きっと、嘘 22


 モニタを立ち上げて、少し妙なところに気づいた。背景画像の一部が、黒く、色を発していない部分がある。
 小さい、本当に小さな──ドット欠け、だろう。前までは気付かなかったのに、なんだか一度目に入るとそれだけしか気にならなくなる。指先でドットが書けた部分を触りながら、首を傾げる。

 気付かなかった、というより、無かったはずだ。今まで使ってきたものなのだから、普通は気付くだろう。んー、と小さな声を発しながらドット欠けを指先で軽く叩く。硬質な音が鳴った。

 どうしたらドット欠けって直るんだろうか。直らないといやだ、正直。見るたびに、何とも言えない気分になるし、なんかこう、引っかかる。
 というか、無かったよね……無かったはずなのに……。

 ドット欠けは、右の端方向、真ん中よりいくらか下当たりにある。……まあ、真ん中とかでなくて良かった、と思う。小さく吐息を吐くと同時に、右端から何かが姿を現した。

 一瞬だけ、息を呑む。誰か、──レンは、と視線を合わせると、眉尻を下げながら、泣きそうな表情を浮かべた。


……」


 彼ののどが小さく動く。レンは首を振ると、モニタ上をぽてぽてと歩き、メモ帳を開いた。画面の中央当たりにメモ帳が表示される。レンはへ背を向けて、言葉を紡いだ。


「オレのこと、見えてないだろ……っ」


 声が、どうしようもなく震えていた。泣きだす寸前、そう言えば良いのかもしれない。
 メモ帳に、少しして彼の紡いだ言葉が表示された。おれのこと みえてないだろ──。
 ──断定するような口調だと思っていた。言いきるようなはっきりとした口調だと。けれど、違う。レンは泣きそうな、上ずった声で、その言葉を口にしていた。

 レンが振り向く。瞳が潤んで見えた。はメモ帳へ視線を移し、大きく息を吐いた。


「……ごめ、なんか、見えてる、っぽい」


 なんとなく、変な声が出た。レンの目が見開く。次いで、端正な顔が歪んだ。
 ──どうして見えているのだろう、と思う。急に見えたり、急に見えなくなったり、また、急に見えだしたり。……不安定っていうか、なんと言えば良いのだろう。
 ただ、また、見ることが出来て嬉しい、というか、安心した。

 正直、自分ではまた見えた時、変なことを言いそうだなあ、と思っていたのだけれど、何を言葉にすることもなく、ただ唖然とするしかなかった。
 レンもそうなのだろうか。ネクタイを指先で弄び、シャツの端を伸ばすように持ったり、──視線を縦横へと彷徨わせていた。

 ドット欠けを突いていた指先を離し、マウスを動かす。カーソルを彼の頭の近くでドラッグし、優しく撫でた。二、三度繰り返し、離す。


「やったね」


 なんとなく、軽い口調になってしまった。もっとほかに言う言葉とか、それに乗せる感情だってあっただろうに、口を突いて出たのはその言葉だけだった。レンの顔が、歪む。
 彼は泣きそうな表情を浮かべた。それから、何を思ったのか、ネクタイを掴んでいた手のひらで頬を掴み、持ちあげる。口唇の端が持ち上がった。


「……やった……」


 不格好な笑みが、彼の顔を彩っている。レンは瞳を潤ませて、頬から手を離した。強引な笑みではなく、自然な優しい色が、彼の表情に広がっていた。


「……嬉しい、のに、おかし……い、オレ」


 レンの瞳から、ぽつりと涙が一滴、頬を伝って落ちていく。それはレンの足元へと落ちて、にじみ、黒くなった。──これって、もしかして。さっきの──、


「ねえ」


 考えを遮るかのようにレンの声が響く。知らない内に涙の痕へと向いていた視線を戻し、彼と視線を合わせた。レンは手の甲でまなじりをぬぐい、笑う。


「今日は、どんなことをするの?」


 なんとなく、その言葉に苦笑を浮かべてしまった。それがレンの気に障ったのだろうか。彼は眉を逆立て、けれど直ぐに柔和な表情へと変え、微かな笑い声を漏らす。それから、自身の肩に手を当て、恥ずかしそうにから視線をそらす。


「オレとしては、ずっと話して居てもいいけれど」
「……そうだね」


 軽く笑って言葉を返すと、レンはますます嬉しそうに笑った。けれど、その笑みとは裏腹に、彼のまなじりは濡れ、赤くなっている。彼は、瞼から涙が零れおちそうになるたびに、それを慌てて手の甲で拭った。それからを困ったように見て、やはり困ったように笑う。


「その、ごめん」


 申し訳なさそうに紡がれた言葉に、首を傾げてしまう。ごめん、って、何がなのだろうか。詮索を入れてみようかと思ったけれど、止める。言葉に拒否するような響きは無かったけれど、別に聞くこともないだろう、と思ったのだ。
 レンの瞳の色が揺れる。彼はそっと瞳をわずかに伏せると、口唇の端に笑みを乗せた。花がほころぶような、そんな優しい笑みを浮かべる。

 とても綺麗だと思った。それを口に出すことはしなかったけれど。呼応するように、曖昧な笑みを浮かべる。


「──そういえば、なんで、消してって言ったの?」


 無言が間に落ちてきて、どうしようもなくなりながら、言葉を口にする。レンは伏せた瞳をゆるゆると上げると、苦笑を零した。
 ……訊いちゃいけないことだったのかな、なんて思う。いや、でも、気になっていたことだったし、今、訊かなかったら多分、ずっと心に突っかかって残るだろうと思ったのだ。

 レンは恥ずかしそうに頬を染めて、指先で軽く頭を掻いた。


「言わなきゃ、駄目、かな」
「言わなきゃだめっていうか、知りたいかなあ、って。……嫌だったら、言わなくてもいいよ」


 困ったように紡がれる言葉に、こちらとしても困ってしまう。の好奇心はレンを困らせているようだ。やっぱり良いよ、と軽く笑って言葉にする。
 レンは、なぜか小さく吐息を零した後、軽く首を振った。


「言うよ、ごめん。でも、その……」


 呆れないでよ、約束だからね。──そう続けてレンは小指をに向って突き出してきた。それに軽く笑いを零して、の指先を彼の指先へとくっつける。指先にモニタの熱がじんわりと伝わってくる。レンは満足がいったように、嬉しそうに笑みを浮かべた。
 レンの指先が音もなく離れる。それを見てから、も指先を離した。


「……話せなくなるのも、オレの姿を見てもらえなくなるのも、やだった」


 吐息とともにこぼされた言葉は小さくて、危うく聞き逃しそうになった。


「どんどん、オレ、わがままになっていくんだ。前までは──」


 レンは首を振り、軽く俯いた。深く息を吐く音が、スピーカーから漏れてくる。


「見えなかった時は、オレをが調律してくれるだけで良かった」


 前にも言っただろ、と小さく零し、レンは続ける。


「でも見えるようになって、話せるようになって、の性格とか、話すときの声とか、口調とか、全部全部知っていくうちに、もっと、いろんなことをしてほしくなった」


 早口に紡がれた言葉は、わずかに喜色を含んでいた。レンは顔を上げると、軽く笑い声を零す。


「触れたいって思うし、そばに居たいって思うし、いろんなことをしたいって思って、オレ、そういうことばっかが居ないときに想像して、寝るときとかも、ずっとのことばっか考えているし……。だから」


 レンの声がわずかに上ずる。彼は顔を歪めると、俯いた。ひっ、と引きつったような声が、スピーカーから漏れてくる。じわりと、何度も何度も、彼の悲しみの色が、にじんでくる。
 レンの手が動き、彼の顔へと持っていかれる。覆うように、手で顔をもったのかも知れない。泣き声が、わずかにくぐもった。


「見えなくなったとき、怖くなったし、どうしてって思ったし、オレ、また、前に戻るのかと思った」


 ──には、レンの恐怖は、はかり知れない。悲しいと思ったし、それに彼に会えなくて本当に嫌だったけれど、それでも、彼の感じた恐怖には負けるだろう。
 悲しむ気持ちに優劣はないかもしれない。ただ、目の前でに涙を見せまいと顔を俯かせて泣くレンを見ていたら、そういった気持がわいてきた。

 マウスを動かして、彼の頭を撫でようとして、思いとどまる。レンは洟をすすると、言葉を続けた。


「前に戻ったら、また話せなくなるし、オレの気持ちも、ちゃんと伝えられなくなるし、全部全部、最悪な方向にばっか向かっちゃうし……」


 でも、と彼は続け微かに笑う。


はオレと違って、いろんなものが傍にあるし、歌うことだけしかできないわけじゃない。飽きられたら捨てられることもないし、誰かの意思で消されることもない」


 いろんなもの、というのはどういうことなのだろう。それに、飽きられたら捨てられる、誰かの意思で消される──これは、アンインストールのことを言っているのだろうか。
 レンやリンはボーカロイドで、正直、容量は大きい。インストールされ、使われなくなったら、アンインストールをされる。自分の意思ではなく、誰かの意思で消されてしまうのだ。

 でも、それはしょうがないことだろう、と心のどこかで思ってしまう。しょせん、彼らはヒトではなくモノであり、誰かに気持ちを伝えるすべなど、持ってはいないのだ。
 レンはそれをわかっているのだろう、くぐもった笑い声を発して、つぶやくように言う。


「オレが見えなくなっても、はオレやリンを起動し続けて、いっぱい歌わせてくれるかもしれない。けど、けどさ、駄目なんだもん……」


 それじゃあ嫌なんだもん、と続け、レンは喉を震わせた。


「いっぱい、幸せなことを知っちゃったから、前には戻れないし、戻りたくもない」


 そう言って、レンは顔を上げた。眉尻を下げ、それでもなんとかして笑みを浮かべている彼の表情は、どこか寂しさがにじんでいた。
 ──前には戻れないし、戻りたくもない。なんでか、その言葉が頭の中で反響する。困ったような、それでいて悲しみを孕んだ声音に、吐息を吐くように紡がれた言葉だった。

 それが、アンインストールしてほしい、という事実にどう繋がるのだろうか。考えてもあまり分からないし、彼の二の句を待つ。


「──だから、見えなくなったら消してほしくなった」


 そう言うと、レンはと視線をしっかりと合わせた。真摯な表情が浮かんでいる。翡翠の色が揺れ、やわらかな青と緑の色を描き出すのに、目が奪われる。


と話して、いっぱい約束して、幸せだったから、もう、前みたいになるのは嫌だった」


 レンがそっと手のひらをモニタへとくっつける。


「見えなくなって、話せなくなるくらいだったら、消してほしかったんだ。──の手で」


 レンの顔が、くしゃりと歪む。彼は困ったような笑みを浮かべながら、モニタから手を離した。指先で軽く突き、やはり困惑を声に乗せて言葉を紡いだ。


「わがままだろ。……呆れた?」
「そんなことは無いよ」


 僅かな震えを持って問いかけられた言葉に、首を振って返す。レンは軽く笑うと、良かった、と呟いて、拳を形づくってモニタを軽く叩いた。嬉しそうに、わずかなリズムを持って、レンは何度かモニタを叩くと手を離す。


「じゃあ、その、何をする? 本当に、オレといっぱい話す?」
「ん、そうだね。話そっか。レンはそれが望みみたいだしね」


 先ほどまでの雰囲気を一掃するように、からかうような言葉を口にすると、レンの頬が瞬時にして赤くなった。彼はモニタから少し離れると、を指差す。柳眉を逆立て、彼は口を何度か開閉し、言葉を紡ぐ。


「のっ、望んでなんかっ、な、なななないし、何言ってんのっ」
「えー、でも、ほら、と話せなくなったら消してとかさあ」


 頬が、しまりなく緩むのを止めることが出来ない。──嬉しい。すごく、嬉しかった。
 レンの言葉の一つ一つが、すっと胸の奥に落ちていく。わがまま──、そう言っていたけれど、はそうは思わない。彼はことあるごとに、ひそかな望みをわがままだと称しているような気がする。

 誰かと喋ること、誰かに触れたいと思うこと、そういったことを全て、わがままだとして、心の奥底にしまいこんでいるのだろう。そんなことはないというのに。
 レンが望むことはいつだって、優しくてかわいらしくて、けれど、とうてい叶うことのないものだった。

 そんなことを考えながら、そっと吐息を肩に落とす。レンには聞こえていなかったようだ。彼は赤くなった頬を、なんとかして冷まそうと苦労している。手の甲を頬に当て、もう片方の手で顔を仰ぎ、次いでと視線を合わせると、鋭く見据えてきた。
 いつもより赤い唇が動き、彼の柔らかな高い声が響く。


「ほ、本気で、そういうのやめてよね……。っていうかさあ、は──」


 レンの瞳が逡巡するように動く。は、なんなのだろう。がどうしたと言うのか、続きが気になる。
 レン、と彼の名前を出来うる限り優しく呼ぶ。彼は一瞬、居心地悪げに身をよじった後、小さな声で言葉を続けた。


は、オレとおんなじ気持ちじゃ、無いわけ?」


 レンはそう言った後、頬を軽く染めて視線を下へと向けた。掌が軽く彼の服の裾を掴んでいるのが見える。しわが柔らかく刻まれた。

 おんなじ気持ち──、なんとなく笑いを零してしまう。耐えきれずに小さく笑い声を零すと、レンがきっと眼光を鋭くして見つめてきた。怒らせてしまったのかな。
 同じ気持ち、そうなのだろう。きっと、そうだ。


「……同じ気持ちだよ、レンといっぱい話したいな」
「……っ」


 言葉を発した瞬間、レンの顔がほころぶ。彼は嬉しそうに眼をつむり、喜びを噛みしめるようにくぐもった笑い声を零してから、瞼を開いた。目を細めてを見て、首を軽く傾げながら、笑った。
 その笑みに呼応するように、笑う。レンは少ししてから、困ったように頬を自分の手でつかんだ。口唇のはたを下ろそうと必死になっている。に背を向けた。笑い顔を見られるのが、恥ずかしかったのかもしれない。

 それに何となく笑みを深くしながら、マウスを動かした。彼の頭を撫でる。レンは一瞬だけ身体を震わせ、次いで、わずかに振り向き、唇を尖らせた。不機嫌そうな表情が浮かんでいる。


「じゃあ、何を話す?」
「……ん……」


 視線が逸らされる。彼は小さな声を漏らすと、不機嫌そうな表情をますます深くしながらも、吐き捨てるように呟いた。


「……馬鹿」
「馬鹿について話すの?」
「ち、ちが──」


 レンが慌てたように振り向き、の表情を見て肩を落とした。
 自分でもわかっている。今、はどうしようもなくニヤニヤしているのだろう。楽しい、すごく。──レンをいじめることが、ではなくて、レンと話すことが。


「……変な顔」
「そうですか」
「……ほんとだよ、本当に変な顔。変な顔過ぎ」


 そこまで言わなくても良いんじゃ、と思う。思わず乾いた笑いを零してしまう。
 レンはかすかな溜息を吐き、それからをじっと見つめた。青と緑が混じって揺れ、美しい色で瞳を彩る。


「そういう表情、オレ以外に見せちゃ駄目だからね。絶対ヒかれるし」
「……そうですかね」
「そうだよ、そうに決まってる。オレだからヒかないんであって、他の人が見たらやばいヤツ、って思われるよ」


 たたみかけるように言葉を口にされて、なんとなく引きつった笑いを浮かべてしまう。
 そ、そこまで変な表情を浮かべていたかなあ。ニヤニヤしていたのはわかるにしても……。んー、と小さな声を発して、頬を掴んでみる。鏡の前で笑ってみようかなあ、なんて変なことを考えてしまう。……いや、でも、鏡の前で頬をしまりなく緩ませるのはさすがに……ちょっと……。

 そこまで変だった、と問いかけを口にしようとして、レンに遮られた。


「──オレだから、許せるんだもん……」
「そうなのかなあ」
「そうだよっ。お、オレだから、のこと、いっぱい分かってあげられるし、変なことしたって許せるんだからな! いっぱい、全部、分かってあげられるのは、オレだけなんだからな!」


 焦ったように言い切られた言葉に、なんとなく笑ってしまう。レンは怒ったように唇を尖らせて、から顔をそむけた。
 それを見ていて、なんとなく、前に言われたレンの言葉が思い浮かんだ。深く考えず、そのまま言葉を口にする。


「──に依存してるー?」


 軽く笑いながら、問いかけた言葉だった。それなのに、レンは頬を一瞬にして赤くさせると、困ったように手の甲を頬にあてる。
 そんなこと、とドモるように言葉を続け、困ったように瞳を逡巡させた。視線が合うと、泣きそうな表情を浮かべられる。なんで、そんな表情を浮かべるのだろう。レン、と語尾を上げ調子に問いかける。彼の体が盛大に震えた。

 ごめん、嘘だよ。そうつづけようとして、けれど、レンが口を開いたので言葉を喉の奥に押し込む。レンは口の開閉を繰り返し、それから吐息を零した。


「い、依存じゃなくて、も言っていたけれどさ……」


 レンはそこまで続け、息を吐く音に乗せて言葉を続ける。


「好きに、なって行ってるんだよ。いっぱい。……すごく」


 レンの視線がのそれと絡まる。彼は長い睫毛を伏せ、頬に斜方状の影を落とすと、口元に笑みを浮かべた。


「前よりも、もっともっと。ずっと、好きになっていっているんだ」


 が前に言った言葉と大体同じようなものを繰り返し、レンはそっと瞼を閉じた。
 ──なぜか、その言葉は重石となっての心にずしりと圧し掛かってきた。


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2008/08/05

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