きっと、嘘 02


 レンは安堵を含んだ溜息を零した後、モニタに打ち付けていた拳を離し、腰へとあてがう。顎をつんと上げて、微かに意地悪く笑みを浮かべる。わずかに染まった頬を隠すように、彼は突き放すような声で言葉を紡いだ。


「信じてくれるんなら、良いんだけどさ。で、早く、オレを調教するんだろ」
「……えー、あー、うん。まあ、そのつもりだったんだけれど」
「……けれ、ど?」


 レンは疑問を含めた言葉を発し、首を傾げた。腰にあてた手を胸の前で組み、をじっと見つめてくる。
 なんというか、すかした態度を取るレンだなあ。心の中で嘆息を零しながら、はカーソルをレンに当てた。彼が何をするのか、とでも言うように疑問を視線に込めて、投げかけてくる。
 すっと彼からカーソルを外し、は肩をすくめてみせた。


「なんか疲れたし、まあ、明日で良いよね」
「なっ、に、言って……マスター」
「うん。じゃあお休み」


 カーソルを持って行きスタート、終了オプションを開こうとしたところでレンに止められた。彼は先ほど同様、カーソルを抱きすくめて、を見つめてくる。唇が開き、早口に言葉を続けた。


「べ、べべべ別にマスターに調教してなんかほしくないけれどオレ唄うための存在なんだから一日一回くらいは唄いたいっていうか、マスター早くエディター開けって!」
「や、だから……」


 疲れたんだってば。なんかもう、未知との遭遇、……まあつまりは今現在モニタ上に居座っているレンとの遭遇なんだけれど、非現実的なそれを理解するだけでも……なんか、体力を消耗したというか。要するに疲れたんだから早く眠りたい。
 だというのにレンはカーソルを抱きすくめたまま、頬を赤くして早口に続けた。


「マスター、調教してくれないと、ウイルス入れるぞ!」
「ははん入れてみなされよー。ウイルス対策はバッチリしてあるし、全然気にならないねっ」
「なあ、うっ……」


 絶句。レンはそういった表情を浮かべていたけれど、その次の瞬間にはを睨みつけていた。猫のような瞳がを見据える。
 わずかに揺れて、美しく色を彩るそれ。すっと視線が吸い込まれていくような感覚がして、目が離せなくなる。レンは小さく息を吐くと、続けた。


「マスター」


 懇願するような響きを含む声。レンは恥ずかしそうに頬を染めると、顔を下へと向ける。
 なんかこう捨てられた犬っていうか猫っていうか、そんな動物とレンがダブる。は嘆息を吐くと、彼の名前を呼んだ。
 はっとして顔を上げるレンに「エディター、開くから」と、ただ一言、つぶやくように言うと、彼は頬を紅潮させて喜びを隠さずに示す。
 彼は抱きすくめていたカーソルを離した。マウスをついと動かすと、カーソルも動きに乗じる。エディターを起動させる。

 歌いたいって調教って。そうだなあ、今日は何をしよう。心の中でそんなことを考えていると、レンがエディターの端っこに邪魔にならないようにかちょこんと座り、嬉しそうに鼻歌を歌った。彼のうたった歌、それは前に調教した曲だった。
 思わず凝視すると、レンはを見て不満そうな表情を浮かべた。視線が合った瞬間、すぐに逸らされる。彼はかすかに頬をふくらませて、「はやく」と催促するような声音で言葉を紡いだ。

 早くって。はマウスから手を離すと、レンに話しかけた。


「どんなのが歌いたいの、レンは」
「オレ? オレは別に……マスターの書く曲なら、なんでも……」
「ふうん」


 レンはごにょごにょと言葉を発すると、をちらりと見て、すぐに視線を逸らした。頬が赤い。彼の一挙一動にそって、髪の毛がさらさらと動いた。
 なんでもいいのか。だったら、前の曲の調教を修正したりしてでもいいのかな。ファイルを開く。前の曲の調教画面が表示された。何から修正していこうかな、なんて考えたとたん、レンが疑問をはらんだ声を出す。


「なに。調教やりなおすのかよ」
「そうだけれど……」


 素直に頷くと、レンは首を傾げた。何か言いたいことがあるのか、ごにょごにょと口を動かしたあと、小さくため息をついた。


「オレはこれで良いと思うけれど……」


 小さく紡がれた言葉に反応してしまう。本当に彼はそう思っているのだろうか。これは本当に最初に打ち込んだ曲だから稚拙も稚拙、レンの声だっていわゆるロボ声と呼ばれるようなものだ。
 かすかに首を捻ると、レンは何かに感づいたのか、はっとしたような表情を見せる。そうして、と視線を合わせると、腰に手をあて、眉尻をあげて、得意げな色で顔を彩った。彼はふん、とかすかに鼻を鳴らす。


「べ、べつに、これで良いっていうのは、そういう……変な意味じゃ、っていうかさ! マスター、全っ然、腕あがってないし、今やってもそんなに修正できないって。むしろ、どんどんこんがらがってさ、おかしくなってくと思うよ」
「……」
「っていうかさ、どうせ何処がおかしいかなんて分かってないんだろ? だったら止めといてさ、違う曲をオレに歌わせた方が建設的で良いと思うんだけど」


 早口に紡がれた言葉が、胸に突き刺さってくる。なにコレ。酷い。あまりにも酷い。好き勝手言ってさ、だってがんばってるつーの! むしろ最初よりはレベルアップしてるし! ……多分。それなのに。
 思わず顔をしかめてしまう。レンはそんなに構わず続ける。


「第一、こういうのあんまやったことないくせにさ、オレを買って……馬鹿だろ? あーあ、オレ、他のマスターのところに行ければ良かったのに……って、マスター?」


 だめだ。堪忍袋の緒が切れた。無言では新規のエディターを開き、言葉を打ち始める。レンは嬉しそうにそれを眺めていたが、の打った言葉を理解すると同時に、慌てたような声音で「マスター!」と言葉を発した。
 無視。無視ですよガン無視。このやろう。ガラスのハートを傷つけておいて今更許されると思わないで欲しい。
 ボーカロイドを買ったというのに、全くやったことがなかったことをやろう。いい機会だし、ということで打った言葉。それはまあ、つまりはもし某動画投稿サイトへ上げたなら、間違いなく作者は病気タグがつくような、そんなセリフだった。
 ベタ打ち。調教なんて知りません。言葉を打ち終わると、レンは何を思い立ったのか、勢いよく立ちあがった。一層慌てた様子を見せて、「や、ちょ、オレ、歌いたいって、マスター」とドモりながら言葉を続ける。
 彼にとって、この言葉がどれほどの羞恥になるかはしらないけれど。は、言葉を歌わせる。彼の端正な顔が恥ずかしさのせいか羞恥に染まった。わずかに開かれた唇から、言葉があふれ出てくる。


「や、……あっ、マス、タあっ、やめ、てえっ」
「うわー、やっぱロボロボしてるね。改善の余地ありですか」
「うわあああああああ!!」


 笑いながら言葉を発すると同時に、レンの絶叫が響き渡った。彼は振り向いてをきっと睨みつけ、エディターを指差した。頬がこれでもかというほどに紅潮している。
 拳を震わせながら、レンは言葉を荒げる。


「な、なに言わせるんだよ! マスター!」
「なにって……別に、普通のことでしょ。みんなやりたい卑猥言葉」
「うわあああ! 馬鹿だろおっ、マスター! へ、変態!」


 どこが変態だというのだろう。全くもって変態ではない。むしろ紳士です。淑女です。心の中で言葉を返して、わずかに眉をひそめる。レンは胸の前で手をわたわたと振りながら、何度も何度も変態、と言ってくる。
 だから変態じゃないってば。小さく嘆息を漏らし、「じゃあコレはー?」と言って、またもやベタ打ちのままセリフを打ち、再生。
 レンの淡い色をした唇が開き、言葉を紡ぎだす。


「マスターのこと、だあいすきっ、大きくなったら結婚しようねっ、って、うわあああああ何を言わせるんだよ、マスター! うた! うたは!?」
「じゃあ次は、これっ」


 彼の言葉を一切受け付けず、言葉を打ちこむ。彼の淡い色合いの唇が開いて、優しげな声で言葉が紡がれる。


「本当に良いの、僕、男の子だよ──って、うわ、あああああああ! な、何が良……っ、へへへ変態! マスター変態っ、変態変態変態っ」
「変態じゃないって! 変態だったらもっと変な言葉を言わせてるっつうの!」
「な、何言って、ま、マスター、こんな……も、もう、ごめんなさい、だから、もう、やめ、止めて……」


 そこまで嫌がることなのだろうか。レンの頬は羞恥のせいか、ゆでたタコのように赤くなっている。彼は頬の熱を逃すように、手を団扇のようにして仰ぐと、へと視線を向けた。
 碧がをねめつけるように見詰め──、小さな淡い唇が開き、


「……変態……」
「……別に良いじゃん、ボーカロイドの正しい使い方じゃないですか。やー、他にも言わせたい言葉いっぱいあるんだよねー実は」
「や、やだああああああ! もう、もう、頼むから、お願いだから、普通のっ曲っ」


 意地悪く笑みを浮かべてレンに言葉を告げる。すると彼は大げさに体を震わせた。手で体を抱きすくめるようにして、その場に力なく座り込む。
 頭がゆるゆると横へ振られ、レンの瞳がへと向かってくる。
 彼はそっと溜息のようなものを吐くと、「……全然、違う……」とつぶやいた。何が違うというのだろう。

 首を傾げ、「何が違うの」と問いかける。レンは一瞬だけ言葉に詰まったかと思うと、「……しゃべれなかった時と」と続け、ふいと視線をそらした。そうして、口を動かす。


「マスター、真面目そうな人だったのに……話してみたら、全然、違う……変態」
「──あのさあ」


 呆れたような感情を込めたからなのか、レンの体が大きく震えた。驚かすつもりはなかったのだけれど。極力優しい声音で、言葉の先を発する。


「別にもう……変態って思ってもいいけれどさ、のことずっと見てたんでしょ」


 レンは軽く頷く。そのあと、ゆるやかに視線を上げて、の瞳とからめた。


「あのさ、が色んなサイト回ってるのも見た、んでしょ」
「うん」
「……動画見てる時も見てた?」
「うん」


 死にたい。頭を抱えたくなる。頭の中に思い浮かぶのは、今まで回ってきたサイトの面影、そして動画の数々。ヤバイ。いや、それこそ本気でヤバイような動画とかサイトはあんまり回らなかったけれど、どうしよう、恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 頬に熱が昇ってくる。心を落ち着けるように息を吐き、はレンから視線を逸らした。
 少しの間があって、レンの声が静かに耳朶を打った。


「……別に、マスターが変態だとしても、もう良いけれどさ……」
「なんでそんな諦めたような口調なわけっ」
「現実って非情だよなー」
「なん、ちょ、レン」


 怒るぞ。行き場の無い怒りを心の奥底に降り積もらせつつ、は視線を戻した。とたん、彼の微笑む表情が目に入ってくる。


「オレ、マスターのことずっと見てたよ。好きなサイトも知ってるし、どんな絵とか文章、それに曲が好みなのかも、全部わかってる。けれど、それだけだ。マスターと話すのなんて初めてだし、舞い上がってるのかも、オレ」


 実際は初対面なのにさ、とつづけて彼は笑みを深くする。はにかむように笑うその姿は、十四歳の彼へのイメージ像にぴったりと当てはまった。
 彼はそっとへと手を伸ばすと、微かに笑う。


「でもさ、ずっと見てたから、そういう気はしない。マスターが変態だとしても、オレ、良いや。別に。……卑猥な言葉を言わされるのは、イヤだけどさ」


 変態と思っても良いとは言ったものの、こんなにも変態変態連呼されると、なんか嫌だ。けれど、なんだろう、彼が必死に正直な思いを伝えようとしてくれているのが、なんだか微笑ましくて、嬉しい。わずかに頬が弛緩してしまう。
 が笑っているのに気づいたのか、とたんにレンは頬を染めて、顔をそむけると、ツンとした声で続けた。


「だからって別に、マスターのこと好きってわけじゃないからな!」
「……そーですか」
「そーだよ! 勘違いするなよな。オレは優しいからマスターのこと許せるわけであって、他の奴らからしたらマスターなんて変態も変態、超ド級の変態だよ」
「超ド級って……古い……」
「あげ足取るなよっ」


 苦笑を零して、エディターを閉じる。とたんに、彼は悲しそうな表情を浮かべた。捨てられた子犬のような瞳でを見つめて、「……終わる、のかよ」と囁くように言葉を紡ぐ。
 終わりますよ。そろそろ時間が遅くなってきたし。ご飯も食べないといけないし、明日は用事がある。頷くと、彼はしゅんとしたように俯いた。なんだか後ろ髪をひかれつつもスタートをクリックし、終了オプションを押す。シャットダウン。デスクトップからアイコンが消えていく中、レンは勢いよく顔をあげた。わずかに頬を赤らめて、ドモりながら言葉を発する。


「──おやすみっ」


 彼の言葉が聞こえるや否や、パソコンが完全に落ちる。画面が黒く染まった。はモニタの電源を切ろうと手を伸ばし、少しだけ思い立つ。彼の言葉を頭の中で反復し、かすかに笑みを浮かべた。


「おやすみ」


 つぶやいた言葉は彼に届いていないかもしれない。モニタの電源を消す。
 椅子から立ち上がり、は思い切り伸びをした。深く息を吐き出す。

 ──やっかいなことになってしまったなあ、なんて考えながら、は笑みが浮かんでくるのを抑えきることができなかった。


続く

もしマスターが森の妖精さんの動画見てたりしたら恥ずかしさで死ねますよね。

2008/05/10
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