あなたへ歌う 10
 (春は近く)

 今、は布団の中で横になっている。右隣りにはレン、左隣にはリンが眠っている──まあ、性格に言えばスリープモードらしいのだけれど──という非常に美味しいシチュエーション真っ最中だ。カーテンから漏れる外の光は明るい。ちらりと時計を見ると、もう九時近い時間だった。
 いつもだったら慌てなければいけない時間。けれど、今日は休日だ。頬が緩む。今日は何をしようかな。この前、合唱曲を入れたし、あれの微々調整をするべきなのかもしれない。もっと、のびのびと歌えるように。
 あとあと、他にもいろいろオケとか取ってきて、歌わせたりするのも楽しいだろう。二人には悪いけれど、動画投稿サイトだって見たい。色々なオリジナル曲とか、カバー曲とか、聴きたい。

 むくりと体を持ち上げる。すると、左隣から「マスター」と言う声が聞こえてきた。


「ん、おはよう、レン」
「おはようございます、マスター」


 返事をすると、彼は同様、布団から僅かに身を出し上半身を起こした。


「マスター、今日は何をしますか」
「んえ……起きたばっかだからなあ……」


 頭を掻く。んー、まだ予定は決めていない。ただ、やりたいことは一杯あるけれど。
 苦笑を浮かべて、何を言おうか回らない頭で考えていると、レンがに向かって手を伸ばしてきた。何だろう。彼の手がの頭の上に乗る。
 怪訝に思う。どうしたの、と言うとレンは小さく「髪の毛が……」と言う。寝癖でもついていたのだろうか。そうだとしたら、恥ずかしい。


「ね、寝癖ついてたかな? あはは、ごめん、ちょっと、うん、梳いてくるよ」
「……マスター」


 軽く笑いながら立ち上がり、洗面所へ向かおうとするの手を、レンが掴んだ。語気を強めて、彼はを呼びとめる。
 どうしたのだろう。何でも良いから早く髪の毛を梳きたいのだけれどなあ。どうしたの、と問いを投げかける。するとレンは僅かに口を閉ざし、瞳を伏せて、からそっと手を離した。……なに、どうしたのだろう。
 返事を待つ。レンは口元に手を当てて、考える様子を見せた後、「おれが」と口を開いた。


「梳きたいです、良いですか」
「梳きたい、って、の髪の毛を?」


 頷く。えええ。まさかの展開。
 驚きつつも、「あ、うん、じゃあ、お願いしようかな」なんて言葉を発すると、彼は昨日が、くしをしまった場所のことを覚えていたのだろう、立ち上がり取ってきた。
 ……その、なんていうか、仕事の早さって言えば良いのかな。それに、ある意味感心する。
 レンはの手を引いて布団から遠くに座らせた後、髪の毛を梳いて行った。

 んー、人に自分の髪の毛を触られるというのは、なんだか気恥ずかしい。小さく笑いを零す。
 その笑い声に気づいたのか、それとも何かの物音のせいか。リンが目を開く。


「おはようございます、マスター……え」


とレンの姿を見止めたのか、軽く絶句する。そのあと、口を何度か開閉する。布団をたくしあげ、「な、な、な……」と驚いたような声を発する。


「な、なんでー! レン、言ったじゃない、この前!」


 後ろから小さく息を吐く音が聞こえた。レンは、の髪の毛を梳く手を止めずに言葉を発する。


「別に良いだろ」
「よくないわよぉ! もう、もう……なんでぇ……」
「……この前、リンはマスターと風呂入ったし、良いだろ、別に」
「なっ……、そ、それはそうだけれど、わたしとマスターは同じ女の子同士だし、レンは男の子だもん。当然じゃない」


 ものすごい勢いでリンが立ち上がり、言う。たくしあげられた布団はリンの手から離れ、へにゃりと地面に落ちた。彼女はの目の前に来て、の肩に手を当てて言う。


「マスター! 何とか言ってくださいよ、レンに」
「え、ああ、ええと……」


 そんなことを言われても。はどっちにしてもらっても嬉しいし、……ここは……どうすればいいのだろう。
 円満に、円満に解決するためには、どうすれば良いのだろう。

 頭の中で必死に色々と考える。けれど、良い案は思いつかない。そうこう考えているうちにレンはの髪の毛を梳き終わったようで、「マスター」と言い、小さく「終わりました」と続けた。あ、そう、そうですか……。
 その言葉を聞くと同時に、リンが瞳を伏せる。悲しそうだ。いや、彼女たちは悲しいなんて感じないだろうから、呆然としているだけなのかもしれない。
 ゆるゆると肩を掴んでいた手から力が抜ける。なんだか、どうしよう。どうしようもない。
 色々と考えて、はリンの手をつかんだ。リンが微かに瞳を上げる。


「──マスター」
「今度は、リンがやってくれるかな」


 後ろからひゅ、と言う音がした。レンが息を詰めたのだろうか。


「わたしが、ですか? ……もちろんです」


 リンが緩やかに笑みを浮かべた。その後、の手を掴んで軽く笑う。彼女の機嫌は直ったのだろうか。だとしたら良かった。ほっと息を吐く。
 彼女に悲しい顔は似合わない──と思う。もちろん、レンにも、だ。

 まあ、なんにしても、本当に良かった。
 後ろに振り向き、レンと視線を合わせる。彼は「え」と小さく言葉を漏らす。が振り向いたことが意外だったのかな。

 笑みを浮かべて、彼の頭に手をやる。撫でつける。彼はほのかに頬を染め、「マスター?」と恥ずかしそうに言葉を紡いだ。


「ありがと、レン」
「……いえ」


 彼の視線が徐々に下がり、彼の瞳も伏せられた。長い睫毛の隙間からのぞく青色。それがどうしようもなく綺麗に思える。
 小さく息を吐くと、は立ち上がった。なんだろう、いろいろ考え事をしたせいか、何か飲み物を飲みたくなったのだ。
 台所まで歩を進め、冷蔵庫を開ける。──途端、は頬を引きつらせた。

 無い。何がって、食べ物がだ。
 ……そういえば、最近、全くと言っていいほどにスーパーとかに行っていない。……ひとまず、今日の予定は食料品店へと赴くことに決まり、かなあ。確か、一番近いところは歩きで行けるはず。
 はあ、面倒臭いなあ。

 歩きで行くべきか、それとも何で行くべきか……。色々と考えていると、後ろから寝巻きが引っ張られた。引っ張る人間なんてリンかレンかどちらかしかいない。冷蔵庫の扉を溜息をつきながら閉め、振り向く。レンが居た。
 彼は僅かに首を傾げ、


「どうかしたんですか」


 ちょいちょいとの寝間着を引っ張る。続いてリンもやってきて、の横に立つと「マスター、今日は何をするんですかー」と嬉しそうに言葉を弾ませる。
 ひとまず、リンの方に視線を向け、答えを発した。


「まず、買い物に行きます」
「買い物……?」


 リンが怪訝そうな色を瞳に浮かべる。買い物の意味がわからなかったのかな、なんて一瞬思ったけれど、それは無いだろうと首を振る。
 リンはかすかに疑問を乗せた声で言葉を紡ぐ。


「どこまで行くんですか」
「近くの食料品店まで」


 歩いて行ける距離にある所の、なんて心の中で付け足す。リンは「そうですか」と一言呟くと、思案するように腕を組んだ。
 リンに答えたことは、実質、レンの問いへの答えにもなっているだろう。レンはの寝間着から手を離して、リン同様、逡巡していた。

 それから、直ぐ。リンは僅かに俯いていた顔を上げ、「マスター!」と言葉を続ける。


「わたし、行きたいです、お買い物!」
「おれも……行きたいです、良いですか」


 二人分の瞳が一心にを見つめる。断れるわけが無かった。




 最近は、この前よりは暖かくなってきていると思う。桜前線も順調に北上しているらしいし、たちの地域の桜が咲くのも、あとは時間の問題だ。まあ、それでも、吹く風は寒いし、二人にはやはりコートを着てもらうことにはしたけれども。
 リンはコツをつかんだのか、すいすいとボタンをつけていく。おお、上手くなったなあ、なんて感心していると、「マスター」と呼び掛けられた。レンだ。
 声のした方向へ向く。予想通り、レンが立っていた。

 ボタンがきちんと閉まってある。
 ……おお。すごいじゃん、レン。心の中で思ったことをそのまま口にして伝える。すると彼はほんの少し頬を上げて微笑み、「……はい」と言った。
 声は弾んでいて、どこか誇らしげだと感じた。……それにしても、いつのまに。練習でもしたのだろうか。それでも、レンがそういうことをしていた覚えはない。イメージトレーニングとかかな。その様子を考えると、なかなかに微笑ましいものがある。
 ほのかに笑みをもらした。


「じゃあ、マスター、早く行きましょう! お買い物です、お買い物!」
「うん、それじゃあ、行こうか」


 外に出て、家の鍵を閉めたと同時に、リンはの手を取って強く握った。より幾分か小さな手のひらがの手を懸命に握っているのは、なんだか、うん、微笑ましかった。かすかに笑う。とたん、もう片方の手にそっと温かさを感じた。見ると、レンがのそれを申し訳程度に掴んでいる。
 なんだかそれを、リン同様微笑ましく思いながら、たちは食料品店への道を急いだ。


 食料品店には、当然と言えば当然だけれど、沢山の食料とか、お菓子とかが、色々と並べられていた。
 その中で、必要なものだけ買っていく。……のだけれど、どうにもこうにも、必要なさそうなものまで買ってしまう。
 買い物中、リンとレンはひたすらに大人しかった。ただ、珍しいものを見ては嬉しそうに笑みを浮かべたり、小さく声を出したりしていたのが、何やら可愛かった。

 買いすぎちゃった為か、帰りは荷物が多かった。といってもビニール袋三つ分程度なのだけれど。リンとレンに一つずつ持っていただき、も一つ持った。一人で来ていたらビニール袋三つを持ち歩きで帰らなければならなかっただろう。ぞっとする。リンとレンが来てくれていて良かった、本当に。


「──マスター」


 帰路の途中、リンがとレンの前に歩み出て、笑いを零した。……? いったい、何なのだろう。
 彼女は嬉しそうに何度も笑って、「わたしたちって」と続けた。


「家族、みたいですよね」
「家族?」
「はい!」


 首を傾げると、瞬時に返される声。家族、かあ……。家族だとしたら、やっぱり、はお母さん的なものに当てはまるのかな。もしくはお姉さんか。
 リンは嬉しそうに、もう一度笑みを浮かべる。


「あ、友達でも良いです!」


 そう言うとリンは頬に手を当てた。彼女の頬は紅葉を散らしたように紅潮している。
 友達、か。リンは頬に当てていた手を離すと、の隣に近寄って、手を絡ませてきた。そうして嬉しそうに笑う。


「あのね、マスター。わたし、マスターの特別になりたいです」
「と、特別……かあ……」
「はい! 友達でも、なんでも良いから、マスターが気にかけてくれるような、そんなものになりたいです」


 気にかけている、と言ったら、もう二人の事は気にかけまくっているのだけれど。というか、どうだろう、大切な人の部類に入るだろう、きっと。
 今一、確証が持てないのは、なんでだろう、良くわからないからなのかもしれない。


「リンは、もうの特別の存在だよ」


 笑ってそう言う。うん、きっと、っていうか絶対、そうだ。声に出して言うことで、なんだか納得できた気がする。リンとレンは、の大切で特別な存在、だ。
 リンは嬉しそうに笑う。その様子を見て、まで嬉しくなる。その時、くいっと服に張力を感じた。レンだ。
 レンに視線を移す。彼はと視線を合わせると、頬を僅かに赤らめて視線をそらしてしまった。これは、アレだろうか。何かに訊きたいことでもあるのだろうか。今さっきのリンと同じようなことを。
 レン、と名前を呼んで言葉を続ける。


「レンも、もちろん、の特別の存在だよ」
「あ、いえ──あの、その……」


 特別、と言う言葉に反応したのかレンは頬をますます紅潮させた。何度も「いえ、あの」と言う言葉を繰り返す。そうして、気持を落ち着かせる為か小さく息を吸い、「おれは」と、唇から言葉を紡いでいった。


「おれは、マスターが、……その」
「んー?」
「マスターが、…………マスターは、おれのこと」


 がなんですか。レンは言いにくそうに何やら呟き、恥ずかしそうに瞳を伏せる。


「マスターは……、その、おれのことを、……好きですか……」


 若干、最後らへん声が小さかったけれど聞きとれた。
 ほのかに頬が赤くなってしまったのはしょうがない。こういうことを訊かれるのは初めてだ。……好きかー。それは好きに決まっている。


「好きだよ」


 そう返すと、彼は視線を上げ、頬を緩めさせて微笑んだ。その後、「それなら、おれは特別じゃなくても良いです」と続ける。


「マスターの特別がおれじゃなくても、マスターがおれのことを、ほんの少しでも好きでいてくれたら、それで良いです」


 レンがそう言い終わると同時に、リンが「そんなの!」と腕を振り上げる。つながれていたの手、もろともに。


「わ、わたしはマスターの特別で居たいし、やっぱり好きでも居てもらいたいもん」


 リンが繋いだ手に力を込めて握る。


「……マスターはわたしのこと、好きですよね」


 マスターの特別で居たい、とか、マスターに好きでいてもらいたい、とか、なかなかに恥ずかしいセリフをこの二人はぽんぽん言うなあ……。
 まあ、答えは決まっている。だって、きっと、リンもレンも好きだし、特別だ。


「もちろん、リンもレンも好きだよ」


 そう言うと、二人は嬉しそうに微笑んだ。
 ──家まであと少しだ。


続く

二人には最初からマスターを好きになるプログラムがあります。


2008/03/29
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