あなたへ歌う 08



「あああ! マスターの、爪!」


 次の日の朝、絹を裂くような悲鳴が耳をつき、は飛び起きた。なに、なにがあったの。周りを見渡す。すると、リンがを指さしている姿が目に入った。リンのつんざくような悲鳴で何かを感じ取ったのか、横で寝ていたレンがむくりと起き上がり、に「おはようございます、マスター」と頭を下げる。……や、こちらこそおはよう。
 リンはパソコンの傍に居た。きっと、充電が終わったのだろう、ついさっき。彼女は首につけていたケーブルを引きちぎる勢いで取り、「マスター、の、爪、誰が、だれ、誰が!」と近づいてくる。や、誰って、レンだけれど。その旨を伝えると、リンは一際、大きな声で「ええええ!」と叫んだ。ちょ、朝から、叫ぶのは近所迷惑だから、リン!

 彼女は「なんでえええ」と、若干声を震わせての手を取った。そして、美しく白い指の先での爪を撫でる。何度も、何度も。その後、「わ、わたし、が……」と小さくと息を零すような声音で、言葉を続けた。


「わ、わたしが、やりたかったのにぃ」
「あ、っと……そうなの?」
「そうですよう、マニキュア、わたし、塗るの得意なんですよ。それなのに、レン、ひどいよ……」


 リンがじろりと視線をレンに向ける。レンはそんな視線を向けられるのかが何故なのか、わからないのだろう。小さく首を傾げると、の手を取り、力を加えた。


「ううう……。……次にやるときは、わたしにやらせてくださいね、マスター」
「え」
「だって、レンだけ、ずるいです! わたしだってマスターにぬーりーたーいーー!」


 リンは頬を膨らませて、爪を触っていた指を離した。いや、は良いのだけれど……。レンにそっと視線をやる。彼は、もう片方の手での寝間着を引っ張り、「──おれが」と言葉を発した。リンが私に向けていた青空色の瞳をレンへと移す。


「おれがやる。これから、マスターの爪を塗るのは」
「ええ! な、なんでよ!」
「昨日、言ったんだよ」


 レンはそう続け、の手を少しだけ力を込めて握る。ほんの少し、不服そうな感情が溢れたような声だった。


「ううう……。だって、わたしのほうが得意じゃない、こういうの」
「リンが出来るんだから、おれだって出来る」
「出来ないわよ、わたしのはプログラムされてるけれど、レンにはプログラムされてないもん」


 リンはそこまで続けると、だから、と笑みを浮かべた。


「今度からは、わたしがやるね」


 レンが手に力を込めたのがわかった。彼は一瞬息を吸い、小さく言葉を続けた。


「いやだ」


 リンが驚いたような表情を浮かべる。拒絶の言葉を発せられたのが、意外だったのかもしれない。そのあと、彼女は「……だったら、かわりばんこは? だめ?」と言い、頬をふくらませた。
 レンは一瞬、をちらりと見たかと思うと「……別に、良いけれど」という言葉を発した。とたん、リンは花が咲くような笑みを浮かべ、


「やったー! じゃあ次はわたしね、わたし! えへ、えへへ、マスター、わたし、上手なんだよ!」
「そっか。ありがとう、楽しみにしてるね」


 抱きついてきた。くふ、とか変な声が口から出たのは、彼女の抱きついてくる勢いが強かったからだ。白いリボンが動くたびにゆらゆらと揺れる。それにふと笑みをこぼしつつ彼女の黄金色の頭を撫でていると、ふっと片方の手から温かみが消えた。レンの手が離れたのだと、理解するのは早かった。
 どうしたの、と言う風に視線を送る。彼は立ち上がりから数歩離れ、力が抜けたように座りこむ。その後、リンをじっと見つめて言葉を発した。


「マスター、……」
「ん」


 レンはゆるゆるとリンに向けていた視線を上げる。と視線が合う。彼の瞳が、わずかに揺れた。
 そのあと、何が起こったのかよくわからない、と言うように視線を下げ、手を胸に当てている。首を傾げた。

 どうしたのだろう。本気で。……レンやリンが来てからというもの、は疑問ばかり持っているような気がする。
 彼はわずかに瞳を伏せた。長い睫毛が淡い影を頬に落としている。その後、映えるような青い瞳でを見つめ、「なんでもありません」と小さな音に乗せ、呟いた。
 いや、なんでもありませんって多いね、レン。心の中でそんなことを考えつつ、は彼の名前を呼んだ。レンは数歩離れた距離を近め、「なんですか、マスター」と言葉を紡ぐ。


「なんでもないなら良いけれど、何かあったらきちんと言ってね」
「…………」


 レンの、太陽のような色の髪を持つ頭に手を乗せる。彼は怪訝そうな表情を浮かべ、を見た。それに多少苦いものが混じった笑みを浮かべつつ、は言葉を続ける。


「心配だから、さ」


 軽く撫でて、手を離す。そのあと、は立ち上がりテレビの電源をつけにいった。リンが抱きついてくるので、引きずりながら。彼女はの服に顔を埋め、嬉しそうに「えへ」と言う言葉を繰り返している。
 テレビの電源ボタンを押す。ブウン、だかそんな感じの変な音がしてテレビに映像があらわれた。ニュースキャスターがの地域の天気予報を伝えている。
 それをあまり見ず、は洗面所に向かった。歯を磨くためだ。ハブラシを手に取り、口内を洗浄するべく動かす。うがいをするにはリンが多少邪魔なので、僅かに体を離した。


「マスター」


 リンがを呼ぶ。その時、は歯磨きを終えて顔を洗っていた。ん、とか変な声を出し、顔を拭く。寝間着が引っ張られた。


「マスター、今日はどこかへ行くの?」
「え、あ、ああ、うん。今日はちょっと用事があるんだよね。なんでわかったの?」
「ううん、……えーと」


 問いかけると、彼女は首をかしげ、何度も唸る。そうして頬を掻きながら、「なんとなく」と続けた。
 そう、今日はちょっとした用事がある。買って四日目で留守番のようなものをしてもらうのは、少々、心苦しいけれど、しょうがない。前々からの用事だったのだ。
 リンは、の返答を聞くと同時にしょんぼりとした表情を浮かべ、「ということは、今日はマスター」と言い、一息つく。それから、言いにくそうに「うーん」とか「ええと」と言葉を続け、「……今日は、何もしないんですか」と言った。

 そうだなあ、朝から夕方くらいまで出かけるから、何もしない、というか出来ない。するとしても夜になる。それもあんまり遅くまでは出来ない。次の日に支障が出るし……。そんな言葉は口には出さないけれど。
 頷くと、彼女は見る間に落ち込んだ。


「えええ、……マスターの用事なら仕方無いですけれど」
「ごめんね。又、明日は何かが出来ると思うから」


 そう言って、苦笑を浮かべる。するとリンは頬を膨らませながらも、しぶしぶ承知してくれたようで、「……はあい、約束ですからね!」と小指を向けてきた。これは、指切りをしろと言うことなのだろうか。
 小さい頃によくやったなあ、なんて思いながら、は小指をリンと絡ませ、指切りをした。彼女はそれで満足したようで、腰に手を当て、輝くような笑みを一つ零した。


「えへ。楽しみです」
も」


 彼女の笑みに、つられて笑みを浮かべながら、は洗面所から出た。途端、レンとぶつかりそうになる。彼はいつのまにやら、洗面所の前で待機していたようだった。驚きで変な声が出そうになる。が、なんとかして抑え込む。

 レンは「マスター」と言葉を紡ぎ、首を傾げた。


「マスターの今日、行くところはどこですか?」


 レンの言葉に、場所の名前を答える。すると、彼は一瞬だけ黙り込み、「その地域は、朝はくもり昼もくもり、夜は雨になっていました」と言葉を発した。天気予報を見ていてくれたらしい。


「ありがとう、助かるよ」
「傘を持っていった方が良いと思います」


 レンがそう言って、を見据える。傘、かあ。まあ、でも、夜からって言ってるし、大丈夫でしょう、きっと。


「きっと大丈夫だよ、でもありがとう」
「……はい」


 言葉を返すと、彼は頷いた。が、すぐにマスターは、と言葉を続ける。


「そこにずっと居ますか」
「え? あ、ああ、うん、居ると思うよ」


 生返事をし、は寝間着から服に着替えるために自分の部屋へと入った。リンとレンは、の部屋には絶対に入ってこない。何故かはわからないけれども。何か、線引きでもあるのだろうか、なんて思う。
 部屋で寝間着から服に着替え、用意をし、靴を履く。そのあと、二人に向かって「いってきます!」と言い、家から出た。二人の「いってらっしゃい」と言う言葉を背中に聞きながら。



 *



 用事が終わったのは、夕方をちょっとすぎたくらいだった。空はどんよりとした暗い色の雲に覆われ、ぽつりぽつりと斜線のようなものが地面に向かって叩きつけられるかのような勢いで降っている。まあつまりは雨が降っている。

 ……アホか。レンの忠告を聞いておくのだった、という思いが頭を掠める。用事があった場所が屋内で良かった、と思う。屋外だったらある意味死んでいた。雨に濡れるのは嫌だー。
 溜息を吐く。用事と言っても、友達と会って話をするだけだったのだ。飲食店で。友達はもう帰ったが、は雨の中、帰れずに居る。窓際の席だったので、外の様子を伺うことが出来たのが幸いだったのだろうか。一寸の間もなく、地面に叩きつけられている水の粒。雨はまだまだ止みそうにない。

 ──タクシーでも呼ぼうかな。いやでも、タクシー最近、料金高いからなあ……。でも。
 脳裏に二人の顔が過ぎる。リンとレン。二人は、大丈夫だろうか。きっと、ちゃんと留守番をしてくれているだろう。の帰りを待ちながら。
 そう考えると、早く帰らなければ、なんて思う。……しょうがない、タクシーを呼ぼう。

 会計を済ませ、は店の外に出る。ちょうど、店の屋根が突き出た所で小さく息をつくのと、同時。


「マスター!」


 聞きなれた声。聞こえた方向へと視線を向けると、レンが傘をさして走ってきた。の目の前で止まる。え──、なんで、レンが。


「え。なんで、レン」
「──雨が」


 降ってきたから。小さく呟くように続けて、レンはと視線を合わせる。僅かに暗い青の瞳と、視線が交わる。


「マスター、傘を……」
「レン、なんで」


 声が震えてしまった。驚きと、焦りと、なにかしらわからない物で胸が満たされる。レンは、怪訝そうに表情を歪めた。
 彼の頬は雨のしずくで濡れていた。見ると、靴なんてビショビショだ。走ってきたのだろうか、なんて思う。肩も僅かに湿っている。
 カバンからハンカチを取り出し、彼の頬に当て、しずくを拭う。


「……マスター?」
「……ごめん、なんでもない。ありがとうね」


 濡れた頬を拭い、髪の毛についたしずくを取る。──肩の部分はどうしようもない。


「いえ」
「……どうしてここがわかったの?」
「マスターが朝、教えてくれました」


 行く場所を。そう言うと、レンは「来たら、駄目でしたか」と首をかしげた。そんなことはない、むしろ助かっている。


「……マスター、傘を」


 レンがずいとさしていた傘をに差し出す。それを受け取ると、彼は僅かに微笑んだ。
 ん。あれ、でも、傘って、一本なの? 首を傾げると、彼は「おれは濡れても大丈夫です」と言い、屋根のある場所から出る。とたん、彼を襲う幾千の雨粒。
 あせって、驚いて、咄嗟にはレンの手を取り近くに寄せる。彼は抵抗もなくに寄りかかり、「……マスター」と語尾を上げた。


「ちょ、あ、焦ったから……!」
「どうして、ですか」
「どうして、って」


 レンがそっとから離れる。その離れた距離の分だけ詰めると、雨をふさぐものが傘以外になくなったようで、ぽんぽん、と言う傘が雨を弾く音だけが響いた。


「濡れたら駄目だよ」


 彼の肩を取り、近くに寄せる。こうでもしないと、レンは傘から出て行きそうだ。『おれは大丈夫です』なんて言って。
 ひとり分の傘は二人が入るには少々苦しく、肩に雨粒がぽつりぽつりと跡をのこした。歩き出す。


「マスター」
「ん」


 レンがそっとの傘を持った手に、自身のそれを重ねてきた。ぎゅっと握る。


「……どうしたの」
「──リンは、家に居ます」


 雨が降っていると、なんだか全ての視界がにじむような、変な感じがする。傘が雨をはじく音も、雨が道路へと落ちる音しか聞こえないような。喧騒がどこかへと行ってしまったような。……そんなことは無いのだけれど。
 レンは言葉を続けた。


「雨が降ったとたん」


 彼はそこで一息ついて、言いにくそうに言葉を続けた。


「──マスターのことが、気になりました」
?」
「傘を持っていないから」


 レンの声が優しく耳朶を打つ。


「気づいたら、部屋を飛び出していました」
「え」


 衝撃的発言だ。部屋を飛び出していましたって。どういう意味、っていうかえ? 聞き間違い?
 思わず唖然としてしまう。レンはを見ると、軽く頬を染めて言葉を続ける。


「マスターの行く場所を内蔵されているプログラムから探し出して、地図を呼び起こして、捜しました」
「内蔵?」
「はい。たぶん、マスターの言うインターネットのようなものに近いです」


 信号につかまってしまった。歩を止める。


「マスターの姿は、すぐに見つかりました」
「そうなの?」
「マスターの姿が──」


 レンが口を噤む。信号が赤から青に変わる。歩を進め出す。
 の姿が、何なのだろう。レンの答えを待つべく、は口を閉ざしていた。彼は数歩、歩いた後、わずかに口を開いた。


「──よく、わかりません。ですが、マスターの姿は、すぐに見つかりました」


 そこまで行って、レンは多分、と言葉を続けた。


「おれ、マスターだけは、どんな人ごみの中でも、どんなに遠くに居ても──見つけられます。……見つけます」


 ほんの少しだけ誇らしげな声、だと思った。それに笑みをこぼすと、彼は「マスターは」と言葉を続けた。


「おれがたくさん居ても、おれを見つけだしてくれますか」


 先ほどの声とは違い、僅かに震えていた。彼は歩を止め、を見つめる。不安そうに瞳を揺らしながら。
 ──おれが、たくさん居ても、って……。レンがいっぱい、居るってことか。どういう意味なのかはよく分からない。雑踏の中だったら、リンもレンも見つけ出す自信はあるものの、レンが一杯居るなか……って。見つけ出すのは難しい、ような。
 小さく息を漏らす。うん、でも、きっと。


「うん、見つけ出すよ」
「──マスター」


 そう言うと、彼は嬉しそうに頬を赤に染め、小指をに向ける。
 ……リンに続いて、レンもか。小さく、気づかれないように笑みを浮かべつつ、小指を絡めた。
 指切りをする。

 彼は僅かに笑い「──約束です」と、柔らかな声音で呟いた。


「きっと、……きっと、約束です」



続く

次はお風呂イベン(ry

2008/03/23
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