ミク姉が、羨ましかった。だって、あたしよりも何ヶ月以上も近く、マスターの傍に居られたんだもん。
 カイト兄が、羨ましかった。だって、あたしには持っていない力を持ってて、マスターを支えることが出来たんだもん。
 メイコ姉が、羨ましかった。マスターと一番長い付き合いだから、お互いのことを熟知しているみたいで、二人だけの親密な雰囲気があったりしたんだもん。
 レンが、羨ましかった。いっつも、ほんの少しだけ不機嫌そうで、だからかマスターにいっつもかまわれていたんだもん。

 あたしは、あたし自身が、羨ましくなかった。


貴方のことを忘れない ver.r


 理由は、と問われたら、ちゃんと答えられる。
 あたしは、いっつも笑ってばっかで、マスターにまとわりついても居て──いつだって、悲しい顔はマスターに見せなかったから、マスターに慰めてもらったことがなかったんだもん。
 馬鹿みたいな理由でしょ。馬鹿なんだよ、あたし。泣けば良いのに、悲しいことがあって辛いことがあって、苦しいことがあって、もう壊れたい、って思うことがあったのに、あたし、泣けなかったんだ。泣かなかったんだ。
 だって、泣き顔を見せたら、マスター、驚くでしょ? 驚いて、どうしよう、って困るでしょ? わかるよ、あたし、マスターのこと好きだもん。
 好きな人を困らせるなんてこと、あたし、したくないもん。

 だからね、カイト兄とかレン、それにメイコ姉がめそめそ泣いているの見ると、凄く嫌な気分になるの。マスターが悲しむじゃん、って怒りたくなるの。
 あたしって、変なのかなあ。

 変なんだろうなあ、あたし。──窓に手をついて、空を見上げる。小さく息を吐くと、窓の色がほんの少しだけ白く染まった。それが何となく面白くて、あたしは指先で文字を描いた。白くにじんだ窓、そこに言葉が綴られる。
 拙くて、きっと、レンに見せたら「下手」と一蹴されそうな文字。けれど、きっと、マスターに見せたなら、マスターは分かってくれるだろう。何を書いたか、嬉しそうに笑って言葉にするに違いない。

 喉の奥から漏れるような笑い声を零して、あたしは視線を上げた。窓の向こうに見える空は、どんよりとした雲が広がっていて、正直、見ていて気持ち良くなかった。もっと、青くて、抜けるくらい美しい蒼穹が広がっていれば良いのに、なんて心の中で一人愚痴る。

 例えば、マスターが傍に居たら、この空を見てどう思うのだろう。考えて、きっとあたしと同じ感想を持つに違いない、と笑った。だって、あたしとマスターは二番目くらいに仲が良くて──。ううん、ひょっとしたら一番目くらいには仲が良くて、お互いの気持ちをわかり合える立場に居たのだから。

 頬が緩む。窓には、空と、おぼろげながらあたしの顔が僅かに映っていた。嬉しそうな笑顔だ。頬が、しまりなく緩んでいて、その上、まなじりが垂れ下がっている。マスターの好きな、あたしの笑顔。呼応するように笑ってくれるマスターの顔が頭に思い浮かんで、あたしは凄く嬉しくなって、どうしてか少しだけ、寂しくなった。


「リンちゃん、何をしているの」
「……ミク姉」


 不意に、声が掛けられた。思わず肩を震わせて、恐る恐る振り向く。そこには、ミク姉が立っていた。長い髪の毛、それが、ミク姉が軽く笑みを零すのと同時に揺れて、美しい色を描き出す。ミク姉の髪の色は、すごく綺麗な緑だ。

 ミク姉はそのまま、あたしの傍に寄ってきた。あたしからほんの少しの間を開けて、窓に手をつく。


「どんよりしているね、空」
「うん、やだよねえ、この空模様。すごくやだ。もっとさあ、綺麗な青が見えたら良いのに」
「そうだね」


 ミク姉の肩が震えて、次いで、小さな笑い声が耳朶を突いた。ミク姉の笑い声だ。ミク姉はあたしに視線を合わせるでもなく、どこか遠くの方をじっと眺めると、小さな声で、あたしの名前を呼んだ。


「こんなにも雲があると、夜は星が見えなさそうだね」
「うん。星、好きなのになあ。あ、ねえねえミク姉、又今度、快晴のときに星、見ようよ!」
「いいよ、楽しそうだね。じゃあ、どっちが先に星座を見つけるか、競争しよっか」


 頷く。ミク姉は嬉しそうに笑うと、あたしから離れていった。あたしは、と言うと、そのまま空を眺めて、少ししてから、自室へと戻った。

 あたしの部屋には、ベッドと、それと、机、その他諸々の家具が設置してある。あたしは机の上に置いてある果物に目を止め、それから笑った。
 椅子を引き出し、机の前に座る。それから頬杖をついて、果物をつついた。


「みかん」


 果物の名前を口にして、それから指先で、それの表面を撫でた。ぶつぶつとした表面から分かるように、手のひらの伝わる感触も、どこか凹凸があった。まだ、完全には熟していない。皮は緑色で、きっと食べたって美味しくないであろうことがわかる。
 最後の一個。マスターがここにあるという、証。これは、マスターがあたしのために買ってきてくれたみかんの、最後の一個なのだ。

 あたしはそれを、あたしの自室に置いている。変だ、なんて、そう言われたらそこまでだけど、あたしにとっては、それは素晴らしい果物なのだ。
 最後の一個、あたしはマスターの面影のようなものを、それに求めていたのかもしれない。

 手にとり、弾力を確かめる。頬に当てると、冷ややかな感触が伝わってきた。
 みかんが、大好きだ。マスターも、みかんが好きだった。あたし、マスターと一緒にみかん食べるの、大好きだったんだよ。

 これを食べるのは、いつになるのだろう。それが楽しみであって、けれど、どうしてかあたしは言いようも無い恐怖を感じた。


 光陰矢のごとし、マスターが居なくなってから、あたしは毎日空を見上げてぼーっとしている。そのせいか、一日が素早く過ぎていくような気がする。
 みかんは、少しずつ柔らかくなっていった。もう食べごろだと、皮の色が示している。けれど、あたしは食べなかった。

 食べ物を食べない、つまりはずっと置いておくこと。それはどうなるのだろう。考えれば直ぐに分かる、食べ物は、腐る。

 みかんも例外ではなかった。あたしの部屋にあったそれは、一ヶ月も経つと異臭を放つようになった。みんな、──特にメイコ姉が──あたしの部屋の臭いについて、あたしに尋ねてくる。なんなのあの臭い。そう問われたら、あたしはこう返した。みかんの匂いだよ。

 それから又一週間以上経って、みかんはどろどろになっていった。腐っているのだから当然だと思った。けれど、それを見るとあたしは言い様の無い恐怖に包まれた。別段、臭いが嫌というわけでもなく、そのどろどろとした物体に、マスターのことを重ねてしまった。怖くて、どうしようもなかった。またマスターを失うと思うと、あたしは怖くて、怖くて、しょうがない思いで胸が満たされた。
 どうにかして、このみかんを、固形にしよう、と思った。一番に考えついたのは、冷凍庫に入れて凍らせることだった。

 そして今日、それを実行しようとして、恐る恐るみかんを手にもった。ぐちゅ、と何とも言えない湿り気が手のひらの表面に伝わったけれど、別に気にしなかった。
 扉を静かに開く。早朝だったからか、他のボーカロイドは皆、起きていないみたいだった。それにほっとしながら、部屋を出る。
 そのまま台所に赴いて、みかんを小さな容器に詰め込んだ。蓋をして、そのまま冷凍庫へと放り込む。手はべとべとした何かで濡れていて、鼻に近づけると据えた臭いがした。このままじゃ、他のボーカロイドに何か言われてしまうだろう。しょうがないので、手を洗う。蛇口を捻って、水を出して、それに手をつける。手をこすりあわせるように動かしていると、不意に、声を掛けられた。


「リン、何をしているんだい」


 カイト兄の声だった。振り向いて、笑う。


「おはよー、カイト兄! あのね、手を洗っているんだよ!」
「……そっか」


 苦笑を浮かべて、カイト兄は呟くようにいった。それから、カイト兄は冷凍庫を開けて、一瞬だけ「あれ」という唖然とした声を出した。少しだけ、どきっとした。みかんのこと、何か言われるのかな、って思って。
 でも、違った。カイト兄は、続きに「アイスが無いなあ」と笑って、それから冷凍庫を直ぐに閉めた。

 蛇口を閉めて、それからカイト兄を見る。カイト兄は困ったように冷蔵庫の前に立ち尽くしたまま、小さな笑い声を零して、それからあたしを見た。


「リン、お兄ちゃんと一緒にアイス、買いに行こうか」
「えー」
「いいだろう? リンのみかんも買ってあげるから」


 みかんの話題を出されたのは、メイコ姉がカイト兄の上でアイスをぶちまけたとき、以来、だろうか。ほんの少しだけ身体をビクつかせてしまったあたしに、カイト兄は優しい、包むような笑みを浮かべると、あたしに近づいてきた。頭を何度か優しく撫でられる。


「ごめん、リン」
「何がごめんなの? よくわかんないよ、カイト兄」


 カイト兄が笑う。あたしの頭から手が離れた。


「そうだね。リンは、強いもんなあ」
「うん、リン強いよ! レンと喧嘩したら、絶対勝つもん!」
「そういう意味じゃないんだけどなあ……」


 苦笑を零すように紡がれた言葉に、あたしは笑みを浮かべた。
 わかっているし、知ってもいた。カイト兄の言う強さ、それはあたしの力の強さではなく、精神の強さを言っているのであろうことが。

 わかってないなあ、皆、わかってない。あたし、全然、強くなんて無いんだよ。

 カイト兄が笑う。あたしも笑った。瞬間、視界が滲む。カイト兄が驚いたようにあたしの名前を呼んだ。

 わかってないよ、皆、全然、わかってない。あたし、ずっと我慢してたんだよ。


「リン?」
「……え、えへ、目にごみが入っちゃったみたい! ごめんね、えへへ……」


 空笑いだと、直ぐに分かるような笑い声を発して、あたしは目蓋を擦った。あたしは、──マスターのボーカロイド、鏡音リンは、泣いちゃいけない。
 何でか、なんて、決まっているじゃない。マスターが驚いちゃうからだよ。あたし、マスターの前で泣いたことないもん。一人で泣いたこともないもん。

 あたし、ずっと笑っていたんだよ。泣きそうなときも、ずっと。そうしたらマスター、嬉しそうに笑ってくれたから。
 皆が泣いているときも、ずっと笑っていたんだよ。凄いでしょ。マスターがね、煙になっちゃって、カイト兄が取り乱して扉に手を伸ばしたり、レンが泣きながら、どっかにふらふら行っちゃったり、メイコ姉が全然笑わないまま、睨みつけるように空を眺めていた時、それに、ミク姉が一人で何処かを見て泣きそうな顔をするときも、笑ってたよ。

 だって、あたしが笑わないと、駄目だもん。あたしが笑ってないと、マスター、安心出来ないよね。他のボーカロイドのこと、全部全部、あたしに任せてもらってもいいんだよ! あたし、頑張るんだもん!

 ──唐突に、肩に手が伸びてきた。優しく、何度か撫でるように、けれどどこか叱咤するように、叩かれる。カイト兄の手だ。何をやっているのだろう、と思う。涙を止めて、カイト兄を見上げる。それから、手を伸ばして、カイト兄と手を繋いだ。


「アイス、買いに行こうよ! あ、みかんも買ってね」
「……うん、買いに行こうか」


 笑う。笑う。これからも、ずっと、笑う。絶対に泣かない。泣きたくない。困らせることなんて、しない。あたしは他のボーカロイドのように、マスターを悲しませたりすることなんて、絶対にしない。好きな人を困らせることなんて、あたしには出来ないもん。

 ──でも。


 ミク姉が羨ましかった。泣けたから。
 カイト兄が羨ましかった。泣けたから。
 レンが羨ましかった。泣けたから。
 メイコ姉が羨ましかった。泣けたから。

 あたしは、あたしが羨ましくなかった。泣けるのに、泣かなかったから。

Ver.l

2008/10/20

inserted by FC2 system