに気付いた。ホワイトクリスマスだなんて一体、いつぶりだろうか。思わず感嘆の声を漏らしてしまう。レンも、嬉しそうに笑った。雪、と囁くように言う声が聞こえる。彼が雪を見た回数は、数えられるくらいに少ない。いつもより頬を赤くさせて、彼は嬉しそうにを見た。
 その嬉しそうな姿を見ていると、まで嬉しくなってしまう。握った手のひらに少しだけ力を込めると、レンははにかむように笑った。マスター、と優しい声で言葉が口にされる。耳に心地の良い声に、なんとなく頬をゆるませてしまう。
 空から降る雪を見ながら、たちは歩き始めた。

 ケーキ屋さんは、少し歩いたところにある。朝に出てきたからか、まだ人通りの少ない街路を抜けていく。やはり冬というべきだろう、木枯らしが吹くたびに体を震わせてしまう。多分一人だったら寒さに泣きそうになりながら、ケーキ屋へと向かっていただろう。けれど、は一人ではない。繋がった手のひらの温もりに、なんとなく嬉しくなってしまう。頬を緩ませると同時に、レンが擦り寄ってきた。彼はの体に自身の体を密着させると、幸せそうな笑い声を零す。


「マスター、おれ、幸せだな。すっごく幸せ」
も、幸せだよ」


 言葉を口にすると、レンが手のひらに力を込めてきた。視線を向けると、翡翠の美しい色と瞳が交じり合う。目蓋を縁取る金色の睫毛が、冬の陽射しに照らされ、とても綺麗だった。
 ケーキ屋まで、まだ時間はあるだろう。その間に、レンの欲しいものを聞いておくべきなのかもしれない。そうしたら、帰りに買いにいけるかもしれないし。思い立ったまま、言葉を口にする。すると、レンは一瞬だけ呆けた表情を浮かべて、それから困ったように柳眉を垂れ、けれど幸せそうに笑顔を浮かべた。


「おれの欲しいもの、言っても良いの」
「そりゃあ。買いに行かなくちゃいけないし」
「おれの欲しいもの、買うものじゃないけど」


 買うものじゃないというのは、どういう意味なのだろう。真意をはかりかねて、はあいまいに笑みを浮かべた。レンの片方の腕が伸び、のそれと組まれた。彼は頬を持ち上げて、弾んだ声を出す。


「なんだと思う?」
「……わかんないなー」
「返答するの、早すぎ。もうちょっと考えてくれても良いんじゃないの」


 そう言われても、一応、考えたんだけれどね。苦笑を浮かべて返すと、レンの頬が膨らんだ。なんとなく突付いてみたいなあ、と思うものの、突付いたら確実に彼の機嫌を損ねそうなので、何をすることもせず、は彼の言葉を待った。
 レンが唇を開き、頬から空気を漏らす。彼はを上目遣いにちらりと見ると、そっと吐息を零した。寒さのせいか、彼の息が色を持って空中に散布する。白い、空から落ちてくる雪の色だ。

 レンが、本当にわからないの、と言葉を続ける。素直に頷くと、彼は肩を落とした。組んだ腕、そして絡められた手のひらへと優しく、けれどしっかりとした力がかけられる。


「おれの欲しいもの。マスターがずっと傍に居てくれること、だよ」
?」


 驚きで、変に声が裏返ってしまった。恥ずかしい。頬が赤くなるのを感じながら、はレンから視線を逸らした。繋がっていないほうの手のひらを、熱を取り去るべく、頬に押し当てる。レンが少し、笑う気配がした。見ると、案の定、彼はこらえきれない、といった様子で笑って居た。彼の体がわずかに微動する。それがにも伝わってきた。
 ……恥ずかしい。は小さく吐息をこぼし、それから、じゃあ、と言葉を発した。


も欲しいもの、あるな。レン、わかる?」
「え……」


 意地悪い笑みを、自分でも浮かべていると思う。レンは困ったように視線をさまよわせてしまった。彼なりに、の欲しいものを考えているのだろう。試行錯誤するように、次々と変わる表情を見ていると、なんとなく微笑ましく思える。このまま、彼が自分なりの答えを見つけだすまで放っておくのもいいけれど、それだとあまりにもかわいそうだろう。は笑って、時間切れですね、と言葉を続けた。
 レンが驚いたような表情を浮かべ、驚嘆に満ちた声を紡ぎだす。


「残念、レンにはわからなかったんだねー」
「ち、ちが、その、わかっているよ、おれがどれだけマスターの傍に居ると思っているんだよっ」


 傍に居るっていうか、いっつもレンはくっついてきているけれど、なんてことを考えながら、は笑う。別段、レンにくっつかれるのは嫌いではない。むしろ、好きな部類に入ると思う。の家のレンは甘えたがりなのだろう。堪え切れない笑い声を零すと、それをどう感じ取ったのか、レンが悲痛な色を表情に浮かべ、を見る。瞳が、いつもより潤んでいた。
 ちょっと、難しいことを訊いてしまったのかもしれない。それに、からかいすぎたこともあるだろう。謝罪の言葉を漏らしかけ、それを寸でのところで胸の奥へと押し込む。


「じゃあ、答えを言おうかな」
「……ん」


 レンの、真摯な視線がに向かってくる。それをどうしてか、気恥ずかしく思いながら、は欲しいもの、を口にした。


「レンとずっと一緒に居ること」
「……え」
「サンタさん、叶えてくれるかなー」


 笑いながら空を見上げる。視界は一面の雲模様で覆われている。空からちらちらと、僅かな光を反射してきらめきながら落ちてくる雪を、ふと片方の手のひらを空に向けて、すくう。雪は、手のひらについた次の瞬間には溶けて、水になってしまった。
 人目では、雪の美しい結晶は見ることはできない。けれど、それで良いと思う。小さく息を吐くと、視界がにごった。白くもやをはったかのような色がにじみ、すぐに消える。

 不意に、手を引っ張られ、足を止めた。見ると、レンと視線が合う。彼はすぐにから視線を外し、困ったように瞳を伏せると、体をますます密着させてきた。頬が赤い。健康的な肌に映える、美しい桜色の唇が、言葉をつむぎ出した。


「サンタさん、絶対に叶えてくれるよ、それっ。さ、サンタさんが叶えなくても、おれが叶える!」


 自分に言い聞かせるように、どこかしっかりとした口調で紡がれた言葉に、思わず頬が赤くなった。自分で頼んだことなのに、となんとなく苦笑を浮かべてしまう。
 そうだといいな、と吐息を漏らすように言葉を続けると、肯定するように、手のひらが強く握られた。

(終わり)

2008/12/27
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