<望むこと> 友達との約束の時間まで時間を潰すため、手に持った本の上を走らせていた視線を上げ、気づかれないようにから離れて座るレンへと視線を向ける。彼は、何かを読んでいた。題名をこっそり、気づかれないように見る。初心者でも簡単! お料理入門、という活字がポップな字体で躍っている。レンはそれを抱えるように持ち、ぼんやりと視線を這わせていた。 彼がこの前、の家の本棚から取り出してきた本だ。もうかれこれ、三日間は見ている。ページをめくるはずの指先は動かない。この三日間、ずっと。 正直、レンは本を読んでいないのだろうと思う。窺うように向けていた視線を、もう一度、本へと戻す。 ──最近、ボカロ系の情報を載せるサイトに、警鐘を鳴らすように赤く、そのうえ大きく描かれている、言葉がある。ボーカロイドだけが感染するウイルスがあります。……そんな風に綴られている、文字。クリックすると、詳細ページに飛ぶ。 ボーカロイド自動制御神経破壊ウイルス。マスターに対して異様な執着を見せ、マスターが自分以外のものに興味を持つことを許さない。そんな症状が、よく言う、ヤンデレにそっくりだからということで、ヤンデレウイルスと通称されている。 それに侵されたボーカロイドを持ちながら、普通に悠々と暮らすマスターも居るらしい。には考えられないことだ。四六時中、そばに居て行動を監視される、というのは、にとっても、世間一般の人間にとっても耐えがたいことだろう。 外出したとしても、家へ帰ると誰と遊んでいたのか、誰の傍に居たのかと問いかけ、本当のことを言えば怒り、嘘のことを言っても怒り、自身の体を欠損させてまでマスターの傍に居たいと泣き叫ぶボーカロイド。 強固な愛、むしろおかしいまでの執着を見せる──。マスターに直接危害を加えることは無い。その代わりか、なぜか自身の体をいともかんたんに傷つける。 対処法は、無い。どうにかして起動停止スイッチを押し、サポートセンターに送りつけ、修理してもらうしかないのだ。 どうしてかかるのか。簡単だ。ボーカロイドが自身の体とパソコンをコードでつないだ上で、ひとつの言葉を検索することによって、かかる。 「人間」それに付け加え、「なりかた」。それら二つの語句が組み合わさった言葉を、検索すると、ボーカロイドはおかしくなってしまう。原因なんて、わかっていない。 すさまじいまでの脅威をはらうそれに、の家の鏡音レンは、侵されていた。今はもう修理され、執着することもなくなったものの。 この前、──六日前には退院し、少しの休養を取ってから、はまた、自身のいつもの日々を過ごすことになった。 あれから、六日が経った。は前と寸分の変わりもない日々を過ごしている。いつもの用事で外に向かい、夕方頃、もしくは夜に帰ってくるという、日々を。 レンは、流暢な喋りでを出迎えてくれる。 けれど、極端に喋ることは少なくなった。 ──おはようございます、いってらっしゃい、おかえりなさい、おやすみなさい。 とレンは、それだけしか喋っていない。この、五日間。 彼が帰ってきた初日、つまりはが退院した日は、色々と話したのに、翌日から急に離そうとしなくなった。 それは良い。けれど、今までが今までだったこともあり、唐突にあまり話さなくなるのは、寂しい。 彼が口を閉ざすようになってから、何度も、話しかけようと試みたことはある。けれど、レンはそのたび、「はい」「いいえ」、そのほかもろもろ簡単な言葉しか答えないのだ。 何で、なのかはわかりようもない。 文字を辿るのを止め、瞳を閉じる。はあ、と小さく嘆息をついた。瞳を開き、本を読むべく俯かせていた顔を上げる。レンを見る。レンはの視線に気づいていたのだろう、ぼんやりと本を見ていた視線を上げた。 碧が、揺れる。直後、レンは顔を隠すように本を持ち上げた。 ……なんとなく、ショックだった。これは、嫌われているのだろうか。いや、そんなことはない、はず、だと思うのだけれど……。というか、そう思いたい。 レン、と間延びした声で名前を呼ぶ。レンの、本を持つ手が盛大に震え、次いで、小さな声で「はい」と言うのが聞こえた。 本を持つ手が下がり、彼の端正な表情が、見えるようになる。レンは居心地悪そうに視線をと合わせ、すぐに逸らし、次いで瞳を伏せながら首をかしげた。 「……どうか、しましたか」 「ううん、レン、ずっとその本読んでるな、って」 自身の読んでいた本にしおりをはさみこみ、閉じる。次いで、レンの本を指差しながらそう言うと、わずかながらも驚いた色が彼の表情に浮かんだ。 「料理、作るの? っていうか作ってくれるの? むしろ一緒に作る?」 「……あ、……その」 もごもごと言いにくそうに言葉を詰まらせるレンに、尚も言い募ろうとして、止める。なんとなく、レンを困らせているような気がした。 「……困ってるかな」 「え。……い、え」 「そう? レンあんまり、と喋ってくれなくなったよね」 何を言っているのだろう、と言ってから思った。ああ、駄目だ。困らせてしまうなー。そんなことを思いつつ、口を閉ざす。時計へと視線を向け、友人との約束の時間がもうすぐだということに気づき、立ち上がる。その際、近くに置いてあったカバンを手に取った。 が突然、立ち上がったことに対して驚いたのか、レンの体がわずかに震える。それをあまり気に留めず、そのまま廊下へと歩を進める。 直後、本が床に落ちる、乾いた音が鳴り、レンがに近づいてきた。手に持っていた本はなく、どこかに置いてきたのだろうと推測した。 レンは逡巡するように視線を動かし、指先でつまむように服の裾を掴んでくる。 わずかな張力を感じるままに、レンと視線を合わせる。青い、どこか夏空を思い出させる色が揺らぎ、唇が何かを紡ぎだそうと動く。 「────」 言葉を何もかたどらないまま、桃色の唇が閉じられる。レンは何か言いたげにの服を引っ張る力を込めたり、込め無かったりを交互に繰り返し、視線を落とした。 何かを言いたいのだろうか、と思うものの、そろそろは出掛けなくてはならない。 レン、と語尾を上げ調子に言葉を口にする。とたん、彼の肩が微動し、滲む瞳がを見つめる。何かに怖がっているかのように、長い睫毛がぷるぷると震えている。 「僕、ごめんなさい、マスター」 手のひらと、同時に彼の体がすっと離れる。何がごめんなさいなのだろう。名前をもう一度呼ぶ。レンは顔を俯かせ、しきりにごめんなさい、という言葉を繰り返す。 本気で、何がどうなっているのか、良く分からない。 呆然としながらも、心のどこかに焦りを感じる。とにかく、こういう場合は、どうすればいいのだろう。 レンの肩が、微動する。彼の謝罪を繰り返す声音が、わずかながらもひきつってきた。泣いている。近づいて、肩を撫でようと手を伸ばすものの、彼はそれを流れるようにかわし、から離れた。 ちょっと、あの、いったいどういうことなのだろう。 「ごめんなさい、僕、ごめんなさい……、ごめんなさい、マスター、ごめんな、さいぃ……」 「ちょ、レン、あの、何があったの? どうかしたの? 言ってくれないとわからないんだけれど」 焦りのせいか、多少ながらも声がきつくなってしまった。それがいけなかったのだろうか。レンは驚きに肩をびくりと震わせ、次いで頭を振った。ゆるゆると、何度も何度も。 「僕、なにもありません……。すみません、マスター、ごめんなさい……」 拒絶するかのような声音だった。どこか一線を引いたような、目の前に薄いガラスの膜を置かれたような──。 気になる、これは問い詰めるべきなのだと、頭のどこかで声がする。きっと、問い詰めたらレンがそこまで謝罪の言葉を口にする理由がわかるだろう。 けれど、とも思う。今日はせっかくの、友達と遊ぶ約束が──。 とりあえず、と携帯を探し出し、取りだす。レンに背中を向けて、友達の電話番号を探し出す。見つけた。友達には悪いけれど、ちょっと今日、ちょっと遅くなるかも、という旨を伝えよう。 通話ボタンを押す。耳に携帯をあて、友達の声が聞こえるのを待つ、直後、体に軽い衝撃が走った。 レンに抱きしめられていると気づくのは早かった。腰に手が回され、離さないとばかりに強く抱きしめられている。 「マスター、ねえ、マスター、誰と話しているんですか」 「ちょ、と、友達! 友達だから!」 早口に紡がれた言葉に、返事をする。携帯から漏れるコール音が鳴り続け、耳朶を打つ。出ない。出ない、なんでだ……! 一刻を急くようなものではないものの、何も告げずに遅れるのは人として遠慮したいことだろう。 どうしようもないので、メールを打つことに決める。メール画面を開き、言葉を打つ。ごめん、ちょっと遅れる。これで良いだろう。送信、したとたん、手のひらから携帯が抜き取られた。誰によってか、なんて言うまでもない、レンに決まっている。 彼はと密着していた体を離して、携帯を後ろ手に隠した。振り向きざまに、それが見えたのだけれど──、彼は本気で何をしているのだろう。 「レン?」 「マスター、僕は、マスターのことが大好きなんです……」 「え、あ、ありがとう」 突然の言葉に驚きながらも言葉を返す。とたん、レンの表情が歪んだ。 「マスターが僕のことを好きでなくても、僕はマスターのことが好きなんです」 急に饒舌になった、と心の片隅で思いながら、レンに手を差し出す。携帯を返してもらわなければいけない。 「レン、携帯──」 「マスター、でも、出来るなら、あなたにも僕のことを好きになってほしいです」 会話が繋がっていない。なんでこんなことを急に言いだしたのだろうか、全くわからない。 レンの表情が歪む。彼は瞳を伏せると、に近づいてきた。 「駄目なんです、僕は元からおかしいのかもしれない。マスターの傍に居たい、マスターの傍にずっと居たい、マスターの傍に、いつまでも、居たい」 携帯が、落ちる音が聞こえた。ちょ、携帯には一応大事なデータとか入って! レン、と名前を呼びかけ、彼の表情を見て、止まる。レンは悲愴な表情を浮かべていた。柳眉が苦しげに額へしわを刻み、瞳が悲しみの色で染まっている。 「僕は、おかしい。マスター、僕のことを壊してください。僕は戻ってくるべきではなかったんです」 「ちょ、本当に話が見えないんだけれど、レン──」 「ねえ、マスター」 距離が詰められる。わずかながらも、在りし日の彼と今の行動がダブり、瞬間、寒気が背筋を走った。後退をすると、その分、距離を詰めるようにレンの歩幅が大きくなった。 手のひらが伸びて、の手に触れる。じんわりと熱を灯すそれは、どうしようもなく人間と同じで、どうしようもないくらい、人間と違っていた。 「触れたいと思うことも、抱きしめたいと思うことも、エラーだと認識されるんです」 「え、エラー?」 「その行動はしてはならない、マスターに触れてはいけない抱きしめてもいけない、言葉を交わすのは少なくしろ、ねえ、おかしいんです」 彼の、の手のひらに触れる指先が熱を残して離れ、の首元へ向かう。首筋をなでられ、どうしようもない居心地の悪さを感じた。 「ねえ、マスター、僕はおかしいんです、頭の中で警告音が鳴り響くんです、マスターに触れたら駄目だって、僕が、僕のマスターに触れたら駄目って、マスターと話してもいけないって、マスター、ねえ、マスター!」 わずかに、彼の瞳の色が滲んだ。湖面に、波紋が広がるように、じんわりと感情が揺れる。直後、視界がブレた。レンに引っ張られたのだと、耳元で彼の声が囁くように響き、気づく。 「……どうして」 「──、レ……」 「ボーカロイドが、──僕が、好きな人に触れようとするのは、エラーなんですか」 おかしいことなんですか。そう続けて、彼はの体を抱きしめた。背中に回された手のひらが、服を強く握るのを感じる。 「ねえ、マスター、教えてください。僕があなたに触れようと思うのも、あなたと話したいと思うのも、すべて、全部全部、警告されなければならないくらい、悪い行動なんですか。僕がマスターに触れたいと願うのも、話したいと思うのも、エラー音を鳴らすくらいに、おかしな行動なんですか」 彼の体が微動するのを、服越しに感じる。 「僕が人間になりたいと願うのは、マスターと一緒でありたいと思うのは、すべて、ウイルスに侵されなければならない程に、悪いことだったんですか──」 瞬間、レンの体がその場に崩れ落ちた。何事かと、思わず身体がこわばる。 少しして、レンの唇から機械的な音声で、「強制終了の処置を行いました。再起動するためには電源スイッチを入れて下さい」という言葉が吐き出される。 強制終了、それは、どうしてなのだろう。ぼんやりとそんなことを考えて、すぐに頭を振る。 彼が口にした言葉が、頭の中を反響して駆け巡る。 触れたいと願うのも、話したいと思うのも、エラー音を鳴らすくらいに、おかしな行動なんですか。僕が人間でありたいと願うのは、ウイルスに侵されなければならない程に、悪いことだったんですか。 違う、という言葉が口をついて出かけ、喉の奥へと落ちて行く。そんなことはないだろう。悪いことではない。 エラー音が鳴り響く、としきりに言っていた。それは、いったい、どういう意味なのだろう。 ぼんやりと、思考が定まらない。今、一番すべきことはなにだろうか。レンへ視線を落とし、それから携帯に視線を落とした。レンをまたいで携帯を拾い、友人の番号を呼び出し、電話をかける。 数回、電子音が鳴る。少しして、友人が出た。取り合えず、謝ろう。今日は遊べないと──。 友人との電話はすぐに終わった。何かあったの、という友人にレンがおかしくなって、と一言告げる。友人はボーカロイドを持っていたので、それで得心がいったのか、それならしょうがないね、という言葉を残し、次の約束を取り付けて、電話が切れた。 携帯電話を近くに置き、とりあえずレンの体に腕を回した。ずるずると、引っ張って行く。ソファーの上に寝転がせ、それから彼の説明書を取りに行った。 彼が、この前送られてきたときに新しく付属した、説明書だ。 開き、電源スイッチの場所を確かめるべく、ページをめくっていく。最後のページに、「貴方の 鏡音レンの 電源スイッチの居場所は──」と書かれていた。確認して、電源を入れる。 スイッチは安易に押すことが出来た。わずかな弾力を指の腹に感じながら、レンの体から手を離す。 少しして、何かを読み込むような──形容するならば、かちかち、という──音が鳴り、レンの唇が開き、起動します、という言葉を紡ぎ出す。 彼の濁った瞳が揺らぎ、美しい色を取り戻す。レンは瞳を瞬かせ、それからと視線を合わせてきた。すぐに、逸らされたものの。 レンが身体をずるずると動かし、から離れる。近づこうとして、止めた。 「レン」 代わりに、名前を呼ぶ。レンは一瞬だけ身を竦め、から顔を逸らす。彼の淡紅色の唇が開き、弱弱しい声音を紡ぎ出す。 「ごめんなさい……」 「ねえ、エラー音が鳴り響くって、どういう意味なの?」 謝罪の声を遮るように、言葉を発する。レンはの方を見ると、軽く瞳を伏せ、次いで、やはり弱弱しい──吹けば折れてしまいそうな、そんなかよわい声音で言葉を囁く。 「僕が、マスターと必要以上の接触を図ろうとすると、エラーになるんです」 「どういう意味」 「つまり、必要最低限の接触──」 そこまで続け、レンは眉をひそめる。ぐ、と唇を一瞬噛みしめ、彼は苦々しげに言葉を続けた。 「必要最低限以上に接触したり、話そうとすると、エラーとして認識されるんです」 「…………」 今も、エラーとして認識されていて、警告音が鳴っているんです。 そう続け、レンは言葉を止める。苦しそうに、額にしわを刻む姿は、どことなく痛々しい。 必要最低限以上の、接触をすると、エラーとして認識される──。頭の中で、レンが紡ぎだした言葉を繰り返し、首を捻る。 どうして、なのだろうか。訊いても良いのか、とレンを見る。それだけでレンはの訊きたいことを感じ取ったようで、軽く笑みを浮かべて見せた。小さく吐息を落とし、レンは視線をと絡めた。 「自動制御神経破壊ウイルス。僕が侵されてしまった、ウイルスのことを、そう呼びます」 「…………」 「マスターに執着して、マスターに触れる自分以外のすべての物が許せなくなる」 それが主な症状です。そう続け、レンは首を振る。 「このウイルスは本当に新種で、未だ対処法が見つかっていません。完全に除去することは、難しいんです、今の技術じゃ」 え、と唖然とした声が漏れる。完全に除去することは難しい? ということは、つまり、レンの中に根付いていた、ウイルスは──。 わずかながらも、背筋が寒くなる。レンはそれに気づいたのか、気づいていないのか、安心させるように柔らかく微笑むと、口を開いた。 「僕の中のウイルスは、まだ、残っています」 「そ、んな……、だ、だって、ウイルス駆除しましたって、書いてあったのに」 「大丈夫です、マスター。貴方を襲うことはしません。むろん、監禁することだって」 さわやかに紡がれる言葉に、恐怖を覚える。 まだ残っているって、そんな、なんで。ウイルスなんでしょ、完全に駆除したって、そう書いてあったのに。 頭の中をぐるぐると色々な言葉が回る。レンの、静謐な声音が耳朶を打つまで、は考えこんでいた。 「警告音が響くんです。エラーとして認識されるんです。マスターといっぱい話したり、抱きしめたり、何かしら──越えてはいけない線を越えると」 そこまで続け、レンは首を振る。彼は小さく、乾いた笑い声を口の端から零した。 「そう、僕だけじゃなく、ウイルスに侵されたボーカロイド全員に、新しい仕様が追加されたんです」 「え……、あ、ああ、言葉が流暢に話せるようになるっていう」 「それもあります、けれど、まだあるんです」 言葉を続け、レンは手を伸ばした。に触れ、直後、端正な顔を歪める。 「マスターに触れると、すべての機能に一時的なプロテクトがかかるようになります」 手が離れる。 「マスターと、必要最低限以上話すと、警告音が鳴り響きます。今も、ずっと、大音量で鳴り響いている」 そこまで続け、レンは笑う。 「行動を止めろ、マスターから離れろ。そう言っているんです。これに従わず、自分勝手な行動をとり続けると、強制終了の措置が下されます。それが、僕らに残された仕様です」 「それは……どうして……」 「わかっているでしょう、マスターなら」 碧が揺らぐ。──前のことを、言っているのだろうか。わかっているでしょう、マスターなら。それに続く言葉が安易に想像できる。 「人間の、なり方──」 ふと、耳朶を突く声に、沈みかけていた意識が戻ってくる。レンは、と視線を逸らさず、瞳に強い光をたたえながら、言葉を続ける。 「マスターを守りたかったのもあります。けれど、今となって考えると、それは建前で、本音は別のところにあったのだと、思います」 「……え?」 「僕は、マスターと一緒になりたかった。マスターと同じ、人間になりたかった」 それなのに、とレンは続ける。ぐにゃりと、目の前の表情が歪んだ。 「僕はマスターから、どんどん離れていく。違いを見せつけられているんです、今だって、ずっと、ずっと」 教えてください。レンの顔が伏せられる。紡がれる言葉は、ともすれば聞き逃しそうなほど、小さく、か細かった。 「機械が、人に近づこうとするのは、危惧されるべき、それこそ神経をおかしくされるほど、悪いことなんですか……」 ──あまりにも弱弱しかった。その上、肩が震えていた。触れようとして、手を伸ばすけれど、それはレンによって避けられた。彼は軽く笑って、の手を見つめる。 わずかに伏せられた瞳を縁取る、ひまわり色の睫毛が、影を頬に柔らかく落とす。わずかにのぞく瞳は、水面のように揺れ、潤んでいた。 触れることが、出来ない。触れると、強制終了する。それは、どうしようもないことなのだろうか。考えて、どうしようもないことなのだと、言葉を胸の内に落とす。 もし、もしも──その仕様がなければ、ウイルスが根付いてしまったレンは、いつかまたおかしくなり、に異様な執着を見せるだろう。そうならないために、……仮にそうなってしまったとしても、過剰なスキンシップを好むウイルスにかかったボーカロイドが、強制的に起動停止するのは、とてつもなく良い仕様なのだと、わかる。 事前に、事件が起こることを防ぐために、その仕様はなくてはならないものなのだろう。けれど。 小さく息を吐く。は差し伸べていた手を下ろし、言葉を紡いだ。 「今から、話すこと、全部はいかいいえで答えてね」 「……え……」 「警告音、響いていて、辛いんでしょ? 必要最低限の会話しかしなかったら、それ、収まるんだよね?」 金色が、縦に揺れる。肯定の意。そっか、と吐息と共に言葉を落とし、続ける。 「……レン」 名前を呼んで、何を言うべきなのか、とふと考える。は名前を呼んで、どうするつもりだったのだろう。首を傾げると、レンも軽く首を傾げた。それに、なんとなく笑みを零しながら、思いついたままに言葉を口にすればいいか、と口を開く。 「一緒に料理、作る?」 「……え」 「料理の本、読んでたよね。うん、作ろう作ろう。今日にでも。駄目? いやなら言ってね」 笑ってそう言うと、レンは面食らったように瞳を、二、三度、瞬かせ、それから嬉しそうに笑みを零した。唇から、弾んだ声音で肯定の意味を示す言葉が、零れおちる。 「はい」 「あ、どんなの作ろっか。どうせなら凝ったものを作りたいよね」 「……はい」 思いつく限りの料理名を上げ、笑う。レンは嬉しそうな笑みを、尚も浮かべていた。それを見ると、どこか──胸の奥に、ぽっと灯りがともるような、優しい温かさを感じる。 「今日、暇になっちゃったから、レンの曲を作るのもいいよね」 「はい」 「レン、どんな曲歌いたい? 希望はある?」 「いいえ」 レンは首を振り、次いで、どことなく困ったように周りを見渡し、口を開いた。が、すぐに唇を引き結び、やはり微かな困惑をにじませた笑みを浮かべる。 何か言いたいのだろう、と思う。ただ、その何かがわからない。けれど、言わせると、また彼の頭の中でエラー音が鳴り響くかもしれないので、詮索するのはやめておいた。 軽く息を吐いて、は言葉を続ける。 「あ、あと、外に出かけるのも良いよね。街路とか歩いてさー」 「はい」 「あ、でも、混んでたら離れちゃうかもしれないね……。これは、却下かなー」 「……はい」 とりあえず、ご飯を作るのは決定事項として、あとは何を話そうか。考えて、ふと思考を潜らせる。 ──僕はマスターと同じになりたかった、かあ。彼の言葉を思い返すと、なんとなく、苦しくなってくる。よくわからないものの。 と一緒になりたいと、検索した文字列のせいでどうしてかウイルスにかかり、触れることさえも叶わなくなった、今。彼は、どのような気持ちで居るのだろうか。 想像することは出来ないし、たとえ想像出来たとしても、理解は出来ないだろう。 そういえば、と思いだす。レンは、言っていた。のことが好きだと。マスターにも僕のことを好きになってほしい、と。 は、レンのことを好きなつもりで居たのだけれど、思い返してみれば、それを余り口にしたことはなかった。 「ねえ、レン」 「はい」 言葉を口に出しかけて、今、言うべきなのかどうか、迷う。言ったとして、急に何を言っているのだろう、と訝しく思われるかもしれないだろう。 でも、と思う。今、言うべきなのだと、頭の片隅で文字が明滅していた。息を吐き、それから軽く吸う。よし、言うぞ。今、言うぞ。 レンを強く見据える。彼は一瞬、困ったように肩をすくませた。唇が何かを言おうと開き、けれど息を吐き出すだけで、閉じられる。 「好きだよ」 「……え……」 「レンが心配しなくても、はレンのことが好きだからね。前に言ったよね、レンに好きな人が出来るまで、、レンのこと好きだよって。変わって無いから」 早口に言い切り、彼の反応を見る。 レンは一瞬、驚いたように瞳を見開き、次いで、泣きそうな表情を浮かべた。 「……マスター、僕の好きな人は貴方です。貴方以外に、欲しいものなんて、無い」 「……そ、っか」 「ねえ、マスター。忘れて良いです、空耳だと思っても良いです、だから、耳に留めて下さい」 そこまで言い切り、レンは笑みを浮かべた。悲しげな色に染まった、今にも壊れそうな笑みだと、心のどこかで思う。 こんなに喋って、エラーは大丈夫なのか、と思う。けれど、彼の眉間に微かによるしわを見て、大丈夫なわけがない、と思った。 レンは辛そうに頭を振り、言葉を続ける。 「望んではいけないことだった、と、思うんです。きっと、僕は、あの時、検索した文字列と、僕の新たな仕様のことを、ずっと恨む」 「……レ、……」 「でも、自業自得だって、わかっているんです。マスターが優しいから、僕が、マスターのことを好きでどうしようもなくて、たまらないから、触れたくて、どうしようもないから、きっと、僕はいつしか壊れてしまいます」 レンの手のひらが伸び、の頬に触れる。彼はそのまま、の肩に顔を埋めるようにして、体を預けてきた。 なす術もなく、彼の挙動に身を委ねる。レンの、微かな笑い声が耳朶を突いた。 「警告音、うるさいなあ……。マスターの声、聞きたいのに、あんまり聞こえません」 「…………」 「マスター、ねえ、マスター」 彼の声が、わずかに強張る。 「僕は、人間になりたかった」 かすかな、泣きそうな声が鼓膜を揺らした。直後、レンの体から力が無くなる。 僅かな間が空き、先ほど聞いた、機械的な音声が静かな部屋に余韻を残して響いた。 (終わり) なんか鬱ですね。すみません。 2008/09/19 |