「ミク」

 マスターは、私が笑うと、返事をするように笑ってくれた。
 それが嬉しかったから、私はいつだって笑っていた。何度だって笑った。悲しいときも、苦しいときも、辛いときでさえ、笑った。マスターが笑みを返してくれるように。

 マスターの笑みはいつも優しくて、柔らかくて、幸せだよっ、っていうオーラが溢れているみたいだった。

 マスターは、私の髪の毛を綺麗だって言ってくれた。長くて、新緑の美しい色合いで。褒められるたび、くすぐったくて、私は肩をすぼめて笑った。マスターの指先が、私の髪の毛や皮膚に触れるたび、嬉しくて笑った。マスターも笑った。私の嬉しさが伝染したのかな、って思うと、もっと私は嬉しくなって、笑う。マスターも、笑う。
 マスターの笑い顔とか、行動とか、癖とか──全部全部、私のメモリの中にインプットされている。最重要として、保護もしてあるから、消えることはない。
 鮮明すぎたのかもしれない。だから、私は、他のボーカロイドに見えないものが見えるようになってしまった。

 貴方のことを忘れない ver.mi

 朝、起きる。部屋を見渡すと、見知った顔が目に入った。ほっとして、笑う。すると、部屋の隅に立った人も、呼応するように笑った。


「マスター、おはようございます」


 言葉を漏らすと、耳奥で、じじ、という機械音が漏れるのが聞こえた。


「お──は、よう、ミ、ク」


 耳障りな、雑音が混じった声だった。それでも、マスターの声が聞こえて、嬉しくて、もっと笑うと、マスターも、もっと笑ってくれた。

 おかしいのだと、知っている。マスターは遠い所へ行ってしまったのに、私の目に映ることは──常軌を逸したものだと、そういうことも知っている。
 姉さんや兄さんに言ったら、きっと、私をメンテナンスに連れて行くだろう。欠陥があるのだと、壊れかけているのだと。
 壊れかけては居ないと、自分では思っているものの、本当のところはわからない。今の所、何にも異常が見つからないから、私はマスターの傍に居ることを満喫している。

 マスターはいつだって、私の傍から離れずに居てくれる。ずっと、傍に居てくれる。遠くへ行ったことが嘘だって思うくらいに。
 きっと、これは神様からのプレゼントなのだ。マスターを遠いところへと追いやってしまった、神様からの謝罪とも言えるのかもしれない。

 誰にも言ったことはない。私だけが見える、私だけのマスター。幸福を享受することは、悪いことではないだろう。
 他の皆には悪いけれど、私は全然寂しくなかった。

 リビングへ赴くと、兄さんがソファーに腰を下ろしてアイスを食べているのが見えた。私の視界にうつるマスターが、軽い笑い声を零して、兄さんへと近づき、頭をそっと撫でる。なんだか、悔しくなる。マスター、と心の中で険を含めた声を発したら、マスターはそれに気付いて私の近くへと来てくれた。唇が動いて、雑音混じりの言葉を吐き出す。


「ごめ──ん──ね、ミク」


 指先が伸びてきて、私の頭を優しく撫でる。軽く笑い声を零すと、ソファーに座っていた兄さんが私の名前を呼んだ。視線を合わせると、どうかしたのかい、と言葉に出さず問い掛けられる。
 それに、軽い笑みを零しながら、私はソファーに座り込んだ。兄さんと、私の間に、一人分の間を空けて。
 ソファーは、二人掛けのものなのだけれど、そうとは思えないほどに大きい。マスターが私と兄さんの間に座り込んだ。


「何でも、無いの。兄さん、アイスを幸せそうに食べるなあって、それだけ」


 自分でも上手く誤魔化せたと思う。兄さんは困ったような笑みを浮かべてから、食べかけのアイスを私に差し出そうとして、ためらって、止めた。


「新しいアイス、取ってきてあげるよ」
「良いよ。要らない」


 断りの言葉を口にして、立ち上がった。マスターも立ち上がる。そのまま、私は自室へと戻った。
 いつものように、マスターから貰った楽譜を手に持って、言葉を音に乗せる。マスターは私のベッドの上に腰を下ろして、私が歌を止めたと同時に、手を何度か拍手するように合わせる。音は、聞こえない。


「すごい、ねえ──ミク──」
「ありがとう、マスターっ」


 弾んだ声を出してから、他の誰かに聞こえていないか、と焦った。うろうろと視線を周囲に彷徨わせると、マスターが苦笑を漏らすのが見えた。マスターは立ち上がると私に近づいてきて、口元に指先を押し当ててくる。
 マスターの、優しい体温が、私の唇から全身へと伝わった。


「ミ──ク、の、歌声、好きだ──よ」


 言葉を返さず、こっくりと頷いて、笑う。マスターは私の唇から指先を離して、呼応するように微笑んだ。
 マスターの笑みが大好きだ。もっと笑わせたい。そう思って、私はもう一度言葉を音に乗せ始めた。


 知っているのだ。鮮明に映っているものは、幻、私のメモリから無理に引き出してきたマスターなのだと。
 だから、マスターの身体は時折ぼやけるし、他のボーカロイドには気付かれないし、声だって雑音混じりの物でしかないのだと。

 人に言ったら依存している、と言われるのかもしれない。そう言われたら、私は胸を張って答えるだろう。依存して、何が悪いの? ──なんて。

 私は弱いのだ。私だけじゃなく、ボーカロイドは皆、少なからず、弱い。ただ、その中で一番私が弱くて、こうやってマスターの存在を作り出さなければ、生きていけないほどに、弱いだけだったのだ。

 マスターからの笑顔がないと、私は生きていけない。マスターから与えられる愛情がないと、私は歌えない。マスターが一から教えてくれないと、私は何を知ることも出来ない。
 私は、マスターがいないと、生きていけない。


 夜、寝るとき、とてつもなく怖くなるときがある。なぜかはわからない。その時は、いつだってマスターの名前を呼んだ。小さな声で。けれど、マスターは気付いてくれて、どんなときでも傍に来て、私の頭をあやすように撫でてくれる。優しい温かさも、手のひらから伝わる体温も、私を安心させるには充分だ。

 気付いたら眠っていて、朝起きると、マスターはいつものように部屋の端に立っている。

 笑みを浮かべたら、笑みを返してくれる。言葉をかけたら、雑音混じりの言葉を返してくれる。触れることも出来る。抱きつく事だって出来る。
 これが嘘だなんて、私には信じられない。

 歌い終わると、マスターはやっぱり、嬉しそうに笑ってくれた。それに笑みを返す。それから、立ち上がってリビングへと向かった。喉が渇いて、飲み物を欲している。

 マスターを連れ添って、リビングへと行く。
 ちらりと視線をめぐらせると、夕暮れの空を眺めているリンが目に入る。その横には、珍しくレンも居た。何となく、驚いた。

 それというのも、レンはマスターが遠くへ言ってから、部屋を出ようとはしなかったのだ。おかしなくらいに強固な精神で、部屋から出そうとすると泣き叫び、身体全体を使って拒否する。それを、マスターはいっつも困ったような、けれど、どこか泣き出しそうな表情を浮かべて眺めていた。マスターの言葉は、私以外には聞こえない。けれど、レンに聞こえていたなら、きっとこういっているのが聞こえただろう。
「泣かないで」──なんて、そんな残酷な言葉を、言っているのが。

 それから、台所へと入っていって、冷蔵庫を開けた。お茶がある。それを取り出し、コップに注ぐ。飲み終わって、ちゃんとそれをシンクに置くと、マスターが小さく笑った。えらいえらい、そう言うように首を大きく頷かせる。それに気恥ずかしさから笑みを零すと同時に、兄さんが台所へと入ってきた。──マスターを、通り抜けて。

 瞬間、変な声が出た。兄さんは怪訝そうな表情を浮かべながら私を見て、マスターをすり抜ける。そのまま冷蔵庫へと向かい、冷凍庫の扉を開いた。アイスの数を見て、笑う。
 声が、出ない。何を言えばいいのかさえ、わからなかった。マスターが困ったように笑って、私の名前を呼ぶ。「ミク」


「大丈、夫──」


 何が大丈夫なのか、よくわからなかった。マスターが大丈夫、だといっているのか、私に対して、大丈夫? と問い掛けているのかさえ、わからなかった。とりあえず、マスターの手を引いて自室へと戻る。

 ベッドへ倒れこむように体をうつぶせる。マスターが驚いた声を出した。手を繋いでいたから、マスターの身体もベッドへと軽く倒れこむようになったのだろう。少しして、笑い声が聞こえた。

 何故か、心が痛かった。機械の基盤が軋むように動き、電力の循環を酷くゆるやかにさせる。

 今までも、こういうことはあった。私にしか見えていないから、他のボーカロイドが気付かずにマスターを通りぬけることは、何度もあった。
 普通なのだと、思う。だって、他のボーカロイドには見えていないのだから。声が聞こえてさえも、居ないのだから。だから、しょうがないのだ。

 理解は出来る。けれど、何かがそれを拒否した。
 神様は意地悪だ。私の大切な人を、有無を言わさずに連れて行って、二度と戻してくれない。その代わりにと、こんなふうに私だけに見える大切な人を寄越して、きっと、高笑いでもしているのだ。

 私が傷つくたびに、きっと、笑っているのだ。
 ──また傷ついている、なんて言って。さっさと吹っ切れば良いのに、と言って。
 視界が滲む。人間のように涙を流す機能は、ボーカロイド01タイプからついている。瞳にゴミが入ったり、そういった時に流すように設定されている。
 けれど、今回はゴミも何も入っていないのに、瞳から何かを流しだす為に、涙が零れ落ちてきた。

 マスターが心配そうに私の名前を呼んだ。髪をさらりと撫でる感触がする。

 吹っ切れるはずがない。マスターのことが大好きで、どうしようもなく、傍に居たいと願ってばかりの私は、本当に弱くて、──とてつもなく、ワガママなのだ。
 もう少しだけ。──出来れば、ずっと。マスターの傍に、居たい。私のメモリは、私が本気で拒否をしない限り、マスターとの思い出を消去しない限り、マスターの姿を見せ続けるだろう。それで良いのだ。

 弱虫で、ワガママで、ほんのちょっとじゃないくらい、マスターへの気持ちを抱いている私には、それで良い。
 吹っ切るときは来ないだろうと思う。マスターが他のボーカロイドに素通りされるたび、私は表情を歪めなくてはならないのだろうとも思う。
 けれど、それでも、私にはマスターが必要だった。何をしてでも、傍に居て欲しい存在だった。

 他のボーカロイドには見えないマスターは、ワガママな私に対する、神様からのプレゼントなのだから、良いように使えば良いのだ。

 マスター、と小さく声を出す。マスターが私の名前を呼んだ。視線を合わせると、心配そうな表情が目に映る。
 駄目だ、そんな表情を浮かべては。顔を上げて、笑う。マスターも笑った。それが嬉しくて、もっと笑う。マスターも、もっともっと、笑った。

 とたん、視界が滲んだ。マスターが心配そうに私の名前を呼んで、頬に触れてくる。


「泣か、──な、──いで」
「泣いてない、泣いてないんです、マスター……」


 お願いだから、笑ってください。マスターに触れる。温かさが、手のひらから滲んできた。
 こんなに温かいのに。そう思うと、また涙が溢れてきて、止まらなかった。


ver.r

2008/8/7
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