きっと、嘘 11


 今日は用事の帰りに旧友と出会い、そのまま喫茶店へと寄って色々なことを喋ったので遅くなってしまった。時刻はもう日を跨ごうとしている──いつもよりも大分遅い。
 レン怒るかなあ、なんて考えながら苦笑を零す。彼はなんというか心配性な気がする。心配されるのは嬉しいものの、なんだか心配をかけてばかりの自分にふがいなさを感じてしまう。彼を心配させずにしたいのだけれど、どうにもならない。
 どうやって謝ろうかなー、なんて考えつつ家の扉の鍵を空ける。扉を開くと、空と同じ色の闇がを包み込んだ。電気をつけ、後ろ手に鍵を閉める。それからお風呂へ入りご飯を食べてからパソコンをつけた。時刻はもう人々が寝静まる時間までに達していた。

 読み込む。少しして画面にデスクトップが表示された。右横からレンが凄い勢いで駆けて来て、モニタの前へと立ち、と視線を合わせた。
 瞳に悲しげな色が滲んでいる。彼は小さく震えた吐息を零すと、呟いた。


「いま、何時だと……」
「いま?」


 時計を見て、そのままの時刻を告げると彼は黙り込んだ。モニタへと拳を打ち付け、怒りを秘めた瞳でを見つめる。あれ、心配させて──じゃなく、怒っている?
 苦笑を零し「ごめん、もしかして、怒ってるよね」と言葉を紡ぐと、とたんにレンは表情を悔しげに歪め、俯いた。弱弱しい声がスピーカーから漏れてくる。


「……には怒ってないよ」
「そう? でも、ごめん」


 に怒っていないというのならば、レンは誰に怒っているのだというのだろうか。首を傾げながら言葉を返す。会話が途切れた。前のような心地の良い沈黙ではなく、不愉快な雰囲気が圧し掛かってくる。……不愉快、っていうか、重々しいって言えばいいのかなあ。よくはわからない。
 レンは小さな吐息を零すと、悲しそうな色を瞳に宿したまま、顔を上げた。と視線を交えて、もう一度モニタに拳を打ちつけた。唇を噛み、悔しそうな色を表情へと浮かばせる。彼はそのままずるずるとその場に座り込むと、微かに荒い息を繰り返した。


「……レン?」


 心配になって彼の名前を呼ぶ。すると、彼は少しだけ呼吸を止め、を仰ぎ見た。視線が交わる。レンは悲しみを宿らせた笑みを浮かべると、小さく、ただ一言、


「ごめん」


 と、呟いた。声は震えていて、今にも泣き出しそうだと思った。咄嗟にカーソルで頭を撫でる。レンが切なげな笑い声を漏らし、カーソルを自身の手で止めた。そのまま胸に抱き、やはり笑い声を漏らす。


「──レン、どうしたの」
「……」


 彼は無理やりに笑みを浮かべると、やはり無理に弾ませた声を出した。


「ううん、ごめん、ちょっとオレおかしかったかな。ごめん」
「え、や、別に良いけれど……」


 話をはぐらかされてしまった。それ以上の言及を避けるかのように彼は笑みを表情へ浮かべる。それから抱きしめていたカーソルを離し、それよりも、と明るい声音を出した。立ち上がり、微笑みを浮かべる。


「今日は遅かったな、どうして?」


 急激な話題転換に一瞬、頭がついていかない。少し間を置くと、レンは不思議そうに首を傾げた。それからもう一度、ゆっくりとしたリズムで同じ言葉を繰り返す。
 疑問を孕んだ瞳を受けつつ、は答えを返した。


「……友達と会ったんだよね、今日」
「へえ、友達……」


 彼の眉が一瞬潜められる、けれど次の瞬間には優しげな色合いで表情が染められた。柔らかな声音で優しく彼は言葉を紡ぐ。


「まあ、にも友達くらい、居るよな」
「そうだね」
「で、それで、何を話してたんだよ、友達と」
「これといったことは、特にないなあ」


 かいつまんで話そうとしても、友人と話したのは本当に取り留めのないことで、あまり記憶に覚えていないというか。とても楽しかったという記憶はあるけれど。苦笑を零すと、レンは唇を尖らせて、不機嫌な様子をに見せた。それからと少しの間、視線を交わせた後、ふと、困ったような笑みを浮かべる。


「まあ、良いけれどさ。楽しかったんだろ」
「そりゃあね」
「……それなら、良いや、別に」
「そう?」


 問い掛けると、彼はこっくりと頭を頷かせて、苦笑に近い笑みを浮かべた。首を軽く傾け、吐息に乗せるように言葉を零す。


「──それにしても、不公平だよな」
「……何が?」


 問うと、レンは拗ねたような表情を浮かべた。桃色に色づいた唇を微かに尖らせて、視線を何処かへと向ける。それからネクタイを指先で弄び、小さな息を吐いた。嘆息に近いものだったと思う。にしても、スピーカーから漏れ出てくるこの吐息の音、イヤフォンで聞いていたらきっと死ぬほど恥ずかしいのだろうなあ、なんて思う。耳元で息を吐く音なんて聞こえたら、なら焦る。驚く。多分イヤフォン即行で外す。
 そんなことを考えつつ、心の中で笑いを漏らす。あー、でも、そうだなあ、一回イヤフォンで聞いてみようかな。うん、やってみよう。面白そうだし。スピーカーで聞くより、彼の感情の機微を感じ取ることが出来るかもしれない。

 ふと、意識を何処かへと飛ばしていると、レンの不機嫌な声音がスピーカーから漏れてきた。慌てて彼を見つめ、どうかした、とばかりに首を傾げて見せる。すると、彼は先ほど同様、機嫌が悪そうな様子で口を開いた。


「聞いているわけ? オレと話しているんだから、オレのことを見ててよ」
「あー、うん、ごめん」
「ごめんごめんってさあ。ほかに何か言うことないのかよ」


 そんなことを言われても。意識を飛ばしていたのはが悪かったものの、まさかここまで棘のある口調で責められるとは思ってもみなかった。苦笑を零すと、レンはきまり悪そうに視線を動かすと、小さな声で呟いた。


「ごめん」
「え、何が」


 短く告げられた言葉に、唖然とした声を出してしまう。ごめんって。え、本気で何がごめん、なのだろうか。少しの間、考えてみたもののわからずじまいだったので、疑問を蓄積することなく言葉に出す。レンは居心地悪そうに身体を少しだけ動かし、うー、や、あー、など言葉を伸ばして発する。それから、微かに目蓋を伏せ、困ったような色をにじませた声音を出す。


「ほんと、本当に……怒っているわけじゃ、無いんだ」


 たどたどしく紡がれた言葉は、とてつもなく小さな声量だった。レンはちらりと伏せた瞳を上げ、を見ると、再度視線を逸らした。困ったように、頬を軽く指先で掻き、溜息のようなものを吐く。
 それから胸の前でネクタイごと服を握り締め、と視線をもう一度、合わせた。瞳には強い悲しみの色が滲んでいる。


「オレと一緒に居るのに、、違うこと考えてただろ、今さっき」


 切なげな声音で紡がれた言葉。違うこと、まあ、イヤフォン関連のことを考えていたわけだから、違うこと、だろう。なんとなく申し訳ない気分になって、顔をしかめつつ小さく頷く。レンはやっぱり、とでも言うように溜息を零し、それから、切なさを色に乗せて瞳ににじませた。


「──不公平だよ、やっぱり」
「……何が?」


 問い掛けると、彼は力なく首を振り、それから弱弱しい笑みを浮かべた。


「だって、オレばっかり待ってるよね」
「何を」
に決まってるじゃん。オレ、自分から出来ることなんて、本当に全然無い」


 半ば諦めたような笑みを浮かべて言葉を紡ぐレンに、なんとかして否定をしようとする。いろいろなことを考えて、口を開いた瞬間、彼の言葉が遮るように耳へと響いてきた。


「あーあ。オレもを待たせられるように出来たら良いのにさあ」
「待たせる、って」
「次からはかなりの時間を焦らして出てこようか。デスクトップ上にさ、が呼ぶまで出てこなかったりしてさ」


 レンは悪戯を考えついたかのように含み笑いをした。それからモニタを指先でこつん、と突付く。


「ねえ、それだったらオレもを待たせることが出来るよね」
「……名前、呼んだら出てきてくれるなら、直ぐに呼ぶよ」


 良いことを思いついた、とでも言う様に声を弾ませて紡ぐレンに対し、思ったことを述べる。すると彼はとたんに黙り込み、苦笑に近い笑みを浮かべた。
 それから、それじゃあ意味が無いよ、なんて少しだけ困ったような──けれど、困惑と同じくらいの幸せを含んだ声で言葉を紡ぐ。
 意味が無い、というより焦らすためには呼んでも呼んでも出てこず、最後の最後、諦めかけたときに出てきたりするのが効果的なような気がする。それをそのまま口にすることはせず、は言葉を言い換えて唇を開いた。


「我慢とか、しないの? 何度呼ぶまで出て行かないぞ! とか、そんな感じで」
「出来るわけないじゃん」


 不貞腐れたように呟かれた言葉に、思わず苦笑を零してしまう。即答だった。間髪入れずにそんな答えが返ってくるなんて思ってもみなかった。
 レンは不満がありそうな様子を見せ、小さく頬をふくらませた。その様子が微笑ましくて、苦笑から一転、は頬を弛緩させてしまう。可愛いなあ。口には出さず心の中で呟き、ますます笑みを深くしていると、スピーカーからぽつりと、諦めたような声音がじわりと滲んできた。


「出来るわけ、無いよ、やっぱり。きっとから名前呼ばれたら、すぐに出て行く」
「……焦らすのに向いてないんだね」
「……」


 手をひらひらと振って言葉を発すると、何故か睨みつけられた。レンの碧の瞳が揺れ、何か物を言いたげに唇が微かに開かれる。鋭い眼光はそのままに、彼はぽつりと、雨の水滴が屋根を伝って落ちるように言葉を紡いだ。


だから、出て行くんだよ」
「ふうん」
「……意味、わかってよ……」


 意味わかってよ、といわれても。一応言葉どおりの意味は理解しているつもりでいるのだけれど、ほかに意味があるのだろうか。少しだけ考えてみて、なんとなく変な考えが頭に浮かんだ。それは無いと直ぐに打ち消す。
 ……だから出て行く、なんて、なんというか……特別扱いされているみたいだ、なんて言ったらたぶんレンは怒るだろうし。そういう意味じゃない! と、声を荒げそうだ。
 でも、だとしたらほかに意味が思い浮かばない。ん、と小さく声を発して首を傾げると、レンが眉を吊り上げ、かすかに鼻を鳴らした。それから表情を一転、辛く切なそうな色で染める。唇の隙間から、弱弱しい声音が出てきた。


「……の馬鹿、変態」
「え。いやいやいや、突飛過ぎやしませんか」
「わかってるくせに、わかんないふりしてさ。そんなにオレを困らせたいわけ?」


 別にそういうつもりは無いんだけれどね。声に出さず、肩をすくめて見せると、レンは不機嫌な表情を浮かべた。それから腕を胸の前で組み、胸を張って見せる。
 腰に吊られたウォレットチェーンが彼の挙動によって少しだけ揺れた。……あれ、一体何に使うんだろう……。心の中に疑問を浮かべる。まあ、今訊くようなことではないので訊かないけれど。


の、馬鹿」
「……言ったね、レンの馬鹿」
「……。オレは馬鹿じゃないよ、何言ってるんだよ。こそ馬鹿だろ」


 少しだけ怒りをにじませた表情を浮かべ、レンは傲岸不遜に言い返してきた。それから軽く鼻で笑って見せて、肩をすくめてみせる。このう。そんな態度ばっかり取っていたら、


「……嫌いますよ」
「!」


 レンの身体が大げさに震える。彼は焦ったように手を忙しく胸の横で振り、眉尻を下げて困ったような表情を浮かべた。瞳が柔らかく揺れ、緑陰の色が微かに滲む。
 なんとなく、その様子がおかしい。いや、おかしいなんて思っちゃいけないんだろうけれどね。苦笑を漏らし、嘘だよ冗談、と一言だけ呟くと、彼は驚いたような表情を浮かべ、顔を真っ赤にした。


「ば、馬鹿! 馬鹿、馬鹿ばかあ!」
「そこまで言わなくても……、ごめん、ごめんね」
「お、驚いて、本当に……っ、驚、っ……」


 レンはひとしきり声を上ずらせてどもった後、を厳しく睨みつけ、


「オレ、のこと、嫌いになるからなっ。そんなことばっか言ってたら」


 無愛想に言葉をへと突きつけてきた。ああ、少しだけからかいすぎちゃったのかもしれない。苦笑を零し、なんとかして彼の機嫌を直すように考える。何を言えば良いかなー。
 少しだけ、考えるのが楽しい。レンはの言葉、一つ一つにきっちりと反応してくれて、なんだろう、幸せだ。凄く。彼の挙動は本当にわかりやすいし、多分──に好意を寄せてくれているのがはっきりとわかるのも、気が浮き立つほどに嬉しい。
 それにも何とかして好意を返そうとするものの、いかんせん、彼の怒りに触れるような言葉ばっかり言っている気がする。

 自分の行動を思い返し、そっと微笑を零しては言葉を紡いだ。


「レンに嫌われたら、泣くかも。悲しくて」
「……泣かれたら、困るんだけれど」
「大丈夫、見えないところで泣くから」


 あはは、と軽く笑って返す。するとレンは表情を歪め、見えないところ、との言った言葉をそのまま口にし、ゆるゆると頭を振った。


「それは、嫌だよ。泣くんだったらオレの前で泣いて」
「……いや、それは──」
「そしたら、慰めてあげるから」


 ……なんか、話がかみ合っていない気がする。はレンに嫌われたことを前提で話しているというのに。首を捻り、レン、と語尾を上げ調子に名前を呼ぶ。そっと息を吐き、は言葉を続けた。


「レンに嫌われたことを前提で話しているんだよー」
「……嫌うなんて、ありえないよ」
「今さっき自分からのこと嫌うって──」
「嘘」


 声を遮るように簡潔に返された言葉を理解するのに少しだけ時間がかかった。……簡潔すぎると逆に伝わらないことがある、よね。うん。
 レンは頬を染めて恥ずかしそうな様子を見せると、手の甲で表情を隠すように顔へとあてた。視線が僅かに逸らされ、下へ向く。美しい黄金色の長い睫毛から覗く新緑が、目に付く。


「……無理に決まってるじゃん」


 微かな吐息が耳朶に触れる。それと共に漏れてきた言葉には、かすかな諦めが含まれていた。
 を嫌いになることが、無理。それは、どうして。考えるまでもなく、頭の中にいろいろな答えが思い浮かんでくる。いやいやいや、うぬぼれちゃいけないよ、。そう思うのに、どうしてだろう、ゆるゆると頬に熱が集まっていくのを感じた。きっと、色は赤く染まっているだろう。駄目だなあ、なんか。手を振り、顔へと涼しい風を送る。火照りに気付かれないと良いなあ、なんて思うものの、それはきっと無理だろう。
 レンの瞳がの視線と交わる。彼はの火照りを目に留めたのか、自身の頬も少しだけ赤くした。
 なんというか、雰囲気が変な方向へと行っている気がする。なんとかしなくては。打ち消すように言葉を発した。


もレンのこと、嫌いになるのは無理だなー」
「……、そ、そうかよ」
「うんうん」


 頷いて見せると、レンは、はにかむような笑みを口唇の端へ乗せた。頬へ手の甲をくっつけるのを忙しく繰り返し、顔を背ける。恥ずかしさのせいで頬だけでなく身体まで火照って暑いのか、彼はセーラーの襟を掴むと、ぱたぱたと動かしていた。少しして、微かに息を吐き動きを止める。

 彼の表情を彩る喜色は、本当に優しげで──それでいて、どこか儚かった。……儚い? 自分で考えて首を捻ってしまう。レンは確かに笑みを浮かべているというのに、何処らへんに儚さを感じ取ったのだろう、は。
 疑問が首をもたげる。自分で考えておきながら、よくわからない。レンの表情に儚さを捜す。瞳の色はいつものあの深い緑で、上を向いた睫毛は長い。肌はミルク色のような柔らかな色だし、髪の毛だっていつもの暖かい色だ。

 じっとレンを見つめていたからか、彼は一瞬だけ怪訝そうな色を瞳に宿し、を見た。首を傾げて艶やかな色合いの唇を動かし、の名前を呼ぶ。

 ……瞳の色。レンの瞳の色はとても綺麗だと思う。深海の底のようなほの暗さを持った青と、瑞々しい緑が混じったような、そんな色。青緑、って言えば良いのだろうか。良くはわからない。とにかく、綺麗だ。形容する言葉を持たないくらいに。
 彼は色々な感情を瞳に滲ませる。表情は怒りで満ちているのに瞳は寂しさで濡れていたり、拗ねた様子を見せているのに愛しさで色を染めていたり。見ていて飽きない、と思う。

 そんなことを考えていたからか、レンがの名前を強く呼ぶまで意識が胸の奥底へと沈んでいた。
 彼の声で再度ぼんやりとした意識を取り戻し、首を傾げる。レンはまたかよ、とでも言う風に瞳を寂しげに揺らし、口を開いた。


「オレの話──」
「レンの目、綺麗だよね」


 遮るように言葉を発すると、怪訝そうな色がレンの表情に広がった。構わず続ける。


「その、うん、緑色、だよね。綺麗、凄く好きだな。あ、後、髪の毛の色も好きだよ。肌の色も好きだし、唇の色も好きだし──」
「な、何言ってるんだよ……」


 若干ひき気味に呟かれた言葉に、苦笑を漏らしてしまう。うん、も何を言っているのかと思う。ただ、何となく口を飛び出した言葉は止まることを知らない。


「その、華奢だよね! 体躯が!」
「十四にしては小さい、とか言うなよ」
「え、いや、十四にしては大きいんじゃないかな」
「……そうかな、……ありがと」


 僅かに微笑んで答えられる。次いで、レンが微かに首を傾げたせいか、彼の淡い色合いの頬をさらりと髪の毛が滑り落ちた。触りたいなあ、と思う。きっと信じられない程に手触りが良いのだろう。ぼんやりとして言葉を紡げないで要ると、彼の僅かに子どもらしさを残した、甘い声で名前を呼ばれる。小さく返事をして、微笑むと、レンは嬉しそうに、の微笑みに呼応したのか負けじと優しげな色を顔へとにじませる。

 そんな彼を見ながら、何故か、ほんの少しだけ胸に辛い思いが掠めたのは、どうしてなのだろう。


続く

2008/06/08
 
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