きっと、嘘 15


「レンきゅんレンきゅん」


 パソコンを立ち上げ、レンがモニタ右横から出てくるのを見計らって、呼びかける。レンは一瞬、驚いたような表情を浮かべた後、恥ずかしそうに頬を染めた。唇が軽く開き、何か言葉を紡ぎだそうとして、けれど直ぐに閉じる。あれ、変態、とは言わないのか。
 きっと向かってくるであろう言葉に、少しだけ身を固めていたので、思わず拍子ぬけしてしまう。首を傾げると同時にレンの溜息が零れおちる音が、スピーカーからもれてきた。次いで、じわりと、やはりスピーカーから、彼の声音が落ちてくる。


「……何か、嬉しいことでも、あったわけ?」
「え?」


 静ひつな声で紡がれた言葉に対し、変な声を出してしまう。嬉しいことでもあったわけ、かあ。……どうしてそう思うのだろう。疑問をそのまま口に出して問うと、レンは拗ねたように唇を尖らせ、軽く肩を落として見せた。指先がネクタイを弄ぶように動き、翠の瞳がをじっと見つめる。
 どうかした、と小首をかしげて問いかける。レンはネクタイをいじる手を胸の前で軽く組んだり離したりを繰り返しつつ、だって、と言葉を続けた。


「嬉しそう、だから」
「えー。どこらへんが」


 追及するように問いかけると、レンは頬を軽く赤くして、震えた声を出す。


「いつもより……なんか、嬉しそうな感じがしたんだもん。それで良いだろ」
「へえ、レンにはの気持ち、筒抜けなのかな」


 筒抜けだったら、困るのだけれど。そう思いながらも紡ぎだした言葉に、彼は敏感に反応を示した。確かに、は今、凄く嬉しい──というよりは、幸せな気分で胸がいっぱいになっている。それは、言わずもがな、レンと話せているからなのだけれど。自分でもおかしいと思う。軽く、茶化すように言葉を発すると、不機嫌に鼻を鳴らす音が耳朶をついた。
 レンは微かに苛立ちを含んだ瞳でを見据え、軽く首を横に振る。筒抜けなわけがないだろ──、小さく、けれど確かに紡がれた言葉が、の鼓膜を揺らす。なんとなく、変な表情をしてしまったのかもしれない。レンはから視線をふいと逸らすと、わかっていたら、と呟くように続けた。わかっていたら? 言葉の続きを催促するように、がなにも言葉を発せずにいると、先ほどよりも強い調子で同じ言葉が繰り返される。


「わかっていたら、こんな想いなんて持ってない」
「……そう、なん、だ?」


 ──こんな、おもい。──こんな、想い? レンが何を言わんとしているのかがわからなかった。こんな想いって、どんな想いだ。疑問が胸に蓄積するものの、それを声に出して問おうとは思わない。
 ただ、どうしてだろう、続きを言わせてはいけないとは思った。レンが唇を開き、二の句をつづけるより先に、モニタをつつきながら口を開く。なるべく、明るい声音で。


はレンの気持ち、わかるかもしれない」
「……え」


 弾んだ調子で言いきった。とたん、レンの体が大きく震え、唖然とした表情でを見つめる。瞳がプールの水面みたく揺れ、ゆるゆると翠が美しい色合いを変える。彼は口を何度も開閉させた後、それは、と濡れたような声音で呟く。


「どう、して?」


 珍しく、というよりはいつもの気位が高い声音ではなく、弱弱しい声音でレンは呟き、俯いた。……ん、あれ、話題の選択をミスったかなあ。思わず考え込み、話題の転化を試みるべきかなあ、と思う。けれど、今更そのようなことをしても、レンは追及の手を緩めることはしないだろう。どうして、と、何度だって訊いてくるはずだ。言葉を止めると、彼は自身の胸にそっと手を置き、オレの、と囁く。


「オレの気持ち、今──わかる?」


 焦りを交えた声音で呟いて、レンは胸に当てた手で服をぎゅっと握りしめた。柔らかな素材で出来ているのであろう、彼の着衣はしわを刻み込む。……ちゃんと洗濯してアイロンをかけなよー、と心の中で思いながら、はそうだなあ、と彼を見つめた。強い視線が追いかけるようにと合わさる。んー、と呻くように呟いて、はふと視線を下へと落とした。

 普通に考える、というよりはの考えはこれしかない。小さく息を吐くと同時に、は言葉を発した。


「明日が休日かどうか、考えていたり、するでしょ!」


 パソコンをつける都度、レンが問いかけてくるのはこの一週間そればかりだったので、あっているだろう。どう、とでも言う風に胸を張るとレンの嘆息が聞こえてきた。肩を盛大に落とし、彼はじろりとを睨みつけてくる。あれ、あってない? もしかしなくても?
 彼は呆れたような、それでいて意気消沈したような──そんな表情を浮かべると、服を掴んでいた手をゆるゆると外した。そのまま力なく下げ、何か、責めるような目つきでを見る。そのような目線でみられるとは思っても居なかった。んー、あれ、これは、どう考えても……。


「……あって、なかった?」


 問いかける、というよりはもう若干事実を確認するためだけに語尾を上げながら言葉を発すると、レンは何とも言えない表情を浮かべた。自分がこれと信じていたものを、簡単に突き崩されたような、形容のしがたい表情。彼は視線だけでを切りつけると、小さく息を吐いた。込められているのは呆れ、だろうか。
 なんだか、あれほど自信満々に言いきったと言うのに、こんな反応を返されると、恥ずかしい。その上、どうしようもなく困る。あー、もうちょっと下手に出て恐る恐る言葉を口にすればよかった、なんて思った。なんというか、気分としては授業参観の時に勢いよく手をあげて言った答えが、全く見当違いのものだったような、そんな感じだ。

 合っていると思っていたのになあ。何故。心の中でそんなことを思いつつ、誤魔化すように笑みを浮かべると、レンの剣呑な視線が突き刺さるように向かってきた。……そんなに見られたら困っちゃいます、なんて軽口を叩ける雰囲気ではない。
 笑みを打ち消し、肩をすくめて見せる。


「……それじゃあ、わからないなあ」


 困ったように返すと、レンの剣呑な視線が幾らか和らいだ。次いで彼は困ったように表情を崩し、半分は、と小さく言葉を紡ぐ。


「あっているよ」


 それから嬉しそうに頬を柔らかく緩ませ、を見る。視線に含められたものが、わからないわけでもない。きっと、明日は休日か、どうか。それを問いかけるような、そんな思いが込められているのだろう。
 答えを返す前に、ほんの少しだけ疑問が頭を過ぎった。半分。それが答えの半分だというのなら、そのもう一つの半分は、いったいどのような答えなのだろう。軽く考えてみても、答えは出そうに無いので、疑問を胸へとしまい込む。丁度、レンが急かすようにの名前を呼んだ。
 声に呼応するように笑みを零すと、レンの頬が温かな色に染まる。桃のようだと、頭のどこかで思った。彼は恥ずかしそうに眉尻を下げ、何故か精一杯不機嫌な表情を浮かべている。けれど、その瞳は期待に濡れていた。
 この前と同様の反応に、何だか笑えてくる。ますます頬を弛緩させながら、は言葉を紡いだ。「明日は」


「休日、だよ」
「ほ、本当っ」


 言葉を言い切ると同時に、レンの声が遮るように響く。そこまで反応されるとは。何となく嬉しさを感じてしまうのは、しょうがないだろう。彼は上擦った声音を出した自分を恥ずかしく思ったのか、頬に手をあてて、しきりに熱を取り払うような仕草を取ると、そっぽを向いてしまった。
 時折、視線をちらりと送って見せては、直ぐに逸らす。
 レンはそんなことを何度か繰り返してから、気を取り直すように軽く咳をした。を射抜くように見つめ、


「だったら、今日はいっぱい、オレと──話せる、んだね」
「そうだね。ねえ、嬉しいー?」


 レンの口が唖然としたように開き、次いで顔がりんごのように赤くなる。彼は金魚のように忙しく口の開閉を繰り返した後、視線を落とした。なんでそんなことを、と掠れた声音で呟かれ、なんとなく焦ってしまう。別に、ただの好奇心と──それと、若干、からかってみようかな、なんて思っただけで。
 困ったように頬を掻くと、いらただしげに吐息を落とす音、それに乗じて震えた声音がスピーカーから漏れてきた。


「……嬉しい」
「あ、そう? も嬉しいよ、それにしても、何を話そうか」


 簡単に言葉を返すと、じろりと睨みつけるような視線が送られてきた。あれ、又失言をしてしまったかな、。え、でもも嬉しいよ、ってきっちり言ったし、レンが不満を感じるようなところなんて何処にもないような。何をすることもなく、彼の刺すような視線を甘んじて受ける。間を置いて、レンの呆れたような声音が聞こえてきた。


「……別に、何でも良いよ。の話したいことなら」
「そうは言われても、そこまで話題、多くないよ」


 苦笑を浮かべて返すと、レンは軽く頬を膨らませ、拗ねた様子を見せた。それの様子を見ながら、は思いついてDTMを起動する。読み込む音が優しく耳朶を吐き、次いで画面が表示された。前に作ったファイルの続きを、今日も入力していこうかな、なんて思ったのだ。レンも、歌いたいと言っていたし、その為にはオケだけでも完成させなければ。
 の考えを推し量ったのか、レンは右隅へと歩いていき、いつものように座った。……いや、いつものように、じゃないかもしれない。彼はに背を向けず、正面から見据えるような形で体育座りをした。両手で膝を抱え込むようにぎゅっと抱きしめている。
 マウスを動かす手を止め、レンを見る。語尾を上げ調子に名前を呼ぶと、なあに、と嬉しそうな声音が返ってきた。


「……今から、しようと思っていること、わかる?」
「わかっているよ。オレの曲、打ち込むんでしょ」
「そう。だから、さ」


 何となしに言葉を途切らせる。──レンは、が何を言いたいのか大体想像はついているのだろう。それでも、の口からその<何か>を言わせるために、意地悪そうな笑みを浮かべながらを見つめてくる。
 レンは続きを促すように、軽く顎を持ち上げた。依然、笑みは絶やさずに。は溜息を吐いて、言葉を続けた。


「前を向いてくれないかな」
「どうして?」


 間髪入れずに返された言葉に、眉をひそめてしまう。どうして、って。わかっているだろうに。


「……あんまり、人に見られながら作業はしたくないから、さー」
「前まではずっと、見ていたよ」


 心底不思議そうな──というよりは、愉快そうな声で言葉を紡がれる。二の句が続けられない。いや、見ていたって、でも、それは。


がレンのこと、見えなかったとき、でしょ」
「……」


 レンの表情に影が差した。彼は不機嫌を声に乗せ、「そうだけれど……」と不満そうに言葉を紡ぐ。
 ねめつけるような視線がへ向かってくる。レンは悲しそうな表情を見せ、次いでやはり僅かな怒りを乗せた声で、「けれど」としっかりと言葉を続ける。


「見えなくたって、見えていたって、ほとんど同じだろ。オレが見ていることには変わりが無いんだから」
「そういう問題じゃなくてさ、あの、うん、見られていると恥ずかしい。が」


 というより、こういうボーカロイドエディターに音を打ち込む時や、DTMで曲を作る時、そういった時はあまり他人に見られたくない。苦笑を浮かべつつ、彼を前に──というよりは、に背中を向けさせるためにどうすればいいのかを考える。結果。
 マウスを動かし、はカーソルをレンのわき腹へと移動させた。レンが疑問に満ちた瞳をぶつけてくるものの、気にしない。ドラッグ。そのまま、いつものように、ではなく、彼のわき腹へこちょこちょとくすぐるようにマウスを揺り動かす。レンが変な声を上げた。


「ひゃっ、ちょ、何やって」
「くすぐってるんですうー。レンが! 前を! 向くまで! は止めない!」


 レンが逃げるように立ち上がり、カーソルから遠く離れた場所まで小走りに歩を進める。睨むような視線をに向け、何をするの──と言いかけた所を、再度カーソルを動かしてくすぐる。彼はやはり驚いたような声音を出し、カーソルを手で持った。カーソルを抱きすくめ、彼は右上へと飛んでいった。DTMを閉じ、それから直ぐにフォルダが並ぶ場所まで駆けていき、ウォレットチェーンを外すと、エディターのフォルダにカーソルをくっつけ、縛り上げる。
 ……え?
 な…何を言っているのかよくわからねーと思うが、も何をされたのかわからなかった…。レンを呆然と見つめ、それから次いでフォルダへと視線を動かす。マウスを動かしてみるものの、ウォレットチェーンでフォルダに縛られたカーソルを微動だにしない。


「……レン、さん?」
「これでカーソル動かせないだろ、ざまあみろ!」
「……え、あの、何をしてるの?」


 唖然とした声音で言葉を呟くと、レンは得意げに胸を張って答える。


「縛ったんだよ、フォルダにカーソルを。これで動かせないだろ」
「や、あの、え、ちょ、はあ!?」


 存外、大きな声が出てしまった。再度、マウスを動かす。びくともしない。レンはその様子を嬉しそうに見ている。口唇の端に浮かんでいるのは、なんの感情に彩られた笑みなのだろう。
 や、あの、くすぐられるの、そんなに嫌だったんですか。


「え、ちょ、えー……」
「言っておくけれど、外さないからな。あんな変なことをして」
「変なことって」


 彼はくすぐる、という行為をしらないのだろうか。溜息を落としかけて、どうにかそれを喉の奥へ引っ込める。──今まで彼は一人だった。だとしたら、まあ、くすぐるという行為を知らなくても仕方無いだろう。ここにリンが居たならば、とは思うものの、あいにくとリンは鏡の中にしか存在しない。
 は気付かれないように小さく溜息を漏らし、首を軽く振った。


「もう。せっかくの愛情表現だったのに」
「……な」
「ちょっとぐらい遊びに付き合ってくれてもさー」


 軽く笑って茶化すように言うと、レンが変な表情を浮かべた。愛情表現、と繰り返し呟き、微かに瞳の色を揺らしながらを見る。


「それって、その……」
「ああ、うん、気の置けない人同士のね。友達とか家族とか」
「……」


 彼が何かを言いかける前に遮るように言葉を口にすると、睨まれた。その瞳に、僅かながらも悲哀が含まれていたのは、何故なのだろう。考えることは、しない。
 それにしても、カーソルを動かすことが出来ないので、彼に間接的にも触れる術を持たない。はそっと吐息を零して指先でモニタを突付くと、レン、と名前を呼んだ。


「カーソル、外してよ。何も出来ないじゃん」
「……良いじゃん、何もしなくても」


 不貞腐れたように呟くレン。彼はネクタイを軽く指先でいじくると、カーソルを縛りつけたフォルダを軽く突いた。フォルダが、彼の指先の挙動によって、軽く動く。あれ、フォルダ動かせること出来るんだー。微妙に関心して、その様子をじっと見る。レンはフォルダを何度か突いて揺り動かした後、と視線を合わせた。もう一度、言い含めるような声で、


「何もしなくて、良いよ」


 続けた。……何もしなくても、って。レン。何を言っているのですか。カーソルを動かすことが出来なかったら、インターネットを開くことも、ましてやレンの調教をすることだって、出来ないというのに。彼は歌いたくはないのだろうか。
 思わず苦笑を浮かべると、レンはためらうように吐息を零して、僅かに声を上擦らせながら、言葉を発した。


「だって、オレといっぱい話すのが目的なんだよ? 音楽打ち込むのは、いつだって出来るけれど、オレと話すのは──いつ、終わっちゃうか、わからないんだよ」
「終わっちゃう、って……そんな日は、来ないでしょ」


 笑い飛ばすように言うと、レンは寂しさを表情に滲ませた。悲愴を宿した瞳が、強くを見据える。


「終わるかも、しれないんだよ……」
「……」


 悲痛な──それでいて、真剣な声音に、何の言葉を返す事も出来ない。笑い飛ばすことも出来ない。彼は不安そうに瞳をゆるゆると周囲に動かし、軽く笑みを浮かべて見せた。誰かを──おそらくは、を安心させるような笑みを。
 変な表情を浮かべていたのだろう、おそらくは。はどうにかして笑みを浮かべると、そっか、と軽く頷いた。
 終わるかもしれない、それに何か根拠があるのか、とは思うけれど、始まりが突然だったのだし、終わりだって突然かもしれない、という思いもある。
 けれど、……第一、レンと話せていること自体がおかしいのだから、それが何時終わろうとも、は違和感なく受け止められる気がする。今までのことは白昼夢だった、幻覚だった、そう思い込めばなんとでもなるだろう。
 けれど──、


「終わるのは、嫌だな」


 ぽつりと水滴を零すように呟くと、レンの肩が震えた。液晶一枚──あるいは、それ以上のものか何かで隔絶されたにもわかるくらいに。
 レンは視線を上げると、オレも、とでも言う様にこっくりと頷いてみせる。


「でも、なんとなく、終わりは来ない気がするなあ」


 軽く笑って見せると、レンが訝しげな表情を浮かべた。彼は胸の前の服をネクタイごと軽く握り、どうして、と首を傾げてみせる。


「どうしてだろうね。なんとなく、勘ってことで」
「……わけわかんない」


 酷いなあ、なんて笑って言うと、レンの表情が幾らか和らいだ。彼の顔に、淡い優しさが浮かんでくる。そのまま、彼は桜色の唇を開き、弾んだ調子で言葉を紡ぐ。


「見えなくなっても、オレ、メモ帳とか起動するし、それで気づけよな」
「わかった。あーでも、なんか、透明人間と話してる感じするかもね、それだと」


 浮かんでくる笑みを抑えずに言うと、レンは得意そうな表情を浮かべ、「でも」と続けた。


は、オレだってわかっているんだから。透明人間なんかじゃない、鏡音レンだって」
「まあね」


 なら、良い。とレンは続け、花が綻ぶような笑みを浮かべた。頬が薄い色に染まる。何が良いの、とは訊くまでも無いだろう。は軽く笑みを浮かべて見せると、時計へと目をやった。いつもより、幾分か話し込んでいるから、なのか。やはり時間もいつもより遅い時を示している。
 の視線に気付いたのだろう。レンは軽く頬を膨らませて、の名前を呼んだ。視線を戻すと、顔をしかめた彼が目に入ってくる。
 レンは拳を胸の前で作ると、苛立ちを混ぜた声音で言葉を続ける。


「オレと話しているんだから、オレだけを見ていてよ」
「うん、見てる見てる、レンきゅんは今日も可愛いですね」
「──、あのさあ」


 締まりの無い笑みを浮かべてそう言うと、レンは途端に表情を歪め、モニタを打ち付けるように拳をつけた。あれ、怒らせたかな。でも、何で? 考えても良くわからない。アレか。レンきゅんの部分に怒ったのか。ごめんと謝るべき、なのだろうか。レンきゅんとはもう呼ばないよ、ごめんね、と。いやでも、レンきゅんって微妙に呼びやすいしなあ……。困る。
 うんうんと唸るを見てか、レンは溜息を落とすと、呆れたような声音を紡いだ。


「そんなに、オレは、その、……可愛い、の?」
「うん」


 即答すると、レンの表情が軽く歪んだ。あれ。彼は悲しそうに瞳を逸らした後、小さく溜息を吐く。それから、何か──決意のようなものを秘めた瞳でを仰ぎ見て、小首を傾げて見せた。


「可愛いオ、っれ──、……可愛いもの、好き?」
「好きだよ」


 彼が言いなおす前の言葉は聞かなかったことにする。
 それにしてもいきなり何を訊いてくるんだろう。かわいいもの、かあ。唐突な質問に、わずかに驚きながら、頷いて言葉を返す。すると、レンは嬉しそうに笑みを浮かべ、そっか、と安堵の溜息と共に言葉を漏らした。……ん、何か嬉しくなるようなことでも言っただろうか。思い返すものの、別に好きだよ、以外は言っていない。首を捻りつつ、けれど詮索をするようなことはしなかった。
 レンの瞳が揺れ、嬉しそうに微笑む。太陽のような、明るい黄色がふわりと揺れた。


「……嬉しい」


 ともすれば聞き取れないような、そんな小さな声音で呟き、レンはますます笑みを深くさせた。彼の笑みは本当に嬉しそうで、幸せに満ち溢れている。それを見ると、も何だかつられて笑みを浮かべてしまう。すると、彼は負けじと笑みを深くして、指先をモニタへとくっつけた。
 軽く、叩かれる。誘うように、リズムよく──音は聞こえていないけれど──叩き、彼はやはり少しの期待を乗せてを見た。彼の望んでいること。ほんの少しだけ考えて、はモニタへ彼同様指先をくっつけた。……彼の指先と、重なるように。

 レンの唇から、堪えきれなくなったような笑い声が漏れる。柔らかく……寄せては引いていくさざなみのような暖かさを含んだ声だった。彼はぎゅっと握り締めるように指先を拳へ形作ると、やはり嬉しそうに笑った。


「オレの嬉しさ、分けてあげたいな。何て言ったら、オレの幸せ、にも届くのかな」


 充分、レンの幸せは届いている。それはもう、凄い勢いで。そう呟くと、彼はくすぐったそうに身をよじった。喉の奥からこみ上げてくるかのような、彼の笑う声が響いてくる。
 ただ、どうしてだろう。嬉しさの中に潜む、悲しみのようなものを感じた。レンは確かに嬉しそうだ。本当に、とても──。実際、彼は嬉しがっていると思う。けれど、その裏には嬉しさとは正反対のものがあるような気がしてならない。
 嬉しさとは違う、簡単に言えば、悲しみが。

 ただ、そんなことを考えても別に何ということにもならないので、思考を直ぐに中断する。レンは尚もはにかむような笑みを浮かべながら、笑っていた。
 そんな様子を見ながら、はレンに悟られないように時計へ視線を落とした。日付を跨いでしまっている。そう感じると共に、欠伸が口から漏れてきた。手で塞ぎ、軽く声を漏らすと、レンの笑い声がぴたりと止んだ。生理的に出てきた涙を拭いながら、彼へと視線を向ける。
 レンは悲しそうな表情を浮かべながら、、と小さくの名前を呼ぶ。


「眠たい、の?」
「うん、まあ、少しは」
「……」


 会話が止まる。レンは一瞬、ためらうように視線を彷徨わせてから、きっぱりと言葉を紡いだ。


「まだ、寝たら駄目だよ」
「うん、明日は休みだからね」
「……」


 ん、あれ、会話がかみ合っていなかったかもしれない。言い換えるべき、だろうか。頭を動かして、苦笑を浮かべながら言葉を続けようとした、とたん、レンの声が遮るように響く。


「寝ても良いよ」
「ん。あれ、え? 良いの?」
「ただし」


 呆然とした声を出すと、レンの表情から笑みが抜け落ちた。彼は真摯な色で表情を染め、やはり真剣な声音で言葉を紡ぐ。


「オレの傍で、寝て」


 オレの傍で、寝て? 思わずオウム返しに呟くと、レンの顔がこっくりと頷いた。や、え、どうやって? まさか、パソコンの近くで寝ろと言うのだろうか。思わず頬を引くつかせたを意に関した様子も見せず、レンは言葉を続けた。
 先ほどのように、真面目な声だった。ただ、先ほどよりも彼の頬は赤くなっていたけれど。


「傍に、居て」


続く

2008/7/5


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