きっと、嘘 17

 朝、わずかにくぐもった雀などの鳥が鳴く声が耳朶を打つ。窓から差し込んでくる、やわらかい日差しを瞼に受けながら、いつものように時間通り目を覚まし、は小さく欠伸を零して伸びをした。肩、というか身体全体が凝り固まっているかのように痛い。……敷布団を持ってきて眠るべきだった、と思いながら掛け布団を折りたたむ。寝癖が凄いことになっているであろう髪の毛を手で抑えながら、そっとモニタへと視線を向けると、レンが丸くなって寝転がっているのが見えた。
 幸せそうな笑みを浮かべている。片方の手がモニタへと伸びてくっついているのは、昨日言ったとおり──触れていたから、なのだろう。
 モニタへくっつけた手を眺め、それからもう一度レンを見る。薄く色づいた頬に、閉じられた瞳、睫毛は男の子にしては少々長いのではないだろうか。華奢な体躯に、ショートパンツから伸びる肢体。膝小僧は丸みを帯びて、紅色に薄く色づいている。彼が呼吸をするのと同時に、わずかに上下する肩──、じっと眺めていたら、彼の唇が動き、何事かを囁くように呟いた。寝言、だろう。むにゅむにゅと唇が動き、言葉を形作る、けれど、やはり寝ているせいか滑舌が悪いので、言葉を聞き取ることは出来ない。

 そっと苦笑のようなものを零してから、は洗面所へと向かう。歯磨き、洗顔、着替え、髪を梳くのを順順にし、パソコンの置いてある部屋へと戻る。歩を進め、パソコン前の椅子へと腰掛け、モニタへと視線をうつした。レンはまだ寝ている。ちらりと時計へと視線を向かわせる。指し示す時間は、世間的には早朝と呼ばれる時間帯だった。レンが寝ているのも頷けるし、しょうがないのかもなあ、と小さく吐息をこぼす。
 レンは先ほど見た通りの格好で、寝つづけていた。時折、鼻にかかったような吐息が零れ、彼の唇が動く。そんな姿を微笑ましいと思いながら、はモニタからもう一度離れた。いつまでも彼が寝ている姿を見ているわけにもいかない。台所へと向かい、いつもの朝食を作り始める。少しして、スピーカーからレンの声が響いてきた。


……?」


 僅かに語尾を上げ調子だった。んー、と返事をして、前にもこんなことがあったなあ、と思い返す。あの時は返事をしても、彼には気付かれなかった。苦笑を零して、大きな声でレン、と彼の名前を呼ぶ。それから台所を離れ、モニタの前へと移動する。レンが、眠たそうに瞼を擦りながら、、ともう一度だけの名前を呼んだ。


「おはよう……」
「おはよう」


 起きたばかりだから、なのだろうか。レンの言葉は舌足らずに聞こえた。僅かに甘い調子を持って、彼独特の声で、又もや名前を呼ばれる。それに苦笑で返し、はモニタを軽く突付いた。


「寝ぼけているねー」
「寝ぼけて、ないよ」


 レンは一度、大きく頭を振ると、その場に体育座りをした。いつもより潤んだ瞳が軽く伏せられ、頬へ睫毛の影が落ちる。レンは小さく唸った後、ゆるゆると視線を上げた。とみつめあう形になる。翡翠のような色合いが、柔らかく滲む。


……」


 又、名前を呼ばれた。何度も何度も呼ばれると、何だか恥ずかしいことこの上無い。ただ、その恥ずかしさを顔に出すことはせず、「名前呼びすぎだよー」と苦笑を浮かべる。すると、レンの表情が軽く拗ねたようなものに変わり、頬が軽く膨らんだ。彼は顔を伏せ、くぐもった声で紡ぐ。


「……馬鹿」


 何が馬鹿だと言うのだろう。もしかしなくてものことか。馬鹿って言うほうが馬鹿なんですよー、という言葉を返したくなったものの、小学生か、という気持ちが頭を掠めたので、寸でのところで止める。何かしら言い返したいものの、何を言うこともせずに、は朝ご飯の調理の続きをするべく、台所へと向かった。

 簡単に作った朝ご飯をトレイの上に乗せて、パソコンの前へと向かう。本当はモニタの前やキーボードの近くで食べたら駄目なのだけれど、まあ、零さないように気をつければ大丈夫だろう。キーボードを退かし、いただきます、と手を合わせてご飯に口をつけ始める。
 レンは顔を膝に埋めたままだった。彼は何も話さない。もご飯を食べているので、話すことが出来ない。朝ご飯をそしゃくしながら、は視線をパソコン外へ彷徨わせた。窓が見える。そこから、空の色が見えた。それを何ともなしに見ながら、ご飯を食べ終える。台所のトレイに食器を置いたのと同時に、レンの強く呼びかける声が聞こえてきた。


!」
「んー?」


 再度パソコン前へと戻り、腰を下ろす。レンは埋めていた顔を上げ、と視線を合わせた。揺れる翠が、何故か先ほどの空の色を思い出させた。


「あの、オレ、もう、さみしくないから」
「……? そうなの?」


 問い掛けるように言葉を返すと、レンはなにやら恥ずかしそうに膝を抱えた手を組んだり、離したりを繰り返し、それから笑みを浮かべた。頬の色が、紅梅のような色に染まっている。


「昨日はありがとう。だから、もう、良いからね」
「何が?」
「……その」


 言いにくそうに口をもごもごと動かし、レンは押し黙った。睨みつけるように見据えられるものの、何が言いたいのかが本気でわからない。もしかして、昨日一緒に寝たことを言っているのだろうか。だとしたら、もう良い、というのはどういう意味、なのだろうか。もう一緒に寝なくても良いよ、という意味、なのだろうか。良くは分からない。苦笑を浮かべて肩をすくめて見せる。彼が溜息を吐くのが、聞こえた。
 レンは頬を赤く染め、先ほど同様、を鋭く見据え、ほんの少し上擦った声で言葉を紡ぐ。


「──き、昨日、我侭言ったから……ごめんなさい」
「わがまま? 別に、昨日のことなら全然気にしていないけれど」
「……」


 というか、あれはわがままというよりお願いに分類されるものだろう。首を傾げて見せると、レンが何故か不服そうな表情を浮かべ、だったら、と言葉を続ける。


「今日からずっと、一緒に寝てよ」
「え」
「全然気にしてないんだろ。だったら、良いだろ?」


 え、あれ、なんか怒っている? どうして? 心の中に疑問が湧き水のごとく絶え間なく溢れてくるものの、それを問い掛けることは出来ない。っていうか、怒っている? って聞いても、きっとレンは怒っていない、と答えるだろう。なんとなく、そういう気がする。
 どうしようもなくなったので、とりあえず笑みでも浮かべておく。すると、レンが、と小さく息を吐くように囁く声が聞こえ、次いで彼の呆れたような表情が目に入ってきた。


「やっぱ、困ってるじゃん」
「困ってる、っていうか……」


 レンの気持ちがわからなくて困っています。今ナウ現在進行形で。──そう言う訳にも行かないので、苦笑を浮かべる。彼が、不機嫌に表情をしかめるのが見えた。


「……は困らないけれどね、電気代が……それに地球温暖化が……」
「ほら。やっぱり、困ってるんじゃん」
「ごもっともです……」


 返す言葉も無い、というのはこういうことを言うのかもしれない。レンの顔に勝ち誇ったような表情が浮かび、彼の唇に堪えきれない笑みのようなものが乗る。言い負かしたことがそこまで嬉しいですかレンきゅん。そっと吐息を肩に落とし、は視線を落とす。
 沈黙が場を支配したのも束の間、レンの呆れたような声音が静寂を切り裂くように響く。


「あのさ、意地悪、言うつもりはないんだよ。あの、……本当、オレの我侭、聞いてくれてありがとう」
「……んー、どういたしましてー」
、一杯オレの我侭聞いてくれてさ。嬉しかった」


 そう言うと、レンは立ち上がり、モニタへと近づいてきた。画面へそっと手を押し付け、嬉しそうに笑う。


「すごく、温かかったんだ」
「……何が?」
「手」


 指先で液晶を突付き、レンは笑う。


「すごくすごく、温かかったんだよ……」


 モニタの放熱は、レンにも伝わっていたのだろうか。だとしたら、液晶の電源がついている間、彼はいつも暑い思いをしなくてはならないのでは、と思い、考えを打ちとめる。そんなことは考えても意味のないことだし、彼が喜んでいるのなら、それで良いじゃん、という気持ちが胸に渦巻く。
 そっか、と小さく呟くように言葉を零すと、レンはますます笑みを深くした。「本当に」


「触れてる、みたいだった」
「あー、も思ったよ」


 同意するように頷きながら言葉を発する。すると、レンは嬉しそうに笑みを浮かべ、そうなんだ、と呟いた。声音には、多少ならずとも喜色が滲んでいて、彼が本当に嬉しがっていることがよく分かった。そんな様子を見ていると、もつられて笑みを浮かべてしまう。
 レンは恥ずかしそうに頬を赤らめ、モニタを突付いていた指先を下ろす。後ろで手を組んでいるのか、僅かに胸を逸らすような格好を取り、彼は、はにかむ。

 その様子が、やはり微笑ましくて、マウスを動かそうとし、苦笑を零す。モニタを軽く突付いて、彼の注意をひきつけてからは言葉を発した。


「そろそろ、カーソル外して欲しいかも」
「……どうして?」


 レンの瞳が困惑に揺れる。そこまで、くすぐられるのが嫌だったのだろうか。軽いスキンシップだというのに。知らず、軽く眉をひそめると、レンが驚いたような表情を浮かべた。彼は居心地悪そうに身を軽く動かす。


「そ、その、嫌ってわけじゃないんだよ。でも……」
「レンきゅんを撫で撫でしたいです」
「……え」


 正直な気持ちを言葉を口にする。とたん、レンが呆然としたような声で呟くのが耳朶を打つ。……変なことを言ったかな。……言ったか。
 流石に撫で撫では駄目でしたか。そうでしたか、レンきゅん。心の中でそんなことを思いつつ、彼と視線を交えたまま、逸らさない。レンはせっかく組んでいた腕を解くと、恥ずかしそうに手の甲を頬へとくっつけたり離したりを繰り返す。
 翡翠の瞳が何かの感情に濡れ、彼の唇の隙間から、言葉が雨水のように、ぽつりと落ちてくる。


「撫で撫で、してくれるの? ……昨日みたいに、くすぐったり、しない?」
「くすぐられるの、そんなに嫌なんだ?」
「嫌っていうか、……なんか、恥ずかしい」


 くすぐられることの、何が恥ずかしいのだろう。疑問に思うものの、それはそのまま胸に蓄積させることに決める。レンは、視線を軽く下げた後、再度上げ、を射抜くように見つめると、もう一度、確認するように言葉を口にした。


「撫でて、くれる?」
「レンが良いなら」


 とたん、レンの表情に輝かんばかりの満面の笑みが広がる。彼は足早にカーソルを縛り付けたフォルダまで走ると、ウォレットチェーンを外す。マウスを動かすと、カーソルが自由自在に動いた。普通のことなのだけれど、昨日の今日で何だか感動してしまう。おー、と声に出さず心の中で言葉を発し、ぐるぐるとマウスを画面内に動かす。なんとなくそうして遊んでいると、レンの剣呑な声が響いてきた。
 カーソルを止め、レンを見る。彼は腰に手を当て、不遜な表情を浮かべていた。軽く鼻を鳴らし、彼はの名前を呼ぶ。早く、と濡れた瞳が言外に言葉を物語っていた。
 カーソルを彼の近くへと下ろして、ドラッグをする。柔らかな金色がマウスの動きにそって優しく揺れる。レンは嬉しそうに目を細めると、軽く笑い声を零した。


に撫でられるの、好きだな……」


 正確に言えば、ではなくカーソルが撫でているのだけれどね。苦笑を零して彼からカーソルを離すと、瞬時にレンの表情が幸せそうなものから拗ねたようなものにかわる。彼は唇を尖らせつつ、それを器用に動かして言葉を紡ぐ。


「もう終わり? 早いよ」
「えー……」
「えー、じゃなくてさ。もっと……」


 レンの瞳が恥ずかしそうに伏せられる。彼は尖らせた唇をもとに戻し、口元へ手を置いた。唇が、柔らかな曲線を描く。


「もっと、撫でてよ」
「わがままー」


 茶化すように言葉を紡ぐと、彼は不機嫌で表情を彩った。眉がひそめられ、顔が盛大にしかめられる。


「わがままじゃない、だってこれはどっちも困らないじゃん」
「……の手が同じ行動を繰り返して困るって」
「手だけじゃん。ほら、早く!」


 レンがカーソルを指先で突付く。このう。単調な作業を繰り返すのって疲れるんですけれど! 心の中で非難を言うものの、レンに面と向かって言葉にすることは出来ない。きっと彼は、が疲れるんだけど、と本気で言ったら直ぐに止めていい、と言ってくれるだろう。そういう性格なのだと、最近わかってきた。
 小さく気付かれないように吐息を落とし、は彼を撫でるのを続行する。レンの喉から、くぐもった笑い声が聞こえてきた。
 頭を撫でられて、嬉しそうに笑みを浮かべる彼を見ながら、そういえば、とはなんとなしに疑問を口にしてみた。


「ねえ、レンは夢って見るの?」
「夢? ……見るよ」
「へえ。じゃあ、今日の夢はかなり良い夢だったんだね」


 アプリが夢なんて見るんだ、と思いながら感心を言葉に乗せて呟くと、レンの身体が大きく跳ねた。彼は唖然としたような表情でを見つめ、どうして、と囁くように言葉を紡ぐ。いや、だって、すごく幸せそうに笑みを浮かべていたし。アレで良い夢を見ていないというのなら、何で良い夢を見るというのだろう。
 首を傾げて見せると、レンのあせったような声音がスピーカーから漏れてきた。


「ど、どど、どうして、そんな……」
「すごく笑っていたからさ。寝ていた時」
「な、なんで笑っていたって、知って──」


 見てたから。そう続けると、レンの挙動が止まった。顔色が赤から青に変わり、え、という呆然とした呟きが、何度も彼の口から漏れる。


「み、見ていたって、それって……」


 レンは指先をネクタイへと持って行き、軽くいじりはじめる。うかがうようにから視線を逸らしたり合わせたりを繰り返し、淡色の唇から吐息を落とす。
 ん? あれ、見られていたのが嫌だったのだろうか。首をかしげつつ、彼の二の句を待つ。レンはほんの少しだけ、恥ずかしそうな──でも、どこかに僅かな苛立ちを秘めた表情を浮かべ、責めるように言葉を口にした。


「起こしてくれたら良かったのに!」
「いやあ、幸せそうだったからさ。それにしても、何の夢を見ていたのー?」
「う、……え」


 からかうように言葉を紡ぐと、レンの頬の色がゆるゆると薄紅色へと変わって行く。口ごもるほどに恥ずかしい夢でも見たのだろうか。首をかしげつつ、先ほどの発言を取り消すべきなのかなあ、なんて考える。視線を向けると、彼の翡翠が目に入ってくる。ひきつったような声を出し、彼は叫ぶように言葉を紡ぐ。


なんて、出てきてないからな!」


 一瞬、唖然として、次になぜか笑いが込み上げてきた。……だから訊いていないというのに、レンはどうしてこうも自分から真実を暴露してしまうのだろう。癖か。彼の性格なのだろうか。
 ただ、なんだろう。彼が幸せそうに笑っていた夢に、の存在があったということ──それが、本当、微妙に嬉しかった。思わず弛緩する頬をそのままに、は優しく彼を撫でつづける。


「うわーい、出てきてたんだね。ありがとう」
「な、な、なに言って、出てきてないって、言ってるだろ……!」
「レンきゅんが幸せそうな笑顔を浮かべていた夢にが出てきてるとか、嬉しいなあ」


 レンが何かを言い返そうとして、口を開く。けれど、彼は何も言葉を口にしないまま、直ぐに唇を閉じてしまった。恥ずかしそうに視線が逸らされる。彼の頬が柔らかく桜のように色づき、唇から吐息とも溜息とも取れないものが零れ落ちる。


「か、勝手に勘違いしてれば?」
「うん、勘違いしてる」


 微笑んで返すと、彼は困ったような笑みを浮かべ、それから、モニタにそっと指先をくっつけた。指先をつけたまま、緩やかに腕を下ろし、花がほころぶような微笑を浮かべる。


「──」


 レンの唇が開き、何事かを呟いたけれど、声が小さすぎては聞きとることが出来なかった。


続く

2008/7/13
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