きっと、嘘 12


 やはりというか、なんといえばいいのか。パソコンをつけても、モニタに壁紙とフォルダが表示されても、レンは出てこなかった。きっと、この前言っていた「焦らす」という行為を実行中なのだろう。
 なんとなく頬を弛緩させてしまう。行動が可愛い、と言ったらきっとレンは怒るだろう。彼の視線もないことだし、思い切り底意地の悪い笑みを浮かべながら、はいつもどおりインターネットを開いた。ほんの少し。ほんの少しだけ、意地悪をしてみようなんて思っちゃったりしたんだ。

 いつものように動画投稿サイトを開き、ランキングをクリック。少しだけ読み込んで、サムネ画像が表示される。その中で惹かれたものをクリック、動画を再生。ボーカロイドの曲、だ。音が耳に心地良い。綺麗な旋律で、の好きな部類に入る曲調だった。マイリストへ登録。
 それからもいろいろな動画を見て、ちらりと時計へと視線を走らせる。そろそろ名前を呼んであげるべきかなー。何故か笑みが浮かんでくるのをそのままに、は彼の名前を呼んだ。とたん、右横から彼の顔が覗く。瞳が据わっていた。彼は早足に画面の真ん中へと歩いていくと、に背を向けて座った。

 怒らせた、かもしれない。苦笑を浮かべて、マウスでレンの頭を撫でる。彼は小さく息を吐いた後、水滴が零れるような声量での名前を呼んだ。
 声音には、やっぱりというかなんというか若干の苛立ちが混じっていた。


「──馬鹿、オレが居なかったらすぐに名前を呼ぶって、そう言ったのに」


 荒々しい語調。何となく言葉を返すこともできず、乾いた笑い声を零す。すると、先ほどよりも険を混じらせたレンの声が響いてきた。


「ひどいよ!」


 ひどいって。先に焦らすということを言っていたのはそっちだというのに。
 小さく息を肩へと落とすと、レンがびくりと体を盛大に震わせて、ゆるゆると振り向く。瞳は何となく、見間違いかもしれないけれど潤んでいるように見えて、思わず驚いてしまった。
 青とも緑ともつかない色が揺れ、をじっと見据える。レンは細く息を吐くと、もう一度、先ほどよりも覇気の無い声で言葉を紡いだ。


「ひどいよ……」
「ごめん。でも」


 とっさに謝ってしまった。なんだろう、別に悪いことはしてないはずなのに……。心の中で息を落とす。レンが先を促すようにわずかに首を傾げる。それから背中ではなく、体ごと振り向くと、瞳を揺らしてを見た。視線が絡む。……何となく居心地が悪くなって逸らしてしまった。それから、言い訳のような言葉を口にする。


「ま、まあ、レンも焦らすって言っていたし、ならも焦らしてみようかなー、なんて」
「……話、ちゃんと聞いていた? オレばかりから焦らされているから、オレが焦らそうって話をしていたんだよ、前に」


 レンは眉をひそめると一息にそう言い切り、小さく呆れたように溜息を吐いた。その態度はいつものような不遜なもので、なんとなくほっとする。先ほどのように何というか、弱弱しい態度をとられると、対応に困ってしまう。
 そうだね、と頷いて笑うと、レンがほんの少しだけ、俯いた。それから、「でも」と続ける。


「焦らされるの、嫌だし、は意地悪してくるし……もう、やらない」
「そっか」
が素直にオレの名前を呼んだら良かったのにさあ。なにこれ。ありえない」


 悪態を吐くように紡がれた言葉に、苦笑を返すしかない。笑って見せると、レンの瞳が細められた。彼の淡い唇が開き、地を這うような低音を出す。


「何、笑ってるわけ」
「……え、あ、ええと。なんとなく」
「ありえない、ふざけてるだろ、! 怒るぞ!」


 もう怒ってるじゃん、という言葉は絶対にレンの怒りをますます増幅させてしまうだろう。何をいうべきだろう。頭の片隅で考えつつ、そっと息を吐く。レンが怒ったような声での名前を呼ぶのが聞こえた。かなり、というか、すごく、彼は怒っている、気がする。
 逸らしていた視線を合わせる。レンの強い眼光がを捉えた。

 怒っているというのなら、何をすれば良いだろう。どうすればいい、と困惑を色に乗せて彼へと送る。レンはほんの少しだけ首を捻った後、疑惑の色を瞳に揺らした。口に出せ、暗にそう言っているのがわかる。


「……どうしたら許してくれる?」


 語尾を上げ調子に問いかけると、なぜかレンの頬が赤く染まった。表情が輝く。まるでその言葉を待っていた、とでも言わんばかりに嬉しそうな色を表情へとにじませた。
 それから頬へと手を当て、火照った熱を取り払うためか腕にあるアームウォーマーのようなもので軽く顔をこする。そうして、視線をふと下へと下ろした。彼は顔を激しく振り、ほのかに息を吐くと、視線を戻す。を鋭く見据えた。


「お願い、ひとつ聞いてくれたら、許してあげる!」


 饒舌に言い切られた言葉に、思わず呆けてしまう。お願い? 無意識のうちに首を傾げる。レンは先ほどの剣呑とした視線や雰囲気をどこかへとやったのか、ネクタイを指先で弄びながら、恥ずかしそうに言葉を続ける。


「い、良いだろ。それくらい」
「良いだろって、たとえばどんなお願いなのか言ってくれないとね」
「……」


 宙をさまよい気味だったレンの視線がしっかりとの瞳と交わる。彼は先ほど同様頬を桃色に染めて、「名前」と一言呟いた。名前? 聞き返す。するとレンは瞼を伏せ、こっくりとうなずいた。名前って。何。言いたいことが良くわからない。首を傾げて、もう一度名前、と呟くと同時にレンが先を続けるように言葉を発した。


「呼んで」
「レン」


 意味がわからないままに、言葉を返す。これで良いの、とモニタをつつく。レンは不服そうに頬を膨らませると首を振った。それから、ともすれば風の音に消えてしまいそうな小ささで、「もっと」と続けた。もっと、って、もっと呼んだら良いのか。


「レンレンレンレンレンレ……」
「違う」


 何が。心の中でそんな言葉を呟きつつ、首を傾げる。するとレンはいじけたような様子を見せて、もぞもぞと足を立て、胸との隙間に顔を埋めた。体育座り、好きだなあ、レン。
 少しして、くぐもった声が聞こえてきた。先ほどと同じ言葉を、レンは素っ気なく言い放つ。
 違う。違うって、何が違うというのだろう。本当に。よくわからない。言い方が違うのかな。それとも……。だとしても言い方って、え、たとえばイントネーションとかだろうか。
 意味がわからなくて何も言えずに居ると、焦れたようなレンの声が聞こえてきた。


「普通に呼んでよ」
「普通に呼んでるつもりだけれど」


 肩をすくめて返すと、レンが鼻で笑う声が聞こえた。彼は棘を含んだ口調で言葉を紡ぐ。


は人を呼ぶ時に棒読みになるわけ?」
「そんなことはないよ」
「だったら、普通に呼んでいないだろ。早く」


 レンの顔が上がる。彼の瞳には期待したような色が見てとれて、何となく焦ってしまう。彼の桜色の唇が開き、わずかな甘さを秘めた声で言葉が紡がれる。


「呼んでよ。オレの名前。いっぱい」


 情感たっぷりに呼べば良いのだろうか。そっと息を吐いて、先ほどのようではなく、気持ちを込めて名前を呼ぶ。


「レン」
「……う、うん」


 改めて名前を呼ぶ、ということは、なんとなく気恥ずかしい感じがする。苦笑いを零して名前を紡げないで居ると、レンの催促が飛んできた。
 もう一度呼べと。心の中で大きく息を吐き、はもう一度同じように名前を呼んだ。レンが嬉しそうに小さな笑い声を零すのが聞こえる。彼はくすぐったそうな笑みを浮かべると、呼応するようにの名前を呼んだ。
 レンが紡ぐの名前は、色々な感情が込められているかのように、優しく柔らかい音を奏でた。彼は再度、はにかむような笑みを浮かべると、「あのさ」と口を開く。弾んだ調子が耳朶を突いた。


「あのね……、あと、一緒に歌ってくれたら、嬉し……ううん、許してあげる」


 ちょっと待って下さいレンさん。の聞き間違いじゃなかったら、お願いを一つ聞いたら許してくれるって、言っていたような。
 頬を引くつかせつつ、思ったことをそのまま伝えると、レンはとたんに不機嫌を表情に表した。立ち上がり、へと近づいて──くるように見える──きて、拳をモニタへとくっつける。


「良いだろ。歌うくらい。オレのお願い、聞いてくれないなら、オレ、のこと許さないからな!」


 語気を荒くしながらも、レンはもう怒っていないのだろう。言いきった後、心配するような色を瞳に乗せてをちらちらと見つめてくる。苦笑を浮かべると、拗ねたような表情を顔に表し、彼はネクタイを再度弄りはじめた。


「……許さない、から」


 何かしらの切なさを秘めたような、形容しがたい声を出すと、レンは視線を下げた。うかがうような視線が時折飛んでくる。
 歌を歌うって。一緒に? それはなんていうか、勘弁したいなあ……。そこそこ歌うことは出来るものの、そこまで上手というわけでもなく。音を外すことだってあるし、一緒に歌ったら如実に下手さ加減があらわれてくるだろう。
 えー、と間延びした声を漏らす。


「歌を歌うのは……ねえ?」
「ねえ、って……別に良いじゃん、へるものではないし……」


 へるものではないって。へる。のヒットポイントが、確実に。
 んん、と考えるような声を出す。……別に歌うこと自体は良いけれど、やはりそうなるのだったら練習とかしたいなあ、とは思う。下手に歌うというのは本当に恥ずかしいことだし。何日か猶予が欲しいな……。
 思索するに、レンの焦ったような声が響いてきた。


「どうしても、駄目……?」
「そんなことはないけれど。んー、じゃあ、あのさ、誕生日! レンの誕生日に一緒に歌うというのはどうかなー」


 彼の弱気な声音に、とっさに返した言葉。心の中で反復して、何を言っているのだろうと思う。彼に誕生日なんて、無い。強いて言えば、発売日、だろうか。
 レンはの言葉に、何を言っているの、とでも言う風に顔を歪めた。彼自身も思っているのだろう、と同じことを。
 彼は、小さく息を吐くと、表情に影を差した。切なさが滲んだ声音で、つぶやくように言う。


「オレに、誕生日なんて無いよ……知っているだろ、それくらい」
「ないなら作れば良いんじゃないの」


 いやに陽気な声が出てしまった。レンが首を傾げ、疑惑の念を顔に浮かべる。瞳の色がかすかに揺れ、鮮やかな虹彩がを射抜くように見つめた。視線が絡み合うと、彼の表情が歪んだ。泣きだしそうな、涙をこらえるような──そんな表情を浮かべながらも、彼は無理やり笑顔を形づくった。
 いつ、と淡い色合いの唇が言葉を紡ぎ出す。答えは、すぐに口をついて出てきた。


がレンをインストールした日、とか?」
「……オレを?」
「そう。ある意味で、レンその日にうまれた、でしょー」


 リンもね、と心の中で紡ぐ。彼女は一体、鏡の中にどうしているのだろう。鏡合わせの分身、自分の異性。そう設定作られてはいるものの──どうしてレンだけ居て、リンはこの場に居ないのだろう、なんて思う。
 ただ、考えてもしょうがないことだろうとも思う。一人が考えつくことなんて高が知れている。小さく息を吐いて、は思考を中断した。
 ただ、一応、なんとなく気になるので、


「レン、リンにも言っておいてよ。誕生日のこと」


 そんな言葉を発すると、レンは首をかしげて返してきた。リン、と語尾を上げて問いかけてくる。頷くと、どうして、とばかりに彼の翡翠が揺らぐ。


「どうしても。お願い、できるかな」
「良いよ。わかった、言っておく……」


 手を合わせてお願いをすると、彼はしぶしぶながらも頷いた。良かった。なんとなく、安堵する。そっと笑みを浮かべてありがとう、と感謝を述べると、レンは笑みを浮かべた。それから、胸の前で手を組むと、それより、と声を弾ませて言葉を紡ぐ。


「あのさ、オレ……と、リンの誕生日、インストールした日、なんだよね」
「そうそう。何か月も先だけれど……待てる?」
「うん! 待つ、待つよ、オレ!」


 彼をインストールした日を思い出しつつ言葉を発する。すると、レンはモニタへ飛び付く勢いで手のひらを合わせると、嬉しそうに何度も何度も頷いた。それからはにかむような笑みを浮かべ、もう一度、待つ! としっかりとした声音を唇から出す。
 なんというか、凄く嬉しそうだ。そこまで嬉しがることなのか、なんて思ったものの、それは言葉に出さず、マウスをもった手を動かす。カーソルを彼の近くでドラッグして、優しく頭を撫でる。

 レンは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたものの、次の瞬間には一層笑みを深くさせた表情を浮かべ、笑い声をもらした。堪え切れず漏らしたような、そんな優しい声音で、彼は笑う。
 なんとなく和んでしまった。彼の笑みへ呼応するようにも笑みを浮かべると、レンが恥ずかしそうに頬へ手の甲をあてた。表情から笑みを消そうと四苦八苦して、それでも唇からもれてくる笑い声を止めようとせず、彼は困ったような笑みを浮かべた。眉尻が下がって、眉が八の字のような形になる。


「誕生日、その、ありがとう」
「別に、レンが他の日が良いっていうんなら、その日で良いよ」


 勝手に決めてしまった方としては、そこまで喜ばれると嬉しいけれど少しだけ不安になる。だからか、ふいに口を突いて出た言葉を止めることもせず最後まで言いきってしまった。とたんに、レンがしかめつらになる。彼は拳を形づくり、モニタへと軽く何度かぶつけると、唇を尖らせて言葉を発した。


「その日で良い」
「そう? レンが言うなら、それで良いけれど」


 苦笑を零して返す。レンは一瞬だけ逡巡するように視線を巡らせた後、をしっかりと見据えた。視線が交わる。彼の瞳は強い意志が秘められたかのように据わっていて、どうしてか居心地が悪かった。
 レンはほんの少し、唇を動かして、何かを言おうとして──すぐに閉じる。それから困ったような笑みを浮かべた。唇がもう一度開く。


「その日が、良い」


 はっきりと、の耳に届くように紡がれた言葉。何かしら意味が含められているような言葉だった。──意味を推し量ることは出来ない。は小さくそっか、と呟いて、唇に笑みを乗せた。


続く
2008/06/21
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