あなたへ歌う 13
 (脈打つ胸に秘めた望み)


 頭を打って以来、なのかもしれない。レンはとても表情豊かになった。リン同様、笑う。凄く嬉しそうに、何度も何度も。が話し掛けると、頬を紅潮させて、花のつぼみが開くような、柔らかい笑みを浮かべる。
 それに──どこか、暗い表情を見せるようになった。がリンと話していると、それが如実に表れる。じっと、とリンを、見つめてくるのだ。何の感情も宿らせない瞳で。
 それが悪いことだとは思わないけれど、多分、うん、多少──怖かった。


「マスター、今日はどういうことするんですかー」


 そんなことを考えつつ、色々とネットサーフィンをしていると、右横に居るリンがパソコン前で座っているの手をそっと取り、言葉を発した。左横にはレンが居る。彼も小さく息を漏らし、「俺も知りたいです」とリンの言葉を続けるように言う。
 今日、すること。は軽く笑みを浮かべて、「今日はね」と言葉を続けた。


「J-POPを歌って貰おうかなー、って思ってるよ」
「うわあ、ど、どういうのですか!? わたし、楽しみです!」


 リンは歓声を上げ、万歳をし、嬉しさを表した。頬が微かに紅潮していて、桃みたいだと思う。触ったら、きっとぷにぷにとした弾力を持っているだろう、多分。
 彼女はの肩を掴んで、左右に揺らした。


「マスター、ねえ、じゃあ、早くしましょうよー」
「あ、あはは、うん、ちょっと待ってー」


 リンの、彼女らしいじゃれ方に思わず笑みが浮かぶ。可愛らしくて、微笑ましい。率直に愛情を表現してくれるのは、される側からしてみても、本当に嬉しいものだ。
 肩に置かれた手に自身の手を重ねる。


「じゃあ、今日はリンから調律しよっかー」


 冗談交じりに発した言葉に、彼女は揺するのをピタリと止め、歓喜に満ちた声を出した。


「本当ですか! やったあ、わたし、マスターに調律されるの、大好きです」
「そう? もリンを調律するの、大好きだよー」


 そう言うと、真っ赤に頬を紅潮させ、リンはいじらしく「わわ、両想いですね!」とはにかんだ。両想い。そう言われるとそうなのかもしれない。微かに笑う。
 柔らかな金糸のような髪が、リンの挙動一つに連れて、揺れる。そういえば、と彼女のヘアピンに手を伸ばした。僅かに疑問をはらんだ声で「マスター?」と呼ばれる。


「どうしたんですか」
「んー、ヘアピン、これっていっつも一緒だよね」
「ああ、はい。そうですね……」


 リンの声が僅かに小さくなる。どうしたのだろうか。彼女は微かに息を漏らすと、ヘアピンに自身の手を伸ばした。オレンジ色の爪先がの指に触れ、さっと離される。


「ごめんなさい、刺しちゃいましたね。大丈夫ですか、マスター」
「刺し……大丈夫だよ」


 そう言うと彼女は爪先をいじくり、「やっぱ切った方が良いですよね」と嘆息を漏らす。そんなことはない。彼女の爪はそれはもう綺麗に手入れされている感が濃くしているし、第一、リンやレンは成長しない。それはつまり、細胞が成長しないということなのだけれど……ということは、爪を切ったらずっとその切ったままのサイズになってしまう。髪の毛だってそうだ。切っても、人間のように伸びることはないだろう。
 やめときなよ、と言って彼女の手をそっと取る。リンはますます頬を紅潮させると、マスター、と若干かすれた声で呟いた。


「リンの爪──っていうか、手、全体かな。綺麗なんだから。切ったらもったいないし、刺さっても無いから、そんなに気にしないでね」
「……はい」


 リンが微かに微笑を浮かべ、頷く。さあ、それじゃあ、調律しようかな。見ていたサイトを消し、はリンの首元にケーブルを刺した。でっぱりを取ることに、最近はもうなれてしまった。すっと取ることが出来る。
 途端に画面に現れる調律画面。レンに視線を向ける。まだ、だけではわからない。手伝ってもらおうと思ったのだ。


「レン」
「…………」


 名前を呼ぶ。彼は無言で、デスクトップを見つめていた。写っているのはリンの調律画面だというのに、どうしたのだろう。もう一度、声を強めて名前を呼ぶ。
 彼の視線がゆるゆると画面からに向かう。深海のような色の瞳が瞬きを繰り返し、彼は悲しそうに眉の形を変えた。


「……ど、して……」
「え?」


 レンは顔を俯かせると、やわやわと頭を振った。どして。どうして、という意味だろうか。僅かに首をかしげる。どうして、と言われても、何が、としか答え様が無い。
 レン、ともう一度呼びかけ、彼の肩に手を置く。微かに体をびくりとさせると、彼はもう一度、「……ど、うして」と呟いた。


「何が、どうしてなの?」


 リンもレンの行動が不思議なのだろうか。「レン」、と柔らかく彼女は名前を呼んだ。レンはそれに無言で返すと、ゆるやかに顔を上げる。その後、小さく「いえ、なんでもないです」と息を吐くように続け、「リンの調律ですよね、手伝わせてください」と言って画面へと視線を向かわせた。
 ……なんでもない、多いなあ。

 ただ、詮索してもきっと答えは教えてくれないだろうから、訊かないでおこう。
 もパソコン画面へと視線をやる。

 ──歌わせる歌はの好きな曲だ。ぜひとも、快活な声で二人に歌ってもらいたい、と思った曲。歌詞は暗記しているので、入力に困ることはなかった。ただ、音程が、良くわからなくて、度々レンの前で歌っては「それはこの音です」やら「それはこの音だと思います」と音を教えてもらっていた。本当に助かる。一人だったら何も出来なかっただろう。

 彼に何度目かの音を教えて貰った後、「ごめんね、ありがとう」と感謝を述べた。彼は驚いたように、ほんの少しだけ瞳を見開いた後、ゆるゆると顔を下げ、「いえ」と呟いた。髪の隙間から覗く頬の色は赤い。それに多少、笑みを零しつつ、彼の頭に手をやった。


「ありがと、本当に助かるよ」


 二度目。優しくレンの頭を撫でると、彼は、の手にそっと自身のそれを重ね、力強く握ってきた。


「──マスター」
「ん?」
「……おれ」


 そこまで言って、彼は言葉を止める。思案するように、何かに抗うように、眉をひそめ、小さく息を吐き出す。


「──やっぱり、良いです」
「良いの?」
「はい」


 何で、と純粋な疑問から訊く。すると彼は微かに顔をしかめ、「おれの」と苦々しげに言葉を続ける。


「……わがままだからです」
「わがまま?」


 はたして、わがままというのはどういう物なのだろう。普通に“アレが欲しいー!”とかそういう類、つまりは駄々をこねる系統のわがままなのだろうか。僅かに首を傾げると、レンは細く息を吐き、「だから」と続けた。


「良いです」


 それっきり、レンは前を向いたかと思うと「調律を続けましょう、マスター」と早口に言う。
 レンのわがまま、かあ。言ってくれたらいいのに、とは思うものの、彼が自分から言うことを拒否したので、そこまで強要することもできない。
 は心の中で溜息をつくと、リンの調律に向かった。


 リンの調律は、かなりてこずった。何故か変な風にビブラートがかるところや、テンポが速かったりするところが、あったからだ。今まではこのように手こずることなんて、あまり無かったというのに。
 彼女の調教を終えた頃にはもう夜で、そろそろ夕飯を作らなければならないという時間だった。彼女の調律のデータを保存し、席を立つ。と、同時に、レンがの服の裾を引っ張ってきた。

 彼は眉を八の字にして、僅かに掠れた声を出した。


「おれの、調律は……?」
「……ごめん、今日はもう、時間が、ね。また明日で良いかな。早朝にやってあげるから、さ」


 そう言うと、彼は僅かに瞳を揺らすと、小さく言葉を紡がせた。


「……や、だ……」


 え、と驚いてしまう。レンは裾を持った手の力をゆるゆると緩め、ぽすりと椅子の上に落とした。その後、顔を俯かせ、ゆるゆると頭を振る。
 いや、かあ……。でも、どうしよう、夕飯は買って済ませるべきなのだろうか。昨日の残りもあるし、それをレンジでチンすれば良いか。
 調律し始めると、やはり夢中になるからなのか、時間が過ぎていくのをあまり気に止められない。リンの調律もだいぶ手こずったので、きっとレンのも手こずりそうな、そんな予感がする。
 今からやり始めたら、徹夜することは必至だろう。けれど、彼の微かな声、それに含められた懇願するような響き。それを無下にするなんて、出来ない。

 心の中でため息を吐き、上げていた腰を再び椅子に戻す。レンが驚いたような表情を浮かべた。


「マスター?」
「んー? じゃあ、レンの調律、しようか」
「……え……」


 リンの首からケーブルを取り、彼に手渡す。彼は信じられない、と言ったような表情でとケーブルを交互に見た後、そっとケーブルをパソコン前に置く。そうして、ゆるやかに頭を振り、「……良いです」と続ける。


「……なんで? 別に良いよ、。ご飯とかも、昨日の残りとか、あるし」
「だって、マスターに迷惑がかかっちゃいます。そしたら、マスター、おれのこと」


 そこまで言って、レンは続きの言葉を飲み込んだ。マスター、おれのこと。その続きに来る言葉は考えれば安易にわかった。つまりは──嫌わないか、心配しているのだろう。
 嫌うわけがないと言うのに。そのような願いを、彼は“わがまま”だからと言う理由で自身の胸の奥深くに潜ませてしまうのだろうか。わがままくらい、いくらでも言えば良いのになあ。
 彼の頭に乗せていた手を離し、僅かに苦笑を零す。


「嫌わないよ。前にも言ったよね」
「……マスター」
「レンが嫌なら強制はしないけれど」
「そ、そんなこと!」


 レンは珍しく声を荒げると、の腕をぎゅっと掴んだ。


「マスターが、その、良いなら……。調律、してください」


 彼は頬を赤く染めて、真摯な瞳でを見つめてきた。
 もちろん、良い。頷くと、彼はすぐさまにケーブルを取り、自身の首裏につけようとして──、何故かを見てきた。青い瞳が揺れる。……見るなってこと、なのだろうか。
 レンから視線を外して後ろに向く。その通りだったようで、後ろへ向いた瞬間、ケーブルを結合させる、かち、という音がほのかに耳朶を打った。
 振り向く。彼は何故か、酷く恥ずかしそうにしていた。

 ──どうしてか、レンはにケーブルを刺す場面を見られたくないようだ。よくわからないけれど、まあ、うん、思春期だし、と言う理由で片づけておく。

 ぱっと調律画面が画面に映し出される。今日は徹夜になるかもしれない、なんて一人、頭の片隅で考えつつ、は音を入力しはじめた。

 調律している最中、レンはモニタを見ながら、度々、にすまなさそうに「すみません、マスター」と言ってきた。すみません、って、そんなの気にしなくて良いのに。が好きでやっていることなのだから。
 彼の頭を軽く叩いて、「良いから」と返す。すると、その度にレンは優しげに笑みを浮かべ、「……ありがとうございます、マスター」と言葉を弾ませた。
 ──ちなみに、リンはレンの調律が終わった頃に、眠ってしまった。「マスター、わたし、そろそろ寝ますね。じゃないと、充電が……」と言って。……スリープモードになったというべきなのかもしれない。

 調律が完全に終わったのは、深夜を回った頃、だった。最後らへんは眠気に押されながらやっていた為か、なんかもうおかしくなった気がしてならない。リンに教えて貰いながらやったというものの、僅かに不安が混じるのは、そのせいなのだろう。

 調律が終わった途端、レンはケーブルを素早い手つきで、さっと外すとから離れて、軽く歌い始めた。ボーイ・ソプラノの声が彼の口から溢れ始める。歌詞が音に乗り、まで届いてくる。一番を歌うと、レンは嬉しそうにはにかんだ。
 喜んで貰えたようだ。それなら、何よりなのだけれど。は冷蔵庫へ向かうと、夕飯──というよりは、夜食──を作り始めた。といっても、昨日の残りを温め、テーブルに並べるだけなのだけれど。
 箸を使いそれを口に運んでいく。あー、美味しい。至高の時間だ。何度も噛み、飲み下す。それを食べ進めと少し経った頃、の横にレンがいそいそとやってきて、座った。
 テーブルに並べられた料理を見て、へと視線を向ける。彼は僅かに疑問をはらんだ声で、「美味しいですか」と問い掛けてきた。
 自画自賛のようだけれど、美味しい。空腹に勝る調味料はありません。美味しいよ、と返す。すると、レンは意を決したような表情と声で、「なら」と言葉を続けた。


「マスター、おれも食べてみたいです」
「……え」
「駄目ですか」


 首を傾げ、レンはそう問う。そんな、駄目なことはないものの、今まで頑なにご飯を食べることを拒否していたのに、どうして、という気持ちが生まれる。


「べ、つにいいけれど……どうして?」
「……リンも食べているし、それに、マスターが美味しそうに食べるから、おれも食べてみたいと思いました」
「そ、っか……」


 なら、箸を持ってこなければいけない。それに、小分け用の皿も。そんなことを思って立ち上がると、彼は焦ったようにの手を取り、「マスター、おれ、一口で良いです」と早口に告げる。
 ゆるゆると椅子に腰を下ろし、確認するように「一口?」と尋ねる。レンは頷き、「良いですか」と問いかけてくる。


「うん、良いよ。じゃあ、お箸を取ってくるね」
「……ま、すたー」
「ん?」


 席を立つと、またもや引きとめられた。彼は言いにくそうに何か口ごもり、ごにょごにょと言葉を発する。どうしたのだろうか。
 レンは逡巡するかのように瞳をうろうろとさせて、頬を赤らめた。


「……その、一口だけだから」
「ん?」
「新しくお箸を使うと、洗いものが増えちゃいますし」
「うん」


 ……なんとなく、彼の言わんとする言葉がわかったかもしれない。もしかして、もしかして。


のお箸で食べたいの?」


 からかい混じりに訊くと、レンは頬をますます赤くさせた。リンゴみたいだと頭の片隅で思う。
 彼は顔を僅かに俯かせると、「え、あ、……そ、そういう、ええと……」と口ごもる。あ、かわいいなあ。なんていうか、いじりたくなるのはしょうがないだろう。
 おかずをお箸で摘み、彼の目の前に突きつける。レンは驚いたように身をすくませると、「ま、マスター?」と戸惑いが混じった声でを呼んだ。


「ほら、食べさせてあげるよ」
「……え、な、何言って、マスター」


 彼は体の前で手を振ると、恥ずかしそうに言う。
 それにほんの少し苦笑を零し、「冗談だよ。洗いものが増えるとか、そういうのは考えなくていいよ、別に。新しいお箸持ってくるね」と言って立ち上がり、箸を取ってくる。割りばししかなかったけれど、ここは我慢してもらうしかない。
 レンに箸を手渡す。彼は小さくため息を漏らすと、それを受け取った。ん? 割りばし、嫌だったのだろうか。


「割りばし、嫌だったかな。ごめん、そう言うのしか無くて」
「そ、そんなことはないです、ただ……」


 そこまで言って、レンはもう一度溜息を吐いた。なんだろう、なんだか彼は気落ちしている、ような気がする。
 気付かれないように首を傾げつつ、は再度おかずに手をつけ始める。彼も割りばしを音をたてて割り、小さく「いただきます」と言ってからおかずに手をつけはじめた。口に含み、そしゃくを繰り返し、飲み込む。その一連の動作を、横目で追ってしまったのは、やっぱり反応が気になるから、っていうのが一番の理由だ。
 彼は小さく息を吐くと、「……美味しいですね、すごく」とに視線を向けて微笑みを浮かべる。

 お世辞だろう。間違いもなく。ただ、どうしてだろう、嬉しかった。レンにつられるように笑みを浮かべて、「ありがとう」と感謝を述べる。
 彼は割りばしを置くと、「ごちそうさま、でした」と言い、に視線を向けてくる。

 ……ご飯を食べている場面を凝視されるというのは、なんていうか、嫌って言うか、困惑するというか。は箸を置き、彼に視線を向ける。蒼の瞳と目があった。


「……マスター」
「なにかな」
「おれ、今度から、ご飯、食べたいです」
「……え、あ、うん」


 どうぞお好きに、と心の中で続ける。でも、


「前まで食べなかったのに、それは、どうして?」
「あ、……ええと……、その」


 彼は困ったように瞳を軽く伏せて、「近づきたい、からです」と続けた。


「誰に?」


 問いかける。すると彼は伏せた瞳を上げて真摯な瞳でを見据えると、口を開いた。


「……マスター、──あなたに」


続く

ムソルグスキー 歌曲「日の光もなく」第一番「周囲を壁に囲まれて」より、ウィキペディアの歌詞大意から。

2008/04/06
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