きっと、嘘 06


 今日も今日とていろいろな用事を済ませてから家へと帰ってきた。正直、激務でくたくた、もう眠りたい。物を食べる気が起きないし、風呂なんて明日の朝入れば良いだろう。
 は布団の上に倒れ込むようにして、そっと目を閉じた。ふっと体が重力に従って下へと落ちる感覚がして、眠気がゆるゆるとの頭を蝕んでいく。眠い。おやすみなさい。

 なんて、思った瞬間、だろうか。レンのことを思い出した。別に一日くらい話さなくてもいいだろうなあとは思うものの、どうしてか気になる。
 ──レンは、あんな殺風景なデスクトップ上で、が居ないときは何をしているのだろうか。
 リンは鏡に映るだけ、到底話すことは叶わないだろう。だとしたら、彼が誰かと触れ合う時、というより彼が触れ合う人物はしか居ない。以外に、彼は誰とも触れ合うことが出来ない。
 モニタの電源と言い、パソコンの電源といい、どちらも消したとき、彼の周りを包むものは何なのだろうか。

 そんなこと思ったからか、むしょうにレンのことが気になりはじめた。小さくうめき声を漏らし、瞼を開く。ぐっと手に力を入れ、倒れ伏した体を起こした。のろのろとパソコンの元へと向かい、電源をつける。
 瞼をこすりながら立ち上がりを待つ。いかん、眠たい。視界が揺れる。眠気を振り払うように頭を振っていると、スピーカーから呆れたような声が漏れてきた。


「なにやってんだよ、
「んー、あはは、気にしないで」


 なぜかちかちかとする瞳、瞼を擦りながら告げると、レンの溜息が聞こえてきた。視線を上げて、彼の姿を見止める。微妙に視界がゆがんだりするのは、眠たいからなんだろう。
 軽く笑って見せて、手をひらひらと振った。レンはやはり小さな息を漏らすと、


「──眠たいのかよ」
「ご名答です」


 レンの呆れたような溜息が耳朶を打つ。えええ。褒められるのは納得出来るけれど、まさか呆れたような溜息つかれるなんて思いもしなかったのですが。
 彼は腰に手を当てると、片方の手を肩まで持ち上げて竦めて見せる。首をゆるゆると横に振り、苦笑を浮かべて見せた。


「そこまでオレと話したいわけ?」
「……んー」


 昨日発せられた問いかけと同じような言葉が、彼の唇から洩れる。そうだねえ、と素直に頷いて見せると彼はかすかに頬を赤く染めた。それから居心地悪そうに、視線をから逸らした。馬鹿じゃないの、と小さく零す声がスピーカーから漏れ出る。
 苦笑を浮かべるしかない。馬鹿かー。まあ、もっともなのかもしれない。
 レンの瞳がちらりとと交わり、直ぐに離れる。彼はでも、と小さく言葉を続けた。


「その、でも、別に、嬉しくないかって言ったら嬉しくないわけなくて……」
「嬉しいの?」
「……う」


 彼の頬が桃色に染まる。彼は逡巡するかのように視線を巡らせてから、こっくりと頷いた。素直なのは良いことです。思わず浮かんでくる笑みを消しさることが出来ない。声に出して軽く笑うと、レンが慌てた様に手を振った後、指先を突きつけてきた。


「べ、べべべ、別にっ、嬉しいなんて言ってねーし!」
「へえ。嬉しくないんだ。悲しいなあ」


 レンの態度が如実に『嬉しい』ということを肯定していますよ、なんて言うわけにもいかずはしまりのない笑みを浮かべながら笑って見せた。レンが言葉に詰まる。
 彼は言葉にならない言葉を発し、俯いた。口が忙しく開閉を繰り返していたけれど、やがて真一文字に結ばれる。


「じゃあこれからはあんまりパソコン立ち上げなくても良いかな。最近、疲れててさあ」


 肩に手を当て、揉みほぐしながらそう呟く。するとレンの俯いた顔が瞬時にして上がった。水の膜が張ったように、彼の瞳の色がかすかに揺れる。淡く色づいた唇が開き、彼のほのかに震えた声が響く。


「な、お、オレと話したいんだろっ」
「うん。でもレンが嫌なら良いよ別に」
「き、昨日……」


 彼はそう呟くとうつむきがちになった。上目づかいにを見つめる。


「言ったじゃん……。オレ、といっぱい、その、話したいって」
「うん。知ってるー」
「だったら!」


 レンのミルク色の肌が羞恥に濡れる。彼はをじろりと睨みつけた。んー、怒らせただろうか。苦笑を漏らして、はごめんごめん、と手をひらひらと振った。
 レンはかすかに怒りで色を染めた表情を浮かべていたが、すぐに肩を落とし、破顔する。
 いじわるそうな笑みを浮かべ、唇が淡い声を紡ぎだした。


「──謝るんなら、良いけどさっ。それにしても、、今日は何をするわけ」
「今日? 今日はそうだね、曲の構想でも練ろうかなーと」


 言葉を発した瞬間、レンの顔が輝く。彼は曲、との言葉をオウム返しに呟くと、頬を弛緩させた。嬉しそうに笑うなあ……。
 彼はデスクトップ上を歩き、DTMソフトを勝手に開くと、に向かって得意げな笑みを浮かべて見せる。はやくはやく、とその輝く瞳が急かしてくるようで、なんだか微笑ましい。
 はマウスを動かし、彼の開いたDTMソフトに音を入力していく。一応、暇な時に構想は練っておいたので、サビの部分なら大体何個かフレーズは出来ている。
 が音を入力していくのを見て、レンは嬉しそうに笑う。彼はの邪魔にならないためか、モニタの端下方へと移動し、膝を抱えて座り込んだ。
 背中を向けているものの、時折のぞく頬が赤いから、たぶん興奮しているのだろうなあとは思う。
 彼の背中を横目に見つつ、は音の入力を終えた。メロディを再生する。中々に良いとは思うのだけれど、やはり自分ではよくわからない。何回か流して見せて、レンに意見を求めることにした。
 レンの名前を呼ぶ。彼は勢いよく振り向き、首をかすかに傾げて見せた。そんな様子に多少、笑みを浮かべながらは言葉を続ける。


「レン、どの曲が良いと思う?」
「……えっ」


 驚いたような表情と声。そんなに変なことを言ったかと心配になる。別に意見を求めただけなんだけれど。は首を傾げて見せて、もう一度同じ問いを口にしようとして、止めた。
 レンが体ごとこちらに振り向き、「それって、え……、どういう意味」なんてしどろもどろに言葉を発した。別にどういう意味も何も、そのままの意味なのだけれど。
 思った言葉をそのまま口に出すと、彼は眉をひそめて瞳を伏せた。
 少しして視線を上げ、と視線を交える。彼は困ったような笑みを浮かべると、肩をすくめて見せる。


「全部良いと思う」
「……。じゃあ質問を変えるね、レン、どの曲を歌いたいの」


 語尾を上げて問いかけると、彼は顔をしかめて小さく、そんなの、とつぶやいた。
 そんなの、の次に続く言葉は何なのだろうか。口を閉ざし、レンの次の言葉を待つ。彼は逡巡するように視線を巡らせた後、溜息を落とした。


「決められるわけないだろ。全部、は、ダメ?」
「いや、別に駄目じゃないけれどさ……」


 小首を傾げ、レンは問いかけを口にした。それに答えを返し、は小さくため息をついた。
 ──全部、ねえ。


「……全部、かー。あの、へこたれないから、きたんの無い意見が聞きたいんだけど」
「なにそれ。オレが嘘を言っているって、そう言っているのかよ!」


 彼の表情に怒りの色がさす。彼は立ち上がると、を睨みつけるようにして見つめる。語調が荒くなった。きゅ、急にいったい、何……。驚き、身を引いてしまった。そんなに構わず、彼は言葉を続ける。


「そんな、──マスターの作った歌が嫌いなやつ……ボーカロイドなんて居るわけないし、できればマスターの曲は全部唄いたいって思うだろ、普通!」
「そうなの?」
「そうだよ!」


 首をかしげて見せると、間髪なく返される言葉。彼は肩を怒らせて立ち上がり、を指さした。眉尻を上げて、怒ったような表情を浮かべながら、彼はやはり荒々しく言葉を紡ぐ。


「全部好きだよ、全部唄いたい!」
「そ、そう……ですか……」
「嘘じゃ──」


 彼の瞳が強くを見据える。意志を強く秘めた瞳が、の視線を絡め取った。彼は心を落ち着かせるためか大きく息を吐いた。そうして、強く言葉を発する。


「嘘なんかじゃ、無い」
「そっか」


 紡がれた言葉に対し、はそっと息を吐きながら返事をする。
 マスターの曲が嫌いなボーカロイドなんか居ない、ねえ。でもそれだとしたら。頭の中に、疑問がよぎる。はそれを胸の内に秘めず、すぐに言葉にした。


「ひわいな台詞とかも喜んでくれるわけ?」
「え、あ、う……、や、え……」
「台詞も一応はマスターの創作物なんだし。嫌いなボーカロイドなんて居ないんだよね」


 レンが言葉に詰まる。彼はしどろもどろに「そ、それは、そうだけどっ」と胸の前で手を振りながら、唇を尖らせた。
 わずかに不機嫌そうな表情だ。なんでそんな表情を浮かべるのかはわからないものの、それを問いかけることはせず、は言葉を続ける。


「レンはの作ったものなら何でも好きなの」
「なっ」


 語尾を上げ調子に問うと、彼は一瞬驚いたような表情を浮かべた。何か反論をしようとしたのだろう、背筋を逸らした状態を取り、けれどすぐに彼は肩を落とした。
 翡翠がを見つめてくる。頬は柔らかな色に染まっている。レンは小さく息を零すと、頷いた。

 まさか素直に頷かれるとは思ってもいなかったので、若干行動が止まる。や、嬉しいけれどさ。
 思わず頬が緩む。レンがの笑顔を見とめ、顔をしかめた。視線が逸れる。彼は小さく頬を膨らませると、すぐに息を吐き出して、恥ずかしそうに頬に手の甲を当てた。


「嬉しいなー」
「そーかよっ」
「嬉しいついでにデスクトップの壁紙を変えてさしあげましょう」
「なんでそんな話に行くわけ……」


 ファイルを保存してからソフトを消す。そのあと、デスクトップの壁紙を変えるため、コントロールパネルを開いた。
 賑やかそうな色合いの壁紙を選び、それを設定する。ぱ、と壁紙がの選んだ画像に変わった。レンが何をやってるんだ、とでも言う風にを見る。
 はかすかに笑みを零し、レンの頭をカーソルで撫でた。


「寂しくないよね」
「何が」


 が独り言のように呟いた言葉にレンは過敏に反応した。彼はカーソルを片手で掴み、動きを止めさせた。それからカーソルを両手で抱き込むように持ち、彼は首を傾げる。
 はモニタを指のつま先で軽く叩いて、苦笑を零した。まさかその台詞に食いつかれるとは。モニタを突いていた指先を離し、ひらひらと横に振る。


「別に、あんまり気にしないでよ」
「やだ。気になる。何? 寂しくないって、どういうこと」


 疑問を宿した瞳がを見据える。……そこまで反応されるとは思っても居なかった。何となく片肘をついて、は考えるような仕草を取る。
 なんて答えれば良いんだろう。ただ、そう、今日急に思いついたことだったから何となく、としか答えようがないような。
 本当のことを言ったら、彼に笑われそうな気がする。まあでも、本当のことを言わない限り、きっと彼はカーソルを離さない。ということはパソコンを終了させることが出来ない。

 は頭を掻き、それから小さく言葉を発した。


「レン、ひとりで寂しそうだと思ってたから」
「……寂しそう?」


 レンの首が微かに傾く。そう、と頷いてから、は苦笑交じりに言葉を続ける。


「その、電源消した後は一人なのかなって思って。だったら、ね、その、壁紙を明るいものに変えたら良いかなー、なんて……」
「別に、寂しくなんかないよ」


 どうして、と声に出して問う。訊いてから、は何を問いかけているんだろう、なんて思った。居心地悪く肩に手のひらを乗せ、笑いを浮かべてみる。
 レンはの笑みに呼応するようにそっと微笑むと、カーソルから手を離した。モニタにそっと手のひらを置く。それからますます笑みを深くして、柔らかな声音で言葉を続けた。


「だって、が居るし」
「や、だから、電源消した後だよ」
「……のこと考えてるから、ヘーキだよ」


 新手の口説き文句ですか。あはは、と乾いた笑いを浮かべると、彼はかすかに不機嫌さを表情に表した。眉をひそめ、なんで笑うんだよ、とでも言うような瞳でを見つめる。

 いやいや。
 いやいやいや。
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったのですよ、レンくん。……なんて心の中でひきつった笑いを浮かべるものの、なぜか胸の内が暖かくなるのがわかった。
 嬉しい。よくわかんないけれど。

 レンはそっと息を吐くと、困ったような笑みを浮かべて、言葉を続けた。


にオレが見えなかった時も、ずっとのこと考えてた」
「そうなの?」
「うん。どういう性格なのかな、とか、どういう風に笑うんだろ、なんて」
「……たぶん、しょっちゅうニヤニヤしてたと思うんだけれど」


 レンをインストールしてからも、はいろいろなサイトや動画を見ては頬を弛緩させていた筈だ。時には独り言だって言っていたかもしれない。死にたい。
 彼はまあそうなんだけれどさ、と言って、笑みを表情から消した。瞼を伏せ、遠く過去を思い出すようにぽつりぽつりと水滴が落ちるように言葉を紡ぐ。


「凄く楽しかった。オレがどれだけ話しかけても、、全然返事くれなかったけれど」
「それはしょうがないんじゃ……」
「知ってる。だから別に良かったよ。それで幸せだったし、寂しさなんか感じたことなかったもん」


 レンはかすかに寂しさを孕ませた笑みを浮かべた。一度、手から離したカーソルをもう一度手に取り、優しく撫でる。
 口唇の端に笑みを乗せ、彼はでも、と口を開いた。


「今は、前よりずっと幸せで、全然寂しくなんかない」


 なんで、と口にするよりも早く彼はますます笑みを深くして、笑った。


「今は、と話せるから、全然寂しくなんか、無い」


 だから別に壁紙とか、そういうの気にしなくてもいいよ、と続けレンは、はにかんだ。カーソルから手を離し、と視線を合わせる。彼は恥ずかしさを無くそうとしているのか、息を大きく吸ったり吐いたりを繰り返したり、視線をから逸らしたりを繰り返していた。けれど、最終的には観念したかのような表情を浮かべ、その場に座り込む。
 レンは肩をすくめて見せると、足を山のように折って、膝で谷を作った。彼は顔をから見せないようにするためか伏せると、手で足をぎゅっと掴んだ。簡単に言えば体育座りを彼はした。

 その様子に多少笑みを零しつつ、はマウスで彼の頭を撫でると、笑みを含んだ声音で言葉を発する。


「そうなんだ」


 語尾を上げ調子、やや問いかけに近い言葉を発する。少しして、彼の恥ずかしそうな声音が聞こえてきた。


「……そー、だよっ」


続く


2008/05/30
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