きっと、嘘 03


 今日は用事が長引いて、家へ帰るのが遅くなってしまった。パソコンの電源をつけ、その前に座る。立ち上がるまでの間、本を読みながら時間をつぶしている、と、耳朶に低い声が響いてきた。


「……こんばんは、マスター」
「あー……」


 本を閉じ、視線をモニタへと向ける。デスクトップ上に、昨日と変わらず、レンが立っていた。機嫌が悪いのか、頬をふくらませてと視線を交じわらせる。新緑の瞳が、の瞳から外れる。かすかに伏せられた。きっと、視線は靴にでも向いているのだろうと思う。

 夢じゃなかったのかー、なんてのんきなことを思う。まあ、もう別に幻想だとか思うつもりはないけれど。悟ったよ、──。……いや、悟ってないけどさ。

 昨日の夜。いろいろと疲れ切っていた体は、布団へ潜り込むと同時にせきが切れ、の意識はすぐに飛んでしまった。朝は目覚ましのおかげで起きることが出来たけれど、あの電子音がなければ、きっと起きることは出来なかっただろう。
 いろいろなことが重なる、それだけでこんな心労になるとは思わなかった。

 まあ、昨日の夜のうちに自分の心に決着をつけることができたのは、良かったのだろうなあ、とは思う。
 そっと溜息を吐き、モニタ前で肩肘をついた。唇に浮かぶのは、わずかな微笑みだ。

 レンが居る。それはレン廃のにとって、死ぬほど嬉しいサプライズだ。楽しまなければならない。──いつ、彼が消えるともわからないんだから。
 レンを網膜にやきつけるかのように見ていると、彼の淡い唇が開き、不機嫌な声音を紡ぎだす。


「……別に、良いけどさあ、今日は遅くないか」
「え」
「いつもはもっと、早い時間だったのに……」


 彼が何を言わんとしているのか、よくわからなかった。瞬間、唖然としたような声を出すと、次いでレンのぶすくれた声が追い打ちをかけるように響いてくる。スピーカーから。
 少しだけ考えて、パソコンを立ち上げた時間のことかな、なんて思う。弁解をしておくべき、なのだろうか。ひらひらと目の前で手を振る。


「今日は用事があったからねー」
「ふうん」


 鼻から出したような、そんな声で相槌を打ち、レンはを見た。瞳が揺れている。何かを言いたげに開いた唇が、すぐに閉じられた。
 彼は唇を尖らせて、モニタの上を軽く歩くと、に背中を向けた。華奢な体躯だと思う。十四歳にしては、身長は高い方だろうとは思うものの。百五十六センチ、四十七キロ、だっけか。
 そんなことを考えていると、レンの微かに震えた声が耳に届いてきた。


「別に良いけどさ、そういう時は一言くらいくれたって……普通、良いだろ……」
「……どうやって」


 肩をすくめる。レンの息を吸い込む音がして、言葉が止まった。彼はゆるゆると顔を振ると、に向き直る。ふてくされたような表情を浮かべて、をかすかに睨むと、視線を落とした。
 何か変なことでも言っただろうか。場を和ますために、何か言うべきなのか。
 そっと溜息を吐きだして、は口を開いた。


「レンきゅんレンきゅん」
「きゅ……っ!?」


 彼の顔が上がり、一気に青ざめる。体を抱きすくめるようにして、両手が回され、後ずさる。あれ。なんだ、言葉を選ぶのミスりましたか、
 首をかしげ、言葉を続ける。


「じゃあ、レンたん」
「たあ……っ!?」
「え、なに、いやなの?」


 レンの頬がなぜか赤く染まる。彼は肩をかすかに震わせると、力強く言葉を発した。


「い、いやに決まってるだろ!」
「えー」


 レンきゅん。レンたん。別に良いと思うんだけどなあ。かすかに首を傾けると、レンが指先をに突きつけ、「レンって呼べよ!」と怒ったように続ける。
 おおう名前呼び。コレはアレか。恋愛シュミレーションで言うところ、ときめき状態ですか。


「ハートの色は赤色なんですね!」
「な、なに言って」
「名前呼びイベントはやっぱり必須だよね。ちゃん、とかくん、とかよそよそしいッ、呼び捨てしてえええ! っていう」
「な、なに、言って……え? ま、マスター?」


 頷く。レンの戸惑ったような声が耳朶を打つ。あれー。変なこと、言ったか。
 語尾を上げ調子に、彼の名前を呼ぶ。彼はなに、マスターとだけ返して視線を下ろした。名前。ちょっと遊びすぎたかなあ。本気だったのだけれど。そっと微笑んで、は自分の名前を口にした。レンが、誰の名前、と言って顔を上げる。


の名前」


 そっと苦笑を零して返すと、レンは首を傾げた。肩をすくめて、それが何、とでも言うようだ。
 モニタに指先を突きつける。こつん、と硬い感触がして、指先は動くのを止めた。


「呼んでよー」
「……え」
「ほら、マスターじゃよそよそしいじゃん、ね!」
「……」


 呆然とした表情が、レンの顔に張り付いている。変なことを言っただろうか。昨日、今日と見えているのだから、きっと、これからも見えるのだろうなあ、なんて考えると、名前を教えておくべきだと思ったのだ。
 それに、レンの名前を知っておいて、の名前を教えないのは変だろう。
 レンは幾度か口の開閉を繰り返した後、なんで、とつぶやくように言葉を口にした。


「だって、どうせこれからも一緒なんでしょ。だったらほら、名前を教えておくべきだし、ついでだったらレンの声で呼んでほしいなあーって」
「どうせ、って……」


 レンの顔が俯く。あれ、どうせの使い方おかしかったかな。彼がなにも言わないので、も何を言うことも出来ない。沈黙が場を支配する。
 別には沈黙でも困らないけれど。読みかけていた本を手にとって、ページをめくりかけた瞬間、レンの震えた声が耳朶を打った。


「……言い方、ひどいよ……。ど、どーせ、オレのこと、気持ち悪いとか思ってるんだろ」
「へ」


 本から視線を上げる。レンがまなじりの近くに、かたちづくった拳を押し当て、洟をすすった。あれ……そんなに変なこと、言ったかな。“ひどい”言葉で思いつくものが見当たらない。“どうせ”の使い方がアレだったのか。
 レンはまなじりに当てていた手を離すと、しかめつらを浮かべた。


「どーせ、オレの消し方とか調べたんだろっ! オレ、でかいし、邪魔って、そう思ってるんだろー!」
「え、あ、ちょ」
「マスターの名前なんて、呼んでやらないっ!」


 失言、だったんだろうなあ……。
 唖然とするをよそに、大きな声を出して、わずかに乱れた呼吸を整えようとしているのか、レンは口元に手をあてていた。瞳の向く先は、やっぱりモニタの下方面、なのだろう。長いまつげが桃色の皮膚に影をおとしている。
 んー、とかすかに唸る。少しだけ考えて、そっと息を吐いた。


「……どうせ、は失言だったかな、ごめん」
「……」


 反応はない。それどころか、彼はモニタの中央で座りこんでしまった。──に背を向けて。
 背中が、マスターと話すことなんてない、という言葉を物語っている。
 あーもう、言葉って難しいなあ。国語作った人、本気で恨む。心の中でそんなことを考えつつ、は弁解のように言葉を紡ぐ。


「んー、じゃあ、これからも一緒なんだから、名前を呼んでほしいなあ。マスター、じゃなくて、の名前を」
「……なんで」


 反応があった。そっと微笑みを零して、をマウスを動かし、カーソルをレンの近くへと置いた。別に意味は無い。
 答えずにいると、レンがカーソルを手で掴み、抱え込んだ。カーソルが見えなくなる。マウスを動かしても、彼はしっかりとつかんでいるのだろう、カーソルは一向に姿をあらわさない。
 マウスから手を離す。モニタをこつこつとつま先で叩き、レン、と名前を呼んだ。かすかに彼の肩が震える。


「あのさ、、音楽的才能、ぜんぜん無いんだよねー。歌うのは好きだけどさ」


 そっと零した言葉に、レンが反応した。ふるふると頭を横に振る。音楽的才能が全然ない、という言葉に反応しているのだろうか。小さく笑みを零し、彼の優しさを感受する。
 で、と続けモニタをもう一度軽く叩いた。


「そんな時にボーカロイドに出会ったのです」
「そんな時って、どんな時だよ」
「んー、まあ、いろいろ。で、ミクにはまっていろいろ聞いていく内にレンとリンに出会ったんだよ」


 かすかに息を吐く音が聞こえた。次いで、そう、という僅かな声も。
 ──綺麗だった。あの衝撃は本当に、忘れない。
 美しい、透き通るような声、響くような旋律、心に衝撃が来るような歌詞。プロじゃない、アマチュアが作った音楽。だというのに、素晴らしい歌声と曲。魅了されたのは言うまでもない。すぐにいろんな動画を回って、多くの情報を仕入れたときには、はすっかりボカロ廃になっていた。
 も歌わせたい。あの綺麗な声で歌ってもらいたい。

 音楽的才能が無いというのに、すぐに一番好きなボーカロイドを買ってきた。それが、鏡音リンとレン。高い出費だったのに、どうしてか足並みは弾むように軽く、何度も何度もソフトが入った袋の中身を、家路のさなか覗いては笑みを浮かべていた。
 すぐにインストールして、歌わせた。簡単な曲をだ。

 さすがに、難しい、とよく言われているように、には手に負えなかった。何時間もかけて調教した二人の歌声は、全く下手、というか何を言っているのやら、というようなものだった気がする。けれど、それでも、どうしようもない充実感が心を満たしたのを、覚えている。


「レンの声もリンの声も好きだな。だから、名前、呼んで欲しいなあ。もちろん呼び捨てで! ぜひ!」
「……変なの」


 呆れたような声音だった。いやいや、せっかく心の内を明かしたというのに、それはあまりにも……ひどい……。
 肩を落とす。マスターもいいけれどさー、名前を呼んでほしいのよー、と頭の中で言葉を繰り返しながら、そっと息を零した。
 彼の、遠くへ響くような、美しい声で、呼んでほしい。

 呼んでよー、とモニタをこつこつと叩く。レンは大きなため息をついた後、小さく声を発した。


「──


 ──モニタを叩く音で、危うく聞き逃しそうになったものの、なんとか聞き取れた。レンの朱色に染まった顔がこちらに向く。これで良いのかよ、とでも言いたげに鼻を鳴らす。
 レンとの視線がからまる。


「え、うわ、ありがとー。嬉しいなあ」
「そうかよ」
「そうですー。んじゃあコレからはマスターじゃなく、名前で!」
「……なんで」


 レンの疑問を孕んだ声を、手を振り振りかわす。彼は不満そうな表情を浮かべたものの、しばらくしてこっくりと頷いた。
 黄金色の髪の毛が、挙動にそって水が流れるようにさらりと揺れる。
 了承してくれるとは思ってもいなかったので、すこし、嬉しい。胸の内に暖かなともしびが灯るのを感じつつ、は疑問を口にした。


「あのさ、ずっと見てた、ってことは、ずっと居たんだよね」
「うん」
「どこに」
「モニタの中」
「ふうん……」


 鼻から息を漏らすように言葉を紡ぐ。そうしてからモニタ場へと視線を巡らせた。どこらへんに居たのだろう。ずっと居た、が見ることのできない前から居たわけなのだから、いろいろな行動も見られていたのだろうなあ……。レンを入れたのはいつだっけ。何か月も前の気がする。
 記憶を手繰り寄せながら、はレンへと視線を向けた。
 そういえば。


「あのさ、レン、リンは居ないの」
「リン、って、オレの分身の?」
「そう」
「居るよ。ちょっと待ってて」


 疑問に間髪入れずに答えを返し、レンはデスクトップ上から消えてしまった。どこへ行ったのだろう、なんて考えながらも彼がまた戻ってくるのを待つ。すこしして、彼は何かを引きずってやってきた。デスクトップの真ん中に置き、口唇のはたに笑みを乗せ、微笑む。
 レンの持ってきたもの、それは彼の身長と同じくらいの大きさの鏡だった。


「……ほら、見える、だろ」


 レンがに背を向け、鏡の前に立つ。と、同時に鏡合わせに現れたのは、少女だった。レンではない。
 レン同様、くりくりとした大きな瞳、絹糸のようなさらさらとしたヒマワリ色の髪の毛が、白のヘッドセットに柔らかな色合いをにじませている。
 レンよりは幾分か小さいくらいの背、なのだろう。感嘆の声が漏れる。すごい。レンが得意げに微笑んで、振り向いた。


「リンだよ。これで良いだろ」
「……あ、うん……え」


 彼の自慢気な声が耳に入ってくるものの、どこか遠くで響いているように感じる。の視線は鏡に釘付けだ。
 レンはこちらを向いている。だとしたら、鏡に映る姿は、背中、でなくてはいけないのに。
 鏡の姿──リンは変わらず、の方を向いていた。瞼が一定に閉じては開く。つまり、瞬きを繰り返していた。そっと、儚い消え入るような笑みを彼女は浮かべる。に見えるようにするためか、彼女は手を頭の上まであげ、振る。
 マスター、わたし、ここにいるよ──、そう言っているように感じた。思わず言葉が止まる。呼吸も一瞬、止まった。
 リン、と本当に小さく呟くと、彼女は嬉しそうに笑う。手を頬に持って行って、はにかむように人差し指で掻いた。

 レンが「リン?」との言葉をオウム返しに呟く。鏡へと視線をうつした。とたん、リンはレンと同じ格好を取って、その場に静止する。


「……? なにか、あった?」


 レンは鏡を撫でるように手を置き、下へ滑らせてからへと視線を戻す。え、いや、と言葉をドモらせてしまう。気付かれないように鏡へと視線を向けると、リンが口元に人差し指を当てているのが見えた。黙っていて、ということ、なのだろうか。
 かすかに息を漏らしてから、頭を振る。


「ううん、何でも無いよ」
「……そ。じゃあ、鏡は戻してくるから」
「あ、うん、って、あの、ちょっと待って、ひとつ質問」
「なに」


 戻してくると言い、今さっきデスクトップ上から居なくなったことといい、彼はどこに行っているのだろうか。そのまま疑問を口にすると、レンは至極当たり前のように答えた。


「部屋があるんだよ、部屋が。オレ専用の部屋」
「……どこに?」
「あっち」


 彼の指さした方向、から見て右の方向。レンの部屋って……どういう……意味……。言葉を亡くしていると、彼は首を傾げて、「ふつうのことだろ」と語尾を若干上げ調子に問いかけてきた。
 や、普通のことって……そうなんですか、と答えるしかない。
 へえ、と生半可な返事を返すと、レンはなぜか納得いかなさそうな表情を浮かべた後、わずかに息を吐いた。

 会話が途切れる。肘をついて、「あー、えっと、それにしてもさ」と無言の雰囲気を打ち切るように言葉を発した。レンがなに、とモニタの中央に座り込む。


「鏡にリンが映ると大変だね」
「……なにが?」


 至極、不思議そうな声音だった。え。疑問に思ってないのか。


「……着替えとか……」
「別に、オレ、着替えはしなくて良いし」
「ええー。お風呂とか」
「お風呂……」


 レンは考え込むように俯くと、小さく唸った。……あ、ヤバイ、の発言は十四歳の少年に対して、かなり無粋な言葉だった、かもしれない……。今さっきのウソ、冗談! そう言おうとして開いた口を、レンの言葉が遮る。


「お風呂、って、なに」
「……精密機械ですもんね」


 水濡れ厳禁ですよね、普通。


続く


2008/05/20
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