きっと、嘘 09


 今日は朝から雨が降っていた。今日仕事があったり学校がある人は大変だなあ、なんて人事のように窓から空を見る。というか、他人事なんだけれど。
 ……今日はにとって、久々の休みなのだ。雨が降る外を眺め、微かに頬を弛緩させる。休み。休みだ、朝から何でも出来る。嬉しさで弾みそうになる衝動を何とか抑えつつ、はパソコンに電源を入れた。立ち上がりを始めるパソコンを後目に、台所へと向かう。朝食の準備をしていると、レンの戸惑ったような声音が聞こえてきた。


「あ、れ……?」


 んー、と返事をするものの彼には聞こえなかったようだ。震えた声での名前が紡がれる。


、どこ、っ」
「ここです」


 朝食の準備が出来たので、それをお盆に乗せてパソコンの近くへと歩を進める。レンが恐怖で凍りついたかのような表情を一瞬で解き、安堵の溜息を漏らした。その後、不貞腐れたような表情を浮かべて、を責めるように言葉を荒々しく紡ぐ。


「どうして、居なかったんだよ! 驚いただろ!」
「うん、ごめんごめん」


 手を顔の横でひらひらと振る。レンは納得いかないような表情を浮かべていたものの、これ以上問い詰めても得られるものは何も無いと思ったのだろうか。呆れたように溜息を吐かれる。
 それに多少苦笑を零しながら、それよりも、と言葉を続けた。


「今日は休みなんだよー」
「そうなんだ」
「そうそう、で、朝からパソコンをつけているわけです。レンとかなり話せるんですよー」


 片肘をついて笑う。レンが困ったような笑みを浮かべ、そっと息を吐いた。微かに呆れが混じった声音が耳朶をつく。


「──と話せて嬉しいけれど、画面ばっか見つめてたら視力、悪くなるだろ? 程ほどにしといた方が良いと思うけれど」


 呆れと言っても、少しだけの優しさが込められた言葉は耳に心地が良い。そっと笑みを零し、は言葉を返した。


「まあ、そうだね……」
「うん。……で、でも、その、ここからはオレの独り言っていうか、その……」


 レンがちらりとへと視線を向かわせて、頬をぽっと染める。彼は微かに唇を動かし、言葉を形作ろうとしては止め、形作ろうとしては止め、を繰り返していた──けれど、やがて意を決したのか、震える声で言葉を綴る。


「オレはずっとと話していたい、よ……」


 先ほど口にした言葉はレンの本音なのだろうか。と話していたい、という言葉が。……何だか気恥ずかしさを感じつつ、も、と言葉にして紡ぐとレンは嬉しそうに笑った。
 そのあと、でも、と彼は続け人差し指を上に突き立てた。笑みが消え、真摯な表情が顔を染める。


「嬉しいけれど、一応は身体も大事にしろよっ。目に疲れを感じたら直ぐにパソコン止めろよなっ」
「……お母さんみたいだねえ」


 忠告の仕方と言い、心配の仕方と言い。苦笑を浮かべてそう言うと、レンは不機嫌さを表情に表した。手を下し、やはり不機嫌に濡れた声音で、ただ一言、呟く。


「お母さんって……」


 あれ。形容、変だっただろうか。いやでも、そう思ったのだからしょうがない。嫌だった、とでも言うように首を傾げると、彼はと視線を合わせた。
 彼は瞳を揺らし、疑問で色を染めた声を出す。


「オレって、のお母さんみたいな存在なわけ?」


 や、そういう意味じゃ無かったんですけれどね。苦笑を浮かべて頭を振る。すると、レンは大げさに息を吐き、それなら良いんだけれど、と安心したかのような声音を発した。
 なんだかその様子が微笑ましい。笑みを顔に浮かべることは無かったものの、レンをじっと見つめていたからか、彼は鼻を軽く鳴らし、再度不機嫌を表情に表して見せた。
 ただ、それが自然に浮かんできた表情ではなく、彼が無理に形づくったものだということが、如実にわかる。彼は頬を上気させていた。それはきっと、怒りからくるものではないのだろう。


「な、何だよ」
「んー、なんとなく。レン可愛いなあって」
「ま、また、そんなこと言って……」
「死ぬかも。レンが可愛すぎて」


 少しだけ笑って、机に突っ伏す。レンの慌てたような声音がスピーカーを通して伝わってきた。


「し、死ぬなんて……、やだ……」


 必死に紡がれた言葉だった。それがなんだかおかしくて堪えきれず笑いを零すと、レンが唖然とした声音で呟くのが聞こえた。次いで、怒声が響く。


「な、! 嘘なのかよ!」


 や、嘘っていうかね。まあ心象的には死にそうでしたよ。苦笑を浮かべながら顔を上げると、レンの怒気をあらわにした表情が目に入った。彼はをねめつけ、語気を荒くして言葉を続ける。


の馬鹿! ばか、ばか!」
「酷い言い草だねー」
「オレのことからかって、そんなに楽しいかよ!」


 楽しいよ、なんて答えるわけにもいかないので苦笑を返す。瞳に強い怒りを宿して、レンはひとしきり罵倒の文句を吐いた後、俯いた。さらりと金の糸が彼の動きに乗じて揺れ、美しく光る。
 んー、怒らせた、というよりも心配させたのだろうか。良く分からないものの、一応謝っておいた方が良いのだろう。


「そんなことはないよ。ごめんね」
「……」


 レンの訝しげな視線がと交わる。困ったような笑みを浮かべつつ、視線を逸らさないで居ると、彼は小さく息を吐き、次いで微笑を浮かべた。
 親しみを込めたような声音で、「謝るんなら、良いよ」と優しく言葉を紡がれる。
 ……先ほどまでの起こり様は何処へ、と思うものの口には出さない。苦笑を浮かべつつ、そっか、と頷いた。

 それから、インターネットを開きいつものように動画を見る。今日のランキングにはボーカロイドの曲が沢山上がっていた。余りに多く、全ての曲を聞くのは正直、面倒臭いのでサムネに惹かれるものをクリックしていった。動画が読み込まれて音楽が流れ出す。レンはやはり、鏡音レンやリンが唄っているものに過敏に反応していた。

 彼が頬を紅潮させながら動画を眺めているのを見つつ、は視線を動画から逸らして窓の外へと向かわせた。雨の音が聞こえない。それどころか、雨の斜方状にきらめく線さえ見えないから、きっと止んだのだろうと思う。動画を再生したまま、は席を外し窓へと近づいた。が椅子から離れたことに気付いたのだろう、レンが僅かに疑問を孕んだ声音での名前を呼ぶのが、音楽に乗って聞こえた。

 窓の外へと視線を向ける。とたん、息を呑んだ。レン、と声を出す。背中にレンの「何」という不機嫌な声音が響いてきた。


「虹だよ、虹」
「……見えないんだけれど」
「え? あ、ああ、そうだね、そっかー」


 パソコンは窓から離れた場所にあるから、見えないのも仕方無いのかもしれない。思わず苦いものが混じった笑みを浮かべつつ、は窓から離れた。パソコンの前へと戻る。レンが怪訝そうな視線を向けてきた。


「空──虹、見てたの?」
「そう。雨止んでたし……」
「ふうん」


 曲の合間を縫うように聞こえてくるレンの声は、ともすれば聞き取ることが出来ないほどに儚い。もう少し大きな声で話してくれれば良いけれど、それを彼に伝えることは何故か嫌だったので、言葉にはしなかった。
 曲が終わる。ブラウザバックをして、はホームへと戻った。検索フォームをクリックして、言葉を入力する。
 にじ。変換。二次、二時、虹。決定。マウスへ手を滑らせて、検索ボタンをクリックした。レンが「何……?」とかすかに語尾を上げて、独り言を喋るように問い掛けてきた。答えは返さず、は検索の一番上にあるページをクリック。少ししてからページが開いた。虹についての説明がずらりと文字で並んでいる。何だか、それを見ただけでもへきえきしてしまった。

 ブラウザバック。虹、と言う言葉の横に画像、と言う言葉を加え、再度検索ボタンをクリック。ぱ、と画面が変わる。はもう一度、一番上のページをクリックした。少しして、美しい虹の画像がモニタを埋める。
 いつものように端っこに座ったレンが振り向き、へと疑問の視線を投げかけてくる。
 それに笑みを返し、は言葉を発した。


「虹だよー」
「うん。……で、何?」
「綺麗でしょ」
「うん。……それで?」


 頷いてから、レンは直ぐに問いを発した。が彼に虹の画像を見せる意味がわからないのだろう。はそっと微笑むと、言葉を発した。


「なんとなく」
「……そ」


 吐息と共に零された言葉に、多少ながらも苦笑を零す。レンはをちらりと見ると、虹の画像へと視線を戻し、微かに首を捻った。
 なんとなく。そう、レンに虹の画像を見せたのは本当になんとなく、なのだ。ただ、虹だよー、と言った時の彼の返事が少し、ほんの少しだけ寂しそうだったから、というか。
 そんなことを言うわけにも行かないので、片肘をつきながらは虹についての言い伝えを口にした。


「虹の根元には宝物が埋まっているんだよ」
「……それ、嘘?」


 レンが振り向いて小首を傾げ、問う。なんというか、からかってばかりいたせいか、疑りぶかい性格になってしまったような。困ったような笑みを浮かべ、は頭を振った。


「どうだろうね。わかんないや、にも」
「……じゃあ、嘘かどうかはわからないんだ」
「うん」


 虹が近づく度に自分と同じスピードで遠ざかっていくこととかは伏せておく。別に言っても意味がない気がしたからだ。
 レンは細く息を吐くと、もう一度虹の画像へと視線を移し、ほんの少しだけ掠れた声で呟いた。


「一緒に──」
「ん?」
「一緒に、捜しにいけたら良いのに」


 掠れた声音には、切実な思いが込められていた。頷く。


「そうだね」
「捜すときは、宝物、オレより先に見つけたら嫌だよ」
「……一緒に捜す意味が……無いような……」


 苦笑交じりの声で告げると、レンが振り向いて首を傾げた。少しだけ頬が紅色に染まっている。彼は頬と同様、明るい色合いの唇を開くと、言葉を紡いだ。


「一緒に見つけるんじゃん」
「……それはどういう」


 首を傾げて見せると、レンはしごく当たり前、とでも言う様な快活な声音で続けた。


「一緒に同じところを捜して、同時に見つけるんだよ。……オレ、おかしいこと、言ってる?」
「や、そんなことはないよ」


 レンの疑問に手を振って答える。……同じところを捜して、同時に見つける、かあ。一緒に捜すっていうくらいだから二人で別々のところを捜すのかと思っていた。
 そっと彼に気付かれないように息を落とし、もう一度窓へと視線を向ける。虹は消えてしまうだろう。虹は雨が降った後、空中に残った水分に太陽の光が屈折や反射をして起きる自然現象だ。太陽の反対側の空にしか現れることはない。

 そんなことを考えていると、レンの小さな吐息と、それに乗って彼の震えた声がスピーカーから漏れてきた。耳朶を優しくくすぐる。


「一緒に、行きたいなあ……」


 柔らかな声音とは裏腹に、彼の切実な思いがにじみ出てくるような言葉だった。何を返す事も出来ず、はただおざなりに「そうだね」と呟いた。
 それでも、レンは嬉しそうに笑い、うん、と頷くと同時に言葉を漏らす。それから虹の画像をもう一度見て、へと視線を向けた。
 碧の瞳が優しげな色を灯し、レンの表情に柔らかな色が広がっていく。彼はそっと息を吐くと、ねえ、と吐息を吐くように小さく言葉を紡いだ。


「空って、綺麗なわけ?」


 何で虹の話から空の話へ行くのだろう、と思った。……多分、画像に虹とともに空が写っているから、それのせいなのかもしれない。
 空って綺麗、ねえ。画像を見ればわかるようなことだろう。ホームへ戻り、空、と打って検索しようとする。そしたら、レンが大きく声を荒げた。


「待って!」
「……何を?」


 手を止める。レンが立ち上がってモニタに手をついた。をじっと見つめ、か細い声で言葉を発する。


の言葉で、聞きたいよ……」
のー? でも、そんなうまく形容出来るかわかんないし、っていうか今さっきの虹の画像にも空写っていたような……」


 首を傾げて疑問を発すると、レンがとたんに不貞腐れた表情を浮かべる。彼は唇を尖らせ、瞳で軽くを睨みつけると、目を伏せた。頬に微かな色が刺す。
 ……どうしても、の形容する言葉で聞きたいのだろうか。といっても、はそこまで形容する言葉を持つ訳ではないしなあ。……空って綺麗、って訊かれてるんだし、綺麗だよって答えればそれだけで良い気がするけれど。

 レンが早く早く、とでも言うように瞳の色を強める。それに苦笑を零し、は言葉を返す。


「……綺麗だよ」
「どんな風に」
「ど、どんな風って……」
「早く!」


 早くって、レン、時間制限でもついているわけでもないのに急かすな! 心の中でそんなことを思いつつ、えー、と声を出す。レンがいぶかしげな表情を浮かべ、モニタを指先で突いた。


「は、や、く!」
「……綺麗、そうだねえ、わかりやすいところで例えると──」


 そこまで言っては言葉を止める。空の美しさをわかりやすいもので例える、と言ったものの次の言葉が続かない。苦笑の色を濃くすると、レンが怪訝そうにの名前を呼んだ。
 続きが早く聞きたいのだろうか。彼と視線を合わせる。深い緑と目があった。
 ──レンの瞳の色、に似ているかなあ。視線を逸らさずにじっと見つめる。美しい碧──青色が滲んだ緑のような、深い色彩を湛えている、と思う。形容するなら、森の中にある泉、帳を下ろしかけた空の薄暗さ、夏の海。そんなところだろうか。

 んー、と言葉を漏らし、レンの瞳を一層強く見つめていると、視線を逸らされた。ずっと視線を合わせていることに気恥かしさでも覚えたのかなあ。彼は恥ずかしそうに顔を背け、「は、はやくっ」とドモりながら続ける。
 ドモること多いなあ、なんて少しだけ笑みを零し、は言葉の二の句を続けた。


「レンの瞳の色に似ているかもね」
「……オレ、の?」


 頷く。レンはふうん、と鼻を鳴らすように続け、こてんと首を傾げた。


は、空の色、好き?」
「……そうだね、好きだよ」
「そっか」



 そっけない言い方ではあったものの、彼の頬は徐々に桃色へと染まりつつあった。それが何だかおかしくて、笑ってしまう。声を漏らすと、レンが鋭く睨みつけてきた。怖いなあ。


「嬉しいー?」
「べっ、……別にっ」


 気丈な態度をとって言葉を返すものの、レンの様子はなんだかおかしい。少しだけ笑うと、彼は肩をいからせ、怒った様子を見せる。
 なんかレン、怒ってばかりな気がする。は指先をモニタにこつこつとぶつけた。


「レン、笑ってよー」
「……はあ?」
、レンの笑顔の方が好きだよ」
「……、で?」
「で、って……酷いなあ」


 苦笑を浮かべると、レンが少しだけ笑った。怒りは消え失せ、彼の表情を今、優しく彩るのは幸せという感情だ。


「冗談だよ」


 そう言ってレンは拳を作り、の指先がついたモニタの場所へこつんとぶつけた。


続く

2008/06/01
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