きっと、嘘 16

 ──レンが真剣な表情を浮かべて、を見つめてくる。傍に、居てって。つまりはパソコンの近くで寝ろということか。モニタの電源を、つけたまま。
 え、と小さく声を出すと、レンの表情が歪んだ。彼は泣くのをこらえるような、そんな歪んだ笑みを浮かべ、すぐに打ち消す。唇をぐ、と噛む様子が見て取れた。何かをこらえるような、そんな色が彼の顔に滲む。

 どうして、そんな──、今にも泣きそうな表情を浮かべるのだろう。には、わからない。というより、わかりたくないのかもしれない。けれど、その悲しみを拭ってあげたいという気持ちが、胸の内に灯りをともすように生まれてくる。何を言ったら、どういった行動をとれば彼が悲しみを消し去るか。そんなこと、考えたらすぐにわかる。
 考えて、すぐに言葉を紡ごうとして、首をひねった。どうして、こんなことばかりを思うのだろう。はなんだか、最近、おかしくなってきているような気がする──。

 言葉を無くしたに苛立ちを覚えたのか、レンはカーソルを結びつけたフォルダを指の先で突き、唇を軽く開いた。吐息とも何とも取れない声が、彼の口唇の隙間から零れおちる。次いで、彼の強気な色が滲んだ瞳との視線が交わる。


「っていうか、拒否権はないからな」


 わざと、というよりは無理して力強く言い張ったような言葉。レンは軽く鼻を鳴らすと、腰に手を当てた。先ほどまでの──風が吹けば折れてしまいそうな、そんな儚さはどこにもない。いつもの彼がそこに居た。
 その変わり様に呆然としてしまう。が何も返さずに居ると、レンはカーソルを縛りつけたフォルダを軽く叩いて、嬉しそうに笑みを零す。


「カーソル、縛ってあるし! これで、電源を切ることなんて、出来ないだろ!」


 弾むような幸せを持って言い切られるものの、カーソルを使わずにパソコンの電源を切る方法なんていくらでもある。きっと、レンもそのことはわかっているだろう。何を言えば良いのか考えつかない。いつものようにからかってみたい気がするけれど、それはきっと今してはいけないことだろう。苦笑を浮かべ、肩をすくめて見せる。すると、レンの表情が歪んだ。
 レンは眉尻を下げ、フォルダから離れた。モニタへと近づいてきて、手をぺたりとくっつける。


「ねえ、一緒に居てよ、お願いだから」


 先ほどとは違い、震えが走った声音だった。レンはモニタに軽く爪を立て、眉尻を下げる。吐息を零すような音が、聞こえた。


「お願い……お願い、だから……」


 色々な感情が滲んだ声音だった。ただ、なんとなく泣きそう、なんて思う。声に震えが走っているし、彼は呟いた言葉の後に、すぐに俯いてしまったし──それに、洟をすする音が、聞こえた。泣きそうになるのを必死にこらえるように、レンは声を引きつらせて言葉を続ける。


「さみ、しい……」


 ともすれば聞き取れないような音の強さで紡がれた言葉に、なぜか息が一瞬だけ止まった。レンが顔を上げる。まなじりが酷く、赤くなっていた。


「寂しいんだ。に、そばに居てほしいよ……」


 寂しい。そんなこと、レンが言ったのは初めてだ。……この前、訊いた時、彼は<寂しくない>って、言っていたのに。
 レンは、まなじりを手の甲でこすると、を睨むように見詰めた。それから、吐息とともに言葉を零す。


「──ごめん」


 きまり悪そうに言葉が紡がれる。ごめんって。何を謝っているのだろう。……つくづく、鈍感な自分に嫌気がさしてきた。眉にしわを寄せると、レンが慌てたようにモニタから手を離し、胸の前で手のひらを軽く振って見せる。顔には、無理して浮かべたようなひきつった笑みが浮かんでいた。


「じょ、じょーだん! 冗談に決まってるだろ、別に寂しくなんてないし! な、なに本気にしてるわけ?」


 嘘をつけ、と思った。思わず苦いものが表情に浮かぶのを抑えきれない。そんなの表情を見てか、レンの表情が悲しげに歪む。彼は焦ったように嘘、嘘だから、とドモりながら続け、俯いた。細い──華奢な肩が、震えているのが見える。
 頭を撫でてあげたい、そう思ってマウスを動かして、苦笑を浮かべてしまった。マウスはフォルダに縛られていて、動くことが出来ない。
 は、マウスを使わないとレンには触れることも、出来ない。

 しょうがないので、マウスから手を離し、指先でレンの頭あたりがある場所をこつこつと叩いた。彼が、はじかれたように顔を上げる。その様子に、なんとなく笑みを漏らしながら、は口を開いた。


「一緒に、寝よっか」
「……っ」


 レンの表情が、歪む。何の感情ともわからない──嬉しさと悲しさが、ない交ぜになったような色で顔を塗り、彼は一度、ゆっくりと頷いた。モニタにくっついていた掌が、拳を形づくる。彼はゆるゆると拳をモニタから離すと、嬉しそうに笑った。


「──ありがとう」
「こちらこそ。じゃあ、布団持ってくるよ」
「う、うん!」


 先ほどとは打って変わって、凄く嬉しそうな調子で紡がれた言葉に、なんだか安堵してしまう。軽く笑みを浮かべつつ、は自室へと布団を取りに行った。
 上だけで良いだろう、なんて考えて、上だけしかとらなかったものの。布団を抱えてパソコンの前へ戻ってくると、レンが正座して待っているのが見えた。微笑ましい。ますます笑みを深くして、パソコン前の椅子に座る。レンが、恥ずかしそうに指先でネクタイをいじりながら、へと視線を向けてくる。
 その視線に笑って返して、は掛け布団をパソコンの横に置いた。レンが、わずかに声を上ずらせて言葉を紡ぐ。


「ね、ねえ、どっちで寝るの?」
「ん? どっちって?」
「パソコンの右か、左か、それとも──」


 何かを期待するように、レンの瞳が揺れる。逡巡するように、彼は視線をうろつかせた後、溜息を吐いた。射抜くように、青緑の瞳がをみつめる。


「しょ、正面とか!」
「うーん、正面はちょっと無理かな」
「……」


 パソコンの前──つまりは、キーボードなどがあるところで寝ろ、というのは辛い。椅子に腰かけて寝るのは、ちょっと、体制的に勘弁願いたい。そういう思いを込めて、苦笑を浮かべる。すると、レンが拗ねたように唇をとがらせるのが見えた。彼の頬が柔らかく膨らみ、曲線を描く。淡い色合いの頬は、なんとなく柔らかそうだなあ、なんて頭の片隅でぼんやりと考えた。
 は謝罪の言葉を述べてから、パソコン前から退き、電気を消しに行った。電灯が消えると、パソコンのモニタのぼうっとした明かりが、部屋内を微かに照らす。は掛け布団を置いた方へと歩を進め、座り込んだ。壁を背に、自分にとって無理のない体制を取る。さあ寝ようかな、と言ったところでレンの焦りが混じった声音が聞こえてきた。


!」
「んー?」


 名前を呼ばれて、心地良い体勢からパソコンへと顔を向ける。モニタのすみっこに、レンが座ってちぢこまっているのが見えた。彼は、を見止めると、焦ったように言葉を紡ぐ。


「こ、こっち?」
「ん? 寝てる場所が? そうだけれど」
「そ、そっか」


 安堵の溜息が聞こえ、次いでレンが優しく微笑むのが見えた。彼は、モニタの端っこに体を詰め、再度嬉しそうに笑った。……何をしているのだろう、と思うのは普通だと思う。考えても仕方ないし、なんとなく胸にひっかかって気になるので、そのまま疑問を口にする。すると、レンはゆるやかに頬を赤くさせ、唇を微かに開き、何事かを呟いた。小さすぎて、聞こえなかった。何、と語尾を上げ調子に問いかけると、彼の表情が泣きそうなものに変わる。頬をますます紅潮させ、レンは口唇を動かした。


「そ、そばに、居たいから。少しでも、近くに」
「ふうん……」


 なんとなく、わかったようなわからないような。首をかしげそうになるのを必死で押しとどめ、そっか、とだけ呟いて返す。すると、レンがほんの少しだけ不服そうな表情を浮かべ、それだけ、と小さく囁くように言葉を紡ぐ。……それだけ? って、それだけですけれど。他に何か言えば良かったのだろうか。考えてもよくわからないので、パソコンから視線を外し、周囲へと向ける。
 そのまま、体をもう一度壁へ預け、瞼を閉じた、瞬間、レンがの名前を呼んだ。瞼を薄く開き、んー、と声を返す。レンのかすかに笑う声が聞こえ、次いでほんの少しだけ恥ずかしさを含んだような、そんな甘い声音でもう一度、名前が呼ばれる。
 名前呼びすぎです、レンきゅん。心の中でそんなことを思いつつ、答えを返すようにレン、と名前を呼び返す。すると、こらえるような笑い声がスピーカーから零れおちてきた。耳朶を心地よく打つその笑い声を聞きつつ、再度瞼を閉じる。少しして彼の笑い声が納まり、次いで申し訳無さそうな声音が響いてきた。


「ごめんなさい」
「……何が?」
「寂しいって、言ってさ、オレ。前に訊かれたときは寂しくないって言ってたのに」


 吐息を零すように、小さな声音で紡がれる言葉に耳を潜める。レンは、小さく困ったような笑いを零した。


「寂しく、なかったんだ……それは本当だよ、本当に、前までは寂しくなかったのに」


 レンが言葉を止め、やはり微かな息を落とす。ためらうように彼は間を空けてから、やはり困惑が滲む声で言葉を続けた。


「でも、なんか、最近……、すごく、寂しいんだ。のそばにずっと居たいって、ずっと話していたいって、思うんだ」


 こんなのって、とレンは続け、言葉を再度止めた。なんというか、彼の台詞が微妙に気恥ずかしいもので、なんとなく頬が赤くなってしまう。正面で寝ていなくて良かった、と思った。
 レンの、逡巡するような吐息が聞こえる。促すことは出来ないので、彼が話し始めるのを待つしかない。──ずっとそばに居たい、ずっと話していたい、かあ。彼の言った言葉を頭の中で繰り返す。なんだか、嬉しいなあ。思わず笑みを浮かべつつ、は布団を手繰り寄せた。
 にやける頬を隠すように顔の半分を布団で覆うのと、レンが言葉の続きを話しはじめるのは、同時だった。


「おかしい、きっとおかしいんだ、オレ。さみしいって思ったり、そばにずっと居たいって思ったり、話していたい、って思ったり……。こんなの普通じゃない。なんだか、怖いんだ……」
「……」
「ねえ、どうしてなんだと思う。オレがおかしくなったのって、変な気持ちで胸が一杯になるのって、どうしてなの──」


 言葉が再度止まる。少しして、吐息と共に、の名前が紡がれた。次いで、苦笑に近い笑い声が鼓膜を揺らす。
 なんとなく、レンの訊きたいことはわかる、気がする。つまりは、彼の胸を満たす変な気持ち、それの名称や、自分はおかしいのかどうかが訊きたいのだろう。
 おかしくは無いだろう。レンの気持ちに名称をつけることもできる。ただ、それを言うのはどうしてか、はばかられた。というより、無理だった。口に出そうとすると、喉のどこかでつかえて、息を吐く音だけがあたりに響く。
 苦笑を浮かべて、気持ちを落ち着かせるためには息を大きく吸った。


「おかしくは、ないよ」
「……本当?」
「うん、多分ねー」


 頷いて返して、何となく笑ってしまった。レンに、の笑い声は届いたのだろう。彼が拗ねたようにの名前を呼ぶ声が聞こえ、次いで呆れが込められた溜息が落ちる音が、耳朶を打つ。
 レンは、小さく「多分って」と苦笑交じりの声を出すと、それから──どうしてか、笑い声を零した。スピーカーからじわりと滲むように、彼の柔らかな声が笑みに彩られて、部屋に響く。彼はの名前を、やはりその優しい声で何度か口にする。
 流石に、何度も呼ばれると気恥ずかしくなってくる。なに、と囁くように返すと、ますますレンの笑う声が大きくなった。静寂の合間を縫うように響くそれは、耳に心地が良かった。

 リズムを刻むように、規則正しくスピーカーから洩れる、レンの柔らかな声音は、どうしてか眠気を誘う。うつらうつらとしながら、は彼の名前を呼ぶ。レンが不思議そうに、の名前を呼ぶ。
 それに、そろそろ眠るね、と返すと、瞬間、息をのむ音が聞こえた。次いで、震えた声音が、じわりとスピーカーからにじんでくる。


「うん、遅いから、しょうがないよね……」


 僅かな諦めが含まれた口調が、多少ならずとも気になったけれど、問いをなげかけることはしない。波のように寄せては引いていく睡魔と闘いながら、おやすみ、と言おうとして、遮れた。レンの声が響く。


「あの……手を……モニタに、くっつけてて、よ」
「……どうして?」


 思わず口をついて出た言葉に、それは、とレンが居心地悪そうに言葉を返すのが聞こえる。スピーカーから吐息を落とす音が聞こえ、次いで、弱弱しい声が漏れてきた。


「触れて、いたいから」
「……」
「モニタ越しじゃん、とか、言うのはやめてよ。触れていたいんだ」


 なんとなく、彼の言葉に何か言葉を返そうとして、やめた。無理にならない姿勢を取り、手をモニタへとくっつける。
 レンが嬉しそうな声を零すのが聞こえた。次いで、小さな声で「ありがとう」というのも。それに無言で答え、は目を閉じた。

 液晶にくっつけた手に、モニタからの放熱が伝わってくる。──まるで人の体温のような温かさだと、ぼんやり思った。

続く

2008/7/12

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