『もし』


 メモ帳に言葉が綴られる。それを見ながら、ん、と語尾を上げて続きを促すように言葉を発すると、ためらいがちに言葉がつらつらと浮かびあがってくる。


『こうやって かいわもできなくなったら』


 文字が止まる。長い間が開く。会話が出来なくなったら、どうするというのだろう。続きを待つものの、レンはいつまでたっても二の句をつなごうとしない。レン、と小さく、急かさないように優しく名前を口にする。メモ帳に文字が現れた。


『おれのことを けしてね』


 瞬間、息が詰まった。何を言っているのだろう、そう思った。永遠とも取れるような間があき、それから、ぽつりとつぶやくような言葉が綴られる。


『やくそく だからな』


 きっと、嘘 21


 ──今日も、いつもと同じように用事を済ませてから家へと帰ってきた。正直、すごく疲れている。今にでも眠りたいくらいだ。
 けれど、と体を動かしてパソコンの前へと行き、腰を下ろす。電源をつけて、小さなため息をついた。心の中が、雲でおおわれているような、そんな思いで満たされている。陰鬱、というより、気落ちしているのだろう。

 見ることのできないレン。会話は、──今は出来ているものの、出来なくなったら、と思うと何だかおかしな気分が立ち込めてくる。
 ──会話が出来なくなったら消して、なんて、レンはどうしてそんなことを言ったのだろう、と思う。消して、つまりはアンインストールをしろ、なんて言われるとは思ってもいなかった。なんとなく真意を知りたいのだけれど、メモ帳に打たれる文字だけでは彼が言葉に秘めた感情を理解できない。

 訊くのは、彼が見えるようになってからするべきだろう。そうやって考えて、小さく息を漏らす。

 声を聞きたい。姿を見たい。笑っていて、欲しい。
 ……考えて、思わず笑ってしまった。何を考えているのだろう、本当に。レンがの生み出した幻想で無いと、言いきれないのに。こんなことを言ったらきっと、彼は怒るだろうけれど。
 「まだ信じていないのかよ」、「オレはずっとここにいたよ!」と言って。

 その姿が安易に想像出来て、なんとなく頬がゆるまるのを阻止出来ない。パソコンが立ち上がりを終わり、少ししてからデスクトップ上にメモ帳が出てきた。すぐに文字が表示される。


『おれのこと みえてないだろ』


 断定的な口調だった。苦笑を浮かべて、頷く。レンがやっぱり、と小さく言葉を綴り、あのさ、と二の句を続ける。


『きょうは なにをするわけ』
「何しよう。レン決めて良いよ」
『おれが きめていいの』


 頷くと、小さな間があいた。きっと、レンが何かしらを考えているのだろうと思う。それを、ほんの少しだけ微笑ましく思いながら、はモニタから視線を逸らした。パソコン近くにある、鏡音リンレンのパッケージを手に取った。絵を見る。活発そうな男の子と女の子が、腕を組んで背中合わせに立っていた。嬉しそうに笑いながら。
 それをじっと見ていると、なんだか悲しくなってきた。パッケージをそのまま、先ほど置いてあった場所に置く。それからモニタを見る。

 まだレンは考えているのだろう、メモ帳には新たな言葉は浮かんできていない。
 それを見るともなく見ながら、は小さなため息をついた。それから少しして、メモ帳に言葉が浮かんできた。


『どうかしたわけ ためいきついてる』
「ん? ああ、うん……」


 問いかけに、にごすような言葉を返す。するとすぐに、メモ帳に言葉があらわれた。


『なんだよ きになるだろ へんなことでもかんがえていたわけ』
「へ、変なことって……違うよ」
『だったら はやくおしえてよ しりたい』


 メモ帳に矢継ぎ早に表示される言葉を見ながら、なんとなく浮かんできた苦笑をそのままに、は口を開く。


「他のマスターさんのところとか、見えているのかなあって」
『なにが』
「レン、それにリンとミク、メイコにカイト。五人いたら大変だなーっと」


 たぶん五人もいたら、画面は五人のせいで半分くらい埋まるのではないだろうか。小さなモニタだったら、全部かもしれない。それを思うと、なんとなく笑えてくる。小さく笑い声を零して、どう思う、と問いかけると、レンはわずかな間を置いてから、小さく言葉を紡いだ。


『どうおもうって みえないとおもう』
「えー。なんでー?」
『だって わたしのいえのぱそこんのなかに ぼーかろいどがいるんです なんて きいたことないだろ』


 まあ、うん、聞いたことはない。頷くと、レンは「ほら」と言葉を続けた。なんとなく、彼は得意そうにしているのではないかなあ、と思う。
 レンの言うことはもっとも、なような気がするのだけれど、たとえ見えていたとしても、自分の頭がおかしくなっているのでは、と思う人の方が多いように思える。誰かに言っても、きっと信じてもらえない、そう思ってひた隠しにするような人も居そうな気がするのだけれど。

 疑問が首をもたげてくるものの、別にいま考えても仕方のないことなので直ぐに考えを打ち切る。そうだね、と同意するような言葉を続けた。


『だから ほんとうは いまだってしあわせなんだよ ほかのぼーかろいどよりも』
「……そうだねえ、普通は会話なんて出来ないもんね」
『でも やだ』


 軽く笑って返すと、間髪入れずに言葉が返ってきた。


『やだ すごくやだ じぶんでもすごくわがままだってわかっているけれど やだ』


 素早く表示された言葉に、かすかに驚いてしまった。レンは「いやなんだ」と続け、言葉を止める。
 何を言えばいいのかな、と考えて首を小さく傾げる。レンはそれきり何も言わず、──の言葉を待っているように思えた。きっと、何か、言えばいいのだろうと思う。けれど、何を? その何かがわからないし、訊くこともできないので、途方に暮れてしまう。

 も無言になってしまった。沈黙が部屋に満ちる。レンは、わがままを恥ずかしく思っているのだろうか。だとしたら。小さく息を吐いて、は呟くように言葉を発した。


もわがままを言わせてもらおうかな」


 返事は無い。それで良いと思う、どうせ今から言うのは独り言のようなものだし、レンが聞いていようが聞いていまいが、良い。……いや、慰めるために口にする言葉なんだから、聞いてもらわなきゃいけないかもしれないけれど。
 すっと息を吸うと、はモニタをじっと見つめた。


「レンと話したい。メモ帳じゃなくて、声で。それに姿も見たい。出来れば笑い顔が見たい」


 ──パソコンに向かって、こんな風に一人で言葉を喋っているところを誰かが見たら、おかしな人だと思うんだろうなあ。
 頭の片隅でそんなことを思いながら、言葉を続ける。


「で、あとは……そうだなあ、触れたいなあ。頭を、カーソルじゃなくて、の手で撫でたい」


 それこそ凄い勢いで。そう続け、かすかに笑う。少しの間を置いて、メモ帳に言葉がタイピングされた。


『うん』


 頷いてくれたのだろうか。少なくとも、聞いているよ、ということを表わしたくて相槌を打ったのだろう。笑って、言葉を続ける。


「あ、そういえばこっちに来たいんだよね。こっち来たら、ほら、服を買うね、レンに」
『うん』


 素直に相槌を打ってくれると、嬉しい。頬をしまりなく緩ませながら言葉を続ける。


「もちろんの趣味で。猫耳とか、探しておくから!」
『へ』


 言葉を紡いで少ししてから、唖然としたような言葉がメモ帳にあらわれた。きっと唖然、というか怪訝そうな表情を浮かべているのだろうなあと思う。その様子を想像しながら、は言葉を続けた。


「メイドとかでも良いよ! ご主人さま朝ですよ起きて下さい……って言ってくれますよね!」
『ちょっとまって』
「むしろ、起きろこのヘンタイ! でも良いよ、うん」


 にやにやしながら言葉を続ける。レンの返答が途切れた。たぶん、怒っているだろうと思う。そうだったら良いのに。

 悲しんでいるよりは、怒っているほうがいいだろう。悲しんでいると考えが沈んでいくし、重苦しいことしか浮かばなくなる。怒っていたら──、まあ、感情的になるにしても、うつうつとしたことは考えないだろう。だったら、その方が良いに決まっている。

 たぶん、次にくる言葉は「へんたい!」だろうなあ、なんて思いながら彼の罵声を待つ。別に罵声が嬉しいわけではないけれど、少しでも元気を取り戻してくれた様子がそれからわかるなら、良い。
 文字が、のろのろと表示されはじめた。


『ありがとう』


 ……何がありがとうなのだろう。予想もしていなかった答えが返ってきて、変な声を出してしまう。
 すこしの間を置き、ためらうように、やはりのろのろとしたスピードで言葉がメモ帳に描かれていく。


『なぐさめてくれたんだろ』
「……本心から言っていたって言ったらどうするんですかと」
『それでも ありがとう』


 レンがおかしくなっているような気がする。いつもだったら「へんたい!」や、「ばか!」とか言って怒ってくるのに。小さく、レン、と僅かな問いかけをひそめて名前を呼ぶ。少しして、先ほどとは違い、早口に言っているのか、素早く文字が表示される。


『ふほんいだけど うれしかったよ』
「……そ、っか」
『へんたいがいうようなことばなのに おれ どうしちゃったんだろう』


 こんな言葉が嬉しいなんて、と続け、レンはだまった。文字の横で細い線が明滅を繰り返す。それをすることもないので見ながら、は片肘をついた。文字が、やはりのろのろとタイピングされていき、言葉があらわれる。


『おれも へんたいになっちゃったのかな』
「それはないね、ないない」


 即座に否定をすると、少しの間をおいて、「そうだよね」という言葉が綴られた。


『おれが へんたいになるわけ ないもん』
「まあね。そうだね」


 たぶん姿が見えていたら、レンは腰に手を当て、胸を軽く逸らし──いつもの、不遜な表情を浮かべていたのだろうなあ、と思う。想像でしかないけれど、先ほどの言葉にぴったりとそのイメージが当てはまる。
 やばいなあ、なんて苦笑を零しながら、レン、と名前を呼ぶ。すぐに、「なに」という言葉が返ってきた。

 ……何も言うことが思い浮かばない。呼んだだけー、と軽く笑うと、「なんだよそれ」と呆れたような言葉が紡がれた。も自分に問いかけたい。なんとなく呼びかけたくなったのだ。
 なんだか、変なことをしてしまった。無言に、困ったような笑みを浮かべる。


『ねえ あのさ』
「ん?」
『みえるように また みえるようになったら ききたいことがあるんだけれど』


 言葉が止まる。見えるようになったら、かあ。今じゃダメなのだろうか。そのまま問いかけてみる。


「今じゃだめなの?」
『だめ おれのこえでいいたいし それに ちゃんとかおをあわせていいたいもん』


 なにを言うつもりなのだろう。疑問が思い浮かぶものの、問いかけることはせずに胸へと蓄積させた。
 見えるようになったら言ってくれるのだし、それを待つべきだろう。楽しみにしてるね、と言葉を零すと、少ししてメモ帳に「うん」という言葉が表示された。


続く

2008/08/02
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