幸運の星から離れて 5


 ボーカロイドを、何度も棄てて、何度も拾いにくる人間が居る。理由は、おれになんてわかるわけがない。ただ、そういった奴が何人も居ることを知っているだけだ。
 馬鹿みたいだ、と思う。何度も棄てて、何度も拾いにくる人間も、それに何度も悲しみ、何度だって喜ぶボーカロイドも。

 風が頬をかすめる。視線を上げると、目の前に座る赤──アカイトと目が合った。アカイトは嬉しそうに笑みを浮かべ、おれの名前を呼ぶ。思わず、眉を潜めてしまう。アカイトはおれの反応に気おされることもなく、身を乗り出して、なあなあ、と笑う。
 せいひつな顔立ちをしているくせに、浮かべる表情は子どものようだ。どこかアンバランスな魅力がある、と思う。


「これ見ろよ!」


 アカイトの、大人の男のような骨ばった手のひらが、おれの目の前に出される。手の甲を上にするようにして見せられたそれの指先に、白いシロツメ草の指輪がはめられている。
 ……何を、しているのだろうか。アカイト、と語尾を上げて名前を呼ぶ。アカイトは口唇の端に笑みを乗せるような、微笑を浮かべると、手のひらを下ろした。

 ごつごつとした指先に、かわいらしい指輪がはめられているのは、なんだか変だ。そう考えて、失礼か、と思いなおす。アカイトはかわいらしい物が好きなのかもしれない。変だと言ったら、アカイトの趣向を──ひいてはかわいらしい物が好きな男の人を否定することになってしまう。

 先ほど思った事を、溜息と共に地面に落とし、首を傾げる。


「なに、それ」
「指輪だよ。作ったんだ。良いだろう」
「……や、良いって言うか……」


 おれも作り方知っているし。そう言葉を口にすると、アカイトの顔が不満そうに歪んだ。おれが、指輪を羨ましがるとでも思っていたのかもしれない。もしくは、指輪の作り方を教えるようにおれがアカイトにねだる、なんてことも思っていたのかもしれない。

 ちえ、と小さな声でアカイトは呟き、指先から指輪を出した。それから、おれの手のひらを取る。何するんだよ、と問いを投げかけようとした瞬間、おれの指に指輪がはめられる。

 指先を見るために下ろしていた視線を上げ、アカイトへ向ける。燃えるような赤が三日月のような形を描いた。


「やるよ」
「別に……」
「別にってお前。俺が頑張って作ったというのに、そんなこと言うなよ。子どもなんだから大人しく喜んどけって」


 アカイトの手のひらがおれの頭に伸びてきた。乱暴に撫でられ、髪の毛が乱れる。頑張って作ったとか、子どもなんだから大人しく喜んどけって、なんだよ、それ。意味がわからない。
 僅かに不満を、アカイトへの視線に込める。アカイトは嬉しそうに笑みを零すと、おれの頭から手を離した。

 去っていく手のひらを睨むように見つめ、次いで指に視線を下ろす。指輪は、ぶかぶかだった。サイズが合っていない。少しでも気を許すと、指先から落ちてしまうだろう。
 多分、これはアカイトの指に合うように作られたのだろう。……そう考えると、なんだか不条理に感じる。おれも、アカイトやカイトのように、大人の手のひらを持ちたかった。

 パーツ交換をすれば叶うのかもしれないけれど、と小さく息を落として、肩を落とした。アカイトがいぶかしげにおれの名前を呼ぶ。視線を合わせると、どうしたんだよー、と軽く笑われた。それに首を振って答え、口を開いた。


「おれにやるより、マスターにやったら良いじゃん」
「喜ばない。絶対」


 即答され、言葉を無くす。喜ばない。心の中で言葉をはんすうして、首を傾げる。アカイトは先ほどまでの笑みを打ち消し、真摯な表情を浮かべると、ゆるゆると首を振った。


「絶対、喜ばない」


 二度も言うなんて、と心の中で思いながら、なんでだよ、と疑問を口にする。アカイトはその言葉に、どうしてか瞳を揺らがせ──ついで、息を吐くように言葉を口にした。


「言ってなかったけれど、俺のマスターは男だ。理屈屋で、俺がこんなものやったら鼻で笑われる! 絶対!」
「……だったら」


 作るなよ、と言葉を発しそうになり、胸の奥底にしまいこむ。別に言わなくても良いと思ったし、そう言ったら、なんとなくアカイトを傷つけるだろうと思ったのだ。
 小さな声で言ったせいか、アカイトには聞こえていなかったのだろう。彼はそのまま、嘆息のようなものを漏らすと、僅かに目蓋を伏せた。瞳と同じ色の睫毛が、かれの目蓋を縁取っている。半月型に伏せられたそれは、柔らかな影を頬へ落としていた。

 少しして、アカイトの視線が上がり、おれの瞳と交わる。僅かに揺らぎを見せるそれに、少しだけ疑問を抱えた。
 アカイトは、かすかに笑みを浮かべると、もう一度目蓋を伏せた。視線の先には何があるのか、辿ることは出来ない。


「手遊びで作ったようなもんだし、俺にはあんまり似合わないし、だったら誰か喜んでくれるやつにあげたほうが、良いだろ」


 それでおれを選ぶことになるのか。普通だったらミクとかメイコにあげることを選ぶだろう。アカイトの考えがわからない。ミクやメイコにあげたなら、二人は女性なのだし、きっと喜んでくれる──だろうと思う。少なくとも、おれみたいに変な視線をアカイトへ向けることは無いだろう。

 そんなことを考えて、僅かに首を傾げると同時に、遠くの方からカイトの声が背中に響いてきた。振り向くと、手をぶんぶんと振りながら近づいてくるカイトの姿が視界に入る。
 アカイトが僅かに、カイト……、と嫌そうな声音で呟いたのが、鼓膜を揺らした。そこまでカイトに会うのが嫌なのか、と思う。どうにも、おれには良く分からない感情を、アカイトは持っている。

 カイトは早足におれたちに近づいてきた。カイトに視線を向けると、同様に視線を向けられる。青く、深い海のような美しい色が揺らぐ。カイトは口唇の端に笑みを乗せるような、微笑を浮かべると、おれの名前を呼んだ。


「レンくん、ごめんね」
「……」


 何がごめんね、だと言うのだろう。カイトはおれから視線を逸らすと、アカイトへと向き直る。アカイトが居心地悪そうに身をよじるのが見えた。ただ、カイトはそれに気付いていないだろう。気付いていたとしても、気付かないふりをしているのかもしれない。

 カイトが静かにアカイトの名前を呼ぶ。アカイトは、何だよ、とでも言いたげに首を捻り、カイトを見つめた。カイトの手のひらが伸び、アカイトの手首を掴む。
 アカイトが驚いたようにカイトの名前を呼ぶ。すがるような視線がおれに向かってきた。なんでそこまで怯えるのかが、おれには良くわからないので、無視をする。アカイトが情けない声でおれの名前を呼ぶのを聞きながら、おれはカイトへと視線を向けた。

 青い瞳が、おれの視線に気付いたのか、こちらに向く。闇の中にある湖水の水面のような美しい色に、おれの顔が映っている。なんの気なしにそれをじっと眺めながら、おれはカイトの名前を呼んだ。


「何をしているんだよ」
「ん、これこれ」


 カイトが強引にアカイトの手のひらを上に向けさせる。ねじれるって。心の中でそんなことを思いながら、何を言うことも出来ないので、二人の行動を静観する。アカイトの手のひらの上に、カイトのもう片方の手のひらが乗った。アカイトが僅かに野太い悲鳴のようなものを上げる。


「な、なんか、手のひらに乗せたな!」
「うん、乗せたよ。何だと思う?」


 アカイトが「レン」とおれの名前を切羽詰ったような声音で呼ぶ。言葉をのんびりと返し、視線を合わせた。アカイトは唇を引き結び、おれを射抜くように見つめてきた。僅かに震えている。何か怖いものがあるのだろうか。視線を逸らすことも出来ず、じっとおれからも見つめ返す。

 カイトが、嬉しそうに弾んだ声を出して、笑う。


「ねえ、何だと思う、アカイト」
「わかんねーよ!」


 アカイトの声に怒気が滲んでくる。ふと視線を逸らすと、カイトの僅かに苦味が混じった笑みが目に入った。カイトの手のひらがアカイトから離れる。ただ、手首を掴んだ手はそのままだった。アカイトが苦々しげな表情を浮かべて、自身の手のひらに恐る恐る視線を向ける。

 カイトがアカイトの手のひらに置いたもの、それはおれも気になる。視線を下げると、緑色のものが目に入った。
 四葉のクローバー。口内で呟くように言葉を紡ぐ。カイトが、そうだよ、と嬉しそうに言葉を漏らすのが聞こえた。視線を上げ、カイトと瞳を交える。カイトはアカイトから手を離し、自身の頭を軽く掻いた。


「ごめん、四葉のクローバー探し対決、出来なくて」
「……ん」


 こくりと頷くと、カイトの申し訳無さそうな笑い声が降ってきた。カイトは立ち上がると、そのまま「じゃあオレ、ミク達の所に行って来るね」とだけ残し、そのまま早々に去ってしまった。
 ミク達の所に行って来るね、という言葉を残していったということは、暇があったら来てね、という言葉を言外に含んでいるのだろう。そっと吐息を零すと同時に、アカイトの困ったような、けれど何処か嬉しそうな笑い声が響いた。視線を向ける。

 アカイトは、どこか人懐っこそうな笑みを浮かべ、四葉のクローバーを指先で持ち上げていた。


「……アカイト?」
「こんなもん貰ったの、初めてだ。凄いな、四葉か……」


 指先で嬉しそうにアカイトは四葉を突付く。先ほどまでの驚き様は何処へ行ったのだろう、と心の中で考えるものの、別段そこまで興味も惹かれなかったので、黙ったまま視線を巡らせる。
 不意に、人間が目に入ってきた。鏡音レンを抱えている。背中に負ぶさるように、レンを持った人間は、何処かで座り込み、レンをその場に置いた。傘をレンに渡し、そのまま振り返りもせずに、去って行く。

 そのレンも、人間も、見たことがあった。おれが居る間だけでも、あのレンは十回以上、此処に連れてこられている。そうして一週間も経たないうちに、もう一度あの人間がやって来て、レンを連れて帰っていく。
 
 ボーカロイドを何度も棄てる人間が居る。そうして、何度も迎えに来る人間が、居る。先ほど茂みに姿を消した人間は、それの中でも筆頭となっているだろう。

 棄てられた鏡音レンは、人間──彼のマスターが去っていった方を眺め、それから傘を開いた。雨も降っていないのに、何をしているのだろう。

 ほんの少しだけ、興味を持った。立ち上がる。アカイトが焦ったようにおれの名前を呼ぶのが聞こえた。くいくいと服を引っ張られ、視線を向ける。アカイトの瞳が揺らぎ、言外に疑問を投げかけてきているのが分かった。


「……ちょっと、気になることがあったんだ。行ってくる」
「お前が行くなら俺も行く」


 アカイトは立ち上がると、おれの服から指先を離した。おれの斜め後ろに立ち、さあ早く進めとばかりに腕を組んだ。
 ……なんとなく、どうしておれが行くならアカイトも行くことになるのか、意味がわからなかった。首を傾げ、そのまま疑問を口にする。すると、アカイトは驚いたように一瞬だけ目を見開き、それから笑った。筋張った手のひらがおれへと伸び、軽く肩を叩いてくる。


「友達なんだから、色んな事を一緒にしたいんだ。変か?」


 確実に変だ。頷くと、アカイトがおれの名前を多少、困ったように呼ぶのが聞こえた。表情に傷ついた色が浮かぶ。……酷いことを、言ってしまったのかもしれない。小さく吐息を零しかけ、済んでのところで押しとどめる。


「……まあ、でも、良いんじゃないかな。じゃあ、行こうか」


 アカイトの表情に喜色が浮かぶ。つくづく、わかりやすいなあ、と変な所で感心をした。アカイトの手のひらが伸び、おれの手を掴む。アカイトは見せつけるように繋がった手のひらをおれの視線の高さまで上げると、堪えきれないような笑いを零す。

 ……どうして、手を繋がなければならないのだろう。


「なんだよ、これ」
「仲良いんだからな! 手を繋ぐのは当たり前だろ!」


 どうやら、おれとアカイトの当たり前は全く違っているらしい。手のひらをやんわりと離し、苦笑を浮かべる。アカイトがおれの離れた手のひらを追いかけるように手を伸ばしてきたが、それをすいと避けた。


「そういうの、別に良いだろ」


 怪訝そうな表情を浮かべられた。拒絶したのは悪いことなのかもしれない。じとりと、睨むような視線を向けられたけれど、それを避けるように歩き出した。アカイトが小さく、なんとなくつまらなさそうに、ちえ、と声を出すのが耳朶を打った。

 早足に歩き、レンの方へと向かっていく。傘を開いたり閉じたりを繰り返すレンは、おれが近づくと不意に視線をこちらに向けてきた。
 おれと同じ様で、でもどことなく違う気がするのは、やはりマスターが違うからなのだろう。おれと同じ緑がおれを見つめ、次いでアカイトへと向かう。アカイトが小さく吐息を漏らすのが聞こえた。振り向いて表情を見るのは間抜けな気がするので、そのままレンに近づいて、腰を下ろす。

 アカイトもおれの横に座った。目の前のレンが首を傾げる。


「……何ですか? 僕に何か用ですか?」
「傘、どうして持ってるのかって思ってさ」


 傘を指差し、言葉を紡ぐ。レンは一瞬だけ面食らった表情を浮かべたが、直ぐに傘へと視線を映し、ああ、と吐息を漏らすように呟いた。青い生地に白色でまだらな水玉模様が描かれている。
 レンは傘を閉じ、そのまま嘆息のようなものを漏らした。視線をおれに向け、首を傾げる。


「知らないんですか。今日、雨が降るんです。天気予報で言っていました」
「……ふうん」


 言葉を返しながらも、疑問に思う。別に傘なんて必要無いだろう。木の幹に寄りかかるように立てば、雨なんていくらでもしのげるというのに。首を傾げると、それに気付いたのか、目の前のレンは小さく吐息を零し、自身の足を叩いた。ぺちり、と皮膚が触れ合う音が響く。


「僕、足が萎えていて立てないんです」
「へ」


 横から、間抜けな声が響いた。視線を向けると、声同様に唖然とした表情を浮かべる、アカイトが目に入る。アカイトは小さく断りを入れると、目の前のレンの足に手を滑らせた。白い、すべらかな皮膚の上に、ごつごつと骨ばった手のひらが乗る。
 アカイトはほんの少しレンの足を撫でた後、手を離した。首を傾げ、腕を組む。瞳が、縫えつけられたようにレンの足へと向かっていた。きっと、理由を訊きたいのだろう、と思う。どうして足が萎えてしまったのか、理由を。

 ただ、ミクでも無い限りそんなことを訊くことは出来ない。決して立ち入ってはいけない部分──自身がどう思っているかはどうとしても──を、誰が訊くことが出来る。
 レンがおれと視線を合わせ、笑う。はかない笑みだと、感じた。彼は手に持った傘をおれに押し付けるように渡してくる。

 何をするのだろう。訳も判らず傘を受け取ると、目の前のレンの唇から笑い声が漏れる。


「……あの、なんだよ、これ」
「あげます。僕には必要ないんで」


 レンの言葉にアカイトが過敏に反応を示す。眉をひそめ、アカイトは必要ないって、と困ったように言葉を漏らした。
 その様子を見ながら、なんとなく、アカイトはカイト以外にはその場に同じボーカロイドが何体居ようが平気なのだろうか、と感じた。平気なのだろう。彼にとってはカイトが自分と同じ、ということが嫌なのであって、他のボーカロイドは自分とは違うのだから、別に良いのだ。……多分。

 思考を戻し、傘をレンに押し付けるようにして渡し返す。


「要らない。あんたには必要だろ」
「必要じゃありません」


 必要じゃないわけが、ない。傘を強引に押し返すと、レンは苦笑を零した。不意に、風が吹く。わずかな湿気を感じ取った。雨が降る。立ち上がる。同時にレンがもう一度、おれに傘を渡してきた。


「本当に、必要ないんです。マスターは僕がほんの少し錆びるのを望んでいるから」
「は?」


 唖然とした声が出る。レンはそれに構わず、言葉を続けた。


「この足だって、マスターが壊したんです。だから、傘なんて、要らない」


 一瞬、隣で息をのむ音が聞こえた。マスターが自身の足を壊した。だから、傘なんて要らない。その言葉がイコールで結びつかない。どうしてだからで結ばれるのかさえ、わからない。
 メイコの顔が頭をよぎる。目の前のこいつも、マスターに暴力を振るわれているボーカロイドの一人なのだと、すぐにわかった。

 なんと言えば良いのだろう。そうこう考えているうちに、肩口にかすかな湿り気を感じた。雨がぽつぽつと降り出してくる。とりあえずは。
 傘をさし、レンに渡す。レンは驚いたような表情を浮かべ、唇を開いた。言葉を紡ぎだそうとする前に、先手を打って素早く口を開く。


「後で又来るから」


 アカイトの手を引っ張るようにして、走る。木の根元に辿りついた頃、雨はかすかな雨から土砂降りのようなものに変わっていた。マスターのご両親がやってきた方向と、傘をさすレンが見えるように移動をして、幹に身を預ける。
 アカイトがおれの名前を困ったように呼んだ。視線を向け、それから下ろす。手を繋いだままだった。すぐに離す。


「なんだよ」
「……いや。それにしても、雨かー。山の天気は変わりやすい、か」


 アカイトは誤魔化すように笑うと、指先で天を指した。薄暗い雲が空には余り無いから、すぐ止むだろう。そうだね、と言葉を返し、じっと平地を見つめる。レンは傘をきちんとさしているようだ。水玉模様の傘から視線を外し、いつも見つめている方を見つめる。マスターのご両親が去った、方向。

 ふと、アカイトはどうして此処に来たのだろう、と思った。視線を逸らし、アカイトへと向ける。アカイトは直ぐにおれの視線に気付き、燃えるような瞳でおれを見ると、首を軽く傾げた。
 訊いても、いいだろうか。逡巡を吐息と共に地面へ落とし、言葉を紡ぐ。


「どうして、アカイトは此処に来たんだよ」


 問い掛けると、赤が揺れた。困ったような、何処か焦ったような感情に瞳の色が濡れる。すぐに、訊いてはいけなかったことなのだと悟る。そりゃそうだ。此処に来た理由なんて、答えたくないやつの方が多いだろう。
 マスターに飽きられた、だから棄てられた。そんなこと、口に出来るはずがない。

 自分の失言に、居心地が悪くなる。内股をこするように動かし、小さく吐息を零した。おれが、もしそんなことを訊かれたら──おれだったら、どう答えるだろう。マスターに飽きられたわけではない。マスターの傍におれが居ると、マスターが駄目になってしまうから、棄てられたのだ。

 マスターを駄目にしてしまうボーカロイドなんて、居て良いはずもない。マスターが、未来が開かれた学生であるなら尚更だ。
 小さく息を吐く。なんとなく、辛い。吐き出した息は震えていたのかもしれない。やっぱり、良い。そう言葉を口にしようとした途端、アカイトに遮られる。


「喧嘩、した」


 俯いていた視線を上げ、アカイトへ向ける。アカイトは真直ぐ前を見据えたまま、言葉を続けた。


「喧嘩したんだよ、喧嘩。マスターに調律してもらっていたんだけど、マスターが一々、重箱の隅を突付くみてえに、俺の声の出し方、歌うときの姿勢、ビブラートとか、伸ばし具合とか、果ては自分で改造しやがったのに髪の色、目の色、俺の性格までグチグチ言うから、キレた」


 早口に紡がれた言葉に、目を丸くしてしまう。信じられない言葉があった。
 キレ、た? それはつまり、マスターに対して怒ったということなのだろうか。喧嘩した、と言っているのだから、怒ったということで良いのだろう、けれど、おかしい。

 怒る、つまりはマスターに対して一瞬でも憎む気持ちを持つことが、アカイトは出来るのだ。
 アカイトは目蓋を軽く伏せ、居心地悪そうに肩を揺すった。胸の前で腕を組み、マフラーに顔を埋めるように僅かに俯かせる。次に聞こえた声は、ほんの少しだけくぐもっていた。


「それで、まあ、色々あって、ここに来た」
「……ごめん」


 頭を一度下げ、言葉を紡ぐ。少しして、頭の上に軽い衝動が走った。何度かそれが続く。視線を上げると、アカイトの手がおれの頭の上に伸びているのが、わかった。アカイトの手のひらで、頭を撫でるように叩かれた。


「別に、気にするなって! いつかは言おうとしていたことだしさ」
「……いつかは、って、どうしてだよ」
「友達なんだから、互いのことを知り合うのは当たり前のことだろ」


 そういうものなのだろうか。よくはわからない。アカイトの手のひらが離れたので、おれは顔を上げた。おれも、言うべきなのだろうか。此処に来た理由を。ほんの少しだけ視線をめぐらせる。アカイトと視線を合わせる。吐きだした言葉は、なぜか震えていた。


「おれ、マスターに駄目な影響を与えるから、此処に連れて来られたんだと、思う」
「駄目な影響?」
「多分」


 棄てられた、と言うには抵抗があった。その言葉を口にしようとすると、胸の基盤が軋むように痛くなる。棄てられてなんか居ない、棄てられてなんか居ない、棄てられてなんか、居ない。そう叫びたくなる衝動に駆られる。

 棄てられてなんて、居ないのだ。ここで、待っているだけなのだから。マスターが迎えにくるのを、ずっと。ずっと、ずっと、朽ちるまで、ずっと。
 おれは、棄てられてなんか、居ない。待っているだけなのだ。


「──そうか、なあ、連れて来られたのって、マスターか? それとも、他の誰かに?」
「ご両親に」
「ふうん。ならマスターはお前のことを嫌って棄てたわけじゃないんだろ。良かったじゃん、きっと迎えに来てくれるだろ」


 アカイトの手のひらがおれの頭の上に、優しく、けれど何処か力強さを秘めたような力を持って、乗る。強引に頭を撫でられた。振り払おうかと、一瞬だけ思ったけれど、実行することは無かった。

 アカイトの言葉が、嬉しかった。それと同時に、どうしようもなく恥ずかしくなった。あんな、弱弱しい声を出して、どう考えても構ってくれ、と言っているようなものじゃないか。あんな風に言うなんて、言外に慰めてくれ、と言っているのと同じだ。

 自分の行動を思い返して、頭を振る。不意に、アカイトが驚いたような声を出すのが、聞こえた。視線を上げ、アカイトの視線を辿る。その先には、レンが居た。傘を、閉じ、雨に身を晒すレンの姿が、あった。


続く

長いのですよ……

2008/9/5 inserted by FC2 system