我慢の限界を超えた。本当に。


あなたへ歌う 1
(見知らぬ子どもとボーカロイドについて)


 っていうかこんなにもかわいいリンとかレンとかカイトとかミクにメイコが悪いんだ! こんな良い声で歌うボーカロイドが悪いんだ!
 ──そんなことを心の中で考えつつ、は画面を見つめる。画面には、ボーカロイド五人が楽しそうに歌っている動画が映っていた。
 MEIKO、KAITO、それにミク、リン、レン。それらは──音と言葉を入力すると、その通りに歌ってくれるという、ボーカロイドだ。

 数か月前までは、そんなものの存在さえ知らなかった。知ることになった理由は、ある動画投稿サイトによる。そこに投稿されている、ボーカロイド──ミクの歌声を聴いてからだ。
 美しい旋律を歌い上げ、人間には到底出しえない声を出すミク。まるで生きているかのような透明な歌声は、を魅了した。本当に、とても綺麗だったのだ。

 それからというもの、毎日のようにその動画投稿サイトを見て、ミクの声、時にはカイトやメイコ、それにリン、レンの歌を聴いていた。いろいろな人々が作る歌は、その人の想いが溢れてくるような感じがして、聴いていてとても楽しかった。

 そうして、がボーカロイドを買おうと思い始めたのは数ヶ月か経った後、だろうか。だって、歌わせたい。だって、きっとできるはず。そう思ったのだ。何を買うのかは迷ったけれど、結局リンとレンにした。
 鏡音リンとレン。──公式イラストで発表されている姿もかわいいし、それに声が力強くて素敵だった。若々しいエネルギーが溢れてくるような。鼻声とか、使いにくいとか言われているが、気にしない。は、そんなリンとレンの歌声に惹かれたのだから。
 値段は高かったものの、なんとか工面して、やっとこさ通販を申し込むことができたのだ。


 それから、二週間がたった。正直言って、堪忍袋の緒が切れる。おかしい。もう二週間。 二週間も! 経ってるのに、まだ届かない。もうそろそろ来ても良い頃では。おかしい。絶対、おかしい。
 最近では、動画投稿サイトを見るのが悲しくなってくる。毎日のようにリン、レンの歌がUPされているというのに、のところにはリン、レンが届かない。酷い。これが格差社会か。

 は、PC画面を見ながら、ため息をつく。一人で画面を見ながらニヘニヘしている自分がすごく虚しく思えてきた。動画の停止ボタンを押し、頬杖をついた。

 もう発送したと、通販したサイトには書かれていた。──しかも、一週間も前に。だとしたら遅くないか。なんですか、送っている人はどれだけスローペースでやってきているんだ。普通だったらもう届いてるじゃんかああああ! と叫びたくなる。はやく、はやくやりたい。リンとレンで遊びたいのに。酷い。これなら、そこらの電気店に走って買いに行く方が早かったのでは。
 ……そんなことを考えるのも、もう何日目のことだろう。最初の頃は子供のように何度もポストを覗いたり、届けにくる人が来るかを見ていた。けれど、今は何だかもう何も入っていないポストを見ると異様に疲れるし──悲しくなる。またか、いつ来るのだろう、としか思えなくなる。
 ──ちら、と玄関に目をやる。早く来てよ、なんて思いながらはあ、とため息をついた時。
 玄関からがたん、という音がした。ん? と頬杖をついていた姿勢をやめ、玄関を見つめる。玄関の扉に何かぶつかっているのだろうか。がたがた、がたがた、という音が聞こえてくる。  なんだろう。疑問を抱えつつ、椅子から立ち上がり玄関へと向う。誰かが居るのだろうか。首をかしげつつ、玄関の扉を開けようとした。不審者だったらどうしよう、なんて考えは何故か浮かばなかったのだ。
 ノブに手をかけて、ドアを開──。


「ちょ! おも、重いいいい!」


 ドアが開かない。何かに抑えつけられているようだ。それも──強大なものに。ドアノブを意味無くがちゃがちゃと動かす。開かない、開かない、どうしてだ。地味に焦るんですけれど。

 なんだこれはいたずらか。焦りで手に汗がにじんでくる。がちゃがちゃとドアノブを回し、は扉に全体重をかけ、ドアを開けるため尽力する。すると、ずず、と何かを引きずるような音とともに、ドアに隙間が出来た。小さい隙間、けれどにとっては大きな隙間に思える。手を入れ、ドアを押す。すると、先ほどより簡単にドアは動き、人が一人通れるような隙間ができた。そこに体を通し、は家の中から外へ出る。

 ふう、とため息をつき、くそう、手間をかけさせて、とか思いつつはドアへと視線をやる。すると、ドアの前に、ダンボールが置いてあるのが見てとれた。の腰くらいまでありそうな大きさのダンボールだ。なんだこれ。
 ちょうど今さっき、玄関の扉ががんがんとなっていたのを思い出す。これは、への届け物か何かなのかな。え、でもこんな大きなダンボールに入れるようなものは、頼んでいないような気が。というか届けに来た人、チャイムぐらい鳴らして下さい。

 近づくと、ダンボールの上に手紙が貼り付けてあるのに気づいた。……手紙?
 おおよそ、不格好なダンボールに不釣り合いな、明るい色の手紙だ。何故かロードローラーの絵が隅っこに書いてある。微妙に上手い。封をしているのも、ロードローラーのシールだ。
 ……ロードローラー、って。の頭上にある一人のボーカロイドが浮かんだが即刻、打ち消す。きっと、っていうかたぶん、最近、はやっているのだろう、と思う。裏返すと、そこには私の名前が書かれていた。かわいらしい、女の子が書くような文字で。

 ……宛? なんで? 封を開け、中に入っている手紙を取り出す。三つ折りにされたそれを開く。それには、一言、「ダンボール開けてください」と書かれていた。ダンボール開けてください、って。もしかして、これのことか。ダンボールに目を落とす。すると、答えるようにダンボールが引きずるようにして動いた。

 ……え、う、動……?


「えええええ!」


 思わず大きな声を出してしまう。近所迷惑だろうか。でも、そんなことを気にする余裕が無い。
 すると、ダンボールが「マスター!」と声を発した。


「マスター、居るんですね! 開けて下さい、厳重に縛られてて、出られないんです!」


 ダンボールが大きく揺れる。な、何、これなんなの、いったいなんなの。家へ逃げ込もうと、扉を見る。隙間が無くなっていた。きっと、ダンボールが動いたことによって、閉まってしまったのだろう。
 勝手に閉まるなアアアア! と心の中で叫ぶ。閑話休題、──は、マンションに住んでいる。一階ではない。扉を開けると通路があり、階段もしくはエレベーターで一階に下り、やっと外に出ることができるのだ。階段はダンボールの向こう側にある。エレベーターもまたしかり。
 つまり──に、逃げられない……。後退をするしかない。じりじりと後ずさるたびに、ダンボールが、がたごとと大きな音を立て、近づいてくる。なんだこれ、ダンボールがこんなにも怖いなんて、初めて知ったよ。


「マスター! マスターってば!」


 何事、本当に。驚きのせいか、腰を抜かしてしまったらしい。足に力が入らず、その場にへなへなと座り込んでしまった。っていうか、マスターって何。マスターって、誰。増田さんか?
 ダンボールが目の前に近付いてきた。大きい。ダンボールがしゃべる。


「マスターってばぁ! 早く開けてくださいよ!」


 ダンボールが少しだけ、浮き上がる。だ、ダダダダンボールがジャンプをしたーー!?
 ダンボールは「マスター、マスター!」と言いながら、何度も何度も浮き上がる。着地するたびにがんごんがんご、と変な音がするのは気のせいなのだろうか。

 正直、動けない。っていうか何が起こっているのやらわからない。非現実的すぎる。平凡はどこへ。
 ダンボールはそんなの心情も知らず、何度も奇怪な音を響かせながら飛び上り──バランスを崩したのか盛大に横に倒れた。ごんがん、と何か固いものがぶつかるような音が聞こえ、それに続いて「うひゃ!」というかすかな声が聞こえた。
 倒れた拍子、なのかはよくわからないけれどダンボール箱を厳重に封じてあったガムテープが絹を裂くような音をたててやぶれる。隙間があく。その隙間から、「マスタぁー!」という声が、先ほどよりクリアに聞こえてきた。


「開けてくださいってば、もう!」
「だ、ダダダンボールが、しゃ、しゃべっ」
「ダンボールじゃありません! 鏡音リンです、マスター! 通販しましたよね、二週間前に! やっと着いたんです、だから開けてください!」


 鏡音、リン?
 唖然とする。ダンボールが大きく揺れ、ガムテープが裂けた。箱が、開く。中から、女の子がひょこっと顔をのぞかせた。そして、と視線を合わせたかと思うと、ぱっとヒマワリのような笑みを浮かべ、ダンボールから出てきた。──クッション材のようなものに、体をグルグルに巻かれている。
 その子は器用にも毛虫のように這いずって、腰を抜かすの近くまで来た。

 そして、嬉しそうに笑みを浮かべて、「マスターが開けるの遅いから、出てきちゃいました」なんて言う。開けるの遅いって、出てきちゃったって、え、な、なに、なんなの。
 図らずも泣きそうになる。なぜか震える唇を懸命に動かし、は声を出した。

「……な、にを……」
「初めまして、マスター! わたしはキャラクターボーカロイドシリーズ01-02、鏡音リンです」
「……は、はあ!?」


 声を荒げてしまった。何を言っているのだろう、この子は。いたずらにしては度が過ぎている。警察に通報するぞ。本気で。
 女の子は、「マスター! わたし、これから貴女のために歌います! 頑張りますから、よろしくお願いしますね!」と言って、ますます笑みを深くした。

 ……わけ、が、わからない。

 だってが買ったのは、キャラクターボーカロイドシリーズの鏡音リン、レン。ソフトウェアだ。女の子ではない。
 ──って、何を考えているんだ。この子、本当になんなんだ。アレか。迷子か。そうか、迷子なのか。うん、迷子に違いない。なんでグルグル巻き、とかそういう疑問はこの際すっきりどこかへと置いておく。


「ええと、迷子、かな! そうだよね、うん! 交番はあっち、」
「迷子じゃありません、ちゃんとマスターのところに来ました! マスター、どんな曲を歌わせてくれるんですか? わたし、それがすっごく楽しみで、運送されている間、ずうっと考えていたんです! ポップな曲かな、バラードかなあ、それともジャズ、クラシック、オペラ? ……って。それに女の人か、男の人か、ってことも。話は変わりますけれど、私の得意なジャンルはこぶしが効くのでずばり演歌です! またまた話は変わりますけれど、マスター、手紙を見てくれました!? あれ、わたしが書いたんです! 運送されるまえに! マスターの名前って、アレであってますよね? で、で、」
「ちょちょちょ、ちょっと待って!」


 ストップをかける。ちょっと、本当に待って欲しい。本気で理解が追い付かない。この子が、何を言っているのか良くわからない。
 うろんな女の子を見つめる。女の子は、と視線を合わせると、目を細めて笑い、機敏に立ち上がり、その場でくるりと一回転をした。頭にある、白いリボンがひらりと揺れる。体をグルグル巻きにされているのに、良く一回転できるなあ、なんて感心してしまった。
 女の子は、と視線を合わせる。きらりと太陽の光を反射して光る金糸のような髪、それと夏空を思わせるような優しい瞳の色に、一瞬だけドキっとした。


「マスター、家の中に入りましょう!」


 女の子がの後ろに回り込んで、急かすように頭で背中をぐいぐいと押してくる。流されるままに、扉を開けると、女の子が家の中に入り込む。そして、「えへへ」と嬉しそうに笑った。──って、なに家に入れてるんだ自分!
 そんなことを思って、女の子に「ちょ、ちょっとごめん、入ってもらったばっかりだけれど出てくれないかな」と声をかけようとした、途端、女の子が「あ」と小さく声を上げた。
 そして、私に申し訳なさそうな視線を向け、「すみません、マスター、ダンボール……」と言う。
 ダンボール。ダンボールのある方に視線を向ける。片づけなくては。ご近所にも迷惑だろうなあ、と虚ろに思う。女の子が「ダンボールを、マスター」と言って、開けたドアの前に立つ。たぶん、ドアを抑えてくれているのだろう。

 女の子は、小さく笑って「マスター、開けておきますから」と言って、視線をダンボールにやった。……持ってきて欲しいのだろうか。
 ダンボールの近くにより、持ち上げようとする。重い。何でだろうか。もしかして、あの子は凶悪犯でダンボールの中に凶器とか入れていて、部屋の中に入った瞬間に、その凶器でを襲うとかしたり……。
 いやな想像が頭を駆け巡る。確認するように、ダンボールの中を覗き込んだ。そうして、目に入ったものを理解する前に、は小さく悲鳴をあげて、持ち上げかけていたダンボールを落としてしまった。がごん、と鈍い音がする。
 ──人が、入っていた。

 女の子が小さく声を上げ、「マスター、落としちゃダメですよ。一応精密機械なんですからっ」と言う。
 せ、精密機械……? 何を言っているのだろう。女の子に視線を向けると、その子は笑みを浮かべ、「──わたしと同じです」と言って、ぐるぐる巻きの姿でぴょんぴょん跳ねながら寄ってきた。扉が閉まる。

 なにが。何が同じなの。いぶかしげな視線に気づいたのか、女の子は「鏡音レン。──わたしの分身です。マスター」と苦笑を浮かべた。
 ぶ、ぶ、分身? なにそれ。忍者の技か。


「ぶ、分身?」
「そうです。ね、マスター、レンも早くつけましょう! 外だと寒いですし、早く!」


 そう言うと、女の子は家の中に入っていく。は、早くって言われても……。涙が出そうだ。
 変な女の子、それにダンボール箱の中の人。置いておきたいけれど、こんなの置いておいて近所の人が気づいたら、警察沙汰になりそうな気がする。は涙目になりながらも、ダンボール箱をひきずりながら、家へと帰った。



 中に入り、リビングへと向かう。ダンボールを適当な場所に置き、一息をついた頃、女の子が「マスター、ちょっとこのクッション材、切ってくれませんか」と言って、に近寄ってきた。
 切れと言われても。どうすればいいのやら。っていうか、もし、もしだよ。これが念入りに作られた強盗だったら。クッション材をとった途端、「ハッハー! だまされたなこの馬鹿がァァ」とか言われて押さえつけられてどこかしらに隠していたナイフとかでぐさっと刺されたら。疑うように女の子を見ると、「マスター?」と首をかしげられた。っていうか、この子人間じゃん。ボーカロイドなわけがない。っていうかボーカロイドはアプリケーションソフトウェアでしょ?


「あ、のさ、あの、貴女のこと、信じられてないっていうか、その、……ボーカロイドって、ソフトウェアでしょ?」
「はい! ええと、でも、わたし……ソフトウェアじゃないですけれど……ボーカロイドですよ、人間型ボーカロイド。疑ってるんですか? それにマスター、わたしの名前は鏡音リンです!」
「え、あ、……うん。その、証拠とかって、無い?」
「証拠、ですか……うーんと、そうですね、マスター、ちょっとわたしの後ろに立ってくれませんか」


 女の子がピョンとはねる。後ろに? どうして、と言いたいのだけれど、証拠を見せてくれるというのだから、おとなしく従うことにしよう。
 後ろに立つと、女の子が「首のところ、見てください」と続けた。首?

 首にかかっている髪の毛を、除ける。さらさらと、手触りがとても良い美しい色の髪の毛だ。


「首、見たけれど……」
「ちょっと真中らへんにでっぱりがあるんで、探してくれませんか」
「でっぱり?」


 手で首に触れる。皮膚のぬくもりが、じんわりと伝わってきた。……でっぱり? でっぱりってなんだろう、なんて思いつつ探すように手をすっと動かしていると、引っかかる部分があった。ここ、だろうか。


「あったよ」
「じゃあ、それを引っ張ってください」
「え」
「引っ張るんです」


 引っ張るって。どういうことだ。疑問はつきないものの、でっぱりを爪でつかみ、ひっぱる。すると、皮膚が取れた。
 驚きに、体が震えた。なんで、なんで、こんな簡単に皮膚が。
 でも、それよりも驚いたのは──皮膚が取れた後だ。人間ならば、皮膚の下には赤い筋肉がある。けれど、彼女にはそれがない。黒い、機械的なものがきゅるきゅると動いている。


「な、なにこれ……!」
「そこに、USBコードを刺して、充電するんです」


 恐怖に声を発すると、女の子がかすかに笑った。私は皮膚を急いで元の場所に戻す。かち、と無機質な音をたてて、それは元の場所に納まった。
 女の子は、後ろにいるの方に体を向け、目を細めた。


「これで、信じてくれましたよね」


続く


2008/02/16
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