あなたへ歌う 12

 (アンダンテ)


「マスター、これってなんですか」


 リンの声。先日買ったDTMの本を読んでいたは視線を上げてテレビの前に座っているリンを見た。彼女はテレビを指差しながらの方に顔を向け、怪訝そうに首を傾げる。リンの横にはレンが座って居て、彼も同様にを見ている。
 テレビに写っているのは甘そうなお菓子。どうやら料理番組が放映されているらしくて、若い女の人と男の人が作り方を説明していた。
 本を閉じる。


「料理番組だよ」
「ああ、すみません、そうじゃなくて……」


 彼女は歯がゆそうに口をもにょもにょと動かす。料理番組のことを問われているのではなければ、何を訊きたいのか──なんてことは直ぐにわかる。
 画面にうつっているお菓子、つまりはシフォンケーキのことを訊きたいのだろう。


「シフォンケーキのこと?」
「そうです、そうです、って、あ」


 画面に作り方、材料、共に名前が表示される。それを見るとリンは恥ずかしそうに頬を紅潮させて、「も、もうちょっと待てばよかったですね、すみません……」と項垂れた。
 彼女はちらりと本に視線をやって、「マスター、読書の途中……、でしたよね」と申し訳無さそうな声を出す。
 いや、別に、もうそろそろやめようかな、って思っていたころだから良いよ。と、そのまま口に出して伝える。


「……その、マスター」
「ん?」


 リンが胸の前で手を組み、恥ずかしそうに解いたり組んだりを繰り返す。
 何か言いたいことでもあるのだろうか。首を傾げると、リンは意を決したように手を拳の形にした。


「わ、わたし! お、お菓子を! マスターと、作りたい、です」


 声が最初から最後にかけて徐々に小さくなっていったのは、何故なのだろう。がほんの少し、返事をためらったからか、リンは顔の前でぶんぶんと手を振り、「や、やっぱり良いです、その、マスターも忙しそうですし……」と続けた。いや、別に忙しくないよ。
 手に持っていた本を机の上に置く。


「いいよ、つくろうか。たぶん、材料はあると思うし」
「ほ! ……本当、ですか!」


 そう答えると、リンはその場に立ちあがり、軽くはねた。踊るようなステップを踏んでへと近寄ってきて笑いを零す。……こう、そこまで喜ばれるとは。


「──嬉しいです、マスター、じゃあ、さっそく!」
「え、ちょっと待って、レシピを印刷しなきゃ──」
「マスター」


 レシピを印刷しなくては、わからない。そう言った思いで発した言葉がレンに遮られた。レンはをじっと見据えると、「おれが」と続けた。おれ、が?


「わかっています」
「わたしも、わたしもちゃんと今さっきの作り方、覚えています!」


 リンが勢いよく挙手をして、その直後に頬を緩ませた。


「だから、印刷しなくても、他にも本とか見なくても、大丈夫です」


 彼女は嬉しそうに、そう続けた。



 ──と言うことで、料理は順調に進んだ。簡単、っていうか、なんていうか。リンとレンが逐一、どうすれば良いかを教えてくれるので、てきぱきと進めることが出来た。
 シフォンケーキを焼く型も一応あったので、それに入れて──あらかじめ余熱をしておいたオーブンへセットし、あとは焼きあがるのを待つだけだ。


「じゃあ、リビングで焼きあがるのを待ってようか」
「はい、マスター!」


 リンは今、エプロンを着ている。彼女の服は、最初に着ていた服、いわゆるセーラー服しかないので、汚れたらちょっと……と言うことで着せたのだ。……そろそろ、本気で二人の服を買いにいかなければ、なんて思う。
 彼女は声を弾ませて返事をすると、リビングへとの手を取って駆けていく。テレビの前に座り、嬉しそうに、にこにこと笑みを浮かべて、口を開いた。


「マスター、楽しみですね!」
「うん、そうだねえ」


 続いて、レンが台所からとことこと歩いてきての横に座った。テレビの電源をつける。ちょうど、お昼時だったからか、昼ドラが画面に浮かぶ。リンが僅かに「……これ、楽しくないです」と言って、リモコンを取り違う画面に変える。お笑い番組に変わった。


「……リンはドロドロしたのが嫌いなんだよね、どうして?」
「……き、らい……」


 リンが目をぱちくりとさせる。ああ、嫌いっていうのは負の感情になるのだろうか。だとしたらリンがわかるはずもない。それなら、どう言えば良いのだろう。
 首を傾げると、リンは何度か「きらい」と言う言葉をたどたどしく繰り返した後、「きらい、じゃなくて」と続けた。


「楽しくないです。面白くないです。なんだか、見ていると変な感じがします……。人と人との恋愛って、ああいうのじゃ無いですよね、もっとキラキラしていて、優しくて、あったかくて……。レンもそう思うでしょ?」
「……おれは──」


 レンがゆっくりとリンに視線を向ける。彼は考えるような様子を見せた後、をちらりと見た。


「……マスターはどう思いますか」
「えええ……。そ、そうだね……」


 最近、恋愛について質問されることが多いような……。
 ……恋愛が、キラキラしていて優しくて、あったかくて、かあ。まあ、そうなのかもしれないね。


「うん、まあ、リンと同じ意見ということで……。でも、恋愛は良いことばっかじゃないよ」
「?」


 二人が同時に首を傾げる。それに苦笑を零しながら、言葉を続けた。


「だって、実るとは限らないからね」


 よいしょ、なんて言って立ち上がる。リンとレンが視線を上げ、異口同音に「マスター」とを呼んだ。
 ──焼きあがるのをただ待つ、というのも味気ない。どうせならジュースとか何かも作れば楽しいのでは無いだろうか。
 軽く頷く。うん、きっとケーキに合うだろう。そうときまれば、ミキサーを取らなければならない。確か、ミキサーは前に使った後、箱に入れて冷蔵庫の上に置いたはず。きっと、背伸びをしても届かないだろう。椅子を使うのが一番良い方法、のはず。
 椅子を持ってくる。それに乗ろうとした瞬間、腕を掴まれた。


「マスター、何をする気ですか」
「……え? いや、ミキサーを取るつもりなんだけれど」


 見ると、リンとレンがそばに立っていた。あれ、テレビ見ていれば良かったのに。
 レンが僅かに眉をひそめる。の腕を持った手に力がこもったのがわかった。彼は細く息を吐くと、「おれが、やります」と言い、「転んだりしたら、危ないですから」と続けた。
 転ぶなんて……。それは、むしろよりリンやレンの方が転びそうな感じが、という言葉は心の奥に潜めておく。
 彼はを心配して、自分からやってくれると言うのだ。だったら、その言葉に甘えるべきだろう。


「じゃあ、レン、お願いするね」


 彼にそう頼み、椅子から離れる。レンは「はい。……おれが、転ぶと危ないので離れていて下さいね」とだけ答えた。転ぶって、むしろ転びそうになったら受け止める勢いで行きたいのだけれどなぁ、なんて思いながらも彼の忠告に従って離れる。彼は椅子の上に登り、冷蔵庫の上に置いてあるミキサーを取った。


「あ、ありがとう」
「いえ……、マスター」
「ずるーい、レンばっかり。わたしもやりたかったー」


 リンが微かに頬を膨らませてそんなことを言う。微笑ましい。ふっと笑みを浮かべようとした瞬間、だろうか。
 レンが椅子から降りようとして──バランスを崩したのだろう、滑った。
 椅子のクッション部にかけた足が滑り、レンは大きくバランスをくずした。背中から台所の床へと落ちる。背中が床に打ちつけられたのだろう、がごん、と鈍い音が響いた。反動で体が弓なりに軋む。頭が床へと叩きつけられる。音が鳴る。


「──え」


 再度、背中が床に打ちつけられ、鈍い音が響いた。呆然とした声が無意識のうちに出る。……何が、起こったのだろうか。彼の手からミキサーの箱が落ちる。音が反響する。
 レンは落ちた格好のまま動かない。リンが「レン? 大丈夫?」と驚いたかのような声を出す。え、え、え、レンが落ちて──動か、ない?


「れ、レン!」


 一瞬遅れて状況を理解し、レンに駆け寄る。彼の瞳は見開かれていて、正直、背筋が粟立つのを感じた。ど、どうしよう、どうしよう、ミキサーを取ることを任せなければ良かった。
 涙が出そうになる。というか、視界が滲んできた。
 頭の中を寿命、という文字がちらちらと掠める。説明書に書かれていた。暴力をふるってはいけないと。直接暴力をふるってはないものの、落ちた衝撃はそれの何倍にもなるだろう。
 彼の体を抱き起こす。レンの瞳の奥で何かしらがちかちかと光った。


「レン──」


 彼の頬に涙が一滴落ちた。それは頬を伝い、彼の顎まで落ちていく。ぽたり、と服に染みを残す。


「な、どうしよう、どうしよう、リン……」


 リンへと視線を向ける。彼女は困ったような表情で「わたしにも、わかりません……、ただ、凄い衝撃だと思うので、何かしらが壊れてしまったかも」と絶望的な台詞を呟くように吐いた。
 レンの肩を凄い勢いで揺する。力の入っていない首が揺れにつれてがくがくと動いた。


「ど、どうしよう……レン、レン」


 涙がとめどなく溢れてくる。どうしよう、レンは、大丈夫なのだろうか。こういうとき、どうすれば良いのだろう。説明書には、こういうときの対処方法は書かれていなかった。絶望的だ。
 レン、と呟く。かすれた声が出た。瞬間──、彼は何事か、言葉を発した。何かは良くわからないけれど、多分、解除、みたいな言葉を呟いていたと思う。彼の優しげな元気のある声ではなく、無感情の機械的な音声で。
 瞳に色が返ってくる。レンは頭を右手で擦ると、と視線を合わせた。途端、頬を赤くする。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、「え、ま、マスター」と恥ずかしそうにの腕の中から出て行こうと身をよじった。


「レン……」


 ──起きた。意識を取り戻した。良かった。本当に、なんだろう、直感的にもう動かないと、そう思ったのだ。ほっと安堵の息を漏らすと、彼はの腕から逃れ、視線を合わせてきた。彼は半ば狼狽したような表情を浮かべて、のまなじりにそっと手を伸ばす。


「なにを泣いているんですか、マスター」


 もう動かないと思ったんだよ、なんて、声に出して言う。若干ビブラートが、かかったように震えた。涙がとめどなく溢れてきて、拭っても拭っても止まらない。
 レンは小さく息を吐くと、腕にあるハンドウォーマーのような物での涙を拭うように頬に当て、ごしごしと擦った。
 いきなりのことに驚く。彼はそっと腕を離すと、軽く微笑んだ。


「マスターが泣いていると、おれ──」


 彼の視線がから外れ、床に向けられる。彼はそっと苦笑を零すと、言葉を続けた。


「──悲しい、です」
「え……」


 悲しい、って。……え?
 僅かに疑問が浮かぶ。説明書には書かれていた、はずだ。ボーカロイドに負の感情は無いと。それなのに、彼は、今、なんて。悲しいというのは、負の感情では無いのだろうか。
 視線を合わせる。彼は微かにまなじりを下げて微笑むと、椅子を持って何処かへと行ってしまった。おぼろげに、椅子を戻しに行ったのだろうな、なんて考える。
 考えた通りだったようで、レンはすぐに小走りで戻ってきた。「何かを、作るんですよね」とミキサーの箱を持ち上げ、台所の台に置く。

 リンが訝しげな表情と声音で「レン?」と彼の名前を呼ぶ。彼はリンへと視線を向けると、「……なんだよ」と、なんだか不貞腐れたような、もしくは、なんだか嫌そうな、そんな声を出した。
 思わず体がびくりと震える。リンはの指先をそっと掴むと、「ううん、なんでも……データに破損は無いよね」と恐る恐る問い掛けた。
 レンは小さく首を傾げると、「……無い」と呟き、「データ破損は無い、外傷は軽微、神経伝達系統に損傷は無い」と早口に続けた。

 ……なんだろう、なんだか変な感じがする。気づかれない様に首を傾げた。リンは小さく息を漏らし、「それなら、良いや」と続けた。


「でも、何かしら変な所があったらマスターに言いなさいよね。レンが損傷したらマスターに迷惑が、かかるんだから」
「分かってる」


 もう良いから、なんて言う雰囲気が言外に溢れ出ていた。リンは小さく「それなら……良いのよ」と囁くように言う。握られた指先にほんの少しだけ力が込められた。
 彼女も何か違うと思ったのだろうか。レンの態度に対して、リンは唇を軽く尖らせて、不満そうな表情を浮かべている。

 なんだか、違う。引っかかる部分があるのだ。
 レンの性格が──有り得ないことだけれど、短時間の間に、少し、変わったような気がする。
 
 でも、その突っかかりがなぜ存在するのかが、よくわからない。──レンがミキサーを取り出し、に「どうするんですか、マスター」と問い掛けてくる。


「……あ、……ごめん、そうだね」
「……?」


 彼はかすかに首を傾げた。……どうしよう、さっきの出来事のショックの大きさのせいか、ミキサーで何を作ろうかと考えていたことが、全て頭の外へと出て行ってしまったのだ。


「……それは、また、今度、にするよ」
「そうですか」


 ほのかに寂しさをにじませた様子と声で、レンは肩を落とした。その後、「それなら」と続ける。


「これ、しまいますか」
「え、や、ごめん、出しておいて」
「わかりました」


 レンは小さく頷くと、ミキサーにかけていた手を離す。その後、オーブンを見つめた。すっと視線が下に落とされ、彼は小さく言葉を呟く。


「……シフォンケーキ、まだまだ出来そうにありませんね」
「え、ああ、うん、まだまだ時間かかるね」


 後、何十分かはかかるだろう。レンはふっと頬を和らげ、に顔を向ける。


「じゃあ、マスター、おれの歌を聞いてくれませんか」
「……え」


 レンが自分から歌を聞いてくれ、なんて言うのは初めてだ。彼はに近寄ってくると、頬を朱に染めて、嬉しそうに笑った。


「おれ、きっと、上手に歌えます。──前より、ずっとずっと」
「え……そ、そう?」
「はい。そんな気がするんです。だから、マスター」


 聴いてください。
 そう言うと、レンは小さく歌を口ずさみ始めた。この前、入力した──「旅立ちの日に」を。
 ──彼の歌声は、彼の言うとおり、前より、ずっとずっと、違っていた。 上手になった、そうなのかもしれない。前の歌声が未来への希望へ溢れていて、優しさに包まれたような曲だとしたら、彼が今、曲に込めている感情は、間違いもない、悲愴だったから。
 リンが楽しそうに「あ、わたしも!」なんて言い、レンの音に自身の音を乗せ始める。

 ──悲しみ、というのは負の感情に入らないのだろうか。よくわからないものの、レンがちゃんといつものレンであることに安堵して、そういう小さなことは余り気に止まらなかった。突っかかりも、いつのまにやら、何処かへと消え去っていた。
 二人が歌い終わる。途端、二人してキラキラと輝くような瞳を向けてくるものだから、思わず笑ってしまった。上手だったよ、と言うと、レンは嬉しそうに微笑み、リンはその場でジャンプしてみせ喜びを体で表現した。
 その時、オーブンがケーキを焼き終えたことを告げる音が鳴った。リンが「ケーキ!」と一言、オーブンの方へと走って行った。とレンもそのあとを続く。

 ケーキはちゃんと焼けていた。柔らかそうに膨らんでいて、美味しそうな匂いもしている。
 リンが焼きあがったケーキを見て歓声を上げる。の腕をぐいぐいと引っ張り「おいしそうですね、マスター! 食べますか、食べますか、食べますかっ」と言葉を弾ませた。
 三回も言った。……それはまあ置いといて、焼きあがった直後に食べたら、きっと舌を火傷するだろう。


「ちょっとだけ冷ましてから、ね」
「わかりました! うわあ、楽しみだなあ、きっと、いえ、絶対においしいですよ!」
「……うん、そうだね。きっとおいしいよ」


 彼女の笑みにほっとする。何故、どうしてほっとするのかはわからないものの──、柔らかな微笑みが、を癒してくれたのは事実だ。
 そっとリンの頭に手を乗せる。すると、もう片方の手が、頼りなく引っ張られた。レンだ。
 見ると、彼は恥ずかしげに顔を俯かせた。それに何故か変な安心感を覚えつつ、彼の手を握り返す。するとレンは顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。


 →続く

中途半端な所で切ります。このまま書いていったら一万文字になってしまう……(´・ω・`)

2008/4/3
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