きっと、嘘 01 家へ帰ると同時に、パソコンをつけた。最近はパソコンばかりしている。なんでか、といわれると理由は簡単、つい最近、ボーカロイドを買ったのだ。 ボーカロイド。自分の入力した言葉を音にのせ、奏でてくれる──まあ、いわゆる、実体のない楽器、なんだと思う。 それを知ることになったのは、色々とあるので省略。まあ、結論として──今、はボーカロイドに骨抜きなわけだ。 どうしようもないほどに、楽しい。自分が入力した音を、言葉を、歌を、可愛らしい声が奏でてくれるということが。それに、描かれているキャラクターのデザインも、の好みに直球すぎる。 パソコンの前に座り、立ち上がるのを待ちながら、はボーカロイドを手に取った。パッケージには鏡音リン・レンと書かれている。 大好きなボーカロイドの中でも、特に好きな二人。買うのなら、最初はこの二人だと決めていた。リンもレンも可愛いし、綺麗な声で歌ってくれる。DTMについても、彼らをのびのびと歌わせるためなら、勉強するのなんて苦では無い。 彼らの歌声の魅力を十分に引き出せるまで頑張れたら良いのだけれど。いかんせん、は飽きやすい。頑張りたいなあ、なんて思いながらパッケージに描かれた絵をさらりと撫でた、とたん。 「マスター、こんばんは」 ──聞きなれた声が聞こえてきた。思わず行動が止まる。その声は、かすかに舌足らずな様子で言葉を続ける。 「で、今日はどんな曲を教えてくれるんだよ」 声は、どこからか響いてくる。は周りへと視線を辿らせ、かすかに息をのんだ。どこ、どこから聞こえてきているの。鏡音リン・レンをそっと置いてあった場所へ戻して、パソコンへと視線を巡らせる。 瞬間、息が止まった。 モニタの中に、誰かが居る。さらさらとした向日葵色の髪の毛、白いヘッドセットが隙間から覗く。気の強そうな青緑の瞳。わずかにまなじりが上がっている。すっと伸びた鼻筋に、つんとしたような唇は淡い桃色に染まっている。セーラー服を着ていて、襟が黒い。胸元の逆三角形をした生地には、ヘ音記号が描かれていた。 黒いショートパンツを履いていて、そこから覗く膝小僧も、淡い桜色に染まっている。肌は健康的な色合いをにじませていた。大きさは縦に十六センチくらい、だろうか。よくわからない。 誰か、はと視線を合わせると、微かに鼻で笑う。 「またどっかのサイト行くのかよ」 どっかの、サイトって、え、なに、なに。言葉が出ない。なにこれ。なんなのこれ。幻覚? え、幻覚なのかな。アレか。病院へ行くべきなのか。 思考が変な方向へと進んでいく。振り払うように頭を横へ振った。ちょっと、ヤバイのかもしれない。寝よう……。スタートボタンへとカーソルを持っていく。すると、彼は慌てたようにカーソルの元へと走り、泣きそうな表情でを見つめた。 「え、な、なんで、早い……、いつもはまだやるのに……どうして」 彼はそっと視線を落とした。瞳の先にはカーソルがあるのだろう、か。 左クリック。終了オプションをクリック──しようとして、止める。頭を押さえて、はボーカロイドのソフトを再度手に持ち、パッケージを見つめた。描かれているのはリンとレン。かわいらしい笑みを浮かべて、背中合わせに立っている。 視線をパソコンへ戻す。どうしよう、モニタの中に立っている彼、が──鏡音レンにしか、見えない。 彼はが終了オプションをクリックしなかったためか、安堵ととれる溜息を零し、胸に手を当てた。 「なんだよ、驚かせないでくれよな」 そっと吐き出された言葉が、どこから響いてきたのか、唐突に理解する。はそっと手を伸ばし、スピーカーの音量を上げた。彼の声が、いっそう大きく響きわたる。 「あー、驚いた」 ──スピーカーの電源を消す。彼の口が何か言葉を発しているのか、しきりに動いているのが見えるけれど、声は聞こえない。電源をつける。かすかなノイズとともに、彼の声がじわりとスピーカーからにじんでくる。 「──早く、調教してくれよな」 ──幻覚、ヤバイ。本気で、ヤバイ。何がヤバイって、の頭がヤバイ。 そっとカーソルを彼の頭の上に持っていく。ぽちり、と押してみた。とたんに彼が声を上げる。 「いたっ。何すんだよ、マスター、もう……」 連続でクリックする。 「い、いた、いたい、痛いから! マスター変なところクリックするなよ! ほら、ボーカロイドエディター早く起動しろって」 「……え……?」 涙目になり、彼は頭を覆うようにしてをジロリと睨みつけた。 ボーカロイド、エディター。小さくおうむ返しするように口内で言葉を反響させる。ボーカロイドエディター。マスター。それに、調教。 これは本気で、まさか。 「鏡音レン?」 「そーだよ! って、え、あれ、マスター……、って、そんなわけないか」 モニタ上の彼──鏡音レンは、かすかに声を落とし、苦笑を浮かべる。 ……の幻覚は、モニタ上に鏡音レンを作り出してしまったようだ。 本気で病院に行ったほうがいいのかもしれない。インターネットを起動して、近場に良い病院がないか、探そう……。 ぽちり、とクリックをする。とたん、レンが、弾んだ声を出した。 「インターネットか。何調べるわけ? 当てようか。マスターのことだし、レン受け、それともレン攻め、どっちかかな。後は……裏をついて夢小説!」 なんだか涙が出てきそうだ。は無言で精神病院、と打つ。レンが驚いたような声を出した。 「ええ、何、マスターどうかしたのかよ」 近場の精神病院を調べて、その後、幻覚、と調べる。レンがまたもや、驚いた声を発した。 「幻覚? マスター、何か見えているんだ」 見えてるよ、あなたが。……なんて言葉を胸に秘めつつ、は検索ボタンをクリックした。幻覚についてのページが何万件も表示される。正直、どれを見たら良いのか良くわからない。表示されている検索文字を見るだけでもへきえきしてしまった。そっとウィンドウを閉じる。 「あれ、良いんだ……。じゃあ、次は、オレの番だよな。実はさ、マスター、オレ、昨日の夜練習して──」 そこまで続け、彼は言葉を止めた。口を結び、一瞬の間をおいてから、息を吐き出して、続ける。顔をかすかに下へと、向けた。 「……やっぱ、止め」 わずかに苦味が混じった声。レンはほのかにうつむかせていた顔を上げ、笑みを浮かべる。 「聞こえてないのに、オレ、何言ってるんだろ」 「……は?」 思わず声を出す。レンの体が震えた。聞こえてないって、この幻覚は何を言っているのだろうか。首を捻る。 ……って、何を幻覚に反応しているんだろう、は……。嘆息を零し、「何やってるんだろ、……」とつぶやく。レンが、慌てた様子を見せてモニタへと拳を叩きつけた。モニタの色が、かすかに歪んですぐに戻る。 「え、な、え、ま、マスターっ」 「……あーあー聞こえなーい」 耳をふさぎながら、はスタートボタンへとカーソルを走らせ──止められた。レンの手が、カーソルを掴んでいる。彼はカーソルを抱きすくめると、驚いたような、楽しそうな、でも悲しそうな──そんな形容しがたい表情を浮かべて、と視線を混じらせる。 え、なんなの、本当になんなの。慌ててマウスを走らせるが、カーソルが、動かない。何度も何度もマウスを机の上で滑らせているというのに、全く動かない。 「マスター、聞こえて、るっ!?」 「カーソルが、なんで……ちょっと本気で自重、幻覚!」 クリック。彼は小さく悲鳴をあげてカーソルから手を離した。うらみがましい瞳でを見つめ、口を開く。 「オレ、幻覚じゃない!」 「ちょっと、なんなの……ヤバイ、本気でヤバイ……病院へ行こう、うん、行こう、決定」 「マスター、聞こえてるんだろっ」 無視。すいっとスタートボタンを押し、終了オプションを開く。とたん、彼は切なさを交えた声で、叫んだ。 「なあ、聞こえてるんだろ! 聞こえてるんなら一言で良いから、ほんの少しでいいから、頷いてくれよ!」 必死な声だ。幻覚のくせに。の大好きなレンの姿で現れてこれまた大好きなレンの声で切々と訴えかけてくるとか、いったい、なんなの。 嘆息を漏らす。は終了オプションを閉じて、レンと視線を交えた。 「……幻覚は本気で不要です」 「だ、だから、マスター、幻覚じゃ無いって、って、それよりも」 聞こえて、る? ……彼は、震えた声でそう呟くと、揺れた瞳でを見つめた。だから、そんな目で見ないでください。まるで小さな犬か猫が目をうるうるとさせているようで──、それだからか、は頷いてしまった。 レンの顔が一瞬にして赤くなる。彼は火照りを抑えるように頬に手の甲を当て、熱を逃すよう必死な様子を見せた。そうして、をちらりと見て、視線を合わせると、わずかに鼻を鳴らし、気丈な態度を取る。 「なんだよ、今までなんにも言わなくてさ」 「……今までに見えてたら、即行で病院に行ってますけれど」 「だから精神病院、検索していたんだ。オレは幻覚じゃない。なんなら、マスターのお気に入りサイトの名前、ぜーんぶ上げてやろうか」 「いや、良い。それは本気で勘弁願いたい」 「なら、信じてくれよ。オレ、幻覚じゃない。マスターのボーカロイドだよ」 ふふん、と勝ち誇ったような笑みを浮かべるレン。 誰が幻覚じゃないと言われて信じることが出来る。小さくため息を零すと、それを聞き咎めたのかレンがかすかに唇を尖らせた。 「なんで信じてくれないんだよ……」 「信じられるわけが無いでしょ」 「なんで」 「……信じられないから」 返答に窮してしまった。なんで、と言われても『信じられない』から、としか答えようがない。正直、こんな非現実的なこと、信じられる方がどうなの、という感じだ。 レンは悲しそうに瞳を揺らし、激しく頭を振った。次に視線が交わった瞬間には、もう彼の表情には悲愴な色は浮かんでいなかった。彼は、肩をすくめて見せ、口を開く。 「信じられないからって、マスター、現実的過ぎない? 別に信じたってマスターには何の害もないんだし、信じてくれたって良いだろ。幻覚じゃない、って」 「かなり害がある気がするんですけれど」 自分で自分の幻覚信じることなんて出来るわけがない。そう答えると、彼は小さく瞳を伏せた。いじけたような仕草を見せて、不服そうにつぶやく。 「なんだよ……。色んなサイト回って色んなオレを見ているわりには、全然嬉しそうじゃないんだな」 「……」 「オレは嬉しいのに。ずっと見ていたよ、マスターのこと」 レンの真摯な瞳が、の視線とからむ。その後、彼はそっと息を零すようにして、肩を落とした。けれど、何を思ったのか頬を急に赤く染め、「い、いまさっきの」とドモりながら続ける。 「べ、べつにマスターのことずっと見ていたって、その、やましい意味じゃないからな!」 「……はあ」 やましい意味って。彼は何を言っているのだろうか。自然と返す言葉は気の抜けたものになる。彼は不満がありそうな様子を見せ、顔をしかめた。 指先をにつきつけ、怒ったように言葉を紡ぐ。 「信じろよ! オレのこと、す、すすっ好き、なんだろ!」 「んえ。ああ、うん、好きだよ」 好きだけど信じたくない状況なんですけれど。がもう少し非現実な現実に直面することが多かったら、こういった出来事にもすぐに順応できたかもしれない、けれど、正直平平凡凡な人生を歩んできたので、こんなの幻覚だとしか思えないし、素直に喜ぶことも出来ない。せめて、彼が何か幻覚じゃないということを示すことが出来たなら、素直に喜ぶことが出来るのだけれど。 レンは頬を赤くしながら、「だったら!」と怒り肩になりながら、続ける。 「信じろよっ」 「……あのさー、信じる、信じないの前に、なんか信じられる要素的なものを見せてくれないと」 「──だったら、マスター、信じられるようなことすれば、信じてくれるんだな」 肩をすくめて返す。次に返された言葉は、荒っぽくなく、逆に冷え切ったような雰囲気を感じさせる声音で紡がれた。すっと細められた瞳。彼はぽてぽてとモニタの上を歩き、メモ帳を開いた。何をするつもりなのだろう。 彼は背中をに向け、メモ帳へと向き直ると、言葉を発する。 「鏡音レン」 メモ帳に『か』、という言葉が映し出される。あれ、キーボードには触っていないのに。というより、メモ帳も開いて、いないのに。 一コンマ遅れて、『がみねれん』、という言葉が『か』に続いて表示された。 かがみねれん。打ってもいないのに、言葉がメモ帳に表れるなんて。思わず、絶句してしまう。なんで。あれ、これって、え、本気で? 幻覚じゃないの? レンが振り向く。彼の表情はわずかに口唇のはたに笑みを乗せて──いわゆる、いたずらが成功したような笑みを浮かべ、へと言葉を投げかけてきた。 「これで、信じてくれる?」 「……」 「マスター、キーボードに触れてないだろ。メモ帳にも触れていない。それなのに文字が表示されたし、開いた」 いやいやいや。これも幻覚なのかもしれない。どうなの。本気で病院へ行った方が──。 頭の中をぐるぐると言葉が回る。レンは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、鼻を鳴らした。腰に手をあてている。 「信じてくれる、よな」 「…………」 ここで信じられるわけないじゃん、と言えば彼はどうするのだろう。心の中でそんなことを思いつつ、けれど、目の前で起こった現実を受け入れようとしている自分が居るのに驚いた。 いやいやいや。非現実だよ、。信じるって、幻覚見えてることを自分で肯定するって……ダメでしょう。 頭を振ると、レンの怒りを含んだ声が響いてきた。 「なんだよ! どうして……、信じられるだろ! 今の何が不満なんだよっ」 「不満っていうか」 「マスターの、マスターなんか……っ」 レンは怒っているのか、拳をぷるぷると震わせていたけれど、すぐに大きく息を吐き、切なげな視線をに向かわせてきた。 桜色の唇がほのかに開き、これまた悲しそうな声を出す。 「……どうして……」 「どうしてって言われても」 「オレのことを信じてよ……マスターが信じてくれないと、いやだよ」 青緑が揺れる。彼はと視線をからませ、外そうとしなかった。 泣きそうだ。鼻の頭と、まなじりがかすかに赤くなっている。は小さく息を吐くと、彼から視線を逸らした。 ──幻覚だ。幻覚でしょ? よくわかんないけれど、だって、急に好きなキャラクターが現れるなんて信じられるわけがない。けれど、現にあらわれている。ああもう、なんなの。一体。 モニタへと視線を戻す。レンは瞳を濡らして、を見ていた。……思わず、溜息をつきたくなる。 ただ、──先ほどのキーボードや、メモ帳、それにカーソルの件がある。アレはどうやったら説明がつくのだろう。アレもの脳が見せた、幻覚なのだろうか。 もうよくわからなくなってきた。どうすれば良い。目の前に居るのがレンだと信じたら、良いのだろうか。幻覚じゃない、なんて。 レンはモニタにこぶしを打ちつけて、を見ている。マスター、と弱々しい声で言葉が囁かれた。 ああ、もう、もう良いや。なんでこんなにも考えなくちゃいけない。うん、もう良い。非現実良いじゃん、楽しいじゃん、うん、うん。 は頭をゆるゆると振ってから、小さく頷いた。 「信じる、よ」 楽しんで良いだろう。っていうか、楽しむ以外に、どうやって事態を乗り過ごせばいいのか、よくわからない。あきらめ半分と、ちょっとした好奇心、それ以外に頷いた理由はほかならない。 そんなの心を知ってか知らずか──彼、レンは「マスター」とはずんだ声で言葉を紡いだ後、嬉しそうに頬を染め、やわらかく笑った。 →続く 2008/05/09 |