あなたへ歌う 17 (誰かがわかってくれたら) 昨日、家へ帰ってきたときからおかしいとは感じていた。変化を感じたのは真夜中だった。寝ぐるしく、どうしようもなく咳が出る。布団から這うように出て、二人に気づかれないように自分の部屋へと戻り、体温計で体温を測って、がくぜんとした。 平常時の体温より、二度も高い。──は、どうやら風邪をひいてしまったようだった。 そりゃあ、そうなのかもしれない。今日は、雨にレンと二人して降られたわけなのだから、少しは体調が悪くなるのもわかる。だからって、まさか、風邪をひくなんて。そこまで体弱かったかな、。 ……レンが知ったら、自分のせいだと思うかもしれない。バレないようにしなければ。 こほ、と咳が出る。明日の朝には治ってればいいのに。台所へ向かい、手探りで風邪薬を探し口に含む。またもや咳が出る。呼吸をするたび、ひゅー、という音が混じる。 台所から出て、二人の眠っている布団に視線を巡らせる。……二人にうつるとは思わないけれど……。小さく息を吐き、は自分の部屋に歩を進めた。自分の部屋で、寝よう。 次の日、朝。カーテンを通して柔らかな光が降り注いでくる。状況は、悪化していた。辛い。昨日よりも、かなり。 体に力を入れ、上半身を起き上がらせようとするものの、どうにも動くことが出来ない。どんだけ。頭痛がする。これはアレか。風邪を本格的にひいちゃったわけですね、は。 おぼつかない思考。布団を顔の上までたくしあげた途端、喉に何ともいえないつっかえを感じて、咳を零す。すると、せきを切ったように止まらなくなった。こほ、と言う声がひどくなっていく。やばいやばいやばい、辛い。呼吸が満足に出来ない。胸のあたりに手を当て、咳を繰り返す。つ、つら、つらい……。 リビングのある方向からリンの声が響いて伝わってきた。「マスター?」と、疑問を込めた響き。それと同時に、部屋に近付いてくる音。控えめな音を出し、ドアが開いた。咳は止まらない。 「マスター、どうしてこっちで寝て……、……マスター?」 あああヤバイ、ヤバイ、これ以上咳が続いたら胃の内容物が飛び出るって。胸に当てた手に力を込める。リンが近づいてきて、布団をめくった。朝の光が差し込んでくる。 「ま、マスター、大丈夫ですか」 「大丈夫、大丈夫だから」 咳を止めるように努める。少しずつだけれど、収まってきた。小さく息を吐き、リンの問いかけに返す。 リンは微かに息を吐いた後、の頬に手を当てた。とたん、「……熱が、ありますね」と息に音を乗せたような声で、呟く。 彼女の手がそっとの肩に触れる。 「大丈夫ですか? 風邪ですよね……眠った方がいいですよ、マスター」 彼女は優しくの肩をさすった後、布団を被せてくれた。 「ごめ、ありがとう……」 「マスター」 お礼を述べると、彼女は優しくを呼ぶ。そのあと、おでこに手を当てて小さく「お休みなさい」と呟いた。 それに掠れた声でお礼を告げると、は瞼を閉じた。 昨日の夜、帰ってきたときのリンの慌てようはすごいものだった。とレンの濡れすぼった姿を見て、彼女は開口一番、「マスタああああ!」と叫び、風呂場へと向かいタオルを取ってきたのだ。あのときの表情は忘れない、彼女はたしかに、泣きそうな表情を浮かべていた。濡れた瞳でを見て、次いでレンを見て、「な、何をしてたんですか、二人とも……」と、震えた声で呟いたのだ。 そのあと、体をタオルで拭いたとレンはお風呂に入った。順番に。レンを先に入らせ、次にが入る。夕飯はリンとで作った。その時から、微かに咳が出ていたなあとぼんやりと思う。そのあと、布団に入り就寝。深夜に目が覚めた。発熱。今、現在、ナウで死にそう。 呼吸をするのもおっくうだ。風邪っていうのは他人にうつせば治るというけれど、それは絶対にないと思う。っていうか、他人に風邪をうつしてまで治りたくはない。 こほ、と咳を零すと同時に意識が覚醒する。いつのまにか眠っていたのだろうか。重い目蓋を持ち上げて、先ほどまでリンが居た場所に視線を移す。居ない。代わりにレンが座っていた。 と視線が合うと、悲しそうに眉をひそめ、目をそらす。無言。レンは小さく唇を開くと、呟いた。 「ごめんなさい……、すみません……」 「……なんで?」 「おれが昨日、外に行ったから、マスターのこと考えなかったから、マスターが」 きゅっと唇を結ぶと、彼は瞳から涙をあふれさせた。慌てたようにそれを拭う。 「──マスターが、風邪に、なって」 声が裏返っていた。彼は顔を覆うと、呼吸を繰り返す。 「レンのせいじゃ、ないよ」 すべてはの体調管理の不十分さからのものだろう。重たい腕を持ち上げ、レンの頭を撫でる。彼は顔を覆っていた手をどけて、を見る。瞳からは涙が伝っていた。 ……泣きやすい子だ。 「レン」 「……おれが、代われたら良いのに」 「何を」 風邪のせいか、舌が回らない。 「風邪です。マスターが苦しむもの全て、おれが代われたら良いのに」 「何言って」 「マスターが苦しむ姿を見るのは、いやだ。しかも、それがおれのせいだから、おれ」 自分が、いやです。そう続けて、レンは又もや瞳から涙を零した。こんなに泣いて、大丈夫なのかと思う。 彼はなんだ、こう、自己犠牲の精神でも持っているのだろうか。軽く苦笑をこぼして、体を持ち上げる。上半身を起こすと、彼は驚いたように「マスター」とを呼んだ。 「大丈夫だから、明日になったら治るよ、きっと。だからレンのせいじゃない」 「──マスター」 彼の顔がゆがむ。ああ、泣きだしてしまう。咄嗟に彼の体を引いて、抱きしめる。彼は驚いたように体を震わせた。背中をゆっくりと撫でる。背筋に手を這わせると、レンは細く息を吐いた。 背中を撫でながら、リンはどこに行ったのだろう、なんて考える。……台所のある方向から、微かに軽い足音が聞こえてくるから、台所に居るのだろうか。 「レンは自分が嫌なの?」 「……だって、おれは……」 「はレンのこと、好きだよ。大好き」 レンの体が震える。彼と同じくらい、リンのことも好きなのだけれど言ったらきっと悲しそうな表情を浮かべるだろうから、何も言わないでおく。 「おれにとって、マスターは一番なんです──」 レンが、微かに呟く。一番とは、どういう意味なのだろう。 「マスターは、おれにとっての世界で、おれにはマスターしか居ません。リンだって、マスターが一番だと考えていると思います」 レンがやわやわとの背中に手を回してきた。やさしく抱きしめられる。 「でも、マスターにとっての世界はおれじゃ無い。マスターの目の前にはいつだって無限の可能性が広がっていて、何をすることも選べられる。何をしたって自由です」 「──」 「マスターのことが、とてもとても、大切、です。失いたくありません」 レンの手に力がこもる。彼は小さく息を漏らすと、続けた。「好きです」 「だから、いつか──、そう、いつか。マスターに好きな人が、出来るまで──」 レンが顔を上げて、と視線を合わせてきた。視線が揺れている。 「おれは、あなたの為に、あなただけへ、歌います。──それしか、おれには出来ないから」 彼は濡れた瞳でを見て、微かに首をかしげる。 「ダメ、ですか?」 「そんなことない、嬉しいよ」 笑みを漏らすと、彼は頬を緩ませて、優しく微笑んだ。 「──マスター、大好きです」 「うん」 そろそろ、上半身を起き上がらせているのがつらくなってきた。彼の背中にまわしていた手の力をゆるゆるとやわらげる。すると、レンも同様に、の体に回していた手の力を少しずつ弱くした。体を横にする。 小さく息を吐く。レンが微かに姿勢を崩し、に顔を近づけてきた。 「本当に大丈夫、ですか」 「大丈夫だよ。ただ、ちょっと眠たいかな……」 「……そうですか、じゃあ──」 レンがそっと笑う。それを見て、は目蓋をとじた。深海に沈んでいくような心地が体を包む。 「おやすみ、なさい──」 そっと頬に触れたものは、なんだったのか確認する前に、の意識は落ちた。 →続く 次が最後です。 2008/04/19 |