きっと、嘘 07


 電源ボタンを押す。じじ、と何かを読み込む音がして、ゆるゆるとパソコンが立ち上がっていく。
 今日は早く帰れた。いつもよりも、かなり早く。パソコンが立ち上がるのを今か今かと待ちながら、は画面を一心に見つめる。少しして壁紙が現れ、デスクトップが表示された。右横からレンがひょっこりと顔を出し、を見とめ、驚いたような表情を浮かべた。
 彼の頬がわずかに紅潮する。彼はデスクトップの中央まではや歩きに足を進め、正面を向いた。視線が交わる。

 彼は微かに嬉しそうな表情を浮かべると、口を開いた。


「──早いね」


 少しだけ弾んだ調子だった。それにほのかに笑みを滲ませつつ、頷く。レンはゆるゆると少しだけ遅い動作で首を傾げると、


「どうして、今日は……」
「用事が早く終わったんだよー」


 レンが言葉を止めた瞬間、多分望んでいるであろう答えを返す。途端、彼は顔を輝かせんばかりに嬉しそうな様子を見せた。けれど直ぐに何を思ったのか俯き、恥ずかしそうに言葉を発する。


「な、なんだ、そうなんだ……」
「うん。だからさー、今日は動画を見ようと思って」
「動画?」
「そうそう! 面白そうなやつ」
「へえ……」


 レンの声が少しだけ沈む。其れに少しだけ苦笑を漏らしつつ、は付け足すように言葉を口にした。


「レンの調教は、その後でね」
「……っ」


 俯きがちだった顔が上がる。レンは嬉しそうに頬を染めると、を一心に見つめた。新緑の瞳が揺れる。彼はそっと吐息を零すと、ゆるゆると頷いた。
 その後、照れ隠しのためなのか何のためなのか、急に気位の高い態度を取る。腕を組み、不遜な表情を浮かべると、「別に」と、僅かに震えた声で言葉を発する。


「嬉しくないからなっ」
「へーえそうですかー」
「な、なんだよその態度っ」


 彼は肩を怒らせ、とげとげしい言葉を吐く。なんていうか、扱い方がわかってきましたよー。乾いた笑いを浮かべつつ、はマウスをレンの頭の上に持っていき、右クリックをした。レンが小さな悲鳴を上げ、頭を抱えるように手で持つ。彼はその場に座り込むと涙目でを見上げた。


「な、何するんだよっ」
「なんとなく」
「い、痛いのにっ……」


 なんとなくなんて、酷い──そう続けて、レンはを鋭く睨みつけた。
 そんなに痛いのか。首を傾げて見せると、彼は小さく溜息のようなものをつき、から視線を外した。目が伏せられる。長い金色の睫毛が頬に影を落としているのが見えた。
 彼の髪の毛の色と言い、睫毛の色と言い、瞳の色と言い──全て、美しいと思う。絹糸のような髪の毛、暖かく降り注ぐ日差しのような髪の色、春の息吹を感じさせる翠の瞳。柔らかく色づく頬。服の袖と裾から伸びる、すらりとした肢体。さすが、としかいい様が無い。
 まだあどけなさが残る顔の造形、猫のようにまなじりが若干つりあがった瞳、憎らしい言葉を紡ぐ唇。まあ設定が十四歳だから、そう描かれたのだろうけれど。──描かれた、かあ。

 なんだか自分で考えて、妙な気分になる。描かれた存在。そうなんだよなあ……。
 何故か溜息が零れる。それを聞き取ったのか、レンが頭を撫でるのを一時中断して、へと視線を向けた。なに、どうかしたの──瞳がそう問い掛けてきているような気がして、知らず苦笑を浮かべてしまう。は手のひらをひらひらと振ると、言い聞かせるようになんでもないよ、と言葉を口にした。
 瞬間、レンの表情に不機嫌の色が刺す。彼は立ち上がると、へと近づいてきた。……近づいてきた、そう感じたのは彼が少しだけ大きくなったから、遠近感的にそう思っただけなのかもしれないけれど。
 彼はモニタに手のひらをつけると、小首を傾げて見せた。ついで、淡紅色の唇を開く。


「どうしたんだよ」
「……別」
「別に、は無し」


 ……なんだか言葉のパターンを予想されているような……。なんだかおかしくて少しだけ声に出して笑うと、レンの表情がますます歪んだ。あれ、怒ってるのだろうか。もしかしなくても。
 彼は苛立ちを隠そうともせず、声に表す。


「なに? オレに言えないの?」
「そんなことはないよ」
「だったら──」


 レンの語調がだんだん荒くなっていく。……怒ってる、これは確実に怒っている。
 なんとなく本当のことを言うわけにもいかないし、は適当にその場をつくろうことにした。モニタのレンが居る場所をこつこつと叩き、笑う。


「レン、可愛いなあって思って」
「──へ」
「うん、レン可愛いよレン。抱きしめたいです」


 レンの口が金魚みたいに忙しく開閉を繰り返す。変なこと言った、……と思う、自分でも。彼の頬が急激に赤く染まる。彼は何度か視線を色々な所へ行ったり来たりさせ、微かに息を吐いた。
 レンはまなじりを吊り上げ、を睨みつけてきた。でも、水気を増した瞳で睨まれてもあんまり恐くない。彼の震えた声が響いてくる。


「う、嘘つくなよっ、本当は違うこと考えてただろっ」
「ええー。そんなことないよ」
「……変態」
 
 
 レンの侮蔑をこめた視線がへと向かってくる。なんかもう、慣れた。
 軽く笑って見せると、彼は居心地悪そうに視線を外し、俯いた。モニタからそっと離れる。少しして、彼は顔をあげた。困ったような笑みを浮かべている。


「なんか、オレ、おかしいかも」
「そう? どこらへんが」
「抱きしめたい、って言葉……」


 レンの頬が桜色に染まる。彼はとほんの少し視線を合わせると、すぐに逸らした。口元をせわしなく動かし、溜息をつく。
 彼はもう一度へ視線を向けると、再度大きく息を吐いた。微笑みを浮かべ、続ける。


「ほんの少し、ほんの少しだけ……嬉しかった、な」


 思わず吹きそうになった。……まあ、それはなかったけれど、代わりに、むせた。……まさか、そんな、嬉しかったなんて言われるとは思ってもいなかったのです。たぶん飲み物飲んでたら大惨事になっていたと思う。
 ごほごほと咳が出る。レンから体をそむけ、大きな咳を繰り返す。非常に喉が痛い。
 驚いたようなレンの声音が、スピーカーから漏れてきた。


「な、え、大丈夫、──」


 咳は止まらない。レンの慌てたような声を背中に受けとめながら、は咳を絶えず繰り返していた。
 レンの泣きそうな声音が耳朶を突く。は意地で咳を食い止め、少ししてからレンの方へと振りかえった。
 彼は声音同様、まなじりを赤くしてモニタに拳を打ちつけていた。


「だ、大丈夫……?」


 おずおずとした、いつもの気丈な彼とは全く違う声。はひらひらと手を振り、笑って見せる。レンはほっとしたような表情を見せ、モニタから拳を離した。
 そのあと、何か思うところがあったのか、瞳を伏せる。視線が下へと向いていて──何に向かっているのかは、わからない。
 が首を捻ると同時に、レンの視線が上がった。


「何かあったの?」


 疑問を含めた声音で問いかけると、レンはゆるく儚い笑みを浮かべた後、頭を振った。しばらくして、無理に明るくしたような声音で、


「大丈夫。何でもない」


 ──そんなことを言われたら、無理に訊くわけにもいかない。は吐息を零すと同時に、そう、とつぶやき、その会話を中断した。

 そのあと、当初の予定通りとある動画投稿サイトへと向かい、ランキングへと上がっている動画を見た、もののなんだか気分が晴れない。
 気になる。何があったのだろう。レンはいつも通り、に背中を向けて動画を見ているから、が視線を向けても気付くことはない。

 ──訊くことは叶わないだろう。から会話を中断させたのだし。そっと息を吐き、方肘をつく。動画から視線を外し、スピーカーへと向かわせた。そのあと、パソコン。それからモニタ。別に意味は無い。何となく見たかっただけ。
 何度目かわからない溜息をつきそうになって、押しとどめる。ちょうどその時、動画が終わった。はブラウザバックをクリックすると、ランキングを再度ざっと流し見した。
 特に気になるものは他に無い。今日はもう止めておこうかな。インターネットを閉じ、DTMを代わりに開く。レンが敏感に反応し、振り向いた。

 ぽちぽちと音を打ちこんでいく。
 ……テンポに音符、それにたくさんの楽器。は動画の投稿を行わないから、誰にもの音楽は聞かれたことがない。別にそれで良いとは思う。趣味でやっていることだし、誰かに手厳しく批評されたらきっと心が折れる。動画が「ズコー」だけで埋まるのも嫌だ。
 まあつまりは小心者なのだ。

 音楽を再生。なんだかおかしな気がする。んー、と小さく声を漏らし、ファイルを保存して終了。ファイルを保存する際、レンがわずかに体を震わせていたけれど、何かあったのだろうか。疑問が胸の内を満たすものの、訊かないでおいた。ボーカロイドを起動する。エディター。
 レンが何をするの、とでも言うようにを見る。は頬を弛緩させて、問いに答えることにした。


さー、テイクゼロタグ好きなんだよね」
「……テイク、ゼロ……」


 レンが首を傾げる。あれ、知らないのか。疑問を表情に浮かべたレンに対し、は説明をすることにした。


「初めてボーカロイドが曲を唄った設定で唄わせるヤツだよ」
「へえ」
「間違えたり、音を外したり、そういうの」


 指先を突き立てて説明をすると、レンが顔をしかめた。疑問が先ほどよりも色濃く表情に宿る。彼は肩をすくめて見せ、言葉を紡いだ。


「それって、オレたちにやらせるイミあるわけ? オレたちはマスターの代わりに唄うボーカロイドなんだよ」


 そこで大きく息を吐き、レンは頭を横に振った。困ったように眉尻を下げ、瞳を揺らす。彼は軽く息を吸い、唇を開く。


「わざと音を間違えたり歌詞を間違えたりするなんて、イミわかんない」
「レン」


 名前を呼ぶ。とたんにレンは体を震わせ、と恐る恐る視線を合わせた。……怖がっている、ような気が。怖がらせるつもりなんて無いのに。彼は手を胸の前で組んだり話したりを繰り返し、居心地悪そうに視線をそらした。スピーカーから彼の焦ったような声が漏れてくる。


「そ、その、の好きなものを否定しているわけじゃないから……。ただ、なんとなく……おかしいなあって思って……」
「わかってないなあ」


 笑みを浮かべると、彼は驚いたような表情を浮かべた。小さく開いた唇から、唖然としたような声が漏れる。
 わかっていない。レンは。音を外したり歌詞を間違えたり、テンポが速くなったり遅くなったり、曲の出を言い損じたり、まあつまりは音痴になること、そういうのすべてひっくるめて、


「かわいいじゃん!」
「……何が……」


 彼の呆れたような表情が目をつく。なんか……馬鹿にされてる気が……。はモニタを指のつま先でこつこつと叩き、彼の名前を呼ぶ。


「ほんと、調教うまい人は生きてるみたいなんだよ」
「何が」
「ボーカロイド」


 レンの眉がひそめられる。彼は小さく息を吐くと、と視線を合わせた。不機嫌そうな表情に、どうしてか笑いが込み上げてくる。……さすがに笑うことは出来ないので、なんとかして押しとどめるものの。
 はモニタから手を離し、その場で伸びをする。先ほどとは一転、レンが不思議そうな表情を浮かべ、を見る。それに軽く笑みを零して、は言葉を続けた。


「ほんと、……傍に居そうな感じ。生きててさー、実体を持ってて、みたいな、そんな感じ」
「……」


 レンが俯く。あれ、なんか変なことを言っただろうか。別に普通のことしか話していない気がするけれど。
 首を傾げると同時に、彼の声音が響いてきた。


「実体は無いけれど、オレ、そっちにも行けないけれど──」


 何を言わんとしているのか、良くはわからないものの口を閉ざして耳を傾ける。
 レンはかすかに息を吐くと、顔を上げる。頬が桃色に染まっていた。翡翠が揺れ、と視線を交える。
 彼はもう一度、細く息を吐くと、微笑んだ。柔らかく、幸せがにじんだかのような笑み。


がパソコンをつけてくれるたび、エディターを開いてくれる時、オレと話してくれるとき、ずっと──」


 言葉が止まる。続きは何だろう。急かすこともできず、は首をかしげてレンの言葉の続きを待つ。
 彼は真摯な色を瞳に宿して、続けた。


「傍に、居るよ」


 モニタに手のひらをくっつけ、彼は笑みを深くする。
 傍に居る、かあ。なんとなく、その言葉が嬉しかった。幸せが心の水面に波紋を残し、優しく広がっていく。
 そっと笑みを漏らして、はマウスへと手を乗せた。カーソルを動かし、レンのすぐそばで右クリックしたまま、動かす。頭を優しく撫でる。
 レンがくすぐったそうに笑って見せ、それから口を開いた。


「絶対、絶対に」
「ありがとう」


 感謝を述べると、彼は又、はにかむように笑った。


続く

え これ デレデレンじゃね?

2008/05/31
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