家へ帰る途中、ふと思いついてレンタルビデオ店へ寄った。確か、今日からの見たい映画がレンタルされる予定のはず、だということを思い出したのだ。ちなみにその記憶は正しく、レンタルビデオ店には新作としての見たい映画がレンタルされはじめていた。新作はやはりレンタル料金が高いものの、見たいという衝動は抑えきることが出来ない。はそのままその映画のDVDを借り、帰路を急いだ。


きっと、嘘 18


 モニタに電源がともり、パソコンが忙しく起動音を鳴らしながら立ち上がる。レンは恒例のように右端から足早に出てきて、モニタの中央に立つとを見て、嬉しそうに笑みを浮かべ──、直ぐにそれを打ち消すと、僅かに不遜な色を表情へ浮かべた。怒ったように眉尻を吊り上げ、睨むようにを見てくる。全く怖くない。それは、彼の瞳に浮かぶ色が優しげだったのと、


「お、お帰り……っ」


 必死に、幸せを出すまいとして強張る声が、かわいらしかったから、だろう。
 軽く笑って、返事をする。レンは、浮かんでくる笑みを抑えていたのか、僅かに頬をひくつかせていたものの、少しして困ったような、──それでいて、嬉しそうな微笑を零した。口唇の端をゆるやかに上げ、表情を彩る彼の笑みは、とてつもなく綺麗で、美しい。彼はモニタへと指先を伸ばし、軽くリズムを取るように叩く。そうして、ますます笑みを深くした。


「あ、あの」


 そんな様子をほんの少しぼんやりと笑みを浮かべながら見ていると、レンの僅かな戸惑いを含んだ声がスピーカーから漏れてきた。優しく、耳に心地良い声を微かに上擦らせ、彼は頬を染める。唇を何度も開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、逡巡するような様子を見せる。スピーカーをつついていた指先をネクタイへと滑らせ、ゆるゆると服を掴んだ。軽く捕まれているのであろう、服の布地に柔らかい線が出来、影を落としている。
 レンはそっと溜息とも吐息とも取れない息を落とし、を見つめた。瞳の色が揺れる。桜色の唇が開き、直ぐに閉じられた。


「……なーに、どうかしたの?」


 なんとなく様子がおかしくて、問いを彼にかけると、レンは恥ずかしそうに頬をますます赤く染め、なんでもない、と掠れた声で言葉を口にした。手が服から離れ、彼の頬へと向かう。手の甲をくっつけ、なんともいえない表情を浮かべるレンを見ながら、はそれならいいけれど、と言葉を落とす。レンが拗ねたような表情を瞬時に浮かべるのが見えた。
 拗ねる要素なんてあったのだろうか、なんて思いつつもは手近な場所に置いたDVDを手に取る。


「今日さ、DVD見るつもりで居たんだけれど……」
「DVD? 映画?」


 の言葉に異常なまで反応を示し、レンは首を傾げた。それに頷いて返し、少し考えて、借りてきたんだ、と続ける。彼がふうん、と鼻から息を吐くように言葉を発したのが聞こえた。
 借りてきたDVDをひらひらと、レンに見せつけるように揺らす。彼はもう一度、ぼんやりと頷き、それからを強く見つめてきた。翡翠が何かを考えているのか、利発そうに動き、瞼が軽く伏せられる。彼は再度、軽く首を傾げてから口を開いた。


「どこで見るの?」
「ん? どこで見たほうが良いー?」


 わざと問い掛けるように言葉を返すと、レンの頬が膨らんだ。ただ、彼が唇に隙間を空けた瞬間、空気の抜けるような音を零し、すぐに頬はしぼんでしまったものの。彼は、唇を尖らせ、を睨みつけるように見つめてくる。全然、怖くない。むしろ可愛い。マウスを動かし、彼の頭を優しく撫でる。すると、レンが一瞬だけ驚いたような表情を浮かべた。瞳から剣呑な色が消える。彼は頬を桃色に染めながら、一言、ずるい、と囁くように漏らした。
 ずるいって。何がずるいと言うのだろう。考えてもわからない。別段気になるということもなかったので、疑問は胸に沈めておく。
 レンはもう一度、僅かに濡れた瞳でを精一杯睨み付けると、もう一度、今度ははっきり──ずるい、と言葉を口にする。ずるいって……、だから、本気で何が──。一度目は気にならなかったもの、二度も言われると少し、気になる。首を傾げると、視線が外された。


「ずるいよ……そんなことを訊いてさ」
「そうかな」


 苦笑を浮かべて返すと、レンの瞳が力なくをねめつけるように向かってきた。


「そうに決まってるじゃん! そんなの、オレが答えるのなんて、一つしかないって知ってるくせして」
「そう? でも、どうだろ、わかんないなあ。言ってよ、レン」


 レンがと一緒に映画を見たいというなら、見るつもりだ。見たくないと言えば、一人で見るつもり。疑問を含めた口調で言葉を口にすると、とたんにレンの表情が羞恥に染まったものへと変わった。彼は頬を紅潮させ、眉根を寄せる。瞳が微かに潤んでいるのがわかった。彼は再度、知ってるくせに、と力なく呟くと、鋭くを見つめた。視線が交わる。


「一緒に、見たい!」
「そっかー。じゃあパソコンで見ようか。待っててね、DVD入れるからさ」


 何となく、嬉しさを感じながら言葉を返す。笑みが浮かぶのを阻止できない。パソコンにDVDをセットし、起動するのを待つ。レンが右端へと寄って、に背中を向けて座った。今日は体育座りではなく、足を伸ばして楽な姿勢を取っている。
 少しして、パソコンがDVDを読み込み、映像が画面に表示されはじめた。

 レンは画面を食い入るように見つめている。何の言葉を発することも無い。ので、も何も話さなかった。
 それから、何時間か経って、集中が途切れたのはエンドロールに差し掛かった頃、だろうか。そっと吐息を零す。

 ──今日、借りてきたのは恋愛物だった。男女の恋愛を巡って描かれる切なくて優しい物語。ありきたりといえばありきたり、というようなシーンはあったものの、やはり面白かった。借りてきて良かった。うんうん、と頷きながらDVDの映像を消す。それからパソコンからDVDを取り出した、とたん。レンの僅かに上擦った声が響いてきた。


「な、なんなの、あれ……」
「なにが?」


 彼の問いかけの意図するところがわからない。首を傾げながら、DVDの片づけを行う。ほんの少しの間を置いて、もう一度レンの恥ずかしそうな声音が聞こえてきた。


「だって、その、き、キス……」
「ああー、うん」


 キスシーンのことを言いたいということが、わかった。思い返して見るものの、別段そういう激しいシーンは無かった気がするのだけれど。キスシーンと言っても、唇と唇を軽く触れ合わせる、それだけの場面だったはずだ。
 レンが、へと振り向き、恥ずかしそうに瞳を伏せる。


「……レンきゅんには刺激が強すぎましたか」


 苦笑を浮かべてそう言うと、険のある口調で名前を呼ばれた。レンの碧が強い眼光を発し、を射抜くように見つめる。彼は小さく溜息のようなものを肩へ零すと、立ち上がった。モニタへと向かってきて、手で拳を形作る。そのまま、ノックするように手の甲を軽くモニタに、ニ、三回打ち付けると、唇を尖らせた。


「子ども扱い、するの止めてよ」
「子ども扱いじゃないけれどね」


 不服そうに言い切られた言葉に、軽く笑いを零して返す。すると、レンの表情に不機嫌の色が一層濃くなった。彼はモニタを軽く叩いてた手を開き、指先だけぺたりと画面へくっつける。
 レンは僅かに吐息を零し、苛立ちをほのかに秘めた声で言葉を紡ぐ。


「子ども扱いしてるじゃん。オレだって、ああいうこと、大丈夫だもん」


 何が大丈夫だと言うのだろうか。曖昧に笑みを浮かべて返す。レンは手のひら全体をモニタにくっつけると、身体を寄せてきた。


「大丈夫だってば。信じてよ」
「や、何が大丈夫なのか……意味が……」


 というか状況が把握しきれていない。何で彼が微妙に苛立ちを混ぜてきたのかもわからないし、子ども扱いされることに対してこうまでも怒りをあらわにするのかも、わからない。不服そうな──不機嫌な表情を浮かべる、理由も、だ。
 ほんの少し考えればわかることなのかもしれない。でも、考えなかった。どうしてか、考えたくなかった。

 レンはの返した言葉に、ほんの少し戸惑いを表に出す。彼はモニタにくっつけていない片方の手で唇を軽く抑えると、逡巡するように視線を巡らせる。そっと、吐息が彼の足元へと落ちていく。彼は、わずかに濡れた──けれど、どこか意志を持った強い視線でを見据え、の名前をしっかりと口にした。一音一音区切るように声にされ、なんとなく緊張してしまう。


「──
「ん?」


 レンが、モニタにくっつけていた手のひらを離し、指先で画面を突付く。誘うように、何度も何度もリズム良く叩きながら、彼はをじっと見つめてくる。これは……指先をつけろ、ということなのだろうか。マウスから手を離し、人差し指だけを彼の指先に重なるように、くっつける。モニタの熱がじんわりと皮膚に染み込んできた。
 レンが笑い、そのままだからね、と弾むように言葉を口にする。そのままだから、ね……? つまりは指先をくっつけたままで居てね、ってことか。勝手に解釈し、指先をずっとくっつけたままで居る。少しして彼の指先が離れた。人差し指の前に移動し、彼はモニタに両の手のひらをぺたりとくっつける。瞳を伏せた。彼の視線の先には、の人差し指があるのだろうか。

 震えが走ったような吐息が、スピーカーから零れてくる。青とも緑ともつかない色の瞳が揺れる。レンの頬が、緩やかに桜色に染まっていくのが見て取れた。彼は唇を軽く開き、の名前を呼んだ。──なんとなく、背筋が粟立つような感覚がしたのは、どうしてなのだろう。
 レンが伏せていた視線を上げ、を強く見据える。上擦ったような声音で、名前を呼ばれ、再度、そのままだからね、と言葉が紡がれる。

 彼の瞳が、伏せられる。レンはもう一度、鼻にかかったような、甘い声での名前を呼んだ。
 それから、レンはモニタへと顔を軽く近づけ、の人差し指に唇をつけた。

 一瞬、唖然として、次いで急激に頬が赤くなるのを感じた。彼が瞳をゆるゆると開き、次いで唇をモニタから離すまで、の視線は凍りついたように動かなかった。動けなかった。
 レンが頬を赤くしながら、を見る。、ともう一度名前を呼ばれた。


「……レン?」
「──、オレ……」


 レンは表情を軽く歪め、言葉を紡ぎだそうとしていた唇を閉じた。そっと深く息を吐く音がスピーカーから漏れてくる。
 ……今さっき、何をされたのだろう。呆然とそんなことを考えながら、は人差し指をモニタから話した。爪先に若干の熱が残っている。これは、モニタの熱なのだろうか。それとも。
 そこまで考えて、思索を打ちとめる。手の甲を頬へつけると、頬が熱くなっているのがわかった。熱が、頬よりも冷たい手の甲へと吸収されていく。

 ……なんで、恥ずかしがる必要があるというのだろう。だって、レンはに──触れてはいないというのに。
 唇をつけた、そう錯覚はした。けれど違う。レンが唇をつけたのは、正確に言えば、モニタだろう。の人差し指ではない。だというのに。それなのに。


「……なんかこう、恥ずかしいんですけれど、レン。なんで、こんな……」


 頬から熱を取り去ることが、出来ない。


「……だって」


 ぽつりとつぶやいた言葉に対して、不機嫌そうな声音が返ってくる。視線を向けると、呼応するように視線が向けられる。じっと、まっすぐに見つめられるのが、どうしようもなく居心地悪い。すぐに視線を外して、は片肘をついて横へ顔を向ける。
 なんでこう、なんなの、本当に。一体──。状況をうまく把握することが出来ない。苦いものが表情に浮かぶのを感じながら、は視線を落とした。


「子ども扱い、するから……」
「してないよ」


 ごにょごにょと、口に何かを含みながら喋ったときのように、言葉が紡がれる。それに対して即座に否定をする。すぐに、してるじゃん、というレンの呆れたような声がスピーカーから漏れてくるのが聞こえた。
 きまずい雰囲気が重く圧し掛かってくる。何をすれば良いのだろう。何と言えば良いのだろう。考えてもわからない。どうしようもないので無言でいるしかない。
 頭の中で、色々な考えが回っている。ほとんどが疑問だ。そっと溜息を零し、考えを落ち着かせるべく、大きく呼吸をする。それから、逸らしていた視線を戻し、彼へと向けた。レンが、暗い表情を浮かべているのが見える。彼はの視線に気づくと、困ったように笑みを浮かべた。頬が淡い赤に染まっている。


「オレ、ほんとう、どうにかしてる……」


 桜色の唇が開き、紡ぎ出すのはやはり表情同様、困惑が混じった声音だった。彼はそっと吐息を零し、でも、と続けた。


「これで、子ども扱い……出来なく、なる、だろ?」
「……そうだねえ、意識しちゃうなあ」


 軽く笑って返すと、レンの表情に笑みが浮かぶ。彼は囁くように言葉を発した。


「いっぱい、意識してよ」


 決意を秘めたような瞳が、を射抜くようにみつめる。瞬間、なんだか呼吸がつまった。どうしてなのかは、わからない。
 レンがモニタに拳を軽く打ちつけ、瞳を潤ませる。青と緑が滲みあった色が揺れ、赤く濡れた唇が言葉を紡ぎ出す。


「オレみたいに、──オレがのことばっか意識してるみたいになってよ」
「──え?」
「オレのことばっか、考えてよ」


 言葉が、喉から上手く出てこない。なんて言えば良いのかさえ、わからない。なんというか、だって、その言葉は、まるで。
 心の中でそこまで考えて、苦笑を零す。ちがう、ちがうちがう。きっと、ちがう。
 レンの真剣な問いかけから避けるように、ちゃかして答えを返す。


、いつもレンのことばっか考えているよ」
「……本当に?」
「本当本当」


 笑って言う。レンはほんの少し、不服そうな表情を浮かべた。彼はモニタを手の甲でノックするように叩き、小さく言葉を漏らす。


「……信じちゃう、からね」
「うん」


 頷く。どうしてか、その時、胸をつくような痛みを感じた。


続く

2008/7/16

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