あなたへ歌う 06
 (あなたの声に聞き入る時)


 ──目覚めたのは、リンとレンの歌声のせい、だろう。優しく耳朶を打つ歌声。リンが歌い、少し遅れてレンが続く。いわゆる、輪唱を彼らはやっていた。瞼を開く。彼らの姿が見えた。
 壁によりかかるようにして、二人で楽しげに口を動かしている。
 布団から起き上がると、二人は歌を止めた。リンが「マスター、おはようございます!」と元気な声を出す。


「おはよう……。それにしても、なんで今日は……」
「えへ。今日はね、マスターを歌声で起こそうかなあって思ったんです」


 それで輪唱を、とリンは笑みを浮かべる。二人が輪唱していた歌。それは、この前──三日前に入力した、かえるの歌だった。レンがに近付き、視線を合わせるように座りこむ。そうして、微かに瞳を揺らし、「……耳障りだったなら、すみません」と言葉を発する。
 そんなことはない。というか耳障りとか。

 頭を勢いよく振り、「そんなことないよ!」と言って、「綺麗だったしね、こんな風に起こしてくれるのは嬉しいなあ」と笑みを浮かべる。すると、彼はふっと瞳の色を和らげ、「それなら、良かったです」と言葉を小さな音に乗せて紡いだ。

 リンが、「ねね、マスター! わたし、ちょっとだけ、この歌……上手になった気がします!」と言う。上手……それはどういう意味での上手なのだろう。へえ、と言葉を漏らすと「ね、聞いて! 聞いてくださいー!」と勢いよく抱きつかれた。
 うん、聞いてみたい。お願いできるかな、と頼む。するとリンはから体を離し、「もちろんです!」と言葉を良い、その場で息を吸う。

 唇から流れ出るのは、前に聞いた歌だ。というか、今までの人生で、何十、もしくは何百回も聞いた曲。それでも、なぜか新しさを感じるのは──なにかが違うからだろう。前に訊いた時や、昔聞いた時とは違う。なんていうか……優しい感じがする。
 リンは歌い終わると同時に「どうでしたか」と首を傾げた。


「良い感じだったよ」


 なんと表現すれば良いのかがわからなくて、簡単で月並みの言葉になってしまった。それでも、リンは嬉しそうに頬を赤く染め、「えへ。マスターのおかげです」と言う。
 の、おかげ。……どこらへんが、なのだろうか。昨日、公園につれていった事と何か関係があるのかな、なんて思う。心の中で首をかしげつつ、笑った。


「んー、今日は頑張ってみようかな」
「え! ま、マスター、もしかして……!」


 リンが瞳をきらきらとさせる。レンが、に視線を向けてくる。……うん、たぶん、考えている通りだよ。はやくはやく続きを、と言う風にリンがの寝間着を引っ張る。わずかに苦笑をもらしながら、は口を開いた。


「次の曲、打ち込もうかー」
「わああ、やったあああ!」


 リンが両手をあげ、万歳のポーズを取る。そこまで嬉しいのか、とわずかに微笑ましさを感じる。彼女はそのままのポーズで「え、え、何をですか、今回は何を教えてくれるんですか」と興奮冷めやらぬ様子で言葉を続けた。


「そうだね……。うーん……」
「わ、わたし、合唱曲でも、オペラでも何でも歌いますよ! 演歌でも良いです」
「合唱曲、かあ。あ、良いね、それ。じゃあ、レンは低音でリンは高音かな」
「うわああ、マスター、うわ、うわあ嬉しいです!」


 マスター、ありがとうございます! そう続けてリンはに抱きついてきた。彼女の髪が揺れるにつれ、僅かに甘い香りが鼻腔をつく。
 たぶん、合唱曲ぐらいなら、家の中を捜せば楽譜ぐらいは見つかるのではないだろうか。旋律もつけられたらいいのだけれど、まだDTMについては良くわかっていない。だから、アカペラで歌ってもらう他、無いだろう。いつか、そういう打ち込み系のソフトも必要になるのかな……。

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、リンの背中を軽く叩く。やっぱり今回も調律するのはリンからの方がいいのかも知れない。高温だし。きっと簡単だ。
歌わせる歌は何にしよう。やっぱりここはメジャーに、「旅立ちの時」もしくは「旅立ちの日に」だろうか。「Believe」も良いだろうけれど、英語の歌詞があるし……。どっちにしよう。どっちが簡単だろう。というか……考えてみれば、合唱曲って簡単なのだろうか、という疑問が浮かぶ。難しそうな感じがする。かえるの歌がレベル一だとしたら、合唱曲はレベル五十くらいだろうか。

 ……なんだか、色々と考えていると、正直「もっと簡単な曲にしようかな……」と言う思いが湧いてくる。合唱曲、止めて違うやつに……。なんて言えばいいかな、なんて思いつつ、ふとレンにちらりと視線を向けた。交わる。彼はの手に自身の手をそっと絡ませ、軽く力を入れて握り、僅かに目を伏せた。


「……レン?」
「おれ、──おれ──」


 何かを言い、開きかけた唇は、しかし次の瞬間には閉ざされた。不思議に思う。彼は小さく唇を開き、息を吐き出す。そうして言葉を続けた。


「──今回は、マスター、おれかリンか、どっちから歌わせるんですか」
「え? えー、えっと、やっぱリンかなあ」


 主旋律だし。簡単そうだし。そう言う思いは胸に秘めておく。
 彼はの言葉を聞くと同時に、小さく息を詰まらせ、数秒後「そう、ですか」と手を離した。何故かはわからないけれど、弱々しい声だった。それを困惑に思いながら、「……レン、先が良いの?」と問いかける。彼はと視線を合わせるが、直ぐに逸らし、「いえ、別に」と言葉を続ける。
 別に、……かあ。何か、嘘のような気がしたものの、リンがの首を絞める勢いで「マスター、はやく、はやく!」と抱きしめた手に力を込めながら言葉を発するので、きちんと問うことはできなかった。


 寝間着から普段着へと着替え、はさっそくリンの調律に取り掛かった。歌わせるのは、「旅立ちの日に」。卒業式ソングの定番だと、思う。これは混声三部合唱の曲だ。リンにはソプラノ、レンには低いけれどテノールを歌ってもらう。アルトは……、残念ながらの家にはボカロが二人しか居ないので、歌う人物は居ない、だから無しにした。
 一音、一音、「かえるの歌」同様、レンに教えてもらいながら打っていく。途中からリンは鼻歌でがつづる音を紡いでいった。
 サビの部分は高い。リンの声が大きすぎるようにならせないために、微微調整をしていたからか、正直疲れた。サビを入れ終えた後、ふう、と息をつく。レンが「マスター」とを呼んだ。


「少し、休んだらどうですか」
「んー……でも、もう少しだし……、うん、頑張るよ」
「……そうですか」


 わずかに残念そうな声だと感じた。彼はに向けていた視線をパソコン画面へと戻す。
 ……あ、そういえば。レン、と名前を呼ぶ。彼は再度、に瞳を向けた。


のこと、知りたいって言ってたよね」
「はい」
「んじゃー、何を教えようかー。あ、まず、好きなものから、かな!」


 覚えていてくれたんですか、とレンは小さな声で呟いた。そりゃあそうですよ。昨日言ったばっかりじゃないですか。というかレンの初めてのお願いなのだ。忘れるわけがない。
 好きなものを言う。レンはそれをオウム返しに繰り返した。


「──好きなものの次は、何が良いかな。やっぱり趣味?」
「なんでも、マスターのことなら聞きたいです」


 ぽちぽちとマウスで調律をしつつ、言葉を発する。なんでも、かあ。だとしたらやっぱり誕生日、生まれた年、それに何型何座、趣味特技、最近はまっていること、とか教えるべきなのかな。
 ぽつぽつとそれらを順々に教えつつ、リンの調律を進ませていく。んあ、ここの部分の調律、これで良いのかなあ……。ぐう、難しい……。


「んー……。こんな感じかな。あとは、何か聞きたいこと、ある?」


 しゃべり終え、尋ねる。ちなみにリンの調律は最後の音に差し掛かっていた。これで良いのかな、難しいなあ……。
 レンが、小さく「マスターの」と言葉をもらす。


「んー?」
「マスターの、名前──」


 そこまで言って、レンは言葉を止めた。手の先を唇に当て、小さく「わ、すれてください……」と呟く。あ、名前、言ってなかったっけ。そうだね、人と人とのふれあいで一番大切なことを忘れていた。口を開く。


の名前はね」
「マスター、いいです、すみません、出すぎたことを言いました、忘れてください」


 超絶拒否られた。思わず唖然としてしまうのも無理はないと思う。レンが、所在無さ気に視線を床へ向け、「すみません、本当にすみま、せん……」と蚊の鳴くような声で続ける。
 ……何が彼をここまで。心の中で首をかしげつつ、「あ、え、良いよ、別に。気にしないでね」と頭を優しく撫でる。金糸のような、柔らかな手触りの髪。彼は夜の空のような美しい瞳でを見た。


「マスター」


 恐る恐る発せられた言葉に笑みを浮かべる。大丈夫だよ、気にしないでね、と言う風に。レンは、ほっとしたのか小さく息を吐いた。
 ──何故ここまでの名前を聞くことに彼が拒否を示したのかはわからないけれど、まあ、何かがあるのだろう。訊いても栓なきことだ。はそれきり口を閉ざし、リンの調律に没頭することにした。

 最後の一音を入れ終える。すると同時に顔を俯かせていたリンがマスター、もう良いよね、という瞳でを見てきた。


「リン、良いよ」
「やったあー! ねねね、マスター、コード外してくれませんか」


 リンがに首筋を見せる。白磁のような肌からのぞく黒いコード。それを優しく取り、肌をかちり、と音を立てはめる。彼女は笑みを見せ、歌い始めた。パソコンの横で。前は部屋の真ん中だったのに、と僅かに考える。

 彼女の優しげな声が紡ぐのは、卒業式によく流れる曲だ。何度聞いても飽きないのは、名曲だから、なのだろう。学校での生活が収縮されたような、優しく、明るい──未来への希望にあふれた歌だ。
 彼女はそれを楽しげに歌う。声を弾ませて、とても楽しそうに。ある意味、良い解釈なのかもしれないなあ、と思った。

 歌い終わるとリンはを見て、ほのかに頬を染めた。口を開く。


「リン、上手だったよ」
「本当!? やったああ! ねね、マスター、気にいった?」


 僅かにリンは姿勢を低くし、上目づかいでに問いかけてくる。かわいいなあ……妹になって欲しい。切実に。
 気にいったよー、と頬をゆるませる。すると彼女はとても嬉しそうな表情と声で「良かった」と呟いた。頬が紅潮しているのは、興奮の表れだろう。

 微笑ましく思った、その時。軽く服を引っ張られた。見ると、レンがの服の袖を持っている。と視線を合わせると、「マスター」と吐く息に音を乗せたような、小さな声で呟いた。


「じゃあ、レン、はじめよっかー」
「……はい」


 それから、はレンをリンに教えられつつ、少しずつ少しずつ調律していった。途中、お腹が鳴ったのはしょうがない。人間だもの。……何を言っているのだろう。まあ、とにかく。途中、休憩を挟んだりお昼御飯を食べつつ、は調律をしていった。
 調律が完全に終わったのは、夕方頃だった。
 レンが瞳を向けてくる。歌っても良いよ。そう言うと、彼は首の後ろに手をあて、USBコードを抜き、自分で皮膚をはめていた。その後、リンと、交互に視線を向け、唇を小さく開いた。


 テノールっていうのは難しいものだと思う。正直、これを歌った当時、男子はよく音を外していた。上手い人も居たけれど。それなのに、彼は、──レンは、音を外さず、力強い歌声を出す。ボーカロイドだから、それはそうでしょ、と言われたらそれまでなのだけれど。ほんの少し言葉が聞き取りにくかったので、そこら辺はまた、考慮しなくちゃいけないだろう。
 二番目を歌いだす。と同時に、リンが音を乗せ始めた。驚いてリンを見る。レンも驚いたのか、僅かに目を見開いていた。

 重なる音。重なる声。重なる、歌。とても綺麗だった。弾むようなリンの音色と、力強いレンの音色はとても良くあっていた。流石、としか言いようがない。口を開いて唖然としていると、歌い終わったのか二人は口を閉ざした。そのあと、リンが「マスターも」と言って、もう一度歌いだす。時折、重心がずれるかのように震える声を、レンがしっかりと支えるように歌声を響かせた。

 マスターも、って……。どういう。歌えってことか。そうなのか。え、でも……。リンが誘うように瞳をに向ける。口は動いたままだ。軽やかに流れるメロディ、音を乗せた歌詞。いや、……普通に、きっと二人に比べれば下手だし……。
 レンが僅かに服を引っ張る。歌うのを止め、彼はしっかりと声に出した。


「マスターも、歌いましょう」


 ……腹を括るしか無いのかもしれない。小さく息を吸うと、は、リンのフレーズに乗せて小さく声を出し始めた。
 リンが笑い、レンが微笑む。

 重なる三つの音に、三つの声色。正直、下手……だろう、たぶん、は。自重せよ! とか言われても仕方がない。けれど。
 なぜか、すごく楽しい。歌い終わると、リンがすごい勢いでに抱きついてきた。おおう。


「マスターの声、大好きです! 一緒に歌えて、嬉しいなあ」


 えへへ、と笑いをこぼしながら紡がれる言葉に、少なからずきゅんとしてしまった。
 嬉しい。レンが「マスター……その、とても、良かったと思います」と僅かに頬をゆるめる。


「ありがとう。けれど……ええと、やっぱり、音を外してたりしてた、よね。ごめん」
「そんなこと。マスター、知っていますか」


 苦笑交じりに言葉を発すると、リンが驚いたような表情を見せ、言葉を続けた。
 頬をゆるませ、眼尻を垂らし、柔らかな声音で。


「音楽って、音を楽しむためにあるんです。マスターが楽しく感じたなら、音を外したって良いんですよ!」


 にっこりと、リンは笑みを浮かべる。……楽しかったら良い、か。まあ、その通りなのだろう。
 それに、と彼女は言葉を続けた。


「わたし、マスターの声が好きなんです。またいつか、一緒に歌ってくれますか」


 ……こう、面と向かって言われると非常に照れる。赤く染まった頬の熱を冷ますために、手を当てた。返事は、決まっている。


「もちろん。リンとレンが良いならね」
「良いに決まってます、マスター、ありがとうございます!」
「……、その、ありがとうございます」


 お礼を言いたいのはこっちの方だと、はかすかに笑みを浮かべた。



続く




2008/3/19

inserted by FC2 system