「メイコ、一緒に飲もうか」 マスターは笑って、いつもそう言った。断るはずもない、あたしは何時だってマスターの誘いを断らなかった。二人で缶のプルタブを開けて、かちん、と硬質な音を立てて乾杯をしてから、口に含む。独特の酸味と苦味が喉をじわじわと侵食していった。あたしは、これが嫌いじゃなかった。 マスターはいっつも直ぐに酔っちゃって、最後には、ほろ酔い状態どころの話ではないぐらいにべろんべろんになって、他のボーカロイドに絡んだり、あたしに突っかかってきたりした。酒癖が悪い、というのだろうか。でも、そんなマスターをあたしは嫌いじゃなかった。 お酒を飲んだせいか、いつもより上昇している体温。触れた手の平越しに伝わる、マスター、──人間だけの、温もり。最後はあたしがいっつもマスターを部屋まで連れて行った。 マスターはベッドに寝転がりながら、あたしの名前を呼ぶ。返事をすると、くすぐったそうに笑う。マスターの優しい声で紡がれる、あたしの名前が、あたしは好きだった。 続くと思っていたのだ。月並みな言葉だけれど、永遠に。あたしが壊れるまで、続くと。 そんなことは、無いというのに。 貴方のことを忘れない ver.me マスターは、ぼんやりとした人だった。だから、この世界から遠くへ行ってしまうのも、やっぱりぼんやりとしていて、そのぼんやりとした隙間を、あたしはどうしても信じることが出来なかった。 マスターは、もう一週間も前に、遠い世界へと旅立ってしまった。あたしが行くことのできない、どうしたって、何をしても、言葉を伝えることの出来ない、遠い世界へと。 しょうがないのだと、納得できるはずも無い。マスターは人間で、脆くて、あたしなんかより、ずっとずっと寿命が短いことをしっていたのに、信じられなかった。 隙間なんて、じっさいのところ、無いのかもしれない。あたしはボーカロイドだから、そんな誰かが──マスターが遠くへ行ってしまったとしても、そんな隙間を感じることなんて、無い。 そう思うのに、そう知っているのに、分かっているのに、マスターがいつの日か、いつものように扉をくぐって帰ってくるのではないか、なんて思ってしまうのだ。 あるのかないのか、ぼんやりとした隙間を埋めるために、マスターという存在は不可欠なのだ。 小さく息を吐いて、時計へと視線を向ける。深夜を指示していた。それに小さく吐息を零し、目の前を見る。テレビがあった。視線をそらし、俯く。机が目に入った。 机に体を預けるように、もたれかかってみる。硬質な机へと顔をうつ伏せて、瞼を閉じた。頬にひんやりとした感触がある。 そのままで、しばらく居ると、誰かがやってくる気配がした。カイトだろうな、と思う。カイトはかすかな音を立てて冷蔵庫──冷凍庫なのかもしれない──の扉を開けると、小さな声を出した。困ったように笑って、扉を閉め、また開ける。それから何かを取り出したのか、ごそごそと雑多な音を立て、やはり扉を閉め、静かにこちらにやってきた。 あたしを見て、めーちゃん、と困ったように名前を口にする。顔を上げると、困ったように笑うカイトが目に入った。手には二つの缶ビール。 怪訝としているあたしをよそに、カイトはそのまま、あたしの近くに来ると缶ビールを一つ、机の上に置いた。そっとあたしに寄せて、それからまた笑う。 「めーちゃん、ひとつ貰っちゃうね」 「……あんた、お酒、嫌いじゃなかったっけ」 んー、と小さな声を発してから、カイトはプルタブを開けた。かしゅ、と変な音がする。 あたしは姿勢をそのままに、もう一つの缶のプルタブを開いた。間抜けな音が聞こえる。それを口に含むと、なんだか微妙に胸が熱くなった。 なぜだろう、と考えて、すぐに思い当たる。 マスターが遠くへ行ってから、こんなふうに飲むのは初めてだった。 「苦いなあ……、アイス食べたい……」 「食べれば良いじゃない」 好きなものをけなされているような気分になり、つんけんとした声音でそう言うと、カイトは苦笑を浮かべた。まあ、そうなんだけれどね。そうつづけて、もう一度缶に口を押し当てる。喉仏が軽く動いた。 それを見ながら、私も缶ビールを再度口に含む。──別段、苦くはない気がする。 「美味しいじゃない」 「めーちゃんはお酒好きだからなあ……」 穏やかな声でそう言われ、そうね、と頷く。お酒は好きだ。特に、──マスターと一緒に飲むものが。 マスターは弱かった。本当の本当に弱かった。お酒飲み比べー、とかあたしに挑戦を挑んではいつだって負けていた。 けれど、何度だって再挑戦してくる。ちゃんと量は調節していたし、数週間に一度、そのくらいの頻度で飲み比べをしていたので、マスターの身体に負担がかかっているとは思わなかった。 実際のところは、わからないけれど。 く、と音を立ててお酒をのみ込む。 「マスターも、お酒好きだったよねえ」 「……そうね、そうかもしれないわ」 「ネギも好きだったし、みかんもバナナも好きだったし、アイスも好きだった」 弾むような口調で言い切られる。もう一度、肯定するような言葉を返した。カイトは笑う。 「俺たちの好きなものを、マスターは好きになってくれていたよね」 「──そうかもしれないわね」 なんとなく、この家のボーカロイドは、マスターが遠いところへ行ったという事実を、受けとめられずに居ると思う。──あたしを含めて。 今だって、カイトはそこにマスターが居るかのような口調で話している。マスターが居たら、そうかな、と軽く笑って言葉を返していただろう。 けれど、マスターは居ない。だから、あたしが言葉を返す。 「……マスターが好きなものを、あたし達が好きになっていった、っていう見方は出来ないの?」 そう言うと、カイトは頬を優しく緩ませた。そうかもしれないね、と僅かに笑いを含んだ声が聞こえる。 ボーカロイドには、マスターしか居ない。マスターに嫌われてしまえば、それでそのボーカロイドは終わったようなものなのだ。 マスターが自分達を好きになってくれなくて、誰が好きになってくれるというのだろう。ただ、大勢の人々は好きになってくれるかもしれない。親衛隊、ファン、あたし個人についているファンは大勢居る。それはミクもカイトも、ひいてはリン、レンも同じことだ。 けれど、違うのだ。 マスターが居ないと、あたし達は本当に何も出来ない。マスターは、あたし達を優しく導いてくれる、言うなれば親のような存在なのだ。 まあ、親のような存在、と言っても、親愛を超えて愛し合うマスターやボーカロイドは沢山居る。ボーカロイドはマスターを決して裏切らない。マスターはどうか、知らないが。 現に、あたしのマスターは、裏切った。あたしを。リンを、レンを、ミク、カイトを。 口につけていた缶を外し、机の上に項垂れる。カイトが焦ったようにあたしの名前を呼んだ。 「めーちゃん、酔った?」 「酔ってないわよ。……ただ、ちょっとだけ」 辛くなった。そういったら、カイトは信じてくれるだろうか。そんなことを考えて、そっと息を吐く。 言ってはいけないことなのだ。あたしがしっかりしていなくちゃいけない。一番、この家に長く居たのはあたしなのだから。 けれど、だからこそ、忘れられない思い出が沢山ある。胸に詰まるような思いも、たくさんあたしの、機械で出来た胸に詰まっている。 ──やばい、と思った。そう思った時にはもう、視界が滲んでいた。悲しい気持ちを打ち消すように、ビールを口に含む。苦くて、何故か、少しだけしょっぱかった。 「……しょっぱい」 「……そうだね、しょっぱい、すごく」 カイトがビールを口に運ぶのが見えた。視界が歪んでいたから分からなかったけれど、彼も泣いているのかもしれない、と思った。 マスターが居るのは、遠い遠い空の向こうだ。 ──あたし達は、いつか、そこに行けますか? 口の中で問い掛けて、涙が溢れそうになるのを何とか堪えながら、あたしはもう一度ビールを口に含んだ。 苦くて、やっぱり、しょっぱかった。 ver.k 2008/8/7 |