こいねがう、心 08
(ボーカロイドがウイルスに感染するのは、ある一定の言葉を検索した時だけです)


 それからというもの、レンはを外に出そうとはさせなかった。最近は全く食欲が出てこないので、冷蔵庫の中身は余り減らないものの、いつか、確実になくなってしまうだろう。買いに出かけることなんて、できない。軽い軟禁状態に陥っている。少しでも外へ出ようとしたり、誰かに電話をかけようとしたりすると、レンに引き留められる。そうして、そのあと詰問されるのだ。「どうして、出て行こうとするんですか」と。
 何十回も、何百回も、レンはその言葉だけを繰り返す。正直、もう疲れてしまった。
 電話もレンが出る。友達からの着信は全て拒否され、たまに来訪者が来たかと思うと、レンが出て行き、適当なことを言っておっぱらってしまう。腕はどうしたの、という質問をしている人も居たけれど、レンの巧みな話術によって騙されて帰っていった。
 ある時、速達で郵便が届いたけれど、あれは何だったのだろう。

 そんな状態の中、彼は四六時中、について回った。お風呂も入っている最中、レンはずっと戸一枚を隔てた場所に立って待っている。トイレだってそうだ。
 彼の左腕から垂れてくるオイルは無くなったものの、何時レンが壊れるときがくるのかとビクビクしてしまう。彼が壊れるとき。それがの死ぬとき。

 そんな状態で、精神が参ってしまったは、風邪を引いてしまった。
 布団に寝かされ、レンが看病をしてくれるものの、熱は引く様子を見せない。

 荒い息が漏れる。どうしようもなく頭が痛くて、視界がぐるぐると回る。というより、自分が回転している感じがする。息をするのが辛い。誰か、誰か、助けて。薬を飲んでも、何をしても、熱は引かない。
 それどころか咳は酷くなるし、嘔吐だって止まらない。は、死んでしまうかもしれない。

 レンが楽しげに横で言葉を弾ませる。


「マスター、死ぬんですか」
「……」


 身体を動かすことが出来ない。目蓋を開くのさえ、億劫だ。辛くて、辛くて──誰かどうにかして、と叫びたくなる。
 レンはそっと息を吐くと、笑って続ける。


「マスターが死んだら、僕もちゃんと壊れるから、安心してくださいね。ずっと傍に居ますよ。ずっと、ずっと」
「……や、だよ……」


 掠れた声が出る。レンが聞き取れなかったのか、え、と小さく漏らすのが聞こえた。涙が溢れてくる。ああ、駄目だ、──泣いてばかりいる。
 泣きたくないのに。泣いている場面なんて、見せたくないのに。


「……死にた、く、無い……」
「マスター? どうしてそんなに嫌がるんですか? だって、僕のこと、好きなんでしょう? 僕はマスターとずっと一緒に居られると思うと、すごく幸せですよ」


 彼には何の言葉も届かないのかもしれない。
 レンは笑みを零すと、に触れてきた。彼の指先が、頬を撫でる感触がする。


「傍に、ずっと、傍に居たいです。マスターは僕のもの、です。誰にも渡さない。僕以外のボーカロイドだって、要らない。そうですよね、マスター。カイトなんて、要らない。リンだって、ミクだって、メイコだって、いらない。マスターが好きになるのは、僕一人で充分。マスターを好きになるのも、僕一人で充分」
「…………」


 聞き取りにくい声だった。それなのに、レンはの言葉を聞き取ったようで、「どうしたんですか、マスター」と優しく言葉を紡いでくる。


、ね……レンのこと、好きだったよ」
「……」


 彼との思い出が、頭を掠める。これって、走馬灯、なのだろうか。最悪だ。は死ぬのだろうか。


「……最初に来たときのこと、今でも覚えてる」
、ボーカロイド、買ってよかった、って、思った、よ」
「レン、すごくかわいかった。大切にしよう、って思った、んだよ……」
「それなのに」
「レン、変わっちゃったね……。のこと、嫌い、に、なった、の?」


 濁流のように押し寄せてくる言葉を必死で紡いでいく。レンが息を呑む音がした。構わずに、続ける。


「レ、ン……ごめん、ごめんね……」
「どうして、謝るんですか」


 彼の、僅かに震えた声が耳朶を打つ。
 ──元を辿れば、彼がこうなったのはのせいなのかもしれない。レンを無碍に扱い、キツい言葉を言って。もっと、彼の言葉を聞けばよかった。時計の電池を外した時だって、馬乗りになったときだって、歌を歌えなくなったときだって、言葉を急に流暢に喋ったことだって、ちゃんと、そう、ちゃんと訊けば、良かった。優しく問えばよかったのだ。怒ったりせずに。
 今更、後悔したって遅いかもしれない。けれど、どうしても思わずにはいられなかった。


「ごめん……ごめんね……、嬉しかったよ……レンが、のこと、守るって、言ってくれたこと」
「なんで! どうして、そんな、謝るんですか!」


 レンの声に焦りが混じった。彼はの肩を掴んで、揺する。脳が、がんがんと警鐘を鳴らした。痛い。痛い。


「どうして! どうして、ですか! 僕、なんで、そんな、急に、わからないです、どうして……どうして──」


 ぽたりと、頬に雫が落ちてきた。レンが、泣いている。重い目蓋を開いて、死力を尽くし、彼の頭に手を置いた。優しく、撫でる。レンが驚いたような表情でを見てきた。
 彼の瞳からはとめどなく涙が溢れていた。どうして、と問われても、にもよくわからない。

 レンは頭を撫でるの手をそっと掴むと、顔を歪めた。「どう、して……」と、苦しそうに紡ぐ。
 は彼の左腕に視線を向けた。コードが出ていて、皮膚が裂けている。真ん中に支柱となる金属が飛び出ていた。
 痛い、だろう。レンはどんな思いで、腕を引きちぎったのだろうか。そっと微笑を浮かべると、彼のまなじりへと手を動かす。涙を、拭った。


「……泣いちゃ、駄目だよ」
「ます、」


 そこで、意識がブラックアウトした。は死んでしまったのだろうか。どうしてか、怯えながら過ごしていたときより、安らかだった。
 小さく、心の中で呟く。
 ごめんね、レン。ごめん。レンの気持ちをわかってあげられなくて、ごめんね。





 マスターの手から力が抜けた。死んではいない、微かに胸は上下しているし、荒い呼吸だって繰り返している。
 僕はそっとマスターの手を撫でると、涙を拭いて立ち上がった。

 マスターが辛そうだ。きっと、このまま放っておいたら、マスターは死んでしまう。だったら、僕も。思い立って、台所へと向かう。きっと、包丁で突き刺せば、僕だって壊れるはずだ。
 誤算だった。左腕には重要な回路が組み込まれていなかった。オイルも左腕に流れることを止めてしまったし、僕は壊れることも出来なかった。

 壊れたい。マスターと一緒に。マスターだって、喜んでくれる。どうしてあんなにも謝っていたのかはよく分からないけれど、きっと、喜んでれくる。だって一つになれる。ずっと、最期まで一緒に居られる。
 マスターは僕のことを好きと言っていた。大丈夫。僕らは両思い、だ。

 包丁が閉まってある所を開き、一つの包丁を手に取った。──とたん、回路がフラッシュバックした。立ちくらみを起こして、僕は包丁をその場に落とした。包丁の切っ先はまっすぐに僕の足へと向かい、突き刺さる。痛覚が無いからわからないけれど、きっと人間だったら凄く痛いのだろうと思う。

 めまいを振り払うように頭を振り、僕は包丁を抜き取った。何で急にフラッシュバックを起こしたのか、よく分からない。
 壊れたのだろうか。いや、壊れようとしているのかもしれない。そう思うと、自然に笑みが浮かんでくる。
 僕は包丁を右手に、マスターの元へと向かった。

 マスターは辛そうにしている。


「ねえ、マスター。辛いですよね。僕が終わらせてあげます」


 マスターの頬は柔らかな桃色に染まっていて、どうして頬が緩んだ。辛いのはもう、終わりですよ。心の中でそんなことを思いながら、包丁を振りかぶる。マスター大丈夫ですよ。きっと痛くありません。一瞬で終わります。心臓の位置にねらいを定めて、振りかざそうとした、瞬間、包丁が光に反射した。回路が又、フラッシュバックする。


「……え……?」


 呆然と呟く。回路がおかしい。視界が砂嵐に紛れ、メモリに刻まれた思い出を映し出す。
 台所で料理をするマスター。突然現れた僕を見て、驚いたような表情を浮かべる。


「さいきん、ちかくで、ひとがいっぱい……さされているみたいです」


 笑えるほどにたどたどしい言葉だ。今の僕とは、全然違う。
 マスターは首を傾げると、包丁をまな板の上に置いた。電光の光を反射して、鈍い色が僕の目に入ってくる。


「え? ああ、刺されて……ってか、通り魔でしょ?」
「……うえ、ええ、と、たぶん、はい」
「それがどうかしたの?」


 マスターはそう言うと、もう一度首を傾げた。僕の声がしゅんとしたものになり、囁くような小さな声音になった。


「だ、だって、ますたーが、あぶない……」


 視界が砂嵐に変わる。又少しして、思い出がよみがえる。

 マスターが近くに居て、僕の頭の上に手を置いていた。優しく叩かれる。


「大丈夫だって。今まで無かったんだから、これからも無いって」
「そんなあ……。ますたー、ぼく、しんぱい、なんです」


 そう、マスターが誰かに刺されたら。そう思うと、僕の声は自然に震えたものになった。マスターが安心させるように微笑み、「大丈夫だよ」と続ける。


「レンが気にすることなんて無い」


 少し、ほんの少しだけ、自分が疎外された気分になった。僕はマスターのことを気にしているのに、酷い、なんて考えた。けれど、それは直ぐに心の内から消えていった。マスターは僕を安心させようと、そう思って発している言葉なのだと、わかっていたから。
 それでも、少しだけ、辛くて、悲しかった。僕は頬を軽く膨らませると、言葉を発した。


「でも……。……ぼくが、にんげん、だったらよかった、のに」
「……何で?」


 心底不思議そうな声音だった。マスターは小さな子供に問い掛けるようにそう言うと、少しだけ首を傾げる。僕はそれをちらりと視界に収めると、唇を尖らせた。


「そうしたら、ますたーのこと、まもれる、のに」


 マスターが、僅かに微笑む様子が、見えた。
 そうして、視界が砂嵐に包まれる。次の瞬間には視界は正常に戻っていて、僕の目の前には、マスターが伏していた。


「……ます、たー」


 僕はどうして人間になりたかった。


「僕、は……ど、ウ、し、テ……」


 包丁が、力を失った手から滑り落ちる。向かう先は、まっすぐ、マスターの心臓の元だ。
 刺されば、死んでしまう。そう思った瞬間、身体が動いていた。マスターを守るように覆い被さる。包丁が、僕の身体に突き刺さった。多分、一番大事なところに刺さったのだろう。一瞬にしてエラー画面が視界を覆う。


「ぼ、く……は、マスター、のこと……」


 ゆるゆると身体を起こす。マスターは辛そうな呼吸を繰り返していた。


「守り、たい、の、ニ……?」


 立ち上がる。向かう先は、この前届いた郵便物を捨てたごみ箱だ。郵便物を取り出し、開封する。送ってきた相手は、僕を販売している会社だった。
 僕はさっとそれを読むと、電話まで歩いていく。
 僕は、受話器を取り、番号を押した。救急車。救急車を呼ばなくてはいけない。僕ではなく、人間のための、救急車。
 電話はすぐに繋がった。僕はマスターの容態と住所を告げると、すぐにそれを切った。きっと来てくれるだろう。

 それから、布団で寝ているマスターへ視線をめぐらせる。
 一緒に壊れたい。そう言った時、マスターは必死で「生きたい」と言っていた。僕の存在は、きっと、マスターにとって、通り魔よりも性質が悪い。

 マスター、大丈夫です。もう、大丈夫。
 今まで、ごめんなさい、マスター。僕はただ、あなたを、守りたかったんです。


「ごめんなさい……」


 呟いた言葉は、マスターの耳には、届いていないだろう。


→結末を選んでください
……ノーマル
……グッド

2008/05/06
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