「レンの瞳の色、好きだよ」
「……僕の、ですか?」


 吐息が交わるほど近くに、マスターの顔がある。それに多少ながらも恥ずかしさを感じながら言葉を返すと、目の前の顔が柔らかく微笑んだ。マスターの指先が僕の頬を優しく撫でる。指先にともった熱が、濡らすように頬へと移るのを感じながら、瞳を伏せた。

 ──僕の瞳の色が、好き。そう、マスターが言ってくれたことがどうしてか嬉しくて、どうしようもなく、幸せだった。
 頬を撫でる指先に、自身の指先を押し当てる。柔らかな熱が、じんわりと皮膚に伝わってきた。


「僕は、マスターの瞳の色が好きです」
「そっか。ありがとう、レン」


 思ったことを正直に言葉にすると、目の前の表情がますます喜色で彩られた。マスターは僕の頬から指先を離し、手をぎゅっと握ってきた。なんとなく気恥ずかしくて、でも、なんとなく嬉しくて、小さく笑い声を零した。それから、マスター、と言葉を声に乗せる。甘い音色を持たせたそれに気づいたのか、マスターは苦笑を浮かべると瞳を閉じた。

 頬を包むように手のひらで持ち、そっと唇を重ねる。わずかな弾力を持ったそれに、どうしようもなく胸が高鳴った。どちらからともなく顔を離す。かすかな笑い声が耳朶を打った。目の前のマスターが伏せていた瞼を開き、はにかむように微笑む。


「レン、好きだよ」
「僕だって、マスターのことが、とてもとても……好きです」


 感情を乗せた言葉に、マスターは笑みを零した。幸せで、ずっと続くと思っていた日々だったのに。そんなことはないと、知っていたのに。


<あなたの好きな瞳を>


 人とは飽きる存在だ。それは知っている。最初からわかっていたことだ。飽きないにしても、他に熱中するものが出来れば、それまで熱中していたものなんて簡単にほったらかすだろう。
 けれど、マスター、あなたは違うと思っていたんだ。だって、マスター、あなたは僕のことを何度も何度も、好きって、そう言ってくれていたから。

 僕もマスターのことが好きで、それは今だって減るどころかむしろ、日々が過ぎるたびに増えていく。つもり重なった想いは、きっと一生、消えない。

 マスターのことを本当に大好きで、マスターの一挙一動を、メモリに焼きつけるように、必死で眺めていたからなのかもしれません。僕は、あなたの以前との行動の相違に気づいてしまった。

 僕を調律する時間が減った。僕と話す時間も減った。僕に抱きついてくる回数も減った。僕のことを好きと言う回数が減った。僕と口づけを交わす回数が減った。僕の名前を呼ぶ頻度も減った。

 僕のことを見て困ったように笑う回数が増えた。僕の名前を呼ぶ時、ためらうような間をつけて呼ぶことが多くなった。僕が触れて唇を重ね合わせようとすると、やんわりと拒否を示す回数が増えた。好きと言ったら困惑を表情に乗せることが多くなった。調律をして下さい、と言っても交わされてしまうことが多くなった。マスター、と呼んだらスグに反応してくれたのに、今は二、三回呼ばないと反応してくれない。

 僕以外のものを見て笑うようになった。僕以外のものを好きという回数が増えた。僕以外のものに興味を示す回数が大幅に増えた。

 これだけなら、まだ我慢できたのに、昨日マスターの部屋から聞こえてきた言葉があるんです。


「もう、要らない」


 扉越しだったから、少し聞こえにくかったけれど、大体そのような言葉を言っていました。電話していたのか、誰かの話声──くぐもっていた──も聞こえた。


「今、──売れば──」「そう、かなあ」「──高い──ボーカロイド──」「生活が、お金がさ……」「中古で──良いところ──」「かわいそう、かも……」「──ボーカロイドに──感情なんて、──無い──」「────」「────」


 扉の前で立ち尽くしてしまった。何をいうことも出来なかった。そのまま立ち去ることさえ、出来なかった。言葉を聞くことを頭が、回路が拒絶しているのか、最後はあまり聞きとることが出来なかった。

 ボーカロイド。売る。生活。中古。

 そこまで聞こえれば、聡い僕だけでなく、誰だって気づく。
 マスターは僕を売ろうとしている、ということに。理解すると同時に、マスターの自室へと続く扉から離れた。そのまま自室へと戻って、ベッドの上に身を横たえる。マスターが僕のために用意してくれた、部屋。ベッドと机、閑静で、生活感も何もない、部屋だった。

 ふ、と喉の奥から笑い声が漏れてくる。一旦、笑い声が漏れると、それから止めどなく声が漏れてきた。
 自分でもなぜ笑えるのか、わからない。感情プログラムが壊れたのかと思った。


「ふ、あは、あはは、あはは、あは、あははははは」


 人間って飽きるもの──、知っている。知っていた。けれど、信じることは出来なかった。あんなにも好きだと言ったのに、あんなにも触れあったのに、マスターは簡単に僕に飽きてしまった、なんて、信じることも出来ない。

 腕を伸ばして枕を掴む。それを抱くようにし、顔を埋めた。笑い声は無意識のうちに、ずっと溢れ続ける。

 マスターが、飽きた。僕に。売るという言葉が、他のもののことを指していた、だなんて、そんな楽観的な考えは出来ない。
 胸の奥から、喉の奥そこから──どこか、奥の方から漏れ続ける笑い声は、次第に大きくなっていった。

それに、気付いたのだろう、おかしくなった、と思ったのかも知れない。マスターが僕の名前を呼んで、扉を開けて僕の部屋に入ってきた。とたん、笑い声が自分でも驚くほどぴたりと止まる。

 枕に埋めていた顔を上げ、マスターと視線を合わせる。マスターは困惑を表情にうつしたまま、僕を見ていた。片手に受話器。まだ、電話をしていたのだろう。僕のことを売ろうかどうか、そういう話し合いを誰かとするために。

 そう思うと、なんだか笑い声がまた漏れてきそうになった。けれどそれを必死に押し込めて、口唇の端を上げる。眉尻を下げ、瞳を細くした。きっと、マスターには笑っているように見えるはず。


「なんでもないんです、ちょっと……思い出し笑いをしちゃって」
「そうなの? でも、夜だから声を抑えてね」
「わかりました。すみません、マスター」


 謝罪の言葉を口にすると、マスターは早々に僕の部屋から出て行ってしまった。扉をきちんと、しめて。

 それを見送って、もう一度枕に顔を埋めた。笑い声が再度、舞戻ってくる。止まらない。あまりに大きな声を出したら怒られてしまうから、必死に抑え込む。

 飽きられてしまうなんて、最悪だ。きっと、僕に悪いところがあったのだろうと思う。でも、考えてもよくわからない。どこが悪かったのか、そんなの本当にわからない。
 マスターがどうして僕に飽きてしまったのか、どれだけ考えても答えは見つからない。

 好き、と軽率に口にしたのが駄目だったのかもしれない。キスをする回数が多かったのも、駄目だったのかもしれない。手をつなごうと、触れようと、抱きしめようとするのが駄目だったのかもしれない。
 甘い言葉を囁くことが不得手で、感情を伝えるのも普通の人間より下手で、そんな僕だから飽きられてしまったのかもしれない。

 マスターに調律して、とせがんだことがあった。あれも原因なのかもしれない。マスターが料理をしているとき、後ろから抱きついたこともあった。あれだって、原因なのかもしれない。

 考えれば考えるほど、全てが原因に思えてくる。僕が、僕だったから駄目だったのかもしれない、とまで考えてから、頭を振った。ぎゅ、と枕を強く抱きしめる。いつのまにか、唇からは笑い声ではなく嗚咽が漏れていた。

 ひきつったような、上ずったような声。以前だったら、マスターは僕が泣いていたらきっと驚いて、すぐに飛んできてくれただろう。けれど、今は。

 枕カバーが、瞳の回路に発する熱を下げようと、まなじりにたまる水で濡れた。
 どうして飽きられたのか、考えても考えても答えは出なかった。


 そして、今日、マスターは朝早くから出かけてしまった。友達とお店に遊びに行くのだと言う。その言葉に、驚くほどに身を震わせてしまった。

 どうしてお店に行くんですか。それは僕を売る中古専門店を探しに行くためですか。そう問いかけそうになって、すんでのところで胸の奥にうめつけた。笑って、マスターを見送る。
 きっと上手に笑えていたのだろう、マスターはいつものように外出してしまった。その後、僕は洗面所にある鏡で先ほどマスターへ浮かべた笑みを再度浮かべて見た。完璧に笑えていたことに、少しだけ安堵した。

 マスターの居ない家は退屈で、昨日のことばかり考えてしまう。ソファーに腰をおろして、僕は小さく息を吐いた。

 僕が悪いのだろう、僕がきっと、悪い。僕が冗長なことばかりするから、マスターが飽きてしまって、僕のことを売ろうとしている。

 売る、と考えると背筋に氷塊が滑り落ちるような、言いようもない不気味さを感じる。気持ち悪い。喉の奥に何かが迫り上げてくる気配がする。気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。喉から荒い息が吐き出され、胸の奥の機関が急速に動き出す。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い──。前屈みに身体を倒す。気持ち悪さは直らない。それどころか大きくなっていっている気がする。


「あ、うぅ、マスター……」


 荒い息を吐き出すとともに紡いだ言葉は、ただその場に空しく響くだけだ。マスターは居ない、出かけている。そんなこと知っている。それなのに、唇が勝手に動いて、何度も何度も「マスター」という言葉を吐き出す。

 どうして、僕に飽きちゃったんですか──。僕が悪かったなら、そこを直すから、まだ、そばに置いて下さい──。僕には、僕には、この家の鏡音レンには、鏡音レンというボーカロイドには、


「あなたしか、居ないのにいぃ……っ」


 嗚咽が漏れる。誰も注意する人物がいないから、喉の奥から絞り出すような声音は大きくなっていった。目の奥の回路が熱くなる。温度を下げるべく、まなじりから水があふれ出してきた。水が頬を伝って落ちていく。行く筋も涙の痕を残した顔は、きっと酷いだろう。


「やだ、やだ……嫌だ……」


 捨てられるのは嫌だ。売られるのは、もっと嫌だ。どうしたら良い。どうすれば良い。考えてもわからない。
 外へ視線を向けると、青い色が目に入ってくる。マスターが言っていた、僕の瞳の色と空の瞳の色は大体一緒だと。

 水があふれつづける瞳に指先をつける。マスターは、こうも言っていた。僕の瞳が、好きだと。

 マスター、たとえば、この瞳をあなたにあげたら、僕のことを飽きないでいてくれますか。

 指先を眼窩の中に押し込む。エラー音が鳴り響いた。気にしない。ぐち、と変な音が鳴る。眼球は丸く、その上、機械のコードで出来た視神経でつながっているからから、上手く取れない。

 痛みは感じない、指先を動かして、どうにか眼球を取ろうとする。取れない。エラー音がうるさい。
 眼窩に押し込んだ指先を戻す。思い立って、食器棚へと赴いた。小ぶりのスプーンを手に取って、眼窩に差し込む。そのままてこの原理で動かすと、眼球が飛び出した。回路によって右目から垂れさがっている様は、気持ち悪いものだと思う。

 片手で、眼球を掴む。力を込めて引っ張った。取れない。エラー音が酷くなる気にしない。引っ張る。何度も引っ張る。強く力を込めて、何度も何度も何度も何度も──。

 ぶち、と音がした。ぎぎ、と金属のこすれる音を聞いた。思い切り引っ張ると、眼球は視神経の回路から千切れた。エラー音が、消える。

 眼球を眺め、それを取り出した眼窩を触る。どうしようもなく笑みがあふれてきた。

 マスターが好きだと言っていた、僕の瞳。きっと、これを渡したらマスターは僕のことを好きになってくれる。マスターが好きだと言ってくれた瞳、きっと気に入ってくれるはずだ。
 そうして、僕を売ることをやめてくれるはず。僕のことをもう一度、いっぱい愛してくれるはず。片目でしか、ものを見ることが出来なくなったけれど、多少ならずとも気持ち悪い顔になったかもしれないけれど、マスターならきっと受け止めてくれる。

 マスター、僕に、飽きないでください。僕にはマスターしか居ないんです。
 眼球として動いていた硬質な物体は、指先で突くと、やはり硬質な音を響かせた。きっと、きっと、好きになってくれる。きっと好きになってくれる。僕のことを愛してくれる。

 その時、がちゃりと、玄関の扉が開いた。マスターの声が聞こえる。


「ごめん、レン、忘れものしたー。取ってきてー」


 僕のことを呼ぶ声が、聞こえる。


(終わり)


2008/08/12
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