幸運の星から離れて 2


 朝が来た。平地の上に腰を下ろしながら、ぼんやりと登る朝日を見上げる。柔らかい、オレンジのような光が暖かく大地を照らし始める。小さく息を吐いて、それをメモリにやきつけるように見る。何度目の朝だろう、と頭の片隅に思いがよぎった。

 数えるのも億劫なほどの日々をここで過ごし、マスターの迎えを待つ。それは全員、同じだ。此処に居るロボットなら、誰もがそういったことをしなければならない。

 この前やってきたミクは、直ぐにおれとカイトのコンビにまじってきた。水をべったりと吸った筆が、白いキャンバスにやんわりと色を描くように、ミクの存在はおれとカイトにじんわりとなじんだ。

 ミクは本当に世間知らずで、さまざまなことに感動していた。シロツメ草を見ては感動し、朝焼け、夜のしじまを見ては幸せそうに表情を緩ませる。監禁されていたのだから──訊いては居ないが、きっとそうなのだろう──、しょうがないと言えばしょうがないのだろうけれど。

 ミクはおれより年上のくせして、おっとりとしている。天然といえばいいのだろうか。それに、直ぐ泣く。泣く様子が、マスターとは似ても似つかないのに、何故か見ていると毎回マスターを思い出す。その度に、胸が締め付けられるような感覚が、おれを襲った。

 ふと、朝焼けの光景から目を逸らす。優しく低い声が、耳をそっと撫でるのを感じた。


「──レンくん」


 視線を後ろへと向ける。カイトが手招きをして、おれを呼んでいるのが見えた。何かあったのだろうか。身体ごと振り返り、首を傾げる。ミクが笑った。


「レンさんのマスターは、どんな人だったんですか?」


 高い、響くような声が言葉を控えめに紡ぎ出す。急に、……何を言い出すのだろう、と思った。あぐらをかいた足の上に乗せていた手を、地面へと下ろし、指先でそこらへんに咲く花を弄った。

 指先で弾くと、花は僅かに身体を揺する。花を触っていた指先を離し、もとの場所へと戻した。ミクへと視線を向けると、彼女の嬉しそうな笑みが目に入ってくる。唇の端が持ち上げられ、優しい曲線を描いていた。頬が赤く染まっている。

 おれの、マスター。心の中でミクの問いかけを反すうして、小さく吐息を零す。


「……おれのマスターは、すごく泣き虫だったよ。めちゃくちゃ泣いてた」
「へえ……」


 鼻から漏れるような吐息を零し、ミクは頷いた。何故頷くのかはわからないものの、別に追求するようなものでもなかったので、そのままにしておいた。
 そう、本当に良く泣いていた。マスター、と言われると泣き顔ばかり思い出してしまう。

 眉間に皺が寄るのが、わかった。マスターは今、どうしているのだろうか。考えると、そればかりが気になってくる。
 ……引きこもりは、脱出したのだろうか。学校へと、通っているのだろうか。マスターの今の顔を、上手く想像できない。けれど、声はいつだって思い出せる。メモリの奥の奥、マスターの声紋が、しっかりと刻み付けられているからなのかもしれない。

 レン、とおれを呼ぶ声が聞こえる。マスターの、どこか優しい声音だ。なんとなしに近くのシロツメ草を力を込めて、根元から千切る。ぷち、と変な音がした。それを指先で弄び、ぐるぐるとらせん状に輪を作る。指輪を作ろうとしたのだけれど、どうにも上手く行かない。カイトが笑う声が聞こえた。知らずに俯いていた視線を上げる。すると同時に、ミクの響くような声が聞こえてきた。


「ワタシのマスターは、とっても優しかったんです」


 優しかったらミクを棄てに来ないだろう、と思った。言いはしない。そんなことを言ったらミクは泣き出すだろう。その姿を見るのは、嫌だった。──マスターを泣かせているみたいに、感じてしまうのだ。

 ミクと視線を合わせる。彼女は、頬をますます赤らめて、僅かに肩を上げる。軽く首を傾げた様子は、さすが、多くの人に好かれるだけあって、とても可愛らしかった。


「マスターは学生さんで……地元の大学に通っていたから、ご両親と暮らしていて」


 同じ様な境遇なのだと、思った。カイトが小さな声で、そうなんだ、と呟くのが聞こえる。視線を向けると、カイトと瞳が交わった。彼は薄い唇に笑みを浮かべ、おれの名前を呼んだ。首を捻ると、顔を横に振られる。一体何がしたいのだろう、と思いながらもミクへと視線をもう一度映した。

 彼女は瞳を伏せていた。頬に影を落とす、丁度、春のような色の睫毛がぷるぷると震えていた。

 瞬間、焦った。泣く。絶対に泣く。泣く、泣く、泣く! 数日間行動を共にしてわかったことなのだけれど、ミクは泣く時、必ずといっていいほどに薄く目蓋を伏せるのだ。長い睫毛を震わせ、まなじりから雫を零し──引きつったような声音で何度も、マスターと名前を呼ぶ。
 カイトが大丈夫だよ、大丈夫だよ、と言うにも関わらず、ミクは泣き出したら一時間は泣き止まない。

 弱いのだと思う。監禁されていたから、マスター以外に知っているものがないから、こうなるのだろうとも思う。想像でしかないから、おれにはわからないけれど。第一、監禁されていなくたって、監禁されていたって、感情プログラムが他のボーカロイドより高く設定されている奴は、感情を簡単に露にする。

 泣く、と思っていたミクは、けれど唇を引き結び、首を勢い良く振った。ツインテールが挙動にそって揺れる。さらりと、肩から滑り落ちる絹糸のような髪の毛は、けれど人工物らしく、てらてらと光っていた。


「マスターは、ワタシのことをずっと押入れに隠していました」
「おしいれ?」


 変な声が出た。押入れって。何だそれ。普通は違う部屋、っていうか、やっぱり監禁されていたのか。──いや、でも、押入れに隠しているっていうくらいなら、監禁って言わないのか。さまざまな疑問が胸の内に蓄積される。ミクはこっくりと頷くと、言葉の続きを口にした。


「マスターが音楽を作る時以外、ワタシは電源を切られて、押入れの奥、箱の中で眠っていました」


 淡紅色の唇から紡がれる言葉と吐息が、僅かに震えていた。ミクが、スカートの上で手のひらを力強く握り締め、拳を形づくる。スカートに跡がつくんじゃないか、というくらいに、彼女は強く布を握っていた。


「それだけで幸せでした。マスターは優しかったし、ワタシは一杯歌を歌って、大好きなマスターにそれを聞いてもらえたから」


 カイトが、首を傾げるのが横目に見えた。ミクの言っていることが正しいのなら、棄てられる要素なんて何処にも無いじゃないか、と思ったのだろう。おれもそう、思った。取りあえず、ミクの言葉に耳を傾ける。


「調律はいつだって、ご両親が居ないときでした。マスターのご両親は、マスターが音楽をやる、というのが嫌だったらしいんですね。知らなかったんです、ワタシ」


 言葉が詰まる。ミクは弱弱しく首を振り、もう一度、知らなかったんです、とやはり弱弱しく呟いた。


「でも、ある日、ご両親が出かけて、予定より早く帰ってきて、ワタシが見つかっちゃって。──ワタシ、マスターのご両親に会ったのが初めてで、嬉しくて、ご挨拶をしたら」


 翌日、マスターに此処に連れてこられました。そう続け、ミクは目蓋を閉じた。顔を俯かせて、唇を引き結ぶ。わずかな沈黙が舞い落ち、おれは手持ち無沙汰に周りを見渡した。

 正直、興味はあったけれど、こういった話は聞きたくなかった。棄てられた経緯を話されて、なんと言うことが出来るのだろう。残念だったね。しょうがないじゃん。──そんなことを、言うべきではないなんて、考えたらすぐにわかる。

 カイトも何を言えば良いのか分からないらしく、逡巡するように視線をめぐらせていた。おれと視線が合うと、僅かに眉を八の字にし、笑う。
 困惑をわずかに、にじませたような笑い方だった。そのまま、カイトはミクへと視線を戻すと、苦笑を打ち消した。


「でも、マスターには嫌われていないんだろう。だったら、大丈夫だよ、ミク。きっと迎えに来てくれるさ」


 さすが、他のボーカロイドに好かれているだけある、と思った。おれには言えない、思いもつかない言葉をぽんぽんと口に出す。
 ──マスターには嫌われていないから、大丈夫。心の中で言葉を読み返し、何となく引っ掛かりを感じた。嫌われていない、から? 仮にも、自分が好きで買ったボーカロイドを嫌う人間なんて、居るのだろうか。

 そこまで考えて、居なかったら、ここはこんなにもボーカロイドやロボットでいっぱいになっていない、と思った。マスターに嫌われなかったにしても、飽きられて、ここに連れてこられたやつらは一杯居るのだろう。

 山から吹いてきた風が、頬を濡らす。湿り気を帯びていた。頬を指先でなぞり、立ち上がる。カイトも立ち上がった。ミクが、目蓋を開いて驚いたような表情を浮かべておれ達を見てくる。
 何も知らないのだ。腰をかがめて、ミクの手を取る。カイトが笑った。


「ちょっと、場所を移動しようか。雨が、降る」


 カイトがそういった言葉を口にするのと、頬に一粒の雨が落ちてきたのは、同時だった。


 そのまま早足に、木々の中へと移動する。といっても、平地からは余り離れていないところだ。平地から、あんまり遠くに離れていると、マスターがやってきて名前を呼んでも気付かないかもしれない、といった不安がある。──おれは、マスターの声だったら、どんなに小さくても聞き取る自信があるけれど、もしものときのためだ。

 大きな木、枝が広がるように伸び、空へと向かっている。木の枝には葉がうっそうと茂っており、雨を防ぐには最適な場所だろう。
 頑丈な、触ったらざらざらとした感触を皮膚にもたらす幹に、身体を預ける。カイトがおれの横で同様に身体を預け、ミクがその隣で空を見上げているのが見えた。

 見渡すと、他のボーカロイド達もそれぞれ木の近くに突っ立っているのが見える。平地には、もう動けなくなったボーカロイドやロボットしか、居ない。時折、雨にも関係なく、その場に立っているやつらが居るけれど、そういうのは大体おれたちより前に売られた、いわゆる古いロボットで、自己を防衛するための自我が無いのだ。

 雨に降られたら、たとえどれだけ頑丈に出来ていても、いつかは錆びてしまう。口からは入る水は、きっちりと決められた場所に運ばれるが、他の──予期せぬ場所から、内部へと侵入してきた水は、機械の基盤をさびらせ、いつしか壊れてしまう。ボーカロイドには、一応、生活用水を防水する程度のものは備わっているものの、長い間雨に打たれていたら、それでもどうなるかはわからない。

 平地に立つ、古い、旧式のロボットを視界に収める。銀色の機体を雨に濡らし、不気味に光らせているのは、見ていて心地の良いものではない。
 ──きっと、少しずつ錆びていくのだろうなあ、と思う。ぼんやりと思うだけで、口には出さない。錆びることを望んでいるのかもしれないし、何を言ったって片言のような言葉でしか返して来ないのだろうから。

 視線を下ろして、手のひらを見た。指先で押すと、同様に弾力が返ってくる。何度かそれを繰り返していると、誰かの骨ばった指先が、おれの手のひらを同様に押してきた。視線を上げる。カイトと目が合った。
 カイトは笑みを零すと、おれの手のひらから指先を離した。カイトの、冷たい指先がおれの皮膚の温かさを盗んでいく。


「何をしているんだい」
「……ちょっと、別になんでもないよ。カイトこそ、なんだよ、急に」


 レンが楽しそうなことをしていたからさ。風に乗って届く、歌うような柔らかい声を聞き、おれは目蓋を伏せた。ぽつりぽつりと、木の葉ではしのぎ切れなかった水滴が、僅かに衣服を濡らす。

 ボーカロイドは基本的に汗なんてかかないから、人間のように風呂に入らなかったら悪臭が、といったことにはならない。
 けれど、マスターが迎えに来てくれたとき、おれの姿を見たらマスターはどう思うのだろう。体を捻り、パンツを見る。尻の部分が、僅かに緑の色で濡れているように見えた。

 平地に座るときは大体、尻をつけて座るから、平地に生えている草の汁が染み込んでいるのかもしれない、と思う。……今度からは正座して座ろう、と決めながら、パンツを叩いた。乾いた音がする。

 ミクが、小さな声で何かを口にするのが聞こえた。音だけしか届いてこなかったから、なんと言ったのかはわからない。けれど多分、マスター、と言ったのだろうと思った。


 じっと、視線をまっすぐにのばし、雨がやむのを待つ。空には雲が海のように広がっている。いずれも、暗い──どんよりとした色の、雲だ。それが、風に乗ってゆっくりと、何かに急かされるように動いていく。

 そのまま何十分か、無言のままで幹に体を預ける。雲は風に動かされ、ゆっくりゆっくりと、おれの視界から姿を消していった。ぽつりぽつりと降っていた雨が上がる。

 視線を巡らせると、ぞろぞろと平地に向かって進むロボット達が目に入った。見るに、此処はボーカロイドが棄てられるのが一番多いから、ボーカロイド達が、と言ったほうが良いのかもしれない。
 ミクが、上がった空を見て、小さく息を零す。


「透明ですね、空気が」
「そうだね。雨の後の空気は、透明だ」


 透明。──雨の後の空気は、じめじめしているように思える。雨の前の空気も、だ。じんわりと、肌に絡み付いてくるような嫌な湿気をまとっているように思うのだけれど、二人はそうは思わないらしい。透明。──どこらへんが透明だと言うのだろう。

 ミクが、すっと息を吸い、ついで何かしらのメロディを口にした。音は風に乗り、空気をゆるがして美しく一直線に進んでいく。胸に手を当て、目蓋を伏せて歌う様は、どこか恍惚としていた。

 聞いていると、調律が上手いのがわかる。ミクのマスターは、きっと、彼女を丹精こめて調律したのだろう。それを、両親に見つかって。……彼女のマスターが音楽をやるというのが嫌な、両親に見つかって、マスターに連れて来られた──。

 きっと、ミクのマスターは、又やってくるのだろうと、どこか確信めいた想いが胸を満たす。マスターがボーカロイドのことを棄てに来たのではないのだし、ミクの歌うところを見ている限り、真剣に曲を作っている様子がうかがえた。マスターは音楽をやりたがっているのだろう。

 ミクの歌声が止まる。彼女はその場で踊るように一回転をすると、おれとカイトに向かってピースをしてきた。表情に悪戯が成功したような笑みを浮かべ、彼女は小さな声で笑うと、もう一度音を言葉に乗せはじめた。

 カイトが笑い、のんびりとした声音で、ミクちゃん歌が上手だねえ、と言葉を口にする。ミクの歌声が止まった。彼女は嬉しそうに頬を赤らめて、身をよじる。


「そ、そうですか? で、でも当然ですよ、だってマスターがワタシのことを調律してくれたんですもん!」


 誇らしげに言い放つ彼女の姿を見ながら、小さく息を吐いた。
 ミクは、きっと、マスターが迎えに来てくれる、というカイトの言葉を本気で信じているのだろう、と思う。実際、それは事実だとおれも思う。

 彼女は初音ミク、というキャラクターとしても、楽器としてでも、マスターに必要とされているのが、先ほどの歌でよくわかった。

 ──よく、わかりたいと、自分で思っていただけなのかもしれない。実際問題、おれもマスターに嫌われて此処へ連れて来られたわけでもないし、他人に歌っても恥ずかしくないくらいに調律は行われている。おれとミクはきっと、同じ状況に立っているのだ。

 だから、カイトがミクに対して紡ぐ言葉を、おれも、おれ自身への言葉として聞いているのかもしれない。マスターが迎えにくる、絶対にくる。カイトが余りにも自信ありげにそう言うものだから、その気になってしまうのだ。

 息を吐く。むしょうに、歌いたくなった。言葉を音に乗せ、一定のリズムを保ち、調律された歌を口にする。すぐに、何をやっているのだろう、と思って口を閉ざしたけれど。 雨の後に紡いだ歌は、ゆったりとした響きを伴って、僅かな余韻を残して直ぐに消えてしまったし。

 小さな声音で歌ったはずだったのに、ミクとカイトは気付いたようで、おれと視線を合わせるとはにかむように笑った。

 上手だったよ、なんて、口には出さなくともその瞳が物語っているようで、なんとなく、おれは視線をすぐに逸らしてしまった。


続く

2008/8/19

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