あなたへ歌う 02
(不思議なボーカロイド)


 女の子、もとい鏡音リンは、の顔を見ながら口角をあげる。──まるで、いたずらが成功して嬉しがっている子供のような表情だと、ぼんやりと思った。
 正直、焦る。というか、もう、何が起こっているのかよくわからなくなってきた。が呆然としているのを後目に彼女は「だから、マスター」と唇を小さく開き、何度もしたように、その場でくるりと一回転する。白い大きなリボンが揺れ、金色の髪の毛によく映えた。


「よろしくお願いしますね」
「……」


 あなたのボーカロイドは世界でただ一人、あなただけのために歌います。

 リンはそう続け、空の色が溶けたような瞳でを見つめた。
 これは、信じるしか無いのだろうか。正直、非現実的すぎて良くわからない。だれか解説してヘルプミー! という感じだ。だって、だって、平凡に暮らしてきたにとって、こんなハプニングは想像が出来ない。
 動画で見るボーカロイドは、こんな、こんなアンドロイドでは無かった。違った。ソフトだった。のに。おかしいよ、おかしいじゃん。何が起こっているの、誰か教えてください本当に。っていうかアンドロイドってここまで発達していたのか。
 アシモとかしか知らなかったにとっては驚愕の事実だ。

 ……それにしても、今の状況。他の──ボカロを知っている誰かからすれば、今って、すごくおいしい状況でしょ、と思われる事態なのだろう。けれど、そんなことは全然考えられない。思うことが出来ない。焦りと不安と疑惑が積もっているだけだ。
 ──けれど。

 リンの首に視線をやる。リンは視線に気づいたのか目を細め、「マスター?」と、──を呼んだ。
 あの首のふくらみ。そして、それを取ったときの、機械的なモノ。きゅるきゅると、聞こえた音──それらは説明がつかない。
 だから、信じられないけれど、リンは、……キャラクターボーカロイドの鏡音リン、なのだろう。

 ぐるぐるといろいろな推測が頭を回る。リンはと視線を合わせると、「えへへ、マスター」とぐるぐる巻きの姿ですり寄ってきた。
 ぐるぐる巻き。動きにくそうだ。ああ、そうだ、クッション材をとらなきゃいけない。

 おぼつかない足取りと思考。クッション材をはさみでどうにかして切ると、リンはマスター! と嬉しそうに言って、抱きついてきた。すごい衝撃。たたらを踏みつつ、彼女の小さな体を受け入れる。


「えへへ、マスター、マスター」
「え、あ、リン……」


 名前を呼ぶと、リンは大袈裟とも言えるような動作での胸辺りに沈めていた顔を上げた。きらきらと瞳が輝いている。
 頬が微妙に紅潮しているのは気のせい、なのかもしれない。リンは恥ずかしそうに「えへへ」と小さくつぶやいた後、破顔一笑した。


「マスターの声、好きです。──嬉しいな!」


 そう言った後、リンは頬をもっと紅潮させる。どうやら、見間違いでは無かったようだ。が驚きで目を丸くさせると、リンは恥ずかしそうに顔を再度沈める。えへ、えへへ、とくぐもった嬉しそうな声が時折聞こえてきた。
 名前を呼ばれることが、そんなにうれしいのだろうか、なんて思う。


「リン」
「はい! マスター」


 名前をもう一度、呼ぶ。するとリンはぱっとから離れ、嬉しそうな表情はそのままに、右手を先生にあてられた小学生のようにピンと上に伸ばし、元気よく返事をした。ま、マスター……かあ……。なんだか卑猥な感じがするのは、の脳内が腐っているからなのかもしれない。小さく苦笑を漏らしてから、はダンボールに近寄った。

 少しずつ、思考力が回復してくる。この子は、……信じられない、本当に、信じられないけれど、鏡音リンなのだ。ということは、ダンボールの中に入っていた、あの人は。
 中を恐る恐る覗きこむ。すると、向日葵のような色が目に入った。瞬時に、髪の毛だ、と思う。つむじが見え、すっとしたうなじが見えて、クッション材にぐるぐる巻きにされた体が目に入る。

 顔は伏せられており良く見えないけれど、入っている人は──鏡音レン、なのだろう。
 リンが跳ねるように軽やかなステップを踏みながらに近付き、「レン、つけますか? でも、そのまえに説明書を読んでくださいね!」と言い、ダンボールに体をつっこみ一冊の冊子をに手渡した。

 はダンボールから離れ、それに目を移す。
 大きい。というか、厚い。何十、もしかしたら何百ページとありそうな冊子だ。表面にはキャラクターボーカロイドシリーズ01-02、鏡音リン、鏡音レン取扱説明書という言葉が明朝体で躍っていた。
 ぱら、と開く。一ページ目に、買ってくださった方へ、という言葉、その横にボーカロイド一同より、と書いてある。

『一、 私たちはあなたのことが大好きです。
二、 私たちが頑丈だからと言って、暴力を振るわないでください。精密機械なのです。壊れてしまいます。
三、 あなたの言われたとおりに歌えないからと言って、すぐに諦めないでください。私たちはあなたが居ないと何もできません。
四、 私たちは負の感情を持ちません。怒りや嫉妬、そのような物を向けられると、どうしようもなくなります。
五、 あなたは私たちの総て。嫌わないでください。私たちにはあなたしか居ないのです。
六、 あなたの作ってくれた曲は、私たちの胸にずっと残ります──』

 どうしよう、三にひっかかりそうな気がする。何事に対してもあきらめが早いだ。それにDTM初心者だし……。すぐに諦めそうな気がする。すべてに目を通してから小さく息をつき、次のページを開く。
 すると、すっと影がさした。いつのまにかリンが横から覗き込んできている。視線をやると、えへへ、と声を弾ませ小さく笑った。

 ──次のページには、記憶について、と書かれていた。

『私たちは、あなたとの思い出を記憶します。あなたとの間に起こったことを記憶し、感情や性格を形成していきます。いろいろな所へ連れて行って下さい。いろいろなことを教えて下さい。あなたの言った言葉は、すべて私たちに記憶されます。消えることはありません。何にも、なんの色にも染まっていないボーカロイドを形成するのは、他でもないあなただけなのです。
記憶された思い出や感情、形成された性格は歌うことに影響を及ぼします。無機質ではなく、感情をこめて歌えるようになり、あなたの音楽の幅が広がるよう助けます』

 記憶とか。なんというハイクオリティ。どれだけ進んでいるんだ、機械産業。
 心の中でそんなことを思いつつ、次のページを開いた……途端、冊子を閉じる。別に次のページからなんか小難しいことがつらつら書かれているから読む気が失せたってわけじゃない。……すみません嘘です失せました。なんだあのカタカナに英語。横文字無理。は生粋の日本人です。読めません。無理。無謀。

 出鼻をくじかれたような気分になりつつ、冊子を近くの机に置き、ダンボールの中をもう一度覗きこむ。中には、──レンが瞳を閉じて、ぐるぐる巻きの姿で底に寝転んでいる。
 そういえばつけかた、とかは載っているのだろうか。机に置いた冊子を取り、もう一度目を通す。書いていない。冊子を閉じ、またもや机の上に戻した。

 どうやってつけるのだろう、なんて首をかしげる。
 なんか、やっぱりスイッチみたいなのがあるのかな、なんて思いながらレンに視線を戻した。……まあ、何を考えていてもしょうがない。先ずはダンボールから出さなければ。
 そんな結論に至り、レンを引っ張り出そうとする。けれど、レンは正直、重く、引っ張り出すことが出来なかった。。

 く、とかう、とか呻きながら苦戦をしていたからか、リンが「マスター、わたしも手伝いますね!」と言ってひょいとレンを持ち上げてくれた。……なんという怪力。
 驚くに構わずリンは「どこに置きます?」と訊く。それに「そ、ソファー……に」と若干どもりつつ言葉を返すと、彼女はレンをソファーにぞんざいに投げつけた。……繊細に扱わなきゃいけないんじゃないのか。

 ……まあ、どうにかこうにかしてレンを外に出すことが出来た。ソファーに変な恰好で横たわっていたレンを背もたれにかかるよう座らせ、巻かれているクッション材をとる。

 白地のセーラー服、襟は黒色、閉じられている瞳の睫毛は長く、薄く頬に影を落としている。形のいい輪郭、すっと通った鼻筋、そして抜けるほどに白い肌の色。
 髪の色はリン同様、美しい金色だ。やわらかな、暖かい陽の光を思わせる色。瞳もきっと、リンと同じような空を思い出させる色なのだろうと思う。

 リンがの腕に自分の腕を回し、「つけますか」と上目づかいで問う。
 うん、まあ、つけたいのだけれど、つけかたが良く……。頬を軽く人差し指でかく。リンが「わかりました」と頷き、するりと腕を解きレンに顔を近づけた。

 変な音が一瞬した。きゅいん、だかそんな感じの音。リンはレンに近付けていた体を遠ざけ、先ほどのようにの腕に細い腕を回す。レンに視線を向けつつ、なにをしたの、と問いかけようとして、しかしそれは口内でとどまることになった。

 レンが瞳をゆっくりと開く。周りを軽く見渡し、顔をあげ、と視線を合わせた。
 リンと同じ色の瞳、──ではなかった。深く暗い、海の底を思わせるような瞳の色をしている。光は、無い。
 ガラス玉のような瞳がを見つめる。薄く濁ったそれに、小さく息をのむと同時に、レンが唇を開いた。


「──はじめまして、自動制御人間型ボーカロイド01-02、鏡音レンです」


 じどうせいぎょ? にんげんがた? とか疑問を感じる前に、なぜか恐怖を感じた。

 ──声に色が無かった。例えるなら、透明、または白色。つまりは何にも染まっていない声って言う感じだろうか。なんの感情にも彩られていない声音。格好は普通の男の子なのに、と少しだけ不気味さを感じる。
 リンと同じボーカロイド。それなのに、全くリンとは、違う。

 男の子にしては少し高い声で、レンは言葉を続ける。


「マスター。名前を呼んでください」
「え」


 抑揚がない声。何かを言われた、と理解はするものの何を言ったのか、あまり聞き取れなかった。小さく声を洩らすと、レンはもう一度、言葉を繰り返した。


「名前を。──おれの名前を呼んでください」
「ほら、マスター、呼んで。鏡音……、って。視線はそらしちゃダメだよ」


 リンが、かすかに服の裾を引っ張ってに助言をしてくれた。名前を、呼ぶ? 視線をそらさずに? なんだかよくわからない。焦りが焦りを呼び、なんだか泣きそうになる。リンがの不安を取り除くかのように、優しく、ゆっくりと言葉を発する。


「名前を呼んで貰わないと、認識できないの」
「……な、にを?」
「あなたを、──マスターのことを」


 声で認識? え、え、と声を出すと、リンが笑みを浮かべた。


「呼ばれると、わかるの。あなたが、わたしたちのマスターだって」
「え、でも、リンのときは」


 呼ばなかったじゃん。
 心の中に疑問が浮かぶが、リンに急かされるように「だから」と言われ、それは聞かずじまいになる。
 レンがもう一度、「おれの名前を」とやっぱり急かすように言う。リンに向けていた視線をレンに戻す。底冷えするような光のない瞳と交わる。は背筋が粟立つのを感じた。

 呼ばなければならない。そんな雰囲気が漂う。か、鏡音レン、だよね。だよね?
 頭の中でレンの名前を何度も確認するように呟きつつ、は怖々、声を出した。


「鏡音レン」


 わずかに掠れた声で名前を呼ぶ。すると、レンの瞳の瞳孔が一瞬の間に伸縮し、瞳に光がさした。一瞬、驚きで身がすくんだのはしょうがないと思う。
レンはと視線を合わせたまま、「──あらためて、よろしくお願いします。マイマスター」と言い、頭を下げた。
 リンが空いている腕でレンを引っ張り、「レン、一緒に頑張ろうね!」と楽しげに声を弾ませる。レンは下げていた頭を上げ、リンを一瞥した後、もういちどに視線を向け、リンが最初に言った言葉を同様に、口にした。


「あなたのボーカロイドは、世界でただ一人あなたのためだけに歌います」


 ──やはり、リンとは全く違う、声音。
 あの取扱い説明書には経験を通してボーカロイドは感情や性格を形成していくと書かれていた。
 リンはもう、最初から大幅に性格が形成されているように思える。笑って、笑って、笑って──ずっと笑っている。さっきの、が名前を呼ぶだけでも嬉しそうに、ただ幸せそうに。
 ……ボーカロイド全員がリンみたいな性格とは思わないけれど──というか市場に出回っているボーカロイドはおおよそ、ソフトなのだろうけれど──も、もう少しぐらい元気元気してたって良いのでは。

 レンと視線を合わせる。途端、レンは淡く色づいた唇を開き、「どうかしましたか、マスター」と問う。
 『何の色にも、染まっていない』、かあ。この子は、いったいどんな性格になるのだろう。は小さく息を吐いた。



続く


自動制御人間型とかは……もう……わたしにもよく……。いつか他の言葉に変えたいです。


2008/02/29
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