きっと、嘘 19


 右横。いつものようにレンが出てきた。僅かに俯き加減で、彼はモニタの中央まで移動すると、小さな溜息を零した。顔を上げ、を見る。頬が淡紅色に染まっている。彼は逡巡するように瞳を巡らせると、もう一度、小さな吐息を落とす。いんうつ、というよりは、どこか恥ずかしがっているような、そんな表情を浮かべていた。どうしたのだろう。首を傾げると同時に、彼が意を決したかのように、引き結んでいた唇を開くのが見えた。


「こん、ばんは……」
「こんばんは、レン」


 何故か、震えの走った吐息と共に紡ぎだされた言葉に、平常通りの声と言葉を返すと、レンの表情が僅かに歪んだ。なんとなく──失望したような、そんな感じの色を、顔に浮かべている。なんでそんな表情を浮かべるのだろう。よくわからない。しょうがないので何を言わずに、彼をじっと見つめる。ほんの少しの間、瞳が交わる。新緑を思わす色が揺れ、すっと視線が逸らされる。なんとなく、傷ついた。──そんな色が表情に滲んでいたのかもしれない。レンはもう一度、を申し訳なさそうに見た後、驚いたような表情を浮かべた。
 口唇の隙間から、やわらかな声での名前が呼ばれる。ん、と小首を傾げる。レンは何故か、ほっとしたような表情を浮かべると、微笑んだ。桜の花がほころぶような、やわらかく、優しい笑みが、彼の顔を彩る。
 レンは、ほんの少しの間を置いてから、モニタへと近づいてきた。軽く拳を画面へと押し当て、はにかむ。


「──ねえ、今日は何をするの」


 若干、語尾を上げ調子に問い掛けられたのは、いつもと同じ言葉だった。少しだけ考えるそぶりを見せると、レンの声が立て続けにスピーカーから響いてくる。


「あのさ、決まっていないなら、オレから提案があるんだけれど……」


 ほんのすこし、恥ずかしそうに紡がれた言葉だった。ん、と小さく声を漏らしてレンを見る。レンは、声に混ぜた感情と同じように──恥ずかしそうにネクタイを弄りながら、から視線を逸らす。瞳が思案するように動き、やがて目蓋が閉じられた。薄く開いた唇から、耐え切れないような吐息が漏れる。
 ……なんだろう。提案って、なんのことなのだろうか。首を傾げてレン、と名前を呼ぶ。彼は目蓋を開き、と視線を合わせ、けれど直ぐに逸らした。頬が桃色に染まっている。

 レンが何か言葉を続けるまで、としても何を言うわけにもいかないだろう。しょうがないので、視線を逸らす。スピーカーへと向けた。電源が入っているということを示すランプが明かりをともしていた。
 昨日。そう、昨日のことが、の頭から離れない。スピーカーへ向けていた視線を下ろし、指先へと向かわせる。
 まさか、キスをされるとは思っても居なかった。

 思い出すと、なんとなく頬が熱くなってくる。駄目だなあ、は、本当に。実際、触れていないというのに。どうしても、──なぜか、嬉しかった。
 疑問が首をもたげてくる。なんで、は嬉しかったのだろう。考えると、直ぐに答えは見つかった。がレンのことを好きだからだ。……友好的な意味合いで。友達のような存在として。
 そこまで考えて、なんとなく引っかかる場所があった。けれど、別段気にすることもないだろうなあ、と思いこんで考えを打ちとめる。

 考えることも無くなったので、何をすることもなく指先をもう片方の手で弄くる。爪先を撫でるのを繰り返していた時、レンの声がスピーカーからじわりと滲んできた。視線を上げる。


「きょ、曲とか……投稿しようよ」
「投稿?」


 単語だけおうむ返しに呟くと、金色が揺れた。レンの瞳がしっかりとを見つめてくる。
 ……投稿って……。アレか。の良く行く動画投稿サイトに投稿しろって、そういうことなのだろうか。頭を掻く。無理。絶対に無理。
 ただ、そのままの言葉を口にすることは、はばかられる。どうしようもないので、苦笑を浮かべて返すと、レンが少し拗ねたような表情を浮かべたのが、見えた。彼はモニタを軽くニ、三度叩き、僅かな苛立ちを乗せた声音で言葉を紡ぐ。


「別に、その、強制ってわけじゃないけれど……」


 言いにくそうに口篭もったわりには、はっきりとした語調だった。レンはと視線を合わせると、その、や、あの、という言葉を繰り返す。……彼がここまで口篭もることは珍しいような。続きを催促するように、んー、と語尾を上げ調子に声を出す。とたん、彼が決心したようにを強く見据えてきた。


「いっぱい……作ったら、評価されたいって、思うだろ」


 それは曲のことを言っているのだろうか。評価されたい、ねえ。軽く笑って見せると、レンの剣呑な視線が飛んできた。何で笑うわけ、と詰問されているような気分に陥る。実際、彼は言葉には出さないけれども、そういったことを考えていたのだろう。柳眉を逆立て、を睨んでいる。
 しわがよっていますよ、眉間に。綺麗なお顔が台無しです。──そんなことを思うものの、口には出さない。口に出したら確実に彼の苛立ちを逆撫でするということは、わかりきっている。しょうがないので、肩を竦めて見せた。レンの剣呑な視線がいくらか和らぐ。


「……別に、評価は良いや」
「どうして」


 間髪入れずに問いかけを返される。……や、どうしてって、どうしてだろうね。自分でもよくわからない。ただ、の曲はまだ稚拙で、人に聞かせるようなものではない。そういった思いがあるから、なのかもしれない。調教だってまだまだだ。投稿したとしても、「ズコー」なんて、そういった類のコメントで埋めつくされるということが予想できる。
 けれど、それをレンに言ったとしても、きっと納得はしてくれないだろう。彼は言うと思う。慰めるような、優しい台詞を。

 小さく吐息を零す。彼には気付かれないようにしたつもりだったのだけれど、気付かれてしまった。眉尻がぴくりと跳ね上がり、怨嗟の篭った声が響いてくる。


「なんだよ、オレに言えないことでも、あるわけ?」
「……んー、別に、そういうわけじゃ……」


 苦笑を浮かべると、レンが表情を歪めた。悲しそうで、それでいて辛そうな表情は、どうしてかの胸を突いてくる。引きつったような吐息が彼の口唇から漏れるのが、耳朶を打った。


「……オレには、言っても意味のないことなの……」


 問い掛けるような語調だった。レンの瞳が揺れる。美しい緑と青が入れ混じった色が、にじむ。


「オレにも教えてよ」


 の考えていること。レンはそう続けて、視線を下ろす。名前を呼ぶと、彼の肩が震えた。
 ……別に、そういう深刻なことではないのだけれどなあ。なんだか深刻な雰囲気が漂っている気がする。


「曲をさ」


 口を開くと、レンが首をかしげるのが見えた。


「投稿したら、こう、ズコー的なコメントで埋め尽くされそうな……気が……」


 苦笑を浮かべて言うと、レンが一瞬だけ考えるような様子を見せ、次いで直ぐに口を開いたのが見えた。彼の、優しい──けれど、どこか怜とした声音で名前を呼ばれる。


「大丈夫だよ、きっと。だって、の曲、全部良いのばっかじゃん。調教だって、上手だよ」


 お世辞、ではないのだろう。きっと、本心から言ってくれている。そう考えると、ほんの少し──というより、かなり嬉しかった。思わず頬を緩めさせてしまう。レン、と名前を呼んで、マウスを動かした。彼の頭を乱暴に撫でる。焦ったような声音が、スピーカーから漏れてくるけれど気にしない。


「優しいなあ、レンは」
「何言って……」


 レンはそこまで言葉を紡ぐと、頭へと手を伸ばした。縦横に動くカーソルを手で掴み、胸の前で抱きしめる。


「──本気で、思っているんだからな」
「……うん、ありがとう」


 締まりの無い笑みを浮かべつつ、言葉を返す。すると、レンはなぜか恥ずかしそうに頬を軽く染め、指先でカーソルをもてあそびはじめた。指先でカーソルの先をつついたり、撫でるように触っていたり。彼は、そっと溜息のようなものを零すと、の名前を強く呼んだ。レンを見ると視線が交わる。彼はやはり頬を赤くしたまま、ほんのすこし上ずった声を出す。


「だから、投稿してみたら良いと思う。一度でも良いから」
「……それとこれとは話が別ですよ」


 別なことない、そう言ってレンは頬を膨らます。抱きしめていたカーソルをそっと離し、胸の前で腕を組むと、彼は言葉を続けた。


「大丈夫だよ、ねえ、オレがついてるじゃん」
「そ、それでも……ねえ?」


 肩をすくめて返すと、彼が拗ねたように唇を突き出すのが見えた。
 なんというか、投稿するのは……の勇気が足りないというか……。ただ、そんなことを言っても彼は納得してくれないと思う。オレがついてるじゃん、とまで言ったのだから、がそんな風に勇気が、やコメントが、なんて言って怖じ気づくと怒りそうな気がする。
 ……なんて返せば良いんだろう。何をすることもないので、自由になったカーソルを動かし、くるくると円を描かせてみる。レンが怪訝そうにの名前を呼ぶのが聞こえた。何やってるの、と瞳で訴えかけられる。
 カーソルで円を描くのを止め、彼へと近づけていく。それだけでレンはされることがわかったのだろう、ほんの少しだけ笑みを浮かべると、自分からもカーソルへ近づいていった。彼の頭を優しく撫でる。とたん、くぐもったような笑い声が聞こえてきた。

 何を言おう……。レンの嬉しそうな様子を見ながらも、考えるのはそのことばかりだ。カーソルを動かすのを止めると、彼が不思議そうにへと視線を向けてくるのがわかる。小さく吐息を肩に落とし、は言葉を紡いだ。


「レンがさ、の曲、好きだって言ってくれるなら、それで良いよ」
「……え」


 唐突な言葉だったのかもしれない。レンは一瞬だけ思案するような表情を見せてから、次いで頬を赤く染めた。小さな声で、それじゃ駄目だよ、と呟くのが聞こえる。


「レンが好きなら、それで充分です」
「……そ、それじゃ、オレがやだよ……。知ってもらいたいもん、オレのマスターはこんなにも曲を書くのが上手で、オレを調律するのが得意で……」


 言葉尻を小さくしながらレンは言葉を発し、次いで瞳を軽く伏せた。


「オレの、自慢できるマスターだって、知ってほしいんだもん……」


 誰に、と心の中で呟く。そんなの、わかりきっている。動画を見る不特定多数の人々に、だろう。でもなあ。心の中で思いながら、軽く右クリックをした。レンが小さく、いたっ、と呟くのが聞こえた。うらみのこもった視線が向かってくる。


、レンが聞いて、それで歌ってくれるなら、それだけで幸せだよ」
「……オレだって、が曲をオレの為に書いてくれて、それを歌えるなら、それだけで幸せだよ」


 ほんの少し、突き放すような口調で紡がれた言葉に、笑いを零してしまう。嬉しい言葉を、本当にレンは、いっぱい口に出してくれる。彼はの曲を批判しようとはしない。それどころか、良い所を見つけ出して褒めようとしてくれる。
 「マスターの曲が嫌いなボーカロイドなんて居ない」、前にレンが言っていた言葉だ。本当に彼はそれを体現している、と思う。


「それなら、今はそれで良いんじゃないかな」
「……でもさ、だって、その、褒められたいって思うだろ」


 溢れる笑みをそのままに、ほんのすこし声を弾ませて言葉を紡ぐ。レンは、かすかに驚いたような様子を見せたけれど、次の瞬間には、拗ねたような表情を浮かべていた。唇をつんと突き出し、額にしわを寄せている。不機嫌そうだ。
 マウスを動かし、彼の頭を撫でる。レンはされるがままにしていたものの、がマウスから手を離すと、モニタに押しあてていた手を離し、胸の前で祈るように拳を握る。瞳が何かを訴えかけてきているような気がするものの、読みとることは出来ない。


「レンが好きでいてくれるなら、それで良いや」
「…………」


 笑って言うと、わずかに切なさをはらんだ声音がスピーカーから零れてきた。翡翠が、水面にたつさざなみのように揺れる。レンは小さく──呆れたような吐息と笑みを零し、の名前をもう一度呼んだ。


「馬鹿だなあ。オレ一人が聞くより、投稿して、いろんなヒトに聞いてもらったほうが、断然いいのに」
「そうかもね」


 苦笑を零しながら返す。レンが、そうだよ、と語気を荒くして言葉を発するのが鼓膜を揺らした。
 なんだか、くすぐったい感じがする。苦笑を打ち消して、笑みを浮かべると、レンが呼応するかのように喜色で顔を彩るのが見えた。
 確かに、レンの言うとおりなのだろう。レン一人に聞いてもらうより、きっと、投稿して多くの人に聞いてもらい、コメントを貰った方が良いと思う。タメになるようなコメントが並ぶかもしれないだろうし。
 けれど、それが出来ないのは、がどうしようもなく、臆病だからなのだろう。多くのことに。

 しばらく無言でいると、レンの喉から溢れてきたような笑みが耳朶を打った。見ると、彼が口元に軽く手をあてて、笑っているのが見える。と視線が合うと、意地悪そうな笑みを浮かべた。


「っていうかさ、オレっての幻覚なんじゃなかったっけ」
「……昔のことを掘り返すのは反対です」
「病院とか検索してたわりに、今はオレに依存してるじゃん」


 依存。その言葉に、どうしてか胸が酷く脈打つのがわかった。依存、しているのだろうか。よく分からない。


「……別に、そんなことはないと思うよ」
「ウソ」


 からかうような口調、レンは笑い声をもう一度零すと、モニタを軽く指先で突いた。
 なんとなく、負けた気分に陥る。言い返そうとして、頭の中で言葉をこねくりまわす。レンは、嬉しそうに笑っていた。


「ウソじゃないって」
「ウソだよ。だって、オレ一人が聞いていればいいとか言ってさ。やっぱ、依存してるじゃん」
「ウソじゃないってば」


 なんとなく、語調が荒くなってきた。──おかしくなってくる。別に、むきになる必要なんて、どこにもないというのに。笑い声をもらすと、レンが頬に手をあて、恥ずかしそうに笑い声をもらす。
 依存かあ。依存、依存ではない。モニタを軽くつつき、口を開く。


「依存しているんじゃなくてさ、これは、たぶん」
「? なに」


 言葉を止めると、レンが続きをせかすように言葉を紡いだ。モニタをつつくのを止める。


「──好きになっていってるんだよ」


 瞬間、レンの動きが止まった。彼は一瞬にして頬を赤くすると、手で頬を包む。瞳をから逸らし、火照りを隠すようにへ背中を向けた。
 レンの焦ったような声が聞こえる。


「な、何言って……も、もう、オレをからかってさ、そんなに楽しい?」
「からかってなんかないけれどね」


 呆れたように言葉を紡ぐと、彼の肩がぴくりと震えた。震えた声音で、馬鹿、と繰り返すのが聞こえる。
 何か、変なことをいったかな。……言ったか。好きになっている、なんて、告白に近いものだ。たぶん、レンにとってはからの告白のようなものに聞こえたのかもしれない。そういうつもりは無かったのだけれど。
 あくまで、そう、きっと、レンとともに居るときに感じる気持ちは、友好的なものだろう。友達──、もしくは家族に感じるような愛情に近い、と思う。というか、それ以外だったら、困る。が。レンだって困るだろう、きっと。

 一応、弁解をしておくべきなのかもしれない。手をひらひらと振りながら、はレンの名前を呼んだ。


「……友達に対する感情的な意味で」
「──そ、そんなの、わかって……っ」


 一瞬、強く息を吸う音が聞こえたと思うと、次いでレンの声が耳朶をつく。わずかに震え、ひきつったような声だった。泣いているように聞こえる。どうしようかな、と考えて、マウスを動かす。彼の頭を優しく撫でるように動かす。彼の、押し殺したような吐息が零れるのが鼓膜を揺らした。
 少しして、レンはこちらを振り向いた。拗ねたような表情を浮かべ、でも、と言葉を紡ぐ。


「聞きたく、なかった」


 ──それは、何を聞きたくなかった、のだろう。あいまいに笑みを浮かべつつ、カーソルで頭を撫でるのをやめる。レンが、小さな声音での名前を呼び、少しして、囁くように、馬鹿、と漏らすのが聞こえた。


続く

2008/07/22
inserted by FC2 system