幸運の星から離れて 6

 雨が上がると、おれは直ぐにレンの元へと向かった。
 ぎゅ、と土を踏みしめるたび、青臭い匂いがむんと香り立つ気がする。雨上がりの後のせいか、皮膚にまとわりつくような湿気を纏う空気に苛立ちを感じながら、大またに歩を進めていく。
 レンは、驚くほどに濡れていた。服がべったりと皮膚に張り付いている。肌の色が、白いセーラーから浮き彫りになっていた。ヘッドセットは耐水仕様じゃない。確実に、今回の雨で壊れただろう。馬鹿なのかよ、という悪態が口をついて出そうになって、必死に押しとどめる。

 目の前のレンは、おれが近づいてきたことに対してか、微笑んで声を出した。


「どうかしたんですか? 変な表情です」
「どうかしたって──」


 喉から紡ぎだされる声は、僅かにノイズが交じっていた。それに、背筋がどうしようもなく寒くなるのを感じる。雨は、怖い。おれも、雨に──それも、今回のような土砂降りの雨に降られると、こんなにも簡単に壊れてしまうのだろうか。
 生活用水だけなのだ。防げるものは、本当に些細な水の量だけしかない。それなのに、このレンは、明らかに防水を何十倍にも超える雨を身に受け、それでも嬉しそうに笑っている。

 おかしい、と頭の片隅で考えて、その考えを打ち消す。次いで、雨上がりの土を踏む音が聞こえ、おれはレンから視線を逸らして振り返った。アカイトが小走りにおれに近づいてきたのが、見える。それを視界に収め、おれはレンと向き直った。

 柔和な──おれなのに、おれではない顔立ちをしている。皮膚が雨に濡れたせいで、光っていた。無気味に、人間の皮膚とは違う材質で出来ているからか人間の皮膚とは違う輝きを持つそれを、無遠慮に眺め吐息を零す。その時、アカイトが、おれの横に並ぶように立った。レンの様子を見て、驚いたように息をのむ声がぼんやりと耳朶を打つ。

 布。そう呟く声が聞こえた。視線を向けると、どこか困惑を表情に宿したアカイトが見える。視線に気付いたのか、すぐにおれの瞳と交わった赤は、揺らぎを見せた。
 布、アカイトの言いたいことはわかる。レンを拭く布を必要としているのだろう。

 布なんて、無いに決まっている。ここは、人間の家では無いのだ。新しい衣服も、安心できる場所も、何も無い。無いに決まっているだろ、と言葉を吐き出しかけて、止める。
 アカイトから視線を外し、もう一度レンへと向ける。どうしてか荒ぐ鼓動を落ち着かせるべく、深く呼吸を地面に落とした。どうして、こんなにも焦っているのだろうか。

 考えると、直ぐにわかる。おれは、先ほどまで足が萎えているだけだったボーカロイドが、大量の雨に打たれたことによって、発声器官に生じた歪みを見て、恐怖を感じているのだ。


「傘、貰ってください」


 何も言わずに突っ立っていると、傘を差し出された。胸に押し付けるように渡されたそれに、動揺する。欲しい、と心の何処かで思ってしまった。
 これがあったら、おれは雨に多少ならずとも濡れずに済む。木の幹にもたれかかっていようと、雨は木の葉の合間をぬって、おれの身体を濡らす。防ぐ術なんて、無い。
 おれは、壊れたくない。この声をずっと持って居たい。おれのこの声が、なくなってしまったら、おれは、マスターに必要ない存在になってしまう。

 マスターはおれが声をおかしくしたとしても、傍に居てくれるかもしれない。けれど、それではおれが駄目だ。おれはマスターのことが好きだけれど、それと同じくらい歌いたい。ボーカロイドなのだ。歌わなくては、意味が無い。

 渡された傘を抱きすくめる。目の前のレンが微かな笑い声を零した。貰ってくれてありがとうございます、そう囁くように言うのが聞こえる。アカイトがおれの名前を呼んだ。
 要らない。要らないだろ。これが無かったら、目の前のレンは、どうなるんだよ。もっと、もっと壊れていっちゃうじゃないか。

 吐息を零す。知らず力を込めていた手のひらをゆるゆると離す。視線を合わせて、それから傘をレンへ押し付けた。


「要らない」
「……僕も要りません」
「だ、大体、壊れたいとか、雨に濡れるとか、何やってるんだよ──」


 投げやりに言葉を紡ぐと、目の前のレンの表情が変わった。すっと細められた瞳から発せられる視線は鋭く、どうしようもない心地悪さを感じる。居心地が悪い。レンは傘を貰おうとせず、頑なに拒み続ける。どうしてここまで傘を嫌がるのだろう。眉を潜め、渡された傘を地面に置く。
 レンはそれを見てか、小さく溜息のようなものを零すと、おれの名前を呼んだ。控えめに、けれどどこか意思が込められたそれに、思わず身体がびくりと震える。視線を合わせると、おれと同じ色の瞳が、揺らぐのが見えた。


「要らない。僕にはマスター以外、なにも必要無い」


 意味がわからない。何で傘の話からマスターの話へ変わるのだろう。視線を逸らさずに、レンの続きの言葉を待つ。レンは刃の切っ先のような鋭い視線を少しだけ和らげると、わずかな優しさを滲ませた声音で言葉を紡いだ。


「マスターは僕のことが大好きなんです。僕もマスターのことが大好きなんです。わかりますか、相思相愛なんです」
「……ふうん」


 何度も棄てられているくせに、と心の中で思ってしまった。最悪だ、とすぐに考えを打ち消す。けれど、相思相愛──互いに思い会っているのなら、こんなところになんて来ないだろ、普通。訝しげな視線に気付いたのか、レンは嬉しそうに笑みを浮かべると、細い、けど何処か柔らかそうな手のひらで自身の太ももを撫でた。


「マスターは僕が泣く姿が好きなんです」
「…………」


 アカイトがおれの横で、はあ、と語尾を上げ調子に言葉を紡ぐのが聞こえた。無理も無いと思う。おれも一瞬、変な声を出しかけた。すぐに喉の奥に押し込めたけれど。
 アカイトの唖然としたような声音に反応してか、レンは柔らかく表情を歪めた。口唇の端に笑みが乗る。大人しい笑みだと、頭のどこかで思った。


「僕が壊れる姿も好きみたいです。僕がマスターに依存するのを望んでいるみたいなんです」
「いぞん……」


 大人の、低い囁くような声がアカイトから漏れる。レンはこっくりと頷くと、嬉しそうに笑みを深める。


「だったら、僕はそれに従う。僕にはマスターしか要らないんだ。マスターのためなら、僕は壊れるし、泣くし、依存する。というか、最初から依存なんてしているようなものですけれど」


 わかりますか。レンはそう続けて、にっこりと微笑む。おれの足元に転がる傘を手のひらで持ち、投げつけてきた。反射的に受け取ると、やはり嬉しそうに笑われる。レンの淡い色合いの唇から、堪えきれないと言った様子の笑い声が、漏れた。
 傘。青色に白の水玉模様の、かわいらしい傘だ。彼のマスターが買ったのだろうか。雨が降ると、知っていたから、それをレンに渡して、そうして。


「傘だって、マスターは僕のことを試すために渡したに違いないんです。僕が、僕が壊れることを恐れて傘を差してしまえば、それはマスターを裏切ることになる。少し、ほんの少し差しちゃいましたけれど、マスターならきっと許してくれる」


 なんとなく、言っている言葉の意味が良く分からない。アカイトもそうなのだろうか。……わかりたくないだけなのかもしれない。
 目の前の、レンの行動と言葉は、明らかに常軌を逸していたのだから。
 レンが苦笑を浮かべる。


「僕はマスターのことを、なんだってわかっている。だから、何度だって棄てられてもマスターのことを信じられる」


 でもあなた達は。そう続け、レンはおれとアカイトを順順に指差して、笑った。レンの瞳の色が、わずかに濁るように揺れる。その瞳を見ていると、どこか、底なしの沼にはまったような、どうしようもない嫌悪に襲われた。不意に視線を逸らす。


「あなた達には、出来ませんよね」


 笑いながら紡がれた言葉は、鈍器のような硬さを持っておれの頭を殴りつけた。


 その後、何日も経ってからレンはマスターに拾われて、帰って行った。傘を置いて。マスターがやってくるまでに、何度も雨は降った。けれど、レンは一切、傘を差さなかった。
 おれはというと、レンから貰った傘を手持ち無沙汰にぶらぶらして歩いたり、開いたり閉じた利を繰り返していたばかりだった。
 青い布地に、白の水玉。かわいらしいそれは、見るたびにレンのことを思い出させた。

 レンが此処を去る際、彼のマスターを呼ぶ声を聞いた。おれの声、つまりは鏡音レンの声だとわからないくらいに雑音が混じって、何を言っているのか正直、聞き取りにくかった。雑音混じりの声音、ボーカロイドは歌うことが生きがいだというのに、彼は自身の声を出す基盤が壊れることをいとわなかった。

 おれには、出来ないことだ。

 今日も、平地の周りに立ち並ぶ木々と雑草を眺めながら、おれは吐息を零す。こんなおれだから、マスターのために自身が壊れるのをいとわない鏡音レンではないから、マスターは迎えに来てくれないのだろうか。
 不意に、胸の奥が熱くなった。やばい。心の中でそう思い、顔を俯かせる。視界に入ってくるのはおれの足の肌色、そしてレッグウォーマーの黒、それから地面を嫌というほどに覆い尽くす緑だった。

 何を考えているのだろう、と、思った。近くに置いた傘を取り、それを眼前まで近づける。直後、上から声が降ってきた。


「なにやってんだ、レン」
「……アカイト」


 視線を上げると、目を焼くような赤が視界におさまった。端正な顔が意地悪げに歪む。アカイトはおれの前に腰を下ろすと、おれの手からひったくるように傘を盗る。
 それをおれの目の前で開いて見せると、青、と嬉しそうな言葉を発した。青色、好きなのだろうか。かっこうからして赤が好きそうな気がしたのだけれど。

 そんなことを思いながらも、視線を伏せる。湿った風が吹いてきて、おれの頬を濡らした。雨が降るだろうか。降らないだろうか。考えるのが億劫だ。
 じっと、地面の緑を見ていると、境界が曖昧になってくる。よくわからなくなってくるのだ。確実に境界はあるというのに、どうしてか、自分が地面と融合しているかのような気分になってくる。そんなことは無い、絶対に無いのに。


「──まだ、気にしているのか」


 不意に届いた言葉の意味がわからなくて、視線を上げる。アカイトが傘を弄ぶのを止め、おれを見ていた。強烈な赤に見られると、どうしてか言葉の続きを言えなくなる。
 たっぷりと間を置いて、おれは首を傾げた。


「なんのことだよ」


 紡ぎだした声は震えていた。アカイトはそれに気付いたのだろう。痛そうな表情を浮かべると、視線を傘へと戻す。傘の柄の部分に触れながら、んー、やら、あー、やら、言いにくそうに唸る。
 アカイトの言いたいことは、わかる。おれがレンに隔絶とした差を見せ付けられたことを心配しているのだろう。
 もう、気にしていない。そういえば嘘になるから、おれは何も言わない。

 僕はマスターのことを、なんだってわかっている。そういったレンの顔が思い浮かぶ。そんなことを言ったら、おれだってマスターのことをなんだってわかっている。マスターの癖も、好きなものも、嫌いなものだって、なんだって知っている。
 言い返せば良かったのだ。おれだって知っている、おれだってマスターの為ならなんだって出来る。口に出して言えば良かったのに、おれは言わなかった。

 なんだって出来る、それは本当のことだろうか。おれはマスターに、どんなことを要求されたって答えることが出来る、それは本当だろうか。
 出来るよ。出来る、出来る出来る出来る出来る、出来るんだ! 不安を投げ飛ばすように頭を降る。出来るに決まってるだろ、おれだってマスターのことを大好きなのだから、なんだって出来る。

 マスターが言うなら声だって潰してもいい、おれを要らないというなら前から消えるし、おれの何処かが嫌だというのなら、そこを全て直す。足が気に入らないなら潰す、目が気に入らないならくりぬく、腕を気持ち悪いというのなら取り除く。髪の色が気に入らないなら染めるし、髪自体が嫌なら全部剃るし、顔が気に入らないなら──おれは、皮膚をはいで、骨格を潰す。

 マスターの為に、おれは、何だって、出来る。──する。するんだ。

 何故か震えてしまう。ぎゅ、と手に力を入れて拳を作り、おれは小さく息を吐いた。──その時、唐突に何処かでがしゃん、という音がした。直後、肩を素早く揺すられる。視線を上げると、アカイトが傘を地面に下ろし、おれの肩を掴んでいた。視線はおれではない、何処かへと向いている。


「あれ──」


 あれ? 心の中で疑問を感じつつ、アカイトの視線を辿るように瞳を動かす。その先には、鏡音レンが居た。この前、ここから連れられていったはずの、レンが。地面に倒れている。瞬時にして、悟った。立ち上がると、アカイトも傘を持って立ち上がる。ロボットとボーカロイドの隙間を縫うようにして近づいていく。

 レンは、不自然な格好でその場に伏せていた。うつ伏せ。地面に顔を向けている。右手首が変な方向に折れ曲がっているように見えたのは、気のせいではないのだろう。アカイトが腰を下ろし、レンを抱き上げた。抱き上げた身体には力が入っていないらしく、アカイトの手篭から、だらんとした手足が垂れ下がっていた。近づき、腰を下ろす。壊れているみたいだ。

 アカイトがレンをそっとその場に下ろす。それから、赤い瞳が何かを探すように動いた。マスターを探しているのだろうか。おれもあたりを見渡す。人間は何処にも見当たらない。レンを棄てて、直ぐに何処かへと帰ってしまったのだろう。

 レンを傷つけるのが好きなマスターは、壊れたレンを此処に棄てていった。アカイトはそんなマスターに僅かながらも怒りを感じている様子で、瞳に憎しみを滲ませていた。人間のようだと、ぼんやりと思いながらレンの近くに腰を下ろす。頬に触れる。冷たかった。当然だ、もう起動していないのだから。


「馬鹿だな、お前」


 ぽつりと呟いた言葉は、水面に投げた小石が波紋を形作るように、その場にゆっくりと広がった。レンの頬は、赤い。殴られたのだろうか、触ると僅かなへこみを感じた。目蓋は閉じられていた。伏せた睫毛が、開くことはもうないだろう。むりやり開けることはしない。たとえ開けて見たとしても、そこにあるのは、ただのガラス球だ。なんの光も通さない、どの光さえも受け付けない、眼球。

 マスターは僕のことが大好きなんです。僕もマスターのことが大好きなんです──、そう言っていた時の表情が頭に浮かぶ。
 そうだな、きっとマスターはレンのことを好きだったのかもしれない。レンもマスターのことを好きだっただろう。けれど、こいつは知らなかったのだ。マスターには換えが効かないが、おれ達には換えが効くことを。

 どれだけ叩かれても、殴られても、蹴られても、性的な暴行を受けても、おれ達はマスターを嫌いになれない。嫌いに、ならない。マスターに好かれるためならなんだってする。妄信的な信者のような存在なのだ。

 じめじめとした空気がおれの頬を濡らす。雨が、降るだろう、きっと。もう。空を見上げると、灰色の雲が空を覆っているのが見えた。視線をめぐらせて、傘を手に取る。開くと、かわいらしい水玉模様が視界を埋め尽くした。それをレンの手に持たせるようにして置き、おれは立ち上がる。アカイトも立ち上がった。

 壊れてしまったものはどうしようもない。おれ達には修復不可能だし、直せたとしても直す奴なんて、居ない。


「そろそろ雨降るかもしれないし、ちょっと避難しよう」
「そうだな。雨に濡れると壊れちまうし」


 雨に濡れると壊れる。だからおれ達は避難する。それは普通のことなのだ。


「アカイトのマフラーさあ、おれにくれない?」
「何でだよ」
「だってほら、木の葉の合間から雫が滴ってきたらさ、濡れるじゃん。おれ、ほら、半袖のパフスリーブで寒いし」
「ばーか。俺が寒いだろうが」


 頭を軽く殴られた。睨むような視線を向けると、軽くいなすように返される。いつか、仕返しをしてやりたい。いつになるかはわからないけれど。
 歩を進め、大きな木の幹に背中を預ける。アカイトもおれの近くに立った。少しして、ぽつりぽつりと雨が降り出す。

 雨で格子状に隔離されたような世界を、ぼんやりと見ながら、おれは溜息を零す。風が吹くと、おれの頬を僅かな雨が濡らした。それをアカイトのマフラーで拭う。当然のように怒られた。


「お前なあっ! マフラーで頬を拭うとか、お前、おま……」
「いいだろ、別に。布無いんだからさ。どうせマフラーなんてすぐ乾くし」


 仕返し、とまではいかないものの、それを見ていたら少しながらも気分が晴れた。視線を真直ぐと平地へと向ける。風が吹くと、平地に一点だけ、ぽつりと外界を遮断するかのような、明るい色をした傘が、円を描いて動いた。

 おれは、歌いたい。睨むように傘を見つめ、そう思う。
 だって声を無くしたら、おれはマスターの紡ぎだす美しい旋律を歌えなくなるじゃないか。それに、マスターはおれの声のことを好きでいてくれている。
マスターが好きと言ってくれた声を、潰すなんて、馬鹿なことはしたくない。

 だからおれは雨が降ったら避難する。壊れたくないから。マスターに迎えに来て貰うまで、壊れたくないから。
 けれど、マスターが言うなら、おれだって声を潰しただろう、と思う。マスターのためならなんだってする。それが、おれ達なのだから。

 傘は、レンの手から離れ、居場所を無くした子どものように、うろうろと、風に揺られていた。


続く

2008/09/06
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