幸運の星から離れて 7



「お前らはさ、マスターのこと、どう思うわけ?」


 唐突な問いかけに、おれは何を返す事も出来なかった。伏せていた視線を上げて、目の前に座るアカイトを見る。おれの横にはカイトが座っていて、おれ同様、唖然とした表情を浮かべていた。何も答えないでいると、アカイトが、どうなんだよ、と言葉を早口に続けて、首を傾げた。どうなんだよ、と、言われても。大切な存在だとしか答えられない。これがアカイトの望む答えなのだろうか。アカイト同様に首を傾げ、おれは言葉を口にした。


「大切な存在、だけど」
「……オレも、そうかな」
「ふうん。どういう意味で?」


 どういう意味。意味がわからない。どういう意味、と問われても、そういう意味、としか答えようが無い気がする。言葉に詰まる。カイトへ目配せし、首を傾げる。カイトは僅かな苦味の混じった笑みを零した後、ためらうように言葉を続けた。


「……えっと、大切だから大切……」
「どういう意味って訊いてるんだけど」


 カイトが困ったような笑みを浮かべる。アカイトは、それを見てか、僅かに顔をしかめると、不意に、もう良い、と吐き捨てるように呟いた。


「なんだよお前ら。親愛とか、友愛とか、どういう意味での大切な存在か聞いたのによー」
「……大切な存在は、大切な存在だろ。どういう意味とか、関係無しに」


 大切な存在を親愛、友愛、その他色々な感情で分けるのはおかしいのではないだろうか。疑問が首をもたげてくるが、それを胸の内に蓄積させて、おれは言葉を発した。アカイトが不満げに唇を尖らせる。変な表情だと、思った。全然違うだろ、囁くように言葉を紡ぐのが聞こえた。意味がわからない。何が違うというのだろう。
 カイトへ視線を向ける。カイトは、困ったような笑みを依然として浮かべていた。眉尻が八の字のように垂れ下がっている。

 不意に、アカイトの唇から、ミク、という言葉が漏れた。ミク? ミクが何だと言うのだろうか。疑問に思い、それを口にしようとする。が、それはアカイトの大声で遮られた。


「ミク!」


 周りを見渡すように、視線をめぐらせて、アカイトは叫んだ。一瞬、体がびくりと竦んでしまう。一体、何なのだろうか。
 ──アカイトと一緒に居ることが多くなってからというもの、おれはアカイトに驚かされてばかりいる気がする。アカイトは、おれには思いもつかないことばかりをやってのける。それは急に大声を出したり、おれに急に後ろから抱き付いてきたり──。何度も怒るが、アカイトはそれを笑って過ごす。友達だから。そう言われると、おれとしても強くは言えない。
 アカイトとおれは、きっと、友達に分類されるところに居る。アカイトにとって、急に大声を出したり、後ろから抱き付いてきたりするということが、友達と触れ合う際に必要なコミュニケーションだというのなら、そのようなことをされても諦めがつくだろう。それに、おれは、アカイトが色々なボカロに抱きつくところを見ている。どんな奴とでも仲良くなるのは、やはり素体がカイトなだけあるのだろうか。

 アカイトが顔を巡らせ、それから、とある一点へと視線を止めた。嬉しそうな色が表情に浮かび、手のひらが伸びる。大きく手を振りながら、アカイトはもう一度、ミク、と大声を出した。
 アカイトの視線を辿り、その先に居るロボットを見つけ出す。ミクが居た。横に、見たことのない──初めて見る、鏡音リンが居る。ミクはアカイトに手を振り返すと、嬉しそうに笑って、リンの手を引いて近寄ってきた。


「なんですか? どうかしましたか?」
「ちょっと訊きたいことがあってさ。今、時間は良いか?」


 アカイトが問うと、ミクは嬉しそうに笑って、駄目です、と朗らかに言葉を続けた。アカイトが唖然とした表情を浮かべる。おれも、一瞬だけ驚いた。余りにも朗らかに否定の言葉を口にするものだから、呆気に取られてしまったのだ。
 ミクは、大きな瞳をくりくりと動かすと、口唇の端を持ち上げた。それから、隣に立つリンの肩を抱くように持つ。


「今、リンちゃんと話をしていたんです! だから、駄目です」
「……直ぐ済むから。えっと、リン? か。良いだろ?」


 アカイトが苦笑を浮かべ、ミクから視線を逸らす。その赤が向かう先は、リンだろう。リンは驚いたように身を竦ませると、困ったように視線をうろうろと動かした。
 大人しいリン、なのだろうか。リンといえば活発なイメージがあったので、多少ならずとも興味深かった。じっと見つめていると、視線が合う。おれの瞳と同じ色の瞳が、おれを見つめてきた。
 瞳は同じといっても、表情の作りはおれとは違う。おれは目じりが軽くつりあがっているけれど、リンは逆に目じりが下がっていた。垂れ目。そういえばいいのかもしれない。鼻も口も小さく、その中で大きな瞳だけが格段に目立っている。桜色に染まった頬は健康的で、セーラー服とショートパンツから伸びる四肢は、華奢だった。見るだけで、一般的な──改造されていない、鏡音リンだとわかる。

 じっと眺めているのも何だし、改造されていないとわかったところで興味が失せた。おれは視線を下ろし、地べたへと向ける。美しい緑が目に入ってきた。合間合間にある白い花の彩りがとても綺麗だ。美しい風景を、この山は持っていた。
 でもだからといって、ずっと此処に居たいとは思わない。美しい風景を何百日も見るより、ただ一人、自分だけのマスターの傍に一日で良いから居たいと思う。

 ミクが、優しい声を出す。


「リンちゃん、ちょっとだけ良いかな」
「リンは、その、良いよ。ミクちゃんが良いなら」
「そっか。ありがとう、リンちゃん」


 ミクが、親しげに話し掛けているのに驚いてしまった。ミクには、いつのまに、こんなにも親しいロボットが出来たのだろう。思い返す限り、リンは数日くらい前に此処にやってきたのではないだろうか。数日前まで、この鏡音リンは居なかったし。
 僅かな疑問が首をもたげてくるが、おれはそれを言葉に出さず、視線を上げた。アカイトが困ったように笑い、じゃあ訊くな、と続けるのが聞こえた。


「ミクにとって、マスターって、どんな存在だ?」
「もっちろん、大切な存在に決まっているじゃないですか! 大好きです! ワタシのマスターは、とっても優しいんですよ!」


 アカイトが僅かに頬をひくつかせる。ご愁傷様だと思った。ミクはマスターの話をはじめると、一時間は止まらない。マスターの自慢話を聞くのが好きなカイトならともかく、アカイトはへきえきしてしまうだろうな、と思った。
 ミクの話は、突飛に話題を変える。マスターはすごくて、マスターはすばらしくて、それよりも聞いてください、マスターの曲、歌いますよ、どうですか、すばらしいですよね、話は変わるんですけれど──。おれは慣れたから良いけれど、アカイトはどうなのだろうか。

 見ると、アカイトが引きつった笑みを浮かべているのが視界に入った。ご愁傷様だ。カイトと視線を合わせ、笑う。カイトも、笑い返してくれた。口だけ動かして、ご愁傷様だよな、と言葉を紡ぐ。カイトも口だけを動かして、そうだね、と返してきた。

 そんなことをしていると、不意にアカイトが焦ったように言葉を紡いだ。


「それで──」
「わかっ、わかった! めちゃくちゃよくわかった! ミクのマスターはすごく優しくてかっこよくて綺麗で素晴らしいマスターなんだな!」
「……まだまだ、続きはあるんですけれど。あのですね──」


 アカイトが手のひらをミクの前に突きつけ、タンマ! ストップ! と叫ぶ。ミクが一瞬のうちに不機嫌な表情を浮かべた。眉をひそめ、唇を尖らせる。僅かに膨らんだ頬は、空気がたまっているのだろう。ミクのよこで、リンが笑うのが見えた。
 アカイトが肩を落とす。そのまま、アカイトは視線をおれに向けてくると、肩を落とした。なんだよこれ。言外に表情が言葉を物語っている。
 それを気の毒に思いながらも、緩む頬を抑えきれない。ご愁傷様。笑いながら小さく言葉を口にすると、アカイトの表情に苦いものが混じった。

 おれは別に、ミクの話を聞くのは好きだ。彼女の話は、マスターへの愛が溢れているようで、聞いていて楽しい。もちろん、おれだって、マスターのことを語れと言われたら一時間程度じゃすまない自信がある。マスターの性格だって、容姿だって、声も、おれに教えてくれた歌だって、全部全部教えきるには、時間がどれだけあっても足りないだろう。

 アカイトがへきえきしたかのように肩を落とし、それから、どこか疲れたような色を滲ませた声を出した。


「……どういう意味で、好きなんだ?」
「どういう意味、ですか? 好きに意味なんてあるんですか? ワタシ、初めて知りました」


 溜息が落ちる音を聞いた。カイトが困ったように笑う。アカイトがそれを感じとったのか、カイトへとねめつけるような視線を送った。怖いなあ、囁くように呟く穏やかな声が耳朶を突く。
 ミクは僅かに疑問を表情に滲ませ、そのまま小首を傾げた。彼女の柳眉が垂れ下がり、悩ましげな美しさを彩っている。本当に、誰にでも好かれるだけあって、何をしても様になる。まあでも、おれにとってはどんな美しいボーカロイドや人間よりも、マスターが一番綺麗だと思っているけれど。そう思うのは、マスターがおれの一番大切な人なのだから、当然だろう。

 僅かな間をおき、アカイトが乱暴に言葉を紡ぐ。


「質問を変える。これはレンやカイトにも訊きたいことだったんだけどな。マスターが結婚とかしたとき、祝福出来るか?」
「……え?」


 ミクが唖然とした声を漏らす。思わず、おれの口からもそのような言葉が漏れかけた。無理やり飲み込んだけれど。
 結婚とかしたとき。マスターを祝福できるか、どうか。そんなの決まっている。祝福するに決まっているじゃないか。マスターが幸せなら──、おれだって。

 口を閉ざす。想像すると、嫌な感覚が背中を駆け上がってくる。──マスターが幸せなら、おれだって、幸せ、なのだろうか。マスターに好きな人が出来た、マスターが誰かと両思いになった、そのとき、おれは幸せで、祝福出来るのだろうか。マスター、おめでとうなんて、言える、わけが──。


「無理だなあ、オレ」


 無言になった場を、切り裂くように柔らかな声が響いた。柔らかく、穏やかな声音は、けれど鋭い強さを持っていた。視線を向けると、カイトが苦笑を浮かべているのが見えた。


「オレは無理だよ。マスターが誰かと幸せになるのを、オレは、祝福出来ない。したくもない」


 断言された言葉に唖然とした。心のどこかで、カイトならマスターを祝福するだろうと言う思いがあったのかもしれない。アカイトが口を開いたままカイトを見つめる。カイトは表情から笑みを消し去り、けれど穏やかな声のまま、言葉を続けた。


「したくない。マスターの幸せは、オレの幸せだけれど、その幸せだけは祝福出来ない」
「……カイトにしては、やけに好戦的っつーか、その……」


 気まずそうに紡がれた言葉に、カイトは視線を下ろした。美しい蒼穹の色がさらりと風に乗って揺れる。光を柔らかく反射するそれは、まぶしいくらいの青を目に焼き付けてきた。


「……そうだね、オレらしくもない。ちょっと、おかしくなってるのかもなあ。冗談って言ったら、皆信じてくれるかい」
「なんだよ。冗談かよ。カイト、お前なあ」


 カイトが笑うと、アカイトも一瞬遅れて笑い出した。
 嘘だと、思う。確実に、カイトは本気で言っていたのだろう。アカイトだって、気づいているはずだ。
 マスターが結婚するとしても、祝福したくない、と。カイトにしては珍しく、強固に紡がれた言葉だった。彼が何故、そのように祝福したくないと言ったかはわからないけれど、もしかしたら彼のマスターは本当に──。
 考えて、無粋かと、首を振る。そこまで首を突っ込んではいけないだろう。小さく息を吐く。それと同時に、微かな声音が耳朶を打った。


「……わ、ワタシは祝福しますよ!」


 ミクの声だった。高らかに、響くような声音で、彼女は続ける。


「だって、マスターの幸せですもん!」
「でもさ、ミクちゃん。マスターが結婚したら、棄てられるかもしれないんだよ」
「え……あ、え……」


 口を挟んだのは、もちろんカイトだった。何を訊いているのだろう。何を言っているのだろう。捨てられる、という言葉に、ミクは敏感に反応を示すのは、カイトだって知っているだろうに。ミクはにわかに表情を歪めると、僅かに瞳を伏せた。睫毛の先がぷるぷると震える。
 泣く。泣く泣く泣く、泣く! カイトに視線を向け、何言ってるんだよ、と言葉に出さずに口だけを動かして伝える。カイトはおれの言わんとする言葉をきちんと読み取ったようで、困ったように笑みを浮かべる。眉尻を下げ、口唇の端を僅かに上げ──目には悲痛な色が宿っていた。
 一瞬だけ、どきりとする。これは、もしかして、もしかしてだろうか──。カイトのマスターは女性の方だったし──。

 そんなことを考えて、もう一度ゆるく頭を振った。最悪だ、おれは。本当に何を考えているのだろうか。もう考えるのは止めよう。
 鈴の転がるような声音で、ミクちゃん、となだめるように言う声が聞こえた。リンの声だろう。……ミクが泣くのを、おれも止めなくては。ミクを見る。直後、彼女の瞳が上がった。

 泣かな、かった? 一瞬だけ呆然とする。彼女の、桜色で彩られた唇が開く。


「それでも、祝福します。マスターの幸せはワタシの幸せじゃないけれど、マスターが幸せならワタシはいつだって幸せだから、祝福します」


 震えた声でそう言いきり、ミクは笑みを浮かべた。


「マスターが笑ってくれるなら、ワタシは何度だって、祝福します」


 マスターの笑顔が見たいから。そう続けて、ミクは吐息を零し、アカイトさんはどうなんですか、と言葉を紡ぐ。アカイトが一瞬だけ面食らったような表情を浮かべた。けれど、すぐに、彼は破顔する。僅かに頬が染まる。


「そりゃあ、俺だって祝福するに決まってるだろ。マスターが幸せなら俺も幸せーってわけじゃねーけどさ。その後、そのネタでずっと遊んでやるし」


 ミクが笑う。アカイトが笑う。──おれは、笑えなかった。カイトも同じ様で、苦々しげな色を表情に浮かべている。
 好きだ。マスターのことが。マスターの傍に居るのはいつも、おれだけでありたい。
 そう思うのは、強欲なのだろう。おれはボーカロイドだ。現在、人間とロボットの結婚は出来ない。禁止されているのだ。

 マスターが結婚。それは遠い未来のことなのだろうか。それとも──。なんにせよ、いつかは来るであろう日なのだろうとは思う。
 来ないと良い、と思って、最悪だ、と表情をしかめた。

 おれは、マスターが誰かを好きになったり、誰かと両思いになったり、誰かと結婚するようになったりした際、上手く祝福することが出来るだろうか。

 不意に、アカイトがおれの名前を呼んだ。


「レンは? 祝福出来るか?」


 おれは答えを返せず、ただ曖昧に笑みを浮かべた。


続く

2008/11/12
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