「カイトはアイス好きだね」

 マスターの言葉に、俺はこくりと頷いた。とたん、マスターは嬉しそうに笑みを浮かべて、俺の頭を机越しになでた。優しい手のひらから伝わる、柔らかな温度に、思わず俺は目を細めてしまう。

 俺は、冷たかった。性格が、ではなく、体温が無かったのだ。温かくない。めーちゃんもそうだ。おれと、めーちゃん。ボーカロイド01のタイプは、温度を自分で制御出来ない。いつだって冷たくて、どことなく、皮膚も硬質だ。

 不気味の谷現象というものがある。俺たちのような、ヒューマノイドが人間に近づきすぎるため、起こる現象だ。
 俺たちは汗をかかない。どれだけ走っても、息を荒げることもない。そういった、人間とのかすかな差異、それを人間が見つけ出すことによって、心の内を「気持ち悪い」という感情が占める。それは、俺たちのような人間に似ている機械を見ることによって、必然的に引き起こされる感情だった。

 気持ち悪い、人間なのに人間ではない、おかしい。そう言った気持ちが湧いてくること、俺たちに対して少なからずも嫌悪感を抱いてしまうこと。それが不気味の谷現象だ。

 マスターも、そういった気持ちを少なからず持っていたのかもしれない。俺に触れてくる際、俺や、ボーカロイド達と色々なところに出かける際、そういった気持ちが胸の内にうずいていたかも知れない。

 けれど、マスターは顔に出さなかった。口にも出さなかった。行動にさえ、出さなかった。
 そんなマスターのことを、必然的とはいえ、マスターを好きになるような命令が最初からインプットされている俺が、嫌いになるはずがなかった。
 それどころか、おかしいくらいの気持ちで胸が満たされるほど、だった。

 マスターは俺が頷いたのと同時に、軽く笑った。


「じゃあ、今度、もっと沢山買ってくるよ。ダッツをさ。お給料、入ったし」
「本当ですか? 楽しみです、とても」
「うん、楽しみにしていて」


 マスターはもちろん、俺との約束をきちんと守ってハーゲンダッツを沢山買ってきてくれた。当初は、沢山あって食べきれない、と思っていたのに、一日一日が過ぎるたび、しょうがないことだけれど、ハーゲンダッツは、少しずつ減っていった。

 貴方のことを忘れない ver.k

 冷凍庫を開く。俺の最近の日課は、朝起きて直ぐに、ハーゲンダッツの数の確認をすることだった。
 指先で、ハーゲンダッツを数える。いち、にい、さん、し、ご。五個ある。それにほっとしながら、おれは冷凍庫を閉めた。

 思わず浮かぶ笑みをそのままに、台所から出る。とたん、ミクと出合った。ミクは俺の嬉しそうな様子を疑問に思ったのか、小さく首を傾げると、「兄さん、どうかしたの」と問い掛けてきた。それに、軽く笑みを零して、言葉を紡ぐ。


「アイスが、まだ五個、あるからね」
「そうなの? それが嬉しいの?」


 ミクの言葉に正直に頷く。何時食べようか、なんて考えて俺はミクから離れ、窓へと歩み寄った。リンが、空を眺めている。俺も同様に空を眺めて、小さく笑みを零した。

 マスター、まだ、貴方の居た証拠が五つも残っている。軽く笑い声を零す。リンが「お兄ちゃん、どうかしたの?」と問い掛けてきた。それに、先ほどミクへ言った言葉を繰り返す。リンは小さく、鼻から息を漏らすようにふうん、と呟くと、再度視線を空へと戻した。


 マスターが遠いところへ行ってしまってから、もう一ヶ月が経とうとしている。
 俺たちの家は、前よりも少しだけ明るい雰囲気を取り戻してきた。特に、めーちゃんなんか、吹っ切れた表情で居る。

 めーちゃんは、朝起きて、発声練習をして、音程が狂っていないかどうか、調べて。それから、パソコンの前を陣取って、マスターの曲を聞いて、笑う。
 そして、夜になったらビールを飲んで、嬉しそうに笑いながら、眠る。それは悪いことじゃないし、とても良いことだと思う。ただ、いつもいつも俺がめーちゃんをめーちゃんの部屋へと運ぶ役割になっているから、出来れば自室でビールを飲んで欲しいなあ、とは思うものの。

 めーちゃんは、ビールを飲んだ後も、冷たい。それは当然だ。俺たちはボーカロイド、しかも01タイプなのだから。温かかったら、逆に驚いてめーちゃんを取り落としてしまうだろう。

 マスターとは、違うのだ。めーちゃんも、俺も。リンもレンも、ミクも。人間になりたくても、人間になれない。マスターが旅立った場所へと、俺たちはどうしても、行くことが出来ない。

 人間は死んだら、天国、または浄土に行くらしい。どちらも、この世の悲しさなんか吹き飛ばせる程、幸せに暮らせて。一説によると、悪いことをした人は直ぐに転生し、良いことをした人は百年間天国で遊んでから転生する、らしい。

 マスターはいっぱい良いことをしていたから、次に会えるとしたら百年後だろう。──輪廻転生なんて、ちょっと非科学的なことを信じるとすれば。

 実際問題、俺はもう、マスターには会えない。何をしても、どうしても、俺が壊れても、会えない。機械は壊れても、ただの廃棄物として棄てられるだけだ。
 マスターの居ないボーカロイドだって、長い目で見れば廃棄物だろう。主を失った犬が、保健所へ連れられていくように、俺たちも、いつしか夢の島に連れて行かれて、そこで朽ち果てるのを待つだけなのかもしれない。

 例え錆びても、動けなくなっても、俺たちはメモリの中に、残っている。データとして、いつまでも存在する。データとしての俺が壊れるだけであって、実際、復元は可能だろうし、俺はいつまで経っても、消えることは出来ない。

 マスターは、遠いところへ行ってしまった。何百年、何千年と経てば、マスターの居た証拠は無くなってしまう。普通のことだ。平凡な人間は、教科書などに記述されることなく、この世から姿を消してしまう。

 意識を飛ばしていたら、めーちゃんの高らかな声が響いてきた。カイト、と呼ばれているのに気付き、急いで返事をして、声のした方へと向かう。

 めーちゃんは台所に居た。冷凍庫を開き、俺を手招きする。近寄ると、めーちゃんは細い指先で俺の大切なアイスを順順に指差し、問い掛けてきた。


「アイス、いっぱいあるじゃない」
「……うん、でも、五個しかない」
「五個しか、じゃなくて、五個も、じゃない。食べないの?」


 ……曖昧に笑みを浮かべる。すると、めーちゃんは小さな吐息を零し、冷凍庫をしめた。俺が境界線を引いたのに、気付いてくれたのだろう。俺の横をすっと潜り抜けるように歩いていき、台所の入り口で立ち止まる。ひらひらと手を振り、小さく、──少し、呆れたような声音で、言葉を紡いだ。


「あんたが食べたくなったら、言って。皆で食べましょう」


 ちょうど五個あるんだし。そう続ける声は、震えていた。
 ちょうど、五個。反復するように言葉を口内で紡ぎ、俺は何故か泣きそうになった。どうしてこんなところで、と思う。胸のうちに広がる苦味を打ち消して、そうだね、とだけ呟く。めーちゃんはそのまま、何も返さずにリビングへと行ってしまった。

 ちょうど、五個。──ちょうどではない、という言葉が直ぐに頭に浮かんでしまった俺は、少し、おかしくなってきているのかもしれない。

 その日の夜、俺はベッドに潜り込んで、言葉を何度も頭の中で反響させていた。

 アイスは、まだ、食べられない。きっと、これからも食べられないだろうと思う。俺にとって、あのアイスは、マスターがそこに居たという証拠であり、それ以外の何物でもなかった。
 あの五つのアイス──あれらは、全て、マスターが買ってきてくれたものだった。

 アイスに消費期限はない。だから、何時までも置いていられる。俺はいつまでも、あのアイスを置いておきたい。そう思うのは、やっぱりおかしいのかもしれない。

 人は死ぬと、天国に行く。けれど、誰か一人でも悲しんでいたら足止めを食らい、しまいには、天国に行けなくなるらしい。

 悲しみたくは無い。けれど、どうしようもなく悲しいのだ。マスターがそこに居ないという事実が。俺には受け入れがたくて、きっと、めーちゃんだって受け入れられていない。
 リンも、レンも、ミクも、そうだ。きっと、皆受け入れられていない。
 それでいいのだと思う。でも、同時に、それだと駄目なのだとも思う。

 どうしようもない気持ちばかりが相反して、俺の頭をぐるぐると回る。結論なんか、出るはずもなかった。

 ──次の日。めーちゃんは朝早くから出かけていって、そうして一時間としないうちに帰ってきた。お帰りめーちゃん、と言う俺の言葉を遮るようにして、めーちゃんは俺の頭の上でビニール袋をさかさまにした。固いものが、俺の身体にぶつかって、落ちていく。

 空を眺めていたリンが、俺の近くに寄ってきて、めーちゃんが落としたものを手に取り、舌足らずに呟いた。


「あいす……」
「そう、アイスよ、リン!」


 リンの言葉に異常なまでの反応を見せて、めーちゃんは怒鳴るように口にした。思わず、俺とリンの体がびくりと震える。
 めーちゃんは、小さく鼻を鳴らすと、アイスを指差して、商品名を口にした。全て──少なく見積もっても、十個はあった──の商品名を口にすると、俺を指差す。


「カイト、食べたいものを選びなさい!」
「──え」
「リン、レンを呼んできなさい! ミクもよ!」


 唖然とした声を出しているうちに、めーちゃんがリンに指示を出す。リンは驚いたように身体を竦ませた後、首を縦に振って、走り去っていった。

 ……なんなのだろう、このアイス達は。訝しげにめーちゃんを見る。めーちゃんは俺と視線が合うと小さく鼻を鳴らし、座り込んだ。一つのアイスを手に取り、包装を破り取る。


「ほら、早く選びなさいよ」
「え、あ、……うん」


 急かされるように、アイスを手に取る。めーちゃんは満足そうに頷くと、手に持ったアイスを口に含んだ。その時、リンがレンとミクを連れてやってくる。
 レンは俺とめーちゃんの様子を見ると驚いたような表情を浮かべ、次いで泣きそうな笑みを浮かべた。ミクも、そうだ。
 リンだけがてきぱきと動き、レン達を座らせ、アイスを選ぶ。それから包装を破りとって、口に含んでいた。

 俺も手にとったアイスを口に運ぶ。ひんやりとした感触と同時に、優しい甘さが口に広がった。
 無言でアイスを食べ終わる。まだアイスは残っていたので、黙々と食べ進めた。一週間ぶりのアイスだ。美味しい。アイスは、どんな時だって美味しかった。
 とけて指先を伝うアイスを舐め取り、俺は視線を気付かれないように窓へと向けた。抜けるような青と白が目に入る。

 美味しい、それは確かだ。けれど、マスター。

 思考を遮るように、めーちゃんが荒々しく言葉を紡ぐ。


「これからは、自分でアイスを買いに行きなさいよね!」
「…………めーちゃん?」
「あんた、あの五つのアイスは食べたくないんでしょう? だったら、他のものを買うしかないじゃない」


 めーちゃんが、俺と同様に指先へ溶けたアイスを舐め、気持ち悪そうにする。それから、申し訳無さそうな表情を浮かべて、軽く笑った。


「お金なら、あるんだから。アイスでも、バナナでもみかんでも、ネギでも買えば良いのよ」


 めーちゃんの言葉に、リンやレン、ミクが反応を示した。肩を軽く震わせる。ミクはアイスを口に含みながら、めーちゃんを見て、軽く笑みを零した。


「ネギ……良いなあ……」
「ミクも、ネギ、黒くなってきているでしょ。そろそろ新しいものを買えば良いのよ」
「うん。ありがとう、姉さん」


 軽く笑ってミクが答える中、リンとレンは二人で泣きそうな表情を浮かべていた。唇を軽く震わせ、アイスを持った指先を、やはりぷるぷると震わせる。
 めーちゃんはそれに気付いたのだろう。リンとレンの名前を呼ぶと、優しく微笑んで見せた。


「強制じゃないわよ」
「……知ってる」


 めーちゃんの言葉に、レンがぶっきらぼうに答えて、アイスの残りを口にする。リンも、小さく頷いてからアイスの残りを口にした。
 二人は、アイスを食べ終わるといつもの場所──リンは窓際、レンは自室──へと戻っていった。

 視線を下げる。アイスはもう、無くなっていた。

 小さく息を吐いて、俺は空を眺める。もこもこと、綿菓子のような雲が空をゆっくりと泳ぐように流れていた。風がゆるやかなのだろう、と推測をつける。

 ──マスター。
 声には出さず、口内で言葉にする。

 今日のアイス、美味しかったけれど、物足りなかったです。
 何でか知っていますか、と問い掛けて、知っているはずもない、と思う。


「あなたが、居ないから……」


 俺は、アイスを普通よりも美味しく食べる方法を知っていた。誰にも言ったことはなかったけれど、他のボーカロイドは皆、知っていたのだろうと思う。リンもレンも、──皆、好物はマスターの前で食べていたから。

 俺たちが嬉しそうに好きなものを口にすると、マスターはいつだって笑った。嬉しそうに、楽しそうに。
 キザな言い方かもしれません。もしかしたら、鳥肌が立つほど変なことなのかもしれません。
 でも、言います。口にしたことは無かったけれど。

 あなたの笑顔を見ながら食べると、いつだって、好きなものはもっと美味しく感じられたんです。

 だから、いつだってマスターの前でアイスを食べた。マスターと一緒に食べるアイスは格別で、どうしようもなく美味しかった。
 だから、物足りない。さっき食べたアイスは美味しかった。けれど、美味しくなかった。

 俺は、この味に慣れそうもありません。

 ──でも、と思う。
 慣れなきゃいけないのだ。慣れなくては、いけない。いつか、マスターと又出会う時、無愛想な顔をしてアイスを食べていたら、マスターは驚くだろう。

 もし、慣れることが出来たら、クーラーボックスにアイスを詰めて、貴方に会いに行きます。今は、いけない。信じられない。石を見ても、空に立ち上る煙を見ても、信じられそうになかった。

 いつか、皆を連れて、行きます。
 そのときには、ハーゲンダッツ、もう一つだけ買おう。ちょうど、六つになる。
 俺と、めーちゃんと、リン、レン、ミク、そして──あなたの数に、合うように。


ver.mi

2008/8/7
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